เข้าสู่ระบบ乃亜のあの言葉は、一体何だったのだろう。
あれから数日が経っても、私の頭の片隅には、彼女の真剣な眼差しがこびりついていた。「やたらイケメンに見つめられてる」なんて、そんなことあるわけがない。きっと、乃亜が見たイケメンは、彼女の隣にいた私ではなく、その背後のショーウィンドウに映った自分自身に見惚れていたに違いない。うん、そうに決まっている。自己肯定感の高い美男子は、たまにそういうことがあるのだ。 私は一人で納得して、いつものように大教室の後方の席に陣取っていた。今日の講義は社会心理学。この教授の話はいつもそれなりに面白いけれど、やはり私の脳の大部分は、来たる『Fallen Covenant』の次回イベント、「聖夜に誓う永遠の愛(エターナル・ラブ)」の考察に費やされている。 「今回の報酬は、ジークの限定SSR……絶対に手に入れなければ……」 誰にも聞こえない声で決意を固め、バッグの中でそっとスマホを握りしめた、その時だった。 ざわっ、と教室の空気が揺れた。 入口のドアから、一人、また一人と学生が入ってくるだけの光景。それなのに、さっきまで気怠い空気に満たされていた空間が、まるで色鮮やかなフィルターでもかかったかのように、急に華やいで見えた。 その原因は、すぐに分かった。 「あ、天王寺くんだ」「今日もかっこいい……」「隣の氷室くんもヤバくない?」 ひそひそと交わされる女子学生たちの甘い溜息。その視線の先には、あまりにも現実離れした二人の男子学生が立っていた。 一人は、◇
パニック。混乱。エラー。
私の脳内CPUが、完全に処理能力の限界を超えた。ショートした思考回路から、意味のない火花が散っている。 て、天王寺輝が、私に、話しかけている……? なぜ?どうして?何かの罰ゲーム?それとも、ついに私の脳が作り出した幻覚が、聴覚にまで侵食し始めたのだろうか。だって、ありえない。カースト最上位の彼と、最下層の私が、同じ言語でコミュニケーションを取ること自体、世界の法則に反している。 私が化石のように固まっていると、彼は困ったように少しだけ眉を下げた。 「えっと……聞こえなかったかな?隣、座ってもいい?」 その仕草一つで、周囲の女子学生たちから「きゃっ」という小さな悲鳴が上がるのが聞こえる。やめて。そんな完璧な生き物が、私のような微生物に慈悲をかけないで。眩しすぎて目が、心が、溶けてしまう。 どうしよう。どう返事をするのが正解?「どうぞ」とでも言えばいいの?でも、私が隣に座ることを許可するなんて、そんなの烏滸がましいにもほどがある。かと言って「ダメです」なんて言えるはずもなく……。 ああ、もうダメだ。私の語彙力は、今や「あ」と「う」だけで構成されている。 助けを求めるように、私の視線は目の前の王子様から彷徨い、そして、彼の背後に立つもう一人の存在を捉えた。 ――氷室 奏。 彼は、天王寺くんと私の一連のやり取りを、感情の読めない灰色の瞳でただ静かに見つめていた。その姿は、まるで輝かしい光から一歩引いた、涼やかな影のよう。 光と、影。 その二人が、同じフレームに収まっている。 その瞬間。 ピシャーン!と、私の脳内に激しい雷が落ちた。 散らばっていたパズルのピースが、運命に導かれるように一瞬で組み合わさり、一枚の完璧な絵を完成させたのだ。 ――――そういうことか!!!! そうだったのか!なんだ、なんだ、簡単なことじゃないか! 天王寺輝は、私に用があったわけじゃない。彼が本当に話しかけたいのは、隣に座りたいのは、氷室奏くん、ただ一人。 でも、氷室くんはクールで、人を寄せ付けないオーラを放っている。そんな彼に、学園の王子様といえど、いきなり「隣に座りたいな」なんて言えるだろうか?いや、言えない。あまりに不自然だ。周りの目もある。 だから、◇
……しぃん、と大教室が静まり返る。
