เข้าสู่ระบบあの夜。私の左右から放たれた「家まで送る」と「送っていく」という二つの宣戦布告。
天王寺先輩と氷室くんは、私という存在を媒介にして、静かに、しかし激しく火花を散らしていた。恋の主導権を懸けた、男たちのプライドのぶつかり合い。そのあまりの尊さに、私の脳は沸騰寸前だった。
しかし、同時に、私は自分の立場を痛いほど理解していた。私はキューピッド。二人の恋の舞台装置。決して、物語の中心にいてはならない存在だ。
「あ、あの、お気持ちは大変嬉しいのですが、お二人で、どうぞ!今後の作戦会議でもしながら!私は、一人で帰れますので!」
そう叫ぶのが精一杯だった。二人が何かを言う前に、私はくるりと踵を返し、人生で一番の速さでその場から逃げ出した。背後で、天王寺先輩の「え、月詠さん!?」という焦った声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕などなかった。
だって、これ以上あの神聖な空間にいたら、私はその尊さに耐えきれず、浄化されて消滅してしまうから。
そんな事件から数日後。私の日常は、いつも通り、退屈な講義と、脳内のBL妄想、そして、時給のために働くアルバイトで構成されていた。
私のバイト先は、大学から少し歩いたところにある、お洒落なカフェ『Caffe Felice』。木の温もりを感じる落ち着いた内装と、こだわりの自家焙煎コーヒーが自慢の、学生にも人気の店だ。
私がここで働いている理由はただ一つ。イケメンの店長を、心置きなく観察できるからである。
もちろん、私が彼に恋愛感情を抱いているわけではない。あくまで、創作意欲を掻き立てるための「素材」として、だ。長身で、優しくて、少し気だるげな雰囲気が、私の作る物語のキャラクターにぴったりなのだ。
「栞先輩、お疲れ様です!この後、シフト入ってるんですよね?」
私がバックヤードでエプロンの紐を結んでいると、背後から太陽みたいに明るい声がかけられた。振り返ると、そこには、ふわふわの栗色の髪を揺らしながら、人懐っこい大きな垂れ目をきらきらさせた男の子が立っていた。
二週間ほど前に入ってきた、一つ年下の新人バイトだ。小動物を思わせる愛らしいルックスと、誰にでもすぐに懐く性格から、すっかり店のマスコット的存在になっている。
「陽翔くん、お疲れ様。うん、私はこれから閉店まで」
「やった!じゃあ、また色々教えてくださいね!」
ぶんぶんと尻尾を振る幻覚が見えそうなほどの笑顔に、私の心も自然と和む。彼は、私が今まで出会ったことのないタイプの人種だった。天王寺先輩のような眩しい光でもなく、氷室くんのような静かな影でもない。ただひたすらに、人懐っこくて、素直で、可愛い。弟がいたら、きっとこんな感じなのだろう。
彼は、初日からなぜか私に一番懐いてくれた。私が他のバイト仲間のようにキラキラしておらず、話しかけやすいオーラでも出ていたのかもしれない。
「任せて。でも、陽翔くんはもう仕事覚えるの早いから、私が教えることなんてないよ」
「そんなことないです!俺、栞先輩の丁寧な仕事ぶり、めっちゃ尊敬してるんで!」
屈託なくそんなことを言われて、私は思わずどきりとしてしまう。いかんいかん。彼は、誰にでもこういうことが言えてしまう、天性の人たらしなのだ。勘違いしてはならない。
その日のシフトも、陽翔くんは私の後ろをカルガモの雛のようについて回り、「先輩、そのドリップの淹れ方、どうやるんですか?」「先輩、今の接客、完璧でした!」と、いちいち目を輝かせて報告してくる。その度に、私の心臓は少しだけむず痒いような気持ちになった。
閉店作業も終わり、そろそろ上がろうかという時だった。バックヤードで二人きりになったタイミングで、陽翔くんが、何かを決意したような真剣な顔で私に向き直った。
「あの、栞先輩」
「ん?どうしたの?」
いつもとは違う、少し緊張したような声色。私は不思議に思い、小首を傾げる。すると、彼は一度、ぎゅっと唇を結び、そして、私の目をまっすぐに見て、はっきりとした声で言ったのだ。
「俺、好きです!栞先輩のことが、好きです!」
◇
……好き。
……すき?
