LOGIN光と、影。
太陽と、月。
学園を代表する二人のイケメンが、私というちっぽけな存在を、まるでサンドイッチの具のように挟み込んでいる。
私の脳内BLフィルターが、ゴゴゴゴゴ、と地鳴りのような音を立てて、フル稼働を始めた。
「(……そういうことか!)」
天王寺先輩は、やはり氷室くんをデートに誘うための視察に来ていた。そして、氷室くんは、そんな先輩の意図を正確に読み取り、自分からこの店にやってきたのだ。「あなたを待っていましたよ」という、言葉にならない愛のメッセージを伝えるために!
そして、陽翔くん!彼は、この二人の神聖な逢瀬を、誰にも邪魔させまいとする、忠実な番犬!
役者は、揃った。戦場と化したこのカフェで、今、三つの恋の物語が、複雑に絡み合おうとしている!
私の脳内が、壮大な恋の相関図を完成させて一人悦に入っていると、沈黙を破ったのは、やはり学園の太陽だった。天王寺先輩は、後から来た氷室くんにも、敵意むき出しの陽翔くんにも動じることなく、優雅な仕草で私に微笑みかける。
「それじゃあ、改めて。おすすめのコーヒー、淹れてくれるかな」
その声は、甘く、そして有無を言わせない響きを持っていた。私に向けられた言葉。だが、その真意は、隣に座る氷室くんに向けられている。
「(君が、僕の隣に座る氷室くんにふさわしいと思う、最高のコーヒーを淹れて見せてくれ)」
そういうことね!これは、私への試験!二人の恋を導くキューピッドとしての、私の手腕が試されている!
「かしこまりました!豆の個性を最大限に引き出す、ハンドドリップで淹れさせていただきます!」
私がキリッと表情を引き締め、胸を張って答えた、その時。
「……俺も、同じものを」
静かだが、凛とした声が、私の左耳を打った。氷室くんだ。彼はメニューに視線を落としたまま、ぽつりと、しかしはっきりとそう言ったのだ。
私の全身に、電流のような衝撃が走る。
ああ、なんてこと。なんて、尊いの……!
これは、ただの注文じゃない。天王寺先輩への、彼なりの返答なのだ。『あなたが飲むものなら、私も同じものを。あなたの選ぶ運命に、私も従いましょう』という、健気で、いじらしい、愛の誓い……!
二人の間に流れる、言葉を超えた魂の交信に、私は涙ぐみそうになるのを必死で堪える。泣いている場合じゃない。私は、彼らの聖なる儀式を、最高の形で執り行わなければ。
「承知いたしました!お二人のための、特別な一杯を……!」
使命感に燃えながら、私がコーヒーミルのハンドルに手をかけた、まさにその瞬間だった。
「栞先輩」
ぐい、と私の腕を、隣に立つ陽翔くんが力強く掴んだ。見ると、彼は子犬のような可愛らしい顔を、般若のように歪ませている。
「俺がやります。先輩は、疲れてるでしょ」
「え?だ、大丈夫だよ?」
「大丈夫じゃないです。こいつらのために、先輩がわざわざ手を動かす必要なんてない」
陽翔くんは、天王寺先輩と氷室くんを「こいつら」と呼び、あからさまな敵意を込めた視線で射抜いた。
ああ、もう!この子はなんて、分かりやすいの!
「(店長の恋敵になるかもしれない二人に、これ以上媚を売るな、ってことね!)」
そうだ、陽翔くんは、私が天王寺先輩と氷室くんを丁重にもてなすことで、彼らが店長の恋敵として有利になることを恐れているのだ。だから、自分が代わりにコーヒーを淹れることで、私を彼らから遠ざけ、店長への忠誠心を示そうとしている。
なんて一途な子なの!わかったわ、陽翔くん。その純粋な恋心、お姉さん(という名のキューピッド)が、ちゃんと受け止めてあげる!