数十、いや百を超えるであろう視線が、床に無様に転がった私という一点に突き刺さっているのが、肌で感じられた。熱い。顔から火が出そう、とは、まさにこのことだ。穴があったら入りたい。いや、このまま床と一体化して、化石になりたい。 「だ、大丈夫!?」 焦ったような声と共に、私の視界に大きな手が差し伸べられた。見上げると、学園の王子様――天王寺 輝が、心底心配そうな顔で私を覗き込んでいる。その整った顔が、こんな至近距離にあるという現実に、私の脳は再び処理落ちを起こしかけた。 「あ、あの、わ、私ごときに、お手を煩わせるわけには……!」 「いいから!」 私の意味不明な遠慮を、彼は力強い一言で遮る。そして、その大きな手で私の腕を掴むと、驚くほど軽い力でひょいと引き上げてくれた。ふわりと、爽やかなシトラス系の香りが鼻をかすめる。彼の身体から発せられる熱が、服越しにじわりと伝わってきて、心臓が変な音を立てた。 いやいや、違う。これはときめきなどではない。推しカプの恋路を邪魔しかけたことに対する、ただの動揺だ。 「す、すみません!本当に申し訳ありません!お二人の神聖なる空間を、私が汚すなど……万死に値します!」 私は立ち上がるなり、九十度の角度で頭を下げた。床に打ち付けたお尻の痛みよりも、彼らの邪魔をしたという罪悪感の方が、よっぽど重い。 そんな私を見て、天王寺くんは一瞬きょとんとした後、ふっと楽しそうに息を漏らした。 「ふはっ……なにそれ。君って、すごく面白い子なんだね」 「え……?」 顔を上げると、彼は悪戯っぽく片目をつむいで見せた。その破壊力抜群のウインクに、周囲の女子から再び悲鳴が上がる。心臓に悪い。本当に悪い。 そんな王子様の隣で、氷室くんは相変わらずの無表情だった。ただ、その灰色の瞳が、心なしか私を――いや、私の腕を掴んだままの天王寺くんの手を、じっと見つめているような気がした。 ――まさか! 私の脳内BLフィルターが、再びゴゴゴと音を立てて作動する。 今の視線は、嫉妬……!天王寺くんが、私のようなモブに触れていることに対する、独占欲からくる静かな嫉妬の炎……! 「(天王寺先輩……!氷室くんが嫉妬してます!早くこの手を離してあげて!)」 私が必死の形相でアイコンタクトを送ると、それに気づいたのか、天王寺くんはぱっと私の腕を離した。 「あ、ごめん。痛かった?」 「い、いえ!とんでもないです!」 その後、何事もなかったかのように講義は始まり、私の隣には天王寺くんが、その隣には氷室くんが座るという、信じがたい布陣が完成した。私は、二人の邪魔にならないよう、息を止め、限界まで体を縮こまらせて、透明になる努力を続けた。 もうすぐ、この拷問のような時間も終わる。そう思った、講義終了の五分前。 不意に、隣の天王寺くんが、そっと私の方へ顔を寄せてきた。 「ねえ」 耳元で囁かれた、低く甘い声。びくりと肩が跳ねる。近い。顔が、近すぎる。 「さっきは、ありがとう。君のおかげで、ここに座れた」 「(やはり、氷室くんの隣に座りたかったのね……!)」 私の脳内変換は完璧だった。うんうんと、一人で深く頷く私に、彼は続ける。 「だから、その……よかったら、今度お礼、させてくれないかな?食事でも、どう?」 その言葉は、まるで恋の始まりを告げる合図のように、私の鼓膜を優しく震わせた。 もちろん、私の脳内BLフィルターは、その言葉すらも完璧に翻訳してみせる。 ――――(氷室くんを、食事に誘いたいから、セッティングしてくれないかな?)と。 任せてください、王子様。この私、月詠 栞が、あなたたちの恋のキューピッドになってみせますとも! 心の中で固く誓い、私は満面の笑みで彼に頷き返した。まさかこの親切が、さらなる勘違いと波乱の幕開けになることなど、この時の私は知る由もなかった。(……感動してくれてるんだ。嬉しいな) そう思った瞬間だった。 私の脳内で、長らく休眠状態にあった『腐女子フィルター』が、カチリと音を立てて誤作動を起こした。 世界が、歪む。 待って。 あの涙の意味は、本当に純粋な「祝福」だけなのだろうか? 