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所有完了

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-20 09:42:08

黒塗りの車のドアが静かに閉まると、車内は一瞬で別世界になった。

外はまだ小雨が降り続いている。フロントガラスに細かい雫が次々と流れ、夜の街灯を歪ませていた。運転席の男は無言のまま、バックミラーを一度だけ見たが、美沙子の表情には触れなかった。

美沙子は後部座席のシートに背を預け、バッグからタブレットを取り出した。

画面には、藤並蓮の情報が並んでいる。

個人履歴、大学名、学部、卒業見込み年度。就職活動の進捗状況。家族構成。

老舗料亭「藤並」の経営状況と、負債額の詳細。

資産、負債、担保の有無。交渉中の銀行融資情報。

画面をスクロールする指先が、滑らかに動いた。

それは、誰かの人生をなぞる仕草には見えなかった。

ただ、手元の駒の位置を確認しているだけの行為。

美沙子にとっては、数字と情報はその程度の意味しか持たない。

「これで、もう逃げられないわね」

車内に微かに漏れた声は、誰にも聞かれない。

助手席の前には防音のガラスがあり、運転手には届かない。

藤並蓮。

あの子はもう、自分のものになった。

美沙子は窓ガラスに視線を向けた。

そこには、自分の顔がぼんやりと映っている。

濡れた髪を耳にかけ、唇を舌先でゆっくりとなぞった。

唇は艶やかで、しっとりとした赤みを帯びている。

鏡を見るたびに確認する。

まだ衰えていない。

三十を越えても、自分は十分に美しい。

人に欲望されることは、支配するための武器だ。

美沙子はそれをよく知っていた。

母親から教わったわけでもなく、誰かに教えられたわけでもない。

自然に、体得した。

欲望される側が、結局は相手を制している。

求められることは、支配することだ。

けれど、ただ欲望されるだけでは足りなかった。

もっと深いところで、人を壊したいとずっと思っていた。

美しいものを、自分だけのものにしたい。

そして、その美しさが壊れる瞬間を見たい。

それが何よりの快楽だった。

藤並は、その条件を完璧に満たしていた。

まだ汚れていない身体。

けれど、心はすでに壊れかけている。

表面だけ取り繕って、微笑む顔。

営業用の笑顔を貼り付けて、目だけが死んでいる。

「どうして、あんな目をしているのかしら」

美沙子は窓に映る自分に問いかけた。

答えはわかっている。

誰にも救われなかったからだ。

どこにも逃げ場がなかったからだ。

だから、自分が手を差し伸べたとき、あの子は必ず掴むしかなかった。

それが罠だとわかっていても。

「美しいものは、壊れる瞬間が一番綺麗なのよ」

美沙子は唇をもう一度舐めた。

その艶やかな唇で、これまで多くの男を手のひらに乗せてきた。

だが、蓮は違う。

ただの男ではない。

商品でもない。

手に入らないものを、手に入れる感覚。

まだ誰のものにもなっていない美しさ。

それを、自分のものにする。

「壊して、組み直して、私だけの形にする」

囁きながら、美沙子はゆっくりと背筋を伸ばした。

肩のラインが、美しいシルエットを描く。

窓に映る自分の横顔に満足して、再びタブレットの画面に目を落とす。

情報は揃った。

逃げ道はない。

あとは、自分の手で仕上げるだけだ。

「車、出して」

小さな声でそう言うと、運転手は静かにエンジンをかけた。

黒い車は、濡れたアスファルトの上を滑るように走り出す。

後部座席に座る美沙子の指先は、まだタブレットを撫でていた。

藤並蓮の写真が、そこに映っていた。

あの目が、どんなふうに変わるのか。

楽しみで仕方がなかった。

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