……Suki.
私の脳内で、そのシンプルな日本語が、あらゆる言語に翻訳されては、意味を結ぶことなく霧のように消えていく。私の貧弱な思考回路は、その言葉が持つ熱量に耐えきれず、完全に機能を停止させた。
バックヤードの静寂。聞こえるのは、古い換気扇が回るかすかな音と、私の心臓が、ありえない速度で脈打つ音だけ。
目の前の陽翔くんは、その大きな垂れ目を不安げに揺らしながら、私の返事を待っている。その潤んだ瞳は、まるで雨に濡れた子犬のようだ。
違う。これは、何かの間違いだ。
だって、この私が、誰かに好かれるなんて。ましてや、こんなに可愛らしい年下の男の子に。ありえない。天動説が覆るくらい、ありえない。
では、この状況は一体、何?
私の脳は、必死に答えを探し始める。エラー、エラー、システムエラー。理解不能な事象を、私は、私の唯一信じる法則――BLという名の宇宙の真理――に当てはめて、再計算を試みた。
七瀬陽翔くんは、恋をしている。それは、間違いない。彼の瞳は、本気だ。
だが、その相手は、私ではない。
では、誰?
このバイト先で、彼が憧れの眼差しを向けている人物。優しくて、包容力があって、少し影のある、長身の……。
―――店長!
ピシャーン!
再び、私の脳内に啓示の雷が落ちた。
そうか!そういうことだったのか!なんだ、なんだ、簡単なことじゃないか!
陽翔くんは、うちのイケメン店長に、密かな恋心を抱いていたのだ!
しかし、相手は男で、しかもバイト先の店長。告白するにも勇気がいる。だから、一番話しやすい私を相手に、告白の練習をしようとしていたんだ!
「……っ!」
全ての辻褄が合った瞬間、私の全身を、天王寺先輩と氷室くんの時とはまた違う、熱い使命感が駆け巡った。
なんて健気なの、陽翔くん……!わかるわ、その気持ち、痛いほどわかる!推しカプが幸せになるためなら、私はなんだってする!
気づけば私は、陽翔くんの両肩を、がっしと掴んでいた。
「……任せて!!!」
「へっ!?」
突然、大声を出した私に、陽翔くんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「陽翔くんのその純粋な恋、この私、月詠栞が、全力でサポートさせていただきます!」
「え、あ、あの、先輩……?」
「大丈夫!店長は、きっと陽翔くんの一途な想いを受け止めてくれるはず!そのためにも、まずは告白の練習よ!今のままじゃ、ダメ!」
「だ、ダメなんですか!?」
私が真剣な顔で言い放つと、彼はショックを受けたように目を見開いた。そうだよ、ダメなんだよ。愛の告白は、神聖な儀式。もっと魂を込める必要がある。
「いい?陽翔くん。今の告白は、点数で言えば35点。気持ちはわかるけど、これじゃ店長の心には響かないわ」
「さ、35点……」
がっくりと肩を落とす彼に、私は熱血指導教官のように、ビシッと人差し指を突きつけた。
「もっと気持ちを込めて!相手の目を見て!君が、どれだけ店長のことを想っているのか、その熱いパトスをぶつけるのよ!」
「ぱ、パトス……」
「さあ、もう一回!私が店長だと思って、やってみなさい!」
私は腕を組み、仁王立ちで彼を見下ろす。陽翔くんは、混乱したまま、それでも何かを必死に理解しようとしているようだった。やがて、彼はこくりと頷くと、一度、ぎゅっと目を瞑り、すぅ、と息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと開かれた彼の瞳は、さっきよりもずっと真剣な熱を帯びて、真っ直ぐに私を捉えていた。その瞳には、切実な何かが確かに宿っている。
「……好きです」
静かな、しかし、心の底から絞り出したような、震える声。
その一言を聞いた瞬間、私は、ぶわっと鳥肌が立つのを感じた。
―――今の、いい……!
