Masuk
退屈、という言葉が液体なら、きっとこんな感じだろう。
澱んだ空気、抑揚なく響き渡る老教授の声、そして蛍光灯の白い光に照らされて、机に突っ伏したり、スマートフォンの画面を無心でスワイプしたりしている学生たち。大教室のすべてが、ぬるま湯のような気怠さに満ちている。 もちろん、私もその気怠い液体の中で溺れている学生の一人だ。ただし、他の学生たちと決定的に違う点が一つだけある。 私の意識は、今この瞬間、この教室にはない。遥か遠く、剣と魔法、そして硝子細工のように繊細な男たちの愛憎が渦巻く世界――『Fallen Covenant』にトリップしていた。 「……っ、はぁ……」 誰にも聞こえないくらい小さな音量で、私は恍惚のため息を漏らす。 教壇から最も遠い席。そこが私の定位置。分厚い経済学の教科書を盾のように立て、その影に隠したスマートフォンの画面を、祈るように見つめる。 そこに映っているのは、私が人生のすべてを捧げるBLゲーム、『Fallen Covenant』のワンシーン。私の最推しカップリングである、近衛騎士団長ジークフリートと、聖王国の若き大司教アークエンジェルのスチル画像だ。 降りしきる雨の中、魔物に襲われ深手を負ったアークを、ジークがその逞しい腕で抱きかかえている。アークの純白の法衣は泥と血で汚れ、普段は気高く澄ましきっている彼の青い瞳は、苦痛と、そして目の前の騎士への絶対的な信頼で潤んでいた。 対するジークは、いつもは鉄仮面のように無表情な顔を、これ以上ないほどに歪めている。アークを傷つけた何かに対する怒りか、それとも守りきれなかった自分への悔恨か。その眉間に刻まれた深い皺、食いしばられた唇、アークの華奢な身体を抱く指先に込められた、壊れ物を扱うかのような優しさと力強さ。 ――ああ、神よ。これは、なんという御業。 この一枚の絵に、どれだけの情報量が詰まっているというのだろう。普段は決して弱さを見せないアークが、ジークの前でだけ見せる無防備な姿。そんなアークを守るためなら、神にさえ剣を向けるジークの献身。言葉なんていらない。視線と、触れ合う肌の熱だけで、彼らの魂が共鳴しているのがわかる。 「ジーク……あんた、そんな顔もできたのね……。アークの怪我は心配だけど、心配だけど……!これは、公式からの最大手の供給……っ!」 ぶつぶつと呟きながら、私はスチル画像の拡大と縮小を繰り返す。ジークの喉仏の動き、雨に濡れて肌に張り付くアークの銀髪、絡み合う二人の指先。そのすべてが芸術品であり、私の生命を繋ぐ糧だった。 脳内で、このシーンに至るまでの彼らの会話や心理描写を勝手に補完する。きっとジークは「すまない」と自分を責め、アークは「あなたのせいではない」と弱々しく微笑むのだ。そしてジークは、その儚い笑顔にさらに胸をかき乱され、独占欲という名の暗い感情をその瞳に宿すに違いない。 「くぅ……っ!」 込み上げてくる感情の波に耐えきれず、私は机に突っ伏した。身をよじり、声にならない悲鳴を噛み殺す。尊すぎて、全身の細胞が歓喜で打ち震えている。周りの学生が、時折奇妙な動きをする私を訝しげに見ている気配がするが、そんなことはどうでもよかった。 三次元の世界なんて、どうだっていい。 私、◇
「……まあ、あんたがそれでいいなら、私は何も言わないけどさ」
乃亜は肩をすくめると、さっさと教科書をバッグにしまった。ちょうどそのタイミングで、講義の終了を告げるチャイムが鳴り響く。蜘蛛の子を散らすように学生たちが教室から出ていく中、私も慌ててスマホをポケットにねじ込み、教科書を閉じた。 「よし、行こっか。学食の新作パフェ、食べたい」 「あんたの頭の中、BLか食べ物のことしかないの?」 「人生の楽しみなんて、そんなもんでしょ」 へらりと笑いながら立ち上がると、乃亜はもう一度、何か言いたげな顔で私を見た。その視線に含まれている感情が、いつもの呆れとは少し違う種類のものであることに、私は気づかなかった。 