「ありがとう、陽翔くん。でも、これは、私にしかできない仕事なの」
私は、彼の手にそっと自分の手を重ね、諭すように言った。これは、ただのコーヒーではない。二組の恋の未来が懸かった、聖水なのだから。
私がそう言うと、天王寺先輩が満足そうに頷き、氷室くんがほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。しかし、陽翔くんだけは納得がいかないようで、唇をぎゅっと噛み締めている。
豆を挽く、香ばしい香り。お湯を注ぐ、静かな音。全ての雑念を払い、私は、ただひたすらに、目の前の儀式に集中した。
やがて、二つのカップから、豊かな香りをまとった湯気が立ち上る。完璧な出来栄えだ。
私がカップをソーサーに乗せ、トレイを持とうとした、その時。
「俺が運びます!」
陽翔くんが、さっとそのトレイをひったくるように奪い取った。そして、まるで毒でも盛られていないか検分するかのような鋭い目でカップを睨みつけながら、二人の前に、ゴンッ!と叩きつけるように置いたのだった。
あまりに乱暴な提供の仕方に、私は思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。ガチャン、と音を立てて揺れたカップから、琥珀色の液体がソーサーに数滴こぼれる。陽翔くんの顔は、能面のように無表情だった。ただ、その瞳だけが、獲物を前にした肉食獣のように、ギラギラと燃えている。
「(陽翔くん……!なんて、分かりやすい嫉妬……!)」
私の脳内BLフィルターは、彼の行動を完璧に翻訳していた。これは、店長の恋敵(かもしれない)二人に対する、あからさまな威嚇。そして、「栞先輩が淹れた神聖なコーヒーを、お前たちなんかが軽々しく飲むな」という、無言の抗議なのだ。可愛い。可愛すぎる。健気すぎて、胸が苦しい。
そんな陽翔くんの挑戦的な態度に、天王寺先輩は楽しそうに片方の眉を上げてみせる。彼はこぼれたコーヒーを気にするでもなく、カップに優雅に口をつけた。
「……うん、美味い。君が淹れてくれると、一段と美味しい気がするな」
そう言って、彼は私にだけ聞こえるような甘い声で囁き、完璧なウインクを飛ばしてくる。心臓に悪い。本当に悪い。この人は、自分の顔面偏差値が、どれほどの破壊力を持っているか自覚しているのだろうか。
「(氷室くんへの、当てつけ……!)」
そう、この甘い言葉は、私に向けられたものではない。隣に座る氷室くんに向けた、「君のことを想って淹れられたコーヒーは、格別に美味いね」という、遠回しな愛情表現なのだ。なんという高度な恋愛テクニック。
すると、それまで黙って成り行きを見守っていた氷室くんが、静かにカップを持ち上げた。そして、こくりと一口飲むと、その灰色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめてきた。
「……悪くない」
たった、それだけ。
だが、その短い言葉には、万の言葉よりも重い、確かな感情が込められていた。
「(ツンデレ……!ツンデレの、お手本……!)」
本当は「最高に美味い」と思っているくせに、素直に言えないのだ。天王寺先輩への対抗心と、照れ隠し。その複雑な感情が、「悪くない」という一言に凝縮されている。尊い。尊すぎて、めまいがしてきた。
こうして、カウンター席は、静かな戦場と化した。
私が伝票整理のためにペンを手に取れば、「そのペン、使いやすそうだね」と天王寺先輩が話しかけてくる。私がカウンターの布巾を絞れば、「俺も手伝おうか?」と氷室くんが腰を浮かす。私が新しい豆の袋を開ければ、「先輩、重いでしょう!俺が持ちます!」と陽翔くんが駆け寄ってくる。
彼らのアピール合戦は、私が何か行動を起こすたびに、ヒートアップしていった。その全てが、それぞれの恋する相手(天王寺→氷室→天王寺、陽翔→店長)への、健気なアピールなのだと、私は信じて疑わなかった。
やがて、本当の閉店時間がやってくる。私が「そろそろ閉店です」と告げると、三人は残念そうに、しかし素直に席を立った。
会計を済ませ、三人が店の外へ出ていく。私は、嵐が過ぎ去った後のような静けさの中で、ほうっと安堵のため息をついた。なんとか、キューピッドとしての大役を果たせたようだ。
しかし、その安堵も束の間だった。
一人で後片付けを終え、店の裏口から出ると、そこには壁に寄りかかって私を待っている人影が一つ。陽翔くんだった。
「陽翔くん?どうしたの、まだいたんだ」
私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その表情は、今まで見たことがないほど、真剣で、どこか切実な色を帯びている。彼はまっすぐに私の方へ歩み寄ると、私の目の前でぴたりと足を止めた。そして、逃げ場を塞ぐように、私の両肩をがしりと掴む。
「あの、栞先輩」
真剣な声。強い眼差し。私は、ごくりと唾を飲み込んだ。まさか、また告白の練習……?