切なくて、必死で、相手にすがりつくような、年下わんこ系キャラの魅力が、最大限に引き出されている!これなら、どんな朴念仁の店長だって、心揺さぶられるに違いない!
私は感動のあまり、親指をぐっと立てて見せた。
「うん、今の最高!120点!」
◇
私の満点の評価に、陽翔くんは一瞬ぽかんとした後、ぱあっと顔を輝かせた。その笑顔は、褒められた子犬そのもので、あまりの可愛さに私の心臓がまたしてもきゅんと鳴る。
「ほ、本当ですか!?」
「本当よ!今の告白には、君の切実な想いが、魂が、確かに込められていたわ!その調子よ、陽翔くん!」
私が興奮気味に彼の背中をバンバンと叩くと、彼は嬉しそうに、しかしどこか困ったようにへらりと笑った。
「あはは……。じゃあ、今の、先輩にはちゃんと伝わりましたか?」
「もちろん!私の心に、ビンビンに響いたわ!だから、自信を持って!店長は、きっと陽翔くんの気持ちに応えてくれる!」
「……店長?」
きょとん、と。陽翔くんの頭の上に、大きなクエスチョンマークが浮かぶのが見えた。
しまった。私は彼の繊細な乙女心(?)を、あまりにも無遠慮に暴いてしまっただろうか。いや、でも、ここまで来たら、もう隠す必要はない。私たちは、同じ恋を応援する、固い絆で結ばれた同志なのだから。
「大丈夫。陽翔くんの恋、私がキューピッドになって、必ず成就させてみせるからね!」
そう言って、彼の肩にぽんと手を置く。陽翔くんは、数秒間、何かを必死に考えているような顔をしていたが、やがて、全てを諦めたかのようにふにゃりと笑った。
「……よくわかんないですけど、栞先輩が応援してくれるなら、俺、頑張ります」
その言葉に、私は満足げに頷いた。そうだ、それでこそ男だ。
こうして、私のキューピッドとしての任務リストに、「天王寺輝×氷室奏」に加えて、「七瀬陽翔×イケメン店長」という、新たなカップリングが追加されたのだった。
すっかり恋愛プロデューサー気取りで上機嫌になった私は、陽翔くんを見送った後、一人で鼻歌交じりに後片付けをしていた。モップをかけ、カウンターを拭き、レジを締める。いつもの退屈な作業も、推しカプが増えたというだけで、なんだか輝いて見えた。
全ての作業を終え、バックヤードに戻ろうとした、その時だった。
カラン、と。
静まり返った店内に、来客を告げるドアベルの音が、やけに大きく響き渡った。
「申し訳ありません、もう閉店で……」
言いながら、私は反射的にドアの方へ振り返る。そして、そこに立っていた人物を見て、息を呑んだ。
柔らかなオレンジ色の照明に照らされて、キラキラと光を反射する、明るい茶色の髪。
こんな時間でも、全くよれていないハイブランドのシャツ。
そして、目が合った瞬間に、優しく弧を描いた、完璧な笑顔。
「……て、天王寺先輩……?」
なぜ。どうして、彼がここに?
しかも、一人で。彼の隣にあるべき、涼やかな影の姿はどこにもなかった。
私の脳が、再び混乱の渦に叩き込まれる。彼が、一人で、私のバイト先に。一体、何のために?