キャンパスは、講義を終えた学生たちで賑わっている。その人混みを、私たちは縫うようにして歩く。私はと言えば、さっき見たスチルの余韻にまだ浸っていた。 「……それにしても、ジークのあの表情……普段はポーカーフェイスを気取ってるくせに、アークのことになると途端にああなっちゃうのが、たまらないのよ。いわゆるギャップ萌えってやつ?いや、もっと深遠な、魂の繋がりというか……」 「はいはい、わかったわかった」 私の止まらない早口のオタクトークを、乃亜は適当に相槌を打ちながら聞き流している。いつものことだ。この関係性が、私にとっては心地いい。 私が私の世界に没頭していても、乃亜はそれを否定せず、ただ隣にいてくれる。だから私も、彼女のお洒落や恋バナに、ちゃんと耳を傾けるのだ。 そう、乃亜はモテる。告白された回数は両手でも足りないだろう。でも、彼女は簡単にはなびかない。上辺だけの言葉や態度を、その切れ長の目で見抜いてしまうから。 そんな彼女が隣にいると、まるで自分まで格上げされたような錯覚に陥りそうになるけれど、私はちゃんと自分の立ち位置を弁えている。私はモブ。彼女は物語のヒロインになれる子。住む世界が違うのだ。 「……ねえ、栞」 ふと、乃亜が立ち止まった。つられて私も足を止める。彼女は、私の目をじっと見つめていた。その表情は、今までにないくらい真剣で、私は少しだけ戸惑う。 「な、何?急に真面目な顔して」 「ちょっと、あんたに言っとかなきゃいけないことがあって」 改まった口調に、私の心臓が、ほんの少しだけ嫌な音を立てた。まさか、絶交……?私がBLの話しかしなくなったから、愛想を尽かされた……? ぐるぐると悪い想像が頭を駆け巡る。そんな私の不安を見透かしたように、乃亜は大きなため息を一つ吐いた。 「……別に、あんたのこと嫌いになったとかじゃないから」 「よ、よかった……」 「そうじゃなくてね」 乃亜は一度言葉を切り、まるで何かを確かめるように、私たちの周囲に視線を走らせた。そして、もう一度私に向き直ると、静かに、しかしはっきりとした声で、こう言ったのだ。 「あんた、最近やたらイケメンに見つめられてるけど自覚ある?」 「…………は?」 私の口から、間抜けな声が漏れた。 イケメン?見つめられてる?私が? 脳が、その言葉の処理を完全に拒否した。あまりに現実離れした単語の羅列に、思考がフリーズする。 「え……っと、ごめん、乃亜。もう一回言ってくれる?たぶん、私の耳のフィルターが何かおかしな変換をしたんだと思う」 「だから、そのまんまの意味だって。あんたが、すっごいイケメンに、じーっと見られてるのを、私がこの一週間で三回は見たの。今日も、さっきの講義中も」 「……」 ぽかん、と口を開けたまま、私は乃亜の顔を見つめ返すことしかできなかった。 からかわれているのだろうか。いや、でも、乃亜の目は冗談を言っているようには見えない。本気だ。本気で、そんな突拍子もないことを言っている。 だとしたら、考えられる可能性は一つしかない。 「乃亜……疲れてるのよ。きっと、イケメンの幻覚が見えてるんだわ。わかる、私も推しカプが尊すぎると幻覚見るもん」 「あんたと一緒にしないでくれる?」 私の精一杯の優しさを、乃亜はバッサリと切り捨てた。そして、信じられないものを見るような目で、私に最後の言葉を突きつける。 「いい?幻覚じゃない。これは、現実。……あんた、何か、やらかしたんじゃないでしょうね」 その言葉の意味を、私が本当の意味で理解するのは、もう少しだけ先のことになる。 この時の私はまだ、自分の日常が、愛してやまないBLゲームの世界よりも、よっぽど予測不能で、波乱に満ちたラブコメの舞台になろうとしていることなど、知る由もなかったのだ。(……感動してくれてるんだ。嬉しいな) そう思った瞬間だった。 私の脳内で、長らく休眠状態にあった『腐女子フィルター』が、カチリと音を立てて誤作動を起こした。 世界が、歪む。 待って。 