しかし、彼の口から飛び出したのは、私の予想を遥かに超えた、切実な問いだった。
「あの二人、どっちが本命なんですか!?」
瞼の裏が、じりじりと焦げ付くように熱い。 知らないはずの景色が、熱に浮かされた意識の暗闇で、閃光のように激しく明滅していた。 燃え盛る城、天を覆い尽くす黒い翼、そして空から降り注ぐ無数の漆黒の羽根。誰かの、胸を掻きむしるような悲痛な叫び声が、現実の音を遮断して耳の奥で木霊している。 ああ、知っている。これは、私がこの世の何よりも愛してやまないBLゲーム『Fallen Covenant』の、最も胸を締め付けられる悲劇のシーンだ。 そうだ。私は魔王なんかじゃない。私は、この物語の登場人物ですらない、ただの観測者。いつだって安全な場所から、神の視点から、彼らの過酷な運命を見守ることしかできなかったはずなのに……。 ハッとして、まるで溶けた鉛を塗りたくられたかのように重い瞼を、ありったけの力でこじ開けた。 ぐにゃり、と視界が歪む。見慣れたはずの自室の天井が、まるで水面のように不気味に揺らめいていた。喉がカラカラに渇いて、息を吸い込むたびにガラスの破片が突き刺さるような痛みが走る。 その朦朧とした視界の、すぐ間近に、誰かの顔が映り込んでいることに気づいた。 私の顔を、静かに、心配そうに覗き込んでいる。 光を吸い込むような、艶のあるサラサラの黒髪。その隙間から覗く、嵐の前の湖面のように静まり返った灰色の瞳。熱に浮かされた私の肌とは対照的な、血の気を感じさせないほど透き通るように白い肌。 その、現実感を失わせるほど人間離れした美しい姿が、私の魂に深く、深く刻み込まれた最愛のキャラクターの姿と、ぴたりと重なった。 追放された天使、アーク。 神に背き、魔王ジークフリートにその魂と身体を捧げた、哀れで、気高くて、そしてどうしようもなく美しい私の最推し。 いつもどこか世界を拒絶するような悲しみをその瞳に湛え、誰にも心を開かず、ただ一人、主君であるジークフリートだけをその灰色の瞳に映している、健気で愚かな天使。 目の前にいるのは、氷室奏。わかってる。熱で機能不全に陥った脳の、片隅に残った冷静な回路が必死に警鐘を鳴らしている。わかっているのに、心が、魂が、言うこと
どうやって自分のアパートまで辿り着いたのか、記憶はひどく曖昧だ。 医務室で意識を取り戻したものの、熱は一向に下がる気配を見せず、身体はぐったりとベッドに沈んだまま。結局、見かねた乃亜がタクシーを呼んでくれて、私を家まで送り返してくれることになった。 そこまでは、よかったのだ。 問題は、乃亜が「あんたたち、原因作ったんだから一人くらい責任持って手伝いなさいよ」と釘を刺したことだった。その一言が、新たな戦争の火種となった。「当然、俺が行く」「いや、僕が送る」「俺が付き添います!」 三者三様の、しかし決して譲らないという固い意志のこもった声。結局、誰か一人に絞ることなどできるはずもなく、乃亜は早々に交渉を諦めた。「……もう知らない。全員で来れば」と吐き捨てた親友の顔は、般若のように見えた。 そんなわけで、タクシーの後部座席で、私は三人のイケメンにサンドイッチにされるという、状況さえ違えば天国のような地獄を味わうことになった。右隣の天王寺先輩から感じる高い体温と、仄かに香る上品なコロン。左隣の氷室くんの、触れているわけでもないのに伝わってくる、ひんやりとした静謐な空気。そして、助手席から何度も振り返って「先輩、大丈夫ですか!?」と心配そうに声をかけてくる七瀬くん。 熱で朦朧とする頭で、私はぼんやりと思う。 乙女ゲームなら、ここはスチルが発生する重要イベントのはずだ。ヒロインが熱に倒れ、誰か一人のヒーローが献身的に看病し、二人の距離がぐっと縮まる……。 なのに、どうして私の現実は、三人の男たちの無言の圧力が渦巻く、息苦しい空間になっているんだろう。◇ アパートに着くと、鍵を開けた乃亜が呆れたように言った。「はい、あんたたち、さっさと必要なもの買っておいで。栞の看病に必要なもの。誰が一番役に立つか、ここで決めなさいよ」 その言葉は、まるで闘牛士が赤い布を振ったかのようだった。三人は一瞬顔を見合わせ、火花を散らすと三者三様の方向へと駆け出していった。 数分後。私の狭いワンルームに、三人の騎士がそれぞれの武器を手に帰還した