奏くんが、輝くんを見る目。 どこか悔しげで、それでいて相手の実力を認めざるを得ないといった、複雑で熱っぽい感情が入り混じった眼差し。 陽翔くんが、輝くんを見る目。 「先を越された」という男としての敗北感と、それでも「あいつなら任せられる」という友情、そして断ち切れない切なさが同居した濡れた瞳。 そして、輝くんが二人に向けて送った、勝ち誇ったような、けれど揺るぎない信頼に満ちたアイコンタクト。 (……はッ!!) 脳天に電撃が走った。 もしかして。 もしかして、これは『ライバル×輝』の……。 そこまで考えて、私は唇を噛んだ。違う違う。今、自分の結婚式ですから。披露宴の席順で相関図を作っている場合じゃありません。 奏くんも陽翔くんも、私に気持ちを伝えてくれた。その言葉を、都合のいい筋書きに書き換えたくはなかった。 目が合った奏くんに、小さく頭を下げる。陽翔くんは泣いたまま、くしゃくしゃの笑顔で手を振ってくれた。 「……し、栞?」 隣で輝くんが、不審そうに私の顔を覗き込んだ。 奏くんと陽翔くんを見ていた時間が、思ったより長かったらしい。私は慌てて、隣に立つ彼へ向き直った。 「……ううん。なんでもない」 輝くんはまだ少し疑わしそうだ。分かってます。その顔をされても仕方ない人生でした。 私は言い訳を探すのをやめ、自分から彼の手を取った。 「輝くん。私、今、すごく幸せ」 彼の目が、ふっと和らぐ。それを見たら堪らなくなって、背伸びをして頬に口づけた。すぐ近くから歓声が上がり、そこでようやく会場中に見られていることを思い出す。 「あ、いや、今のは……!」 「取り消しはなし」 輝くんが笑い、私の腰を引き寄せる。今度は目を逸らさずに、その顔が近づくのを待った。 カラン、カラン、と祝福の鐘が高らかに鳴り響く。 青空に吸い込まれていくフラワーシャワーの中で、私は輝くんの腕の中にしっかりと抱きしめられていた。その体温が、私を確かな幸福の中心に繋ぎ止
父の手から輝くんの手へ、私の手が託される。 触れた輝くんの手は、大きくて、温かくて、そして少しだけ震えていた。 「……待ってたよ、栞」 彼が誰にも聞こえないほどの小声で囁く。 その声の響きに導かれるように、私は彼の隣に並んだ。 牧師様の言葉が続き、私たちは誓いの言葉を交わす。 指輪の交換。 私の左手の薬指に、ひやりとした金属の感触と共に、永遠の約束が滑り込んでくる。 そして。 「それでは、誓いのキスを」 牧師様の言葉を合図に、輝くんがそっとベールを上げる。 隔てるものがなくなり、至近距離で見つめ合う。 彼の瞳の中に、緊張で強張った私の顔が映っている。 「……愛してる」 唇が触れ合う直前、彼が音のない言葉でそう言ったのが分かった。 私も、心の中で答える。 私も、愛してる。世界で一番。 チュッ、と柔らかい音がして、唇が離れる。 その瞬間、会場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 私たちは皆の方へと向き直る。 色とりどりの花びらが舞うフラワーシャワーの中、たくさんの笑顔が私たちに向けられていた。 最前列には、見慣れた、そして大好きな顔ぶれが揃っている。 まずは、氷室奏くん。 彼は今、売れっ子のゲームシナリオライターとして第一線で活躍している。私と同じ会社に所属し、時には喧嘩し、時には背中を預け合いながら、一緒にゲームを作り上げている戦友だ。 今日の彼は、隙のない礼服姿で、眼鏡の奥の瞳を和やかに細めてこちらを見ていた。その表情はどこまでも穏やかで、まるで手のかかる弟と妹の晴れ姿を見守る兄のようだ。 その隣には、七瀬陽翔くん。 彼は大学卒業後、厳しい修行期間を経て、念願だった自分のカフェをオープンさせた。今では雑誌やSNSに取り上げられるほどの人気店のオーナーだ。 相変わらずの人懐っこい笑顔で、大きく手を振ってくれている。「先輩、おめでとう!」という口の動きが見えた。 そして、乃亜の隣には……まさかの人物。 西園寺エリカ様だ。 彼女はあれから、持ち前の驚異的なバイタリティと深いオタク知識を武器に、なんとイベント運営会社の社長になっていた。 今日の彼女は、いつもの真紅のドレスではなく、上品なシャンパンゴールドのドレスを身に纏い、扇子で口元を隠しながら優雅に