あの涙の意味は、本当に純粋な「祝福」だけなのだろうか? 奏くんが、輝くんを見る目。 どこか悔しげで、それでいて相手の実力を認めざるを得ないといった、複雑で熱っぽい感情が入り混じった眼差し。 陽翔くんが、輝くんを見る目。 「先を越された」という男としての敗北感と、それでも「あいつなら任せられる」という友情、そして断ち切れない切なさが同居した濡れた瞳。 そして、輝くんが二人に向けて送った、勝ち誇ったような、けれど揺るぎない信頼に満ちたアイコンタクト。 (……はッ!!) 脳天に電撃が走った。 もしかして。 もしかして、これは『ライバル×輝』の……。 そこまで考えて、私は唇を噛んだ。違う違う。今、自分の結婚式ですから。披露宴の席順で相関図を作っている場合じゃありません。 奏くんも陽翔くんも、私に気持ちを伝えてくれた。その言葉を、都合のいい筋書きに書き換えたくはなかった。 目が合った奏くんに、小さく頭を下げる。陽翔くんは泣いたまま、くしゃくしゃの笑顔で手を振ってくれた。 「……し、栞?」 隣で輝くんが、不審そうに私の顔を覗き込んだ。 奏くんと陽翔くんを見ていた時間が、思ったより長かったらしい。私は慌てて、隣に立つ彼へ向き直った。 「……ううん。なんでもない」 輝くんはまだ少し疑わしそうだ。分かってます。その顔をされても仕方ない人生でした。 私は言い訳を探すのをやめ、自分から彼の手を取った。 「輝くん。私、今、すごく幸せ」 彼の目が、ふっと和らぐ。それを見たら堪らなくなって、背伸びをして頬に口づけた。すぐ近くから歓声が上がり、そこでようやく会場中に見られていることを思い出す。 「あ、いや、今のは……!」 「取り消しはなし」 輝くんが笑い、私の腰を引き寄せる。今度は目を逸らさずに、その顔が近づくのを待った。 カラン、カラン、と祝福の鐘が高らかに鳴り響く。 青空に吸い込まれていくフラワーシャワーの中で、私は輝くんの腕の中にしっかりと抱きしめられていた。その体温が、私を確かな幸福の中心に繋ぎ止
父の手から輝くんの手へ、私の手が託される。 触れた輝くんの手は、大きくて、温かくて、そして少しだけ震えていた。 「……待ってたよ、栞」 彼が誰にも聞こえないほどの小声で囁く。 その声の響きに導かれるように、私は彼の隣に並んだ。 牧師様の言葉が続き、私たちは誓いの言葉を交わす。 指輪の交換。 私の左手の薬指に、ひやりとした金属の感触と共に、永遠の約束が滑り込んでくる。 そして。 「それでは、誓いのキスを」 牧師様の言葉を合図に、輝くんがそっとベールを上げる。 隔てるものがなくなり、至近距離で見つめ合う。 彼の瞳の中に、緊張で強張った私の顔が映っている。 「……愛してる」 唇が触れ合う直前、彼が音のない言葉でそう言ったのが分かった。 私も、心の中で答える。 私も、愛してる。世界で一番。 チュッ、と柔らかい音がして、唇が離れる。 その瞬間、会場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 私たちは皆の方へと向き直る。 色とりどりの花びらが舞うフラワーシャワーの中、たくさんの笑顔が私たちに向けられていた。 最前列には、見慣れた、そして大好きな顔ぶれが揃っている。 まずは、氷室奏くん。 彼は今、売れっ子のゲームシナリオライターとして第一線で活躍している。私と同じ会社に所属し、時には喧嘩し、時には背中を預け合いながら、一緒にゲームを作り上げている戦友だ。 今日の彼は、隙のない礼服姿で、眼鏡の奥の瞳を和やかに細めてこちらを見ていた。その表情はどこまでも穏やかで、まるで手のかかる弟と妹の晴れ姿を見守る兄のようだ。 その隣には、七瀬陽翔くん。 彼は大学卒業後、厳しい修行期間を経て、念願だった自分のカフェをオープンさせた。今では雑誌やSNSに取り上げられるほどの人気店のオーナーだ。 相変わらずの人懐っこい笑顔で、大きく手を振ってくれている。「先輩、おめでとう!」という口の動きが見えた。 そして、乃亜の隣には……まさかの人物。 西園寺エリカ様だ。 彼女はあれから、持ち前の驚異的なバイタリティと深いオタク知識を武器に、なんとイベント運営会社の社長になっていた。 今日の彼女は、いつもの真紅のドレスではなく、上品なシャンパンゴールドのドレスを身に纏い、扇子で口元を隠しながら優雅に
