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第6話:戦場と化したカフェ①

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2025-10-23 16:05:25

 カラン、と澄んだ音を立てたドアの向こうに立っていたのは、天王寺てんのうじあきらだった。

 私の脳が、目の前の光景を正しく処理するのに、約七秒を要した。

 私のバイト先に、学園の太陽が、たった一人で。その隣にあるべき、涼やかな影の姿はどこにもない。

 彼の完璧な笑顔が、まっすぐに、私に向けられている。

「やっぱり、まだいた。月詠さん、いるかなって思って」

 その言葉に含まれた甘い響きに、私の心臓が、きゅっと有り得ない音を立てて縮こまった。

 だめだ、だめだ、惑わされるな、月詠栞。これは罠だ。私の脳内BLフィルターが、正常な判断を妨げるための、甘い罠!

 落ち着いて分析するのよ。彼が、一人でここに来た理由。それは一体、何?

 答えは、一つしかない。

「(―――偵察!)」

 そうだ、彼は偵察に来たのだ。先日、私が「ここでバイトしてるんです」と何気なく漏らした一言を、彼は聞き逃さなかった。そして、来るべき日――氷室くんをデートに誘う、その運命の日のために、この『Caffe Felice』が二人の神聖な逢瀬おうせの場所にふさわしいかどうか、自分の目で確かめに来たのだ。

 なんてこと。なんて、真摯な人なの、天王寺先輩……!氷室くんへの愛が、深すぎる!

「せ、先輩!わざわざご足労いただき、恐縮です!」

 全ての真実を悟った私は、カウンターの中から深々と頭を下げた。私のあまりの歓迎ぶりに、彼は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに楽しそうに目を細める。

「ふはっ、そんなに畏まらなくても。客だよ、客」

「も、もちろんです!最高の席へご案内します!……と言っても、カウンターしか空いてませんが!」

 閉店間際の店内は、ほとんど客足が引いていた。彼は「じゃあ、ここで」と、こともなげに私が一番よく使う作業スペースの真ん前の席に腰を下ろした。

 近い。近すぎる。彼がそこに座っているというだけで、店の空気の密度が、急に三倍くらいになった気がした。ふわりと香る、爽やかなシトラスの香り。無造作に組まれた長い脚。カウンターに置かれた、大きくて骨張った手。その一つ一つが、私の貧弱な語彙力を奪っていく。

「ご注文は……」

「んー、じゃあ、君のおすすめを貰おうかな」

 きた!出ました、おすすめ!これは、ただの注文ではない。「君は、僕の愛する氷室くんに、どんなコーヒーがふさわしいと思うかね?」という、私への信頼を懸けた、高度な質問なのだ。

「かしこまりました!当店の豆は……」

 私が、持てる全てのコーヒー知識を総動員して、プレゼンを始めようとした、その時だった。

「―――あれ?栞先輩、まだいたんですか」

 バックヤードの扉が開き、ひょこりと顔を出したのは、先ほど上がったはずの七瀬陽翔くんだった。彼のふわふわの栗色の髪が、店の照明を受けて柔らかく光っている。

「陽翔くん?忘れ物?」

「はい、スマホ忘れちゃって……って、あれ?」

 陽翔くんの視線が、私の前の席に座る天王寺先輩の姿を捉えた瞬間、彼の空気が、ぴしりと凍り付いたのが分かった。さっきまで私に向けられていた、人懐っこい子犬のような笑顔がすっと消え、その大きな垂れ目が、警戒心に満ちた獣のように、鋭く細められる。

「……」

「……」

 天王寺先輩もまた、陽翔くんの存在に気づき、品定めをするように静かに彼を見つめ返している。完璧な笑顔は崩していない。だが、その瞳の奥には、温度というものが一切感じられなかった。

 カウンターを挟んで、キラキラと輝く光の王子と、人懐っこいわんこ系後輩が、無言で見つめ合っている。素人目にはただの気まずい沈黙。だが、私の脳内BLフィルターを通せば、この光景の意味は、手に取るように分かった。

「(陽翔くん……!天王寺先輩を前にして、緊張してるのね……!)」

 そうに違いない。陽翔くんは、店長のことが好きなのだ。そして、うちのイケメン店長は、おそらく天王寺先輩と交流がある。陽翔くんにとって、天王寺先輩は、好きな人の友人であり、自分にはない全てを持った、あまりに眩しい憧れの存在。だから、緊張で固まってしまっているのだ。

 なんて健気で可愛いの!大丈夫よ、陽翔くん。この私が、二人の間を取り持ってあげるから!