そして今日、私たちは誓いを立てる。 多くの人に見守られ、祝福されながら、これからの人生を共に歩んでいく約束を。 コンコン、と厚い扉越しに控えめなノックの音が響いた。 「失礼いたします。……新婦様、そろそろお時間です」 式場スタッフのよく通る声に、心臓が跳ね上がる。 いよいよだ。 「よし。行ってきなさい、栞」 乃亜が私の背中をバン、と景気よく叩いた。 少し痛いくらいのその衝撃に、竦みかけていた足に力が戻る。私は肺いっぱいに空気を吸い込み、深く吐き出した。 「うん。……行ってきます!」 ずしりと重いドレスの裾を爪先で蹴り上げ、私は控室の扉を押し開けた。◇ チャペルの大きな扉の前。 父の腕に手を添えながら、私は震えそうになる膝を必死に叱咤していた。 この扉の向こうには、たくさんのゲストたちが待っている。 大学時代の友人たち、会社の同僚、輝くんの仕事関係の方々。 そして何より、私たちがここに辿り着くまでの道のりを、時に厳しく、時に温かく見守ってくれた、かけがえのない仲間たち。 「栞。……綺麗だぞ」 隣で父が、少し湿っぽい声で囁く。 普段は無口で不器用な父の、絞り出すような言葉。危うく涙腺が緩みそうになり、私はぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。 今泣いたら、時間をかけて作ってもらったメイクが台無しになってしまう。輝くんに、一番綺麗な私を見てもらいたいから。 厳かなパイプオルガンの音色が、高い天井に響き渡る。 重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。 溢れ出すまばゆい光。 そして、視界いっぱいに飛び込んでくる、祝福の拍手と温かな笑顔の海。 まっすぐに伸びるバージンロードの先、祭壇の前で待っているのは、白のタキシードに身を包んだ私の最愛の人。 天王寺輝。 彼と目が合った瞬間、周りの景色からふっと色が抜け落ちたような気がした。 彼だけが、鮮やかに、圧倒的な存在感を持ってそこに立っている。 (……かっこいい) 付き合い始めてもう何年も経つのに、未だに彼の姿を見るたびに胸が高鳴ってしまう自分がおかしい。 今日の彼は、いつにも増して「王子様」だった。 仕立ての良いタキシードを完璧に着こなし、綺麗に整えられた茶色の髪が光を弾いている。そして何より、私を見つめるその瞳。蕩けるよ
あれから、いくつもの季節が巡った。 窓の外には、目に痛いほどの新緑が広がっている。初夏の陽気を含んだ風が、木々の葉を揺らす音が聞こえてくるようだ。 雲ひとつない突き抜けるような青空の下。 私は今、人生で一番高いヒールの上に危なっかしく立ち、人生で一番重たい布の塊に全身を包まれて、人生で一番強張った顔で鏡と睨めっこをしていた。 「……うぅ、苦しい。ねえ乃亜、これちょっとコルセット締めすぎじゃない?」 「何言ってんの。一生に一度の晴れ舞台でしょ? 内臓の位置なんて気にしてる場合じゃないって」 私の背後で、親友の神崎乃亜がテキパキとドレスの裾をさばいている。 今日の彼女はブライズメイドとして、淡いレモンイエローのドレスを身に纏っていた。相変わらずの切れ長で美しい瞳と、凛とした立ち振る舞い。主役の私の方が霞んでしまいそうなほどの美人っぷりだ。 「ほら、できた。……うん、悪くない」 乃亜が満足げに頷き、私の背中を鏡の方へとぐいと押した。 そこに映っていたのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ、見知らぬ誰かのような自分の姿。 