そして今日、私たちは誓いを立てる。 多くの人に見守られ、祝福されながら、これからの人生を共に歩んでいく約束を。 コンコン、と厚い扉越しに控えめなノックの音が響いた。 「失礼いたします。……新婦様、そろそろお時間です」 式場スタッフのよく通る声に、心臓が跳ね上がる。 いよいよだ。 「よし。行ってきなさい、栞」 乃亜が私の背中をバン、と景気よく叩いた。 少し痛いくらいのその衝撃に、竦みかけていた足に力が戻る。私は肺いっぱいに空気を吸い込み、深く吐き出した。 「うん。……行ってきます!」 ずしりと重いドレスの裾を爪先で蹴り上げ、私は控室の扉を押し開けた。◇ チャペルの大きな扉の前。 父の腕に手を添えながら、私は震えそうになる膝を必死に叱咤していた。 この扉の向こうには、たくさんのゲストたちが待っている。 大学時代の友人たち、会社の同僚、輝くんの仕事関係の方々。 そして何より、私たちがここに辿り着くまでの道のりを、時に厳しく、時に温かく見守ってくれた、かけがえのない仲間たち。 「栞。……綺麗だぞ」 隣で父が、少し湿っぽい声で囁く。 普段は無口で不器用な父の、絞り出すような言葉。危うく涙腺が緩みそうになり、私はぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。 今泣いたら、時間をかけて作ってもらったメイクが台無しになってしまう。輝くんに、一番綺麗な私を見てもらいたいから。 厳かなパイプオルガンの音色が、高い天井に響き渡る。 重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。 溢れ出すまばゆい光。 そして、視界いっぱいに飛び込んでくる、祝福の拍手と温かな笑顔の海。 まっすぐに伸びるバージンロードの先、祭壇の前で待っているのは、白のタキシードに身を包んだ私の最愛の人。 天王寺輝。 彼と目が合った瞬間、周りの景色からふっと色が抜け落ちたような気がした。 彼だけが、鮮やかに、圧倒的な存在感を持ってそこに立っている。 (……かっこいい) 付き合い始めてもう何年も経つのに、未だに彼の姿を見るたびに胸が高鳴ってしまう自分がおかしい。 今日の彼は、いつにも増して「王子様」だった。 仕立ての良いタキシードを完璧に着こなし、綺麗に整えられた茶色の髪が光を弾いている。そして何より、私を見つめるその瞳。蕩けるよ
あれから、いくつもの季節が巡った。 窓の外には、目に痛いほどの新緑が広がっている。初夏の陽気を含んだ風が、木々の葉を揺らす音が聞こえてくるようだ。 雲ひとつない突き抜けるような青空の下。 私は今、人生で一番高いヒールの上に危なっかしく立ち、人生で一番重たい布の塊に全身を包まれて、人生で一番強張った顔で鏡と睨めっこをしていた。 「……うぅ、苦しい。ねえ乃亜、これちょっとコルセット締めすぎじゃない?」 「何言ってんの。一生に一度の晴れ舞台でしょ? 内臓の位置なんて気にしてる場合じゃないって」 私の背後で、親友の神崎乃亜がテキパキとドレスの裾をさばいている。 今日の彼女はブライズメイドとして、淡いレモンイエローのドレスを身に纏っていた。相変わらずの切れ長で美しい瞳と、凛とした立ち振る舞い。主役の私の方が霞んでしまいそうなほどの美人っぷりだ。 「ほら、できた。……うん、悪くない」 乃亜が満足げに頷き、私の背中を鏡の方へとぐいと押した。 そこに映っていたのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ、見知らぬ誰かのような自分の姿。 