私のそんな戸惑いを見透かしたように、天王寺先輩は、ゆっくりとした足取りで、カウンターまで歩いてきた。そして、私から目を逸らさないまま、楽しそうに、こう言ったのだ。
「やっぱり、まだいた。月詠さん、いるかなって思って」
連行された先は、宿泊棟の裏手に広がる人気のない中庭だった。 不意に腕が解放されたかと思うと、ドン、と背中が硬い樹皮に打ち付けられる。太い松の木と、目の前の人体によって逃げ場は完全に塞がれた。「か、輝く……ん?」 月明かりを背負った顔は影になり、表情が読み取れない。ただ、肌を刺すようなピリピリとした緊迫感だけが、鈍感な身にも痛いほど伝わってくる。「……手」「え?」「氷室と繋いでいた手、出して」 短く鋭い命令と共に、視線が右手に突き刺さる。おそるおそる差し出した瞬間、手首を万力のような力で締め上げられた。「っ……!」「……ここか」 懐から取り出されたのは除菌タイプのウェットティッシュだ。親指が掌に押し当てられ、ゴシゴシと執拗に擦られる。まるで、そこに残る奏くんの体温や感触を、皮膚ごと削ぎ落とそうとするかのように。「ちょ、ちょっと輝くん! 痛いよ、そんなに擦ったら……!」「ずっと、繋いでたんだね」「そ、それは……暗くて、危なかったから……」「ふーん。危なかったら、男の手なら誰でも握るんだ?」「違うよ! 奏くんが助けてくれたから……」「奏くん」 ピクリ、と整った眉が不快げに跳ねた。「名前で呼ぶなよ。……あいつのこと」 グイッと腕を引かれ、バランスを崩して胸板に飛び込む。浴衣越しに伝わる体温は驚くほど高く、筋肉の硬さがダイレクトに触れた。脳内で警報音がけたたましく鳴り響く。距離が近い。近すぎる。恋愛経験ゼロの身には、もはや致死圏内だ。「……嫌だ」 耳元で低く唸る声が鼓膜を震わせる。「栞が他の男を見るのも、触れるのも、名前を呼ぶのも……全部、嫌だ」 それは今まで聞いたことがないほど幼く、けれど切実
木々の切れ間から灯りが見えてきた。ゴールの神社だ。鳥居の下、懐中電灯の明かりが揺れている。「あ、着いた……」 安堵の声が漏れる。やっと、このドキドキする吊り橋効果から解放される。 そう思った瞬間だった。 鳥居の陰から、ゆらりと人影が現れた。逆光で顔は見えない。でも、その立ち姿だけで誰だか分かってしまった。ポケットに手を突っ込み、少し首を傾げてこちらを見下ろす、長身のシルエット。「……遅かったね」 低く、地を這うような声。空気の温度が一気に氷点下まで下がる。「輝くん……!」 駆け寄ろうとするが、繋がれたままの右手が引き止める。ハッとして振り返ると、奏くんは逃げも隠れもせず、真っ直ぐに鳥居の下の人物を見据えていた。「……天王寺」「よう、氷室」 輝くんが、ゆっくりと歩み寄ってくる。懐中電灯の光が、下から顔を照らし出した。 笑顔だ。完璧な、美しい、王子様の笑顔。 だが瞳は笑っていないどころか、ハイライトが完全に消え失せている。唇の端だけが吊り上がったその表情は、まさに「般若」。「ずいぶんと楽しそうだったね?」 視線が、私と奏くんの「繋がれた手」に固定される。瞬間、笑顔がピキリとひび割れたように見えた。「お化けなんて出なくても、十分スリル満点だったみたいじゃないか。……ねえ?」 ヒッ、と喉が鳴る。激怒している。レベルマックスの嫉妬だ。「さあ、こっちにおいで。栞」 差し伸べられた手はエスコートではなく、「回収」の合図だった。 奏くんの手が、一瞬だけ強く私を握りしめ――そして、ふっと力を抜いた。「……行け、月詠」 小声で告げられる。弾かれたように手を離し、輝くんの元へと駆け寄った。 腕を掴まれると同時に、痛いほど強く引き寄せられる。そのまま肩を抱かれ、威嚇するように奏くんを見下ろした。「ご苦労だったな、氷室。…