目の前が、ぐにゃりと歪んだ。さっきまで見ていた大学の廊下のありふれた景色が、水に落とした絵の具のように滲んで溶けていく。「……あれ?」 おかしい。なんだか自分の身体が自分のものではないみたいに、ふわふわと浮いている感覚。周りの学生たちの声がやけに遠い。すぐ隣を通り過ぎていくはずの雑談も、分厚いガラスを一枚隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。 ――ヤバい。 そう思った瞬間、足から力が抜けた。視界が急速に暗転していく。最後に聞こえたのは、誰かの短い悲鳴と、自分の名前を呼ぶ親友の切羽詰まった声だった。◇「――だから! 俺が付き添うって言ってるだろ!」「……どうして君である必要がある。最も長く彼女の側にいたのは僕だ」「はぁ!? 一番心配してるのは俺なんですけど! 先輩たちは黙っててください!」 誰かの声がする。 低く、苛立ちを隠そうともしない声。 静かだが、有無を言わせない強い意志を感じさせる声。 少し高く、焦りと必死さが滲んでいる声。 頭に響くその声が、ひどく不快だ。まるで質の悪いスピーカーで三つの曲を同時に流されているみたいだ。今はただ、この身体を包む柔らかいシーツの感触と、消毒液の微かな匂いだけに意識を委ねていたかった。 私が廊下で倒れたらしいという事実を、まだ夢うつつの中でしか認識できていない。 乃亜からの連絡を受けた天王寺先輩が講義を抜け出して駆けつけ、ほぼ同時に、図書館で私を探していたらしい氷室くんも異変を察知して現れた。そして、たまたま大学に来ていた七瀬くんが、騒ぎを聞きつけて飛んできたのだという。 ――そんな都合のいいこと、ある? まるで、出来の悪い乙女ゲームの強制イベントみたいだ。もちろん、そんなことになっているとは、意識の途切れた私には知る由もなかったけれど。 三人が医務室に殺到したのは、ほぼ同時だったらしい。白いカーテンで仕切られた簡素なベッドで眠る私の姿を認めた瞬間、彼らの間に走った緊張感は、火花が散るようだったと、後から乃亜が呆れ顔で教えてくれた。
世界が、ぼんやりと霞んで見える。 意識と現実の境界線が曖昧で、まるで水の中にいるみたいに、耳に届くすべての音がくぐもって聞こえた。 原因は、分かっている。睡眠不足だ。 グループ課題のレポート作成、カフェの新人教育(という名の陽翔くんの恋の応援)、そして、何よりも優先すべき、我が魂の結晶である同人誌原稿の締切。この三つが、私の貧弱なキャパシティの上で、無慈悲なデッドライン・ダンスを踊っていた。「……ジーク……アーク……待ってて、今、最高の、シチュエーションを……うへへ……」 大学の講義中も、私は机に突っ伏し、意識の半分を『Fallen Covenant』の世界に飛ばしていた。時折、自分の口から漏れる不気味な笑い声で我に返るが、数分もすれば、また強烈な睡魔と妄想の波に飲み込まれていく。 周りの学生が、私を「いよいよヤバい奴」という目で見ているのは知っていた。だが、どうでもいい。私には、成し遂げなければならない使命があるのだから。 そんな、ゾンビのようにキャンパスを徘徊していたある日の放課後。グループ課題の簡単な打ち合わせを終え、よろよろと席を立とうとした私を、天王寺先輩が呼び止めた。「月詠さん。ちょっと、いいかな」「ひゃい!?あ、あの、なんでしょうか、先輩!」 突然の王子様の声に、私の脳が無理やり再起動する。ぼやけた視界に、相変わらずキラキラとした、完璧な笑顔が映った。彼は、少しだけ困ったように眉を下げると、すっと一本の小さな瓶を差し出してきた。 金色の、高級そうなラベルが貼られた、栄養ドリンクだった。「……これ。最近、すごく顔色悪いみたいだから。無理、してない?」 心配そうに、私の顔を覗き込む、甘い声。 私の心臓が、きゅっと奇妙な音を立てた。いかん、いかん。これは、私への優しさではない。 私の脳内BLフィルターが、ガコン、と音を立てて作動する。