「陽翔くん、こっちおいで!こちらは、大学の先輩の、天王寺先輩!私の、大事なお客様よ!」

 私が、母鳥のような気持ちで二人を紹介すると、天王寺先輩は優雅に口角を上げた。

「どうも。いつも、うちの月詠さんがお世話になってます」

 その言葉を聞いた瞬間、陽翔くんの眉が、ぴくりと吊り上がった。

「うちの月詠さん」

 その、まるで所有権を主張するかのような響きに、陽翔くんの空気がさらに険悪なものになったのを、私は肌で感じた。彼の大きな瞳が、すうっと細められる。それはもう、子犬の警戒心などという可愛らしいものではない。縄張りを侵す者を前にした、孤高の狼の眼差しだった。

「……どういう、意味ですか」

 陽翔くんの口から漏れたのは、普段の彼からは想像もつかないほど、低く、硬い声だった。まずい。このままでは、憧れの先輩を前にした陽翔くんが、緊張のあまり失礼な態度を取ってしまうかもしれない。

「よ、陽翔くん!天王寺先輩は、私の大学の先輩で、その、恋の……あっ、いや、色々とお世話になっている方で!」

 私は慌てて二人の間に割って入る。危うく「恋のキューピッドです!」と口走りそうになるのを、寸でのところで飲み込んだ。さすがに、ご本人の前でそれは憚られる。

 私の必死のフォローも虚しく、陽翔くんは天王寺先輩から視線を外さない。それどころか、ずんずんとカウンターまで歩いてくると、私の隣にぴたりと立ち、まるで私を背後から守るようにして、正面から天王寺先輩を睨みつけた。

「栞先輩は、俺の先輩なんで。あんたに、『うちの』とか言われる筋合い、ないと思いますけど」

「ひえっ……!」

 あまりにストレートな敵意に、私の喉から、カエルの潰れたような声が出た。陽翔くん、だめ!そんな口の利き方をしたら、天王寺先輩に嫌われちゃう!店長との恋が、始まる前に終わってしまう!

 しかし、そんな私の焦りをよそに、言われた当の天王寺先輩は、少しも動じていなかった。それどころか、彼は面白そうに口の端を吊り上げると、ふっと息を漏らす。

「へえ。元気があって、いいね」

 大人の余裕。王者の風格。陽翔くんの剥き出しの敵意を、彼は柳のように軽くいなしてみせる。その姿は、私の目には、まるで気性の荒い若駒を手懐けようとする、経験豊富な騎士のように映った。

「(か、格が違う……!これが、学園の太陽……!)」

 私は一人、感動に打ち震える。そうだ、きっと天王寺先輩は、陽翔くんのこの無礼な態度すらも、彼の抱える恋の悩み故の、若さの表れだと見抜いているのだ。なんて懐が深いのだろう。

 私が一人で納得していると、カラン、と。

 三度、店のドアベルが澄んだ音を立てた。

 もう閉店時間だというのに、今日の『Caffe Felice』はどうしたというのだろう。私が「申し訳ありません」と反射的に声を発するより先に、その場にいた全員の視線が、入り口に立つ新たな来訪者に注がれていた。

 そこに立っていたのは――。

「……氷室、くん?」

 サラサラの黒髪が片目にかかり、透き通るような白い肌を持つ、ミステリアスな影。氷室ひむろかなでくんだった。彼は、いつも通りのモノトーンの服装で、感情の読めない灰色の瞳で、カウンターに集う私たち三人を静かに見つめている。

「大学の資料、取りに来ただけだ。すぐに帰る」

 誰に言うでもなく、彼はそれだけを呟くと、まっすぐにカウンターへと歩み寄ってくる。そして、天王寺先輩が座っている席の、一つ空いた隣の席――つまり、私を挟んで、天王寺先輩とちょうど反対側の席に、音もなく腰を下ろした。

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