砂利道は徐々に登り坂になり、鬱蒼とした木々の枝がトンネルのように頭上を覆う。懐中電灯の頼りない光だけが、世界を切り取っていた。 静かだ。虫の音さえ、私たちの気配に息を潜めたように止んでしまった。聞こえるのは、砂利を踏む足音と、少しだけ早くなっている私の呼吸音だけ。(……意識、しちゃうなぁ) こっそりと、繋がれた手を見つめる。 すらりと指が長く、冷たそうな見た目をしているのに、触れると驚くほど温かい。骨ばった関節の感触や、少し大きめの掌。現実はゴツゴツとしていて、男の人なのだと実感させられる。「月詠」 不意に名を呼ばれ、肩が跳ねた。「は、はいっ」「……そんなに緊張しなくていい。取って食ったりしない」「別に、緊張なんて……してないよ?」「嘘だな。手が汗ばんでいる」「うっ……! そ、それは暑いからで……!」「そうか。ならいいが」 彼はそれ以上追及せず、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩を進めてくれる。その沈黙が優しくて、どこか居心地が悪くて。紛らわすように話題を探した。「そ、そういえば! 奏くん、お父さんとは……その、仲悪いの?」 口に出してから地雷だと気づいたが、奏くんは怒る様子もなく、ふう、と息を吐いた。「仲が悪いというより……俺が一方的に反発しているだけだ」「反発?」「父は優秀な研究者だが、家庭人としては落第点だ。母や俺のことなど、自分の研究対象の一部くらいにしか思っていない」 淡々とした口調に、深い諦めが滲む。教室で万年筆のことを暴露された時の、傷ついたような表情が脳裏をよぎった。「俺は……あんな風にはなりたくない。大切な人を蔑ろにして、自分のエゴだけを押し付けるような大人には」 奏くんが足を止め、ふと夜空を見上げた。木々の隙間から、わずかに星が瞬いている。「だから、俺は&hell
旅館の裏手には、鬱蒼とした杉林が広がっていた。月明かりも届かない山道は、足元の判別すらつかないほど暗い。風が木々を揺らす音が、正体不明の何かの囁き声のように耳へ絡みつく。「うぅ……暗い……怖い……」 両腕を抱きしめ、ガタガタと震えながら足を運ぶ。 修羅場の緊張感など一瞬で吹き飛ぶほど、原初的な闇への恐怖が支配していた。どこからか白い手が伸びてきたら。落ち武者の霊が目の前に現れたら。「……月詠」 隣を歩く奏くんが、静かに声をかけてきた。懐中電灯の明かりが、彼の足元だけを白く切り取っている。「大丈夫か? 歩くのが遅れているが」「ご、ごめん……足がすくんで……」「……そうか」 奏くんが足を止め、振り返る。暗闇の中で、瞳だけが微かに光を宿していた。少し躊躇うように視線を泳がせた後、意を決したように手が差し出される。「……掴まれ」「え?」「足元が危ない。……それに、震えているだろう」 ぶっきらぼうな口調。だが、声色には隠しきれない優しさが滲んでいる。差し出された手は大きく、骨ばっていた。 輝くんとの約束――「あいつに触れさせるな」という言葉が脳裏をよぎる。しかし、この恐怖には勝てない。腰を抜かしてリタイアするよりは、好意に甘える方がマシだ。「……ありがとう」 おそるおそる、彼の手を取る。 ひんやりとしていた指先は、握るとすぐに熱を帯びていった。ギュッと握り返してくる力強さに、不思議と恐怖が和らいでいく。「行くぞ」 手を引かれ、再び歩き出す。 一歩先を行く背中は、昨日まで見ていた「線の細い美少年」のそれとは違っていた。浴衣の肩幅は意外と広く、私を闇から守るように立ちはだかっている。(……頼もしい、かも) 不覚
