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雨と投資話

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-19 19:05:09

料亭「藤並」の軒先には、白い提灯の灯りがぼんやりと揺れていた。

雨は細く、霧のように降っている。傘をさしていても、服の肩口がじわりと濡れていくような夜だった。

藤並蓮は、暖簾を少しだけ外して立っていた。父からの電話を切ったばかりだった。

声は低く、言葉数も少なかったが、その一つひとつが心臓に刺さった。

資金繰りが、もう限界だという。

「追加融資は…やっぱり断られた」

父はそう言った。

声には疲れがにじんでいた。

料亭を守るために、どれだけ頭を下げてきたのかを、藤並は知っている。

だからこそ、何も言えなかった。

握りしめたスマートフォンが、湿った手のひらで滑りそうになる。

雨の粒が額から頬に伝い、襟元に落ちた。

顔が濡れているのか、泣いているのか、自分でももうわからなかった。

「…どうすればいい」

小さく呟くと、喉の奥がつんとした。

就職活動は、うまくいっていない。

企業の面接では、相変わらず「顔がいいね」「営業向きだ」と言われるだけだ。

どこも内定は出さない。

本当は、自分が家業を継ぐべきなのだろう。

けれど、それを思うたびに、胃の奥が重たくなる。

今の料亭では、借金を背負うだけだ。

自分が入ることで、何かが好転するわけではない。

もう、どうすればいいのかわからなかった。

そのとき、黒塗りの車が静かに料亭の前に停まった。

ワイパーが一度だけ動き、雨粒を払う。

後部座席のドアが開き、細い足が現れた。

見慣れたシルエットだった。

「こんばんは、蓮くん」

葛城美沙子が、柔らかく微笑んでいた。

黒いスーツに、細い指先。髪は濡れているのに、どこか艶めいて見える。

傘を差す様子もなく、彼女は藤並の方に歩いてきた。

「社長…こんな時間に」

「たまたま近くまで来たの。ちょっとお話、できるかしら?」

藤並は躊躇ったが、断れる理由もなかった。

店の灯りを背に、美沙子と並んで歩く。

料亭の脇にある小さな屋根付きの待合スペースまで、二人で移動した。

雨が、そこだけを避けている。

けれど、空気は冷たいままだ。

「お父様から、少し話を聞いたわ。料亭、大変なんでしょう?」

美沙子はそう言って、藤並の顔を覗き込むように見た。

その瞳は笑っていた。けれど、どこか底が見えなかった。

「…ええ。まあ」

「融資が止まったのよね。仕方ないわ。銀行も、利益にならないところには貸せないもの」

藤並は唇を噛んだ。

なぜ、この人がそんなことまで知っているのか。

父が話したのだろうか。

それとも、どこかで見られていたのか。

「でも、助ける方法があるわ」

美沙子はそう言って、藤並の手に触れた。

濡れた指先が、藤並の手の甲を滑る。

冷たいのに、肌がざらりと熱を持つような感覚だった。

「私の会社で働いてみない?蓮くん。営業職でもいいし、秘書でもいいわ」

「え…」

「その代わり、料亭には私が出資する。資本金も増やせるし、経営の立て直しもできるでしょう」

美沙子の声は、柔らかかった。

けれど、その柔らかさが逆に藤並の心をざわつかせた。

あまりにも自然に差し出された「助け舟」。

けれど、それは本当に舟なのか。

それとも…底が抜けた舟ではないのか。

「そんな…急に」

「考えなくていいのよ。今すぐ答えなくても」

美沙子は藤並の手を握り直した。

細い指が、自分の手の甲を撫でる。

その動きは、優しく見えて、どこか冷たかった。

「でも、ね。こういう話は早いほうがいいわ。時間はあまりないでしょう?」

藤並は息を呑んだ。

その通りだった。

父も、もう限界だと言っていた。

家業を守るためには、もうこれしかない。

目の前に差し出されたこの手を取るしか、方法はないのだ。

「……助かります」

言葉が喉からこぼれた。

けれど、その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

助けられる。そう思ったはずなのに、身体の奥で何かがきしむ。

なぜだろう。

なぜ、こんなに寒気がするのだろう。

美沙子は微笑んだままだった。

唇だけが艶やかに光っている。

雨はまだ、しとしとと降り続いていた。

二人の間には、誰にも見えない檻が静かに降りていた。

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