しぃん、と静まり返った図書館。ここは、私の聖域の一つだ。普段なら、この古い紙の匂いと、ページをめくる微かな音だけに包まれて、心ゆくまで妄想(という名の創作活動)に没頭できる場所。 だけど、今日だけは事情が違った。 私の左右には、この静寂とはあまりにも不釣り合いな、二つの輝かしいオーラが存在している。右に、学園の太陽・天王寺先輩。左に、氷の騎士・氷室くん。 私たちは、あの地獄の(私にとっては天国だった)グループ課題のための資料を探しに、こうして連れ立って図書館に来ていた。 乃亜には「乙女ゲーの主人公になってる自覚持て」と本気でキレられたけれど、彼女は何もわかっていない。私が今感じているこの高揚感は、決して恋愛のそれではない。これは、公式から「推しカプの共同作業」という、最大手の供給を与えられた、一介の腐女子としての歓喜なのだ。「コミュニケーション論の棚は、あっちだね」 天王寺先輩が、私にも聞こえるように、少しだけ声を潜めて囁く。その低く甘い声が、静かな空間でやけに響いて、耳がくすぐったい。いやいや、違う。これは私への配慮ではなく、その隣の氷室くんへ「こっちだよ」と伝えるための優しさだ。「……ああ」 氷室くんが短く応じる。ああ、尊い。会話が成立している。 私は、二人の崇高な空間を邪魔しないよう、カニ歩きのように横移動しながら、必死に背表紙を追う。あのファミレスでの一件以来、二人の間には(私の脳内では)確かな絆が芽生え始めていた。私がやるべきことは、二人が次のステップに進むための、触媒(カタリスト)になることだけ。「あ、あれかも」 私が探していたのは、社会心理学の権威が書いた、分厚い専門書。それは、運悪く書架の一番上の棚に鎮座していた。 私は自分の身長を呪った。150cmちょっとの私では、どう頑張っても手が届かない。「うぅ……」 ぴょんぴょんと、その場で軽くジャンプしてみるが、指先がかすりもしない。近くに脚立(きゃたつ)も見当たらない。 どうしよう。二人に頼む?いや、だめだ。今、二人は二人で、何か目に見えないオーラ(たぶん恋の駆け引き)を交換している最中。私が「取ってください」なんて言ったら、その神聖な儀式を妨害してしまう。 私はもう一度、ぐっと背伸びをした。かかとを限界まで上げ、腕を、これ以上ないというくらい伸ばす。指先が、あと、ほん
そうして私たちが流れ着いたのは、大学の門を出てすぐの、ごく普通のファミリーレストランだった。ガヤガヤとした店内の雰囲気は、先ほどのカフェテリアとはまた違う騒がしさがある。 席に着くなり、天王寺先輩は「さて」と楽しそうにメニューを広げた。「俺、お腹空いちゃったな。月詠さんは?あ、そうだ、ドリンクバー頼むよね?」「は、はい!もちろんです!」「じゃあ、俺、先になんか取ってくるよ。何がいい?」 彼が、私に天使の笑顔を向ける。違う、先輩!あなたが聞くべきは、私じゃなくて!「わ、私は後で……!そ、それより、氷室くんは!氷室くんは何が飲みたい気分ですか!?」 私が、必死の形相でパスを出す。 すると、氷室くんは私と天王寺先輩の顔を交互に一度だけ見ると、静かに、しかしはっきりと立ち上がった。「……僕が行こう」「え?」「君は、座ってていい」 そう言って、彼は私の分のコップまで手に取ろうとする。 その瞬間、それまで笑顔だった天王寺先輩の空気が、すっと変わった。「いや、いいよ氷室くん。俺が行くって言ったんだから。君こそ座ってて」「……君は、テーマの骨子をまとめておいてくれ。飲み物は、僕がやる」「その必要はないよ。俺がやるから」「……僕が、やると言っている」 ばち、ばち、ばち。 テーブルを挟んで、私の目の前で、見えない火花が激しく散っている。二人の視線が、ドリンクバーのコップを巡って、鋭く交差する。 始まったわ、二人の痴話喧嘩!「(氷室くんに格好いいところを見せたいから)俺が飲み物を持ってくる!」「(天王寺先輩の手を煩わせたくないから)いや、僕がやる!」という、お互いへのアピール合戦! 私への親切を口実にした、高度なイチャイチャ……! 尊い……!尊すぎる……!ファミレスのど真ん中で、こんな神々しいやり取りを見られるなんて……! だが、このままでは、二人の戦いが終わらない。そして、私は、二人の共同作業を、何よりも見たいのだ。「あ、あの!」 私は、意を決して、二人の間に割って入った。「せっかくですし、お二人で、行ってきてはいかがでしょうか!?私は、ここで、おとなしく、二人の愛の巣(テーブル)を守っておりますので!」 私の完璧な提案に、二人はぴたりと動きを止めた。そして、同時に私を見ると、何とも言えない、複雑な表情を浮かべる。「……月詠さ