繊細なレースが鎖骨のラインを縁取るオフショルダー。ふわりと空気を含んで広がるAラインのスカートには、無数の小花が散りばめられ、動くたびにさざ波のように揺れる。プロの手によって丁寧に編み込まれた髪の上には、照明を受けてキラキラと瞬くティアラが鎮座していた。 「……私、本当にお嫁に行くんだね」 鏡の中の自分と目を合わせ、ぽつりと漏らす。 なんだか、足元がふわふわとして実感が湧かない。まるで、スクリーンの向こう側で繰り広げられる物語を、客席から眺めているような不思議な浮遊感がある。 「何寝ぼけたこと言ってんのよ。ここまで来て夢オチでしたなんて言ったら、私が許さないからね」 乃亜が呆れたように笑い、私の肩にぽんと手を置いた。 その掌から伝わる確かな体温と重みに、ようやく少しだけ、ここが現実なのだという感覚が戻ってくる。 そう。今日は、私の結婚式だ。 机を紙で埋め、送信ボタンの前で固まっていた日が、今も時々夢に出てくる。二次募集で内定をもらった『株式会社アルカディア・ワークス』で、私は今、プランナーとして走り回っている。好きだけでは済まないことばかりだけれど、会議に出す企画書の最初の読者は、相変
「え? うん、いいけど……」 三人は私から少し離れた、広場の片隅へと歩いていく。 夕陽を背にして立つ三つのシルエット。 何か重要な話をしているようだけれど、ここからでは風に流されて声は聞こえない。 胸騒ぎがする。 でも、不思議と不安はなかった。 彼らの背中から漂う空気が、決して険悪なものではないと分かっていたからだ。 しばらくして、話が終わったのか、三人がこちらへ戻ってきた。 その表情は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。 「……終わったよ、栞」 輝くんが戻ってきて、再び私の手を取る。 「何の話だったの?」 「ん? ……男同士の、秘密の話」 彼は悪戯っぽく笑って、教えてくれなかった。 奏くんと陽翔くんを見ると、二人は何かを納得したように、満足げな顔でこちらを見ていた。 「……月詠。俺は先に行く」 奏くんが、私に近づいてくる。 そして、そっと手を差し出した。 「え?」 「握手だ。……今日の記念に」 戸惑いながらも手を出すと、彼は私の手をギュッと強く握りしめた。 その手は意外なほど熱く、そして優しかった。 「……幸せになれよ」 ボソッと呟かれた言葉に、目頭が熱くなる。 「奏くん……」 「それと、天王寺」 奏くんが輝くんへ向き直った。 「式の日取りが決まったら、早めに知らせろ。仕事を空ける」 「……ああ」 「さっきも言ったが、知らせるのは月詠任せにするなよ」 輝くんが頷いた。その顔を見届け、奏くんは鞄を肩に掛け直した。 「じゃあな」 奏くんはひらりと手を振り、雑踏の中へと消えていった。 「俺も帰ります!」 陽翔くんが元気よく手を挙げる。 「先輩! またバイトで!」 「うん、お疲れ様!」 「あ、輝先輩。……約束、忘れないでくださいね」 陽翔くんが意味深な言葉を残し、輝くんに拳を突き出す。 輝くんも拳を合わせ、コツンとぶつけ合った。 「ああ。分かってる」 陽翔くんもまた、笑顔で去っていった。 二人を見送った後、私は輝くんを見上げた。 「……ねえ、本当に何の話だったの?」 「内緒」 輝くんは人差し指を唇に当て、ウィンクする。 「式の話をされた。……あいつら、来てくれるって」 「え……」 「ちゃんと招待状、送ろうな。……二人で