繊細なレースが鎖骨のラインを縁取るオフショルダー。ふわりと空気を含んで広がるAラインのスカートには、無数の小花が散りばめられ、動くたびにさざ波のように揺れる。プロの手によって丁寧に編み込まれた髪の上には、照明を受けてキラキラと瞬くティアラが鎮座していた。 「……私、本当にお嫁に行くんだね」 鏡の中の自分と目を合わせ、ぽつりと漏らす。 なんだか、足元がふわふわとして実感が湧かない。まるで、スクリーンの向こう側で繰り広げられる物語を、客席から眺めているような不思議な浮遊感がある。 「何寝ぼけたこと言ってんのよ。ここまで来て夢オチでしたなんて言ったら、私が許さないからね」 乃亜が呆れたように笑い、私の肩にぽんと手を置いた。 その掌から伝わる確かな体温と重みに、ようやく少しだけ、ここが現実なのだという感覚が戻ってくる。 そう。今日は、私の結婚式だ。 机を紙で埋め、送信ボタンの前で固まっていた日が、今も時々夢に出てくる。二次募集で内定をもらった『株式会社アルカディア・ワークス』で、私は今、プランナーとして走り回っている。好きだけでは済まないことばかりだけれど、会議に出す企画書の最初の読者は、相変
「え? うん、いいけど……」 三人は私から少し離れた、広場の片隅へと歩いていく。 夕陽を背にして立つ三つのシルエット。 何か重要な話をしているようだけれど、ここからでは風に流されて声は聞こえない。 胸騒ぎがする。 でも、不思議と不安はなかった。 彼らの背中から漂う空気が、決して険悪なものではないと分かっていたからだ。 しばらくして、話が終わったのか、三人がこちらへ戻ってきた。 その表情は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。 「……終わったよ、栞」 輝くんが戻ってきて、再び私の手を取る。 「何の話だったの?」 「ん? ……男同士の、秘密の話」 彼は悪戯っぽく笑って、教えてくれなかった。 奏くんと陽翔くんを見ると、二人は何かを納得したように、満足げな顔でこちらを見ていた。 「……月詠。俺は先に行く」 奏くんが、私に近づいてくる。 そして、そっと手を差し出した。 「え?」 「握手だ。……今日の記念に」 戸惑いながらも手を出すと、彼は私の手をギュッと強く握りしめた。 その手は意外なほど熱く、そして優しかった。 「……幸せになれよ」 ボソッと呟かれた言葉に、目頭が熱くなる。 「奏くん……」 「それと、天王寺」 奏くんが輝くんへ向き直った。 「式の日取りが決まったら、早めに知らせろ。仕事を空ける」 「……ああ」 「さっきも言ったが、知らせるのは月詠任せにするなよ」 輝くんが頷いた。その顔を見届け、奏くんは鞄を肩に掛け直した。 「じゃあな」 奏くんはひらりと手を振り、雑踏の中へと消えていった。 「俺も帰ります!」 陽翔くんが元気よく手を挙げる。 「先輩! またバイトで!」 「うん、お疲れ様!」 「あ、輝先輩。……約束、忘れないでくださいね」 陽翔くんが意味深な言葉を残し、輝くんに拳を突き出す。 輝くんも拳を合わせ、コツンとぶつけ合った。 「ああ。分かってる」 陽翔くんもまた、笑顔で去っていった。 二人を見送った後、私は輝くんを見上げた。 「……ねえ、本当に何の話だったの?」 「内緒」 輝くんは人差し指を唇に当て、ウィンクする。 「式の話をされた。……あいつら、来てくれるって」 「え……」 「ちゃんと招待状、送ろうな。……二人で