一夜明けても、胸の奥で早鐘が鳴り止まない。 朝食の席でも、移動のバスの中でも、視線が突き刺さってくる。輝くんの独占欲に満ちた熱っぽい瞳と、奏くんの静かだが確かな熱量を孕んだ眼差し。そして、別の宿にいるはずなのに朝の散歩中に遭遇した陽翔くんのあざとい笑顔。 三方向からのプレッシャーに、生きた心地がしなかった。「――さて、諸君」 夕食後、大広間に集められたゼミ生を見渡し、氷室教授が低い声を響かせた。 浴衣姿の教授は、時代劇に出てくる悪代官さながらの貫禄を漂わせている。口元に浮かぶ笑みは、不吉な予感の塊でしかない。「勉強ばかりでは息が詰まるだろう。今夜は、この宿の裏山を使って、日本の伝統的なレクリエーションを行いたいと思う」 ざわざわと学生たちが色めき立つ。レクリエーション? あの「氷の独裁者」が? 背筋を嫌な汗が滑り落ちた。「……『肝試し』だ」 その単語が耳に入った瞬間、サーッと血の気が引いていく。 肝試し。暗闇。幽霊。 三大苦手要素のフルコースだ。脳内で幾多のBL妄想を繰り広げ精神を鍛えてきたとはいえ、オカルト耐性とは使用する回路がまるで違う。「コースは裏山の神社まで。男女ペアで出発してもらう。……親睦を深めるいい機会だろう?」 教授の鋭い視線が、私と輝くん、そして奏くんの並びをなめるように掠めた。瞳の奥に宿る光は、学生の親睦を願う教育者のものではない。極上の見世物を期待する、サディスティックな光だ。「ペア決めは公平を期すため、くじ引きで行う」 仲居さんが恭しく運んできたのは、朱塗りの箱だった。中には漢数字が書かれた割り箸が入っているという。古典的だが、逃げ場のないシステムだ。「しおり」 袖をくいっと引かれる。見上げると、輝くんが力強く微笑んでいた。「大丈夫。俺が絶対に、栞と同じくじを引いてみせる」「え、でも……中見えないよ?」「気合と愛の力でねじ伏せる。……もし外れても、栞のペアの男を全力で説得(威圧)して交換させるから」「それはダメだからね!?」 目は本気だった。この男なら本当にやりかねない。けれど、その自信満々な態度に、強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。輝くんがいれば、お化けなんて怖くない――彼氏のほうが怖いかもしれないが。「では、女子学生から引きたまえ」 教授の指示で、女子たちが順番に箱へ手を入れる。私の
「げっ、七瀬……」「……チッ、部外者が」 輝くんと奏くんが、同時に毒づく。 しかし、陽翔くんは動じなかった。状況を一瞬で理解したのか、あるいは理解することを放棄したのか、ニヤリと面白そうに笑った。「へえ……。先輩たち、抜け駆けはずるいっすよ」 彼は躊躇なく湯船に入ってくると、ザブザブと音を立ててやってきた。 そして、輝くんと奏くんの間に割り込むようにして、私の目の前に立った。「栞先輩。……俺も、混ぜてくれますよね?」「は、はいぃ!?」 役者は揃った。 誰もいないはずの露天風呂に、今、私と三人の半裸の男たちがひしめき合っている。 湯気で上気した肌、滴る水滴、そしてギラギラとした三対の瞳。 もう、逃げ場はない。この状況で「出ます」と言って、無事に帰してもらえるとは到底思えなかった。 輝くんが右手を掴む。 奏くんが左手を掴む。 陽翔くんが正面から見つめる。「……一緒に入るか?」 輝くんが試すように聞いた。その瞳は、拒絶を許さない色をしていた。「僕は構わないが」 奏くんが淡々と言った。けれど、握られた手の熱さが本音を物語っている。「俺はもちろん、大歓迎ですよ!」 陽翔くんが、無邪気に(装って)笑った。 三人が手を差し伸べてくる(正確には、すでに掴まれているけれど)。 湯煙の中、月明かりに照らされた三人の裸体は、神々しいほどに美しく、そして致命的に危険な香りを放っていた。 「(……無理。キャパオーバー。処理不能。システムダウン)」 脳内で赤い警告灯が激しく回転している。 眼福? 確かに眼福だ。 輝くんの彫刻のような肉体美、奏くんの陶器のような肌としなやかな筋肉、陽翔くんの少年らしさと男らしさが同居する身体。 どのアングルを切り取っても、BL漫画の表紙を飾れるレベル