会場の外へ出ると、空は茜色に染まっていた。冷たい風が頬に触れ、ようやく自分がどれだけ泣いたか分かる。 入口から少し離れた場所で輝くんが手を挙げた。隣には奏くんと陽翔くんもいる。私はエリカ様とそちらへ向かい、まず輝くんの前で足を止めた。 「一緒に来てくれて、ありがとう」 彼は一瞬驚き、それから笑った。 「うん。楽しそうだったね、栞」 差し出されたハンカチを受け取ると、私の手ごとそっと握られた。 「物語もよかったけど。あとで栞が何を話すか、そっちが楽しみだった」 また泣きそうになってしまう。舞台の二人に感動した気持ちを、この人に話したくてたまらなかったことまで、見抜かれた気がした。 「……長くなるよ?」 「知ってる」 後ろから陽翔くんがティッシュを差し出す。 「先輩、まず鼻。話す前にそっちです」 「う、うるさいっ。これは感動の涙なの!」 笑いながら受け取ると、奏くんが静かに眼鏡をかけ直していた。その目元も少し赤い。からかう気にはなれず、私は何も言わずにティッシュの袋を差し出した。 「ふぅ……。魂が浄化されましたわ」 エリカ様が、満足げに溜息をつく。 その顔は憑き物が落ちたように晴れやかで、いつもの棘々しさが嘘のようだ。 「ええ。……最高のイベントでした」 奏くんも頷き、受け取ったティッシュをそっとポケットへ収めた。 「また、イベントがあったらご一緒しましょうね、同志よ」 答えようとした時、彼女が扇子を閉じた。 「その前に。……あなたに、謝らなくてはならないことがありますわ」 急に改まった声に、私も背筋を伸ばした。 「あの日、召使いだの、平民だのと。知らない方を、あんなふうに呼ぶべきではありませんでした」 彼女は私を見ていた。言葉を急いで継ぎ足すことも、笑い話にすることもなかった。 あの日の痛みが少し戻った。それでも、今日、隣で同じ台詞に泣いた人の顔を、私はもう知っている。 「……嫌でした。あれは」 「ええ」 「でも、今日は楽しかったです。また、一緒に見たいと思いました」 エリカ様が小さく息を吐いた。扇子を持つ手が、胸元から下りる。 「……では、次の抽選も、二人で申し込みましょう」 私とエリカ様は、固い握手を交わした。 かつての恋敵が、今や最強のオタク仲間。 人生、何が起
――彼女? かのじょ、って、誰? 一瞬、思考が完全に凍りついた。私の脳内辞書から「彼女」という単語の意味が、綺麗にくり抜かれてしまったかのようだ。天王寺先輩の熱を帯びた視線は、確かに私だけを射抜いている。けれど、そんなはずはない。だって、私は月詠栞。物
「――君が言っていたアークとは、誰のことなんだ?」 氷室くんの、静かだが逃げ道を一切許さないような声が、私の鼓膜を直接震わせた。それは問いというより、尋問に近い響きを持っていた。 彼の真剣な灰色の瞳から逃れるように、私は必死に視線を彷徨わせる。どうする、私。ここで正直に「私が愛してやまないBLゲームの、儚く美しい受けキャラクターです」なんて言えるはずがない。言ったが最後、社会的に死ぬ。それだけは絶対に避けなければならない。「え、えーっと、それは、その……」 錆びついたゼンマイ仕掛けの人形のように、私の脳がぎしぎしと音を立てて言い訳を探す。そうだ、確か中学の時に飼っていた雑種の猫の名前
瞼の裏が、じりじりと焦げ付くように熱い。 知らないはずの景色が、熱に浮かされた意識の暗闇で、閃光のように激しく明滅していた。 燃え盛る城、天を覆い尽くす黒い翼、そして空から降り注ぐ無数の漆黒の羽根。誰かの、胸を掻きむしるような悲痛な叫び声が、現実の音を遮断して耳の奥で木霊している。 ああ、知っている。これは、私がこの世の何よりも愛してやまないBLゲーム『Fallen Covenant』の、最も胸を締め付けられる悲劇のシーンだ。 そうだ。私は魔王なんかじゃない。私は、この物語の登場人物ですらない、ただの観測者。いつだって安全
どうやって自分のアパートまで辿り着いたのか、記憶はひどく曖昧だ。 医務室で意識を取り戻したものの、熱は一向に下がる気配を見せず、身体はぐったりとベッドに沈んだまま。結局、見かねた乃亜がタクシーを呼んでくれて、私を家まで送り返してくれることになった。 そこまでは、よかったのだ。 問題は、乃亜が「あんたたち、原因作ったんだから一人くらい責任持って手伝いなさいよ」と釘を刺したことだった。その一言が、新たな戦争の火種となった。「当然、俺が行く」「いや、僕が送る」「俺が付き添います!」