会場の外へ出ると、空は茜色に染まっていた。冷たい風が頬に触れ、ようやく自分がどれだけ泣いたか分かる。 入口から少し離れた場所で輝くんが手を挙げた。隣には奏くんと陽翔くんもいる。私はエリカ様とそちらへ向かい、まず輝くんの前で足を止めた。 「一緒に来てくれて、ありがとう」 彼は一瞬驚き、それから笑った。 「うん。楽しそうだったね、栞」 差し出されたハンカチを受け取ると、私の手ごとそっと握られた。 「物語もよかったけど。あとで栞が何を話すか、そっちが楽しみだった」 また泣きそうになってしまう。舞台の二人に感動した気持ちを、この人に話したくてたまらなかったことまで、見抜かれた気がした。 「……長くなるよ?」 「知ってる」 後ろから陽翔くんがティッシュを差し出す。 「先輩、まず鼻。話す前にそっちです」 「う、うるさいっ。これは感動の涙なの!」 笑いながら受け取ると、奏くんが静かに眼鏡をかけ直していた。その目元も少し赤い。からかう気にはなれず、私は何も言わずにティッシュの袋を差し出した。 「ふぅ……。魂が浄化されましたわ」 エリカ様が、満足げに溜息をつく。 その顔は憑き物が落ちたように晴れやかで、いつもの棘々しさが嘘のようだ。 「ええ。……最高のイベントでした」 奏くんも頷き、受け取ったティッシュをそっとポケットへ収めた。 「また、イベントがあったらご一緒しましょうね、同志よ」 答えようとした時、彼女が扇子を閉じた。 「その前に。……あなたに、謝らなくてはならないことがありますわ」 急に改まった声に、私も背筋を伸ばした。 「あの日、召使いだの、平民だのと。知らない方を、あんなふうに呼ぶべきではありませんでした」 彼女は私を見ていた。言葉を急いで継ぎ足すことも、笑い話にすることもなかった。 あの日の痛みが少し戻った。それでも、今日、隣で同じ台詞に泣いた人の顔を、私はもう知っている。 「……嫌でした。あれは」 「ええ」 「でも、今日は楽しかったです。また、一緒に見たいと思いました」 エリカ様が小さく息を吐いた。扇子を持つ手が、胸元から下りる。 「……では、次の抽選も、二人で申し込みましょう」 私とエリカ様は、固い握手を交わした。 かつての恋敵が、今や最強のオタク仲間。 人生、何が起
「……誰目線なんだよ」 輝くんが脱力したように突っ込む。 けれど、その表情には怒りよりも、照れくささと、そして隠しきれない安堵が混ざっていた。「……へえ。合格点いただきましたか」 輝くんは私の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように三人を見回した。「聞いたろ? 栞は俺を選んでくれたんだ……これでもう、文句はないな?」 その高らかな宣言に、陽翔くんと奏くんの顔つきが変わった。 ただの野次馬ではない、真剣な男の顔。「&hel
翌朝。 目が覚めると、輝くんはまだ隣で眠っていた。 昨夜の情熱的な彼とは打って変わって、子供のように無防備な寝顔だ。 その頬をつんと指でつつくと、「ん……」と唸って、私を抱き枕のように腕の中に引き寄せた。(……重いけど、幸せ) 時計を見ると、いつもより少し遅い時間だ。 今日は日曜日。二人とも、久しぶりの完全オフだ。「……ん、おはよ」 しばらくして、輝くんがもぞもぞと起き出した。 寝癖がついた髪が可
「あいつが戦っているのは、自分のためじゃない。……君のためだ」「……私の?」「君という帰る場所があるから、あいつは強くなれる。君が隣にいるから、無謀な挑戦もできるんだ。……あいつにとって、君は『足手まとい』なんかじゃない。最強の『武器』なんだよ」 彼の言葉が、冷え切った心にじんわりと染み込んでいく。 そうだろうか。 私なんかが、輝くんの力になれているのだろうか。「それに……」 奏くんの手が、私の
店内は暖房が効いていて、焙煎されたコーヒーの芳醇な香りが漂っていた。 私たちは窓際の席に向かい合って座った。テーブルの上には、さっき取ってもらった白い猫のぬいぐるみがちょこんと座っている。「……ありがとう、奏くん。気を使わせちゃったね」 湯気の立つココアを一口飲み、私は正直に礼を言った。甘い液体が食道を下りていき、強張っていた胃を内側から温めてくれる。 奏くんはブラックコーヒーを口にし、カップをソーサーに戻した。カチャン、と陶器が触れ合う澄んだ音がする。「礼には及ばない。…&helli