LOGIN先輩が楽しそうに促す。私はミルに向き直り、頭の中に描きかけた相関図をいったん閉じた。まずは注文。恋の考察は、その後だ。
「かしこまりました!豆の個性を最大限に引き出す、ハンドドリップで淹れさせていただきます!」 私がキリッと表情を引き締め、胸を張って答えた、その時。 「……俺も、同じものを」 静かだが、凛とした声が、私の左耳を打った。氷室くんだ。彼はメニューに視線を落としたまま、ぽつりと、しかしはっきりとそう言ったのだ。 同じもの。つい反応しかけた私の手元へ、氷室くんは静かに視線を落としていた。先輩の顔を見て注文したわけではない。そのことが、小さく引っかかった。 「承知いたしました!お二人のための、特別な一杯を……!」 使命感に燃えながら、私がコーヒーミルのハンドルに手をかけた、まさにその瞬間だった。 「栞先輩」 ぐい、と私の腕を、隣に立つ陽翔くんが力強く掴んだ。見ると、彼は子犬のような可愛らしい顔を、般若のように歪ませている。 「俺がやります。先輩は、疲れてるでしょ」 「え?だ、大丈夫だよ?」 「大丈夫じゃないです。こいつらのために、先輩がわざわざ手を動かす必要なんてない」 陽翔くんは、天王寺先輩と氷室くんを「こいつら」と呼び、あからさまな敵意を込めた視線で射抜いた。 疲れているのは本当だった。けれど、私のおすすめを飲みたいと言われて、少し嬉しかったのも本当だ。 「ありがとう。じゃあ、お湯をお願いしていい? 淹れるのは私がやるね」 陽翔くんは何か言いたげに口を開き、結局、小さく頷いてケトルを取った。 私がそう言うと、天王寺先輩が満足そうに頷き、氷室くんがほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。しかし、陽翔くんだけは納得がいかないようで、唇をぎゅっと噛み締めている。 豆を挽く、香ばしい香り。お湯を注ぐ、静かな音。全ての雑念を払い、私は、ただひたすらに、目の前の儀式に集中した。 やがて、二つのカップから、豊かな香りをまとった湯気が立ち上る。完璧な出来栄えだ。 私がカップをソーサーに乗せ、トレイを持とうとした、その時。 「運ぶのは俺に任せてください」 陽翔くんがトレイを受け取る。二人の前へカップを置く手つきは丁寧だったが、最後に先輩と目が合うと、笑顔だけが急にぎこちなくなった。 そんな陽翔くんの挑戦的な態度に、天王寺先輩は楽しそうに片方の眉を上げてみせる。彼は陽翔くんに小さく礼を言ってから、カップに優雅に口をつけた。 「……うん、美味い。君が淹れてくれると、一段と美味しい気がするな」 そう言って、彼は私にだけ聞こえるような甘い声で囁き、完璧なウインクを飛ばしてくる。心臓に悪い。本当に悪い。この人は、自分の顔面偏差値が、どれほどの破壊力を持っているか自覚しているのだろうか。 氷室くんに聞かせるため、と考えかけて、うまく繋がらなくなった。さっきから先輩は、私の返事を待っている。ミルクを勧めたことまで、妙に恥ずかしかった。 すると、それまで黙って成り行きを見守っていた氷室くんが、静かにカップを持ち上げた。そして、こくりと一口飲むと、その灰色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめてきた。「……悪くない」
短い感想だったが、カップはすぐにもう一度、彼の口元へ運ばれた。ちゃんと気に入ってもらえたらしい。私はようやく肩の力を抜いた。 こうして、カウンター席は、静かな戦場と化した。 私が伝票整理のためにペンを手に取れば、「そのペン、使いやすそうだね」と天王寺先輩が話しかけてくる。私がカウンターの布巾を絞れば、「俺も手伝おうか?」と氷室くんが腰を浮かす。私が新しい豆の袋を開ければ、「先輩、重いでしょう!俺が持ちます!」と陽翔くんが駆け寄ってくる。 どこまでが親切で、どこからが別の意味なのか。三人を見ているうちに、私の相関図はすっかり線だらけになってしまった。 ようやく会計を済ませ、三人が店の外へ出ていく。静かになったカウンターには、先輩の空のカップが残っていた。私と同じ飲み方で、最後まで飲んでくれたのだ。 しかし、その安堵も束の間だった。 一人で後片付けを終え、店の裏口から出ると、そこには壁に寄りかかって私を待っている人影が一つ。陽翔くんだった。 「陽翔くん?どうしたの、まだいたんだ」 私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その表情は、今まで見たことがないほど、真剣で、どこか切実な色を帯びている。彼はまっすぐに私の方へ歩み寄ると、私の目の前でぴたりと足を止めた。そして、逃げ場を塞ぐように、私の両肩をがしりと掴む。 「あの、栞先輩」 真剣な声。強い眼差し。私は、ごくりと唾を飲み込んだ。まさか、また告白の練習……? しかし、彼の口から飛び出したのは、私の予想を遥かに超えた、切実な問いだった。 「あの二人、どっちが本命なんですか!?」 店の裏口、薄暗い電灯の下で、陽翔くんの切実な声が響いた。私の両肩を掴む彼の手には、焦りと、そしてほんの少しの不安が滲んでいる。その大きな垂れ目が、助けを求めるように私を真っ直ぐに見つめていた。 ああ、なんてこと。彼は、悩んでいるのだ。自分の恋のライバルが、あまりにも強大すぎて。 私の脳内BLフィルターは、彼の悲痛な問いを、瞬時に、そして完璧に翻訳していた。彼が言っている「本命」とは、もちろん、うちのイケメン店長にとっての本命、という意味だ。 学園の太陽として全てを照らす天王寺輝と、静かな影で人々を魅了する氷室奏。タイプは違えど、どちらもラスボス級の魅力を持つ二人。陽翔くんが、店長の心を射止める上で、どちらがより手強い恋敵になるのか、私に判断を仰いでいるのだ。 なんて、健気なの……! 「陽翔くん、落ち着いて」 私は、彼の肩にそっと自分の手を重ね、慈母のような微笑みを浮かべた。 「恋に、『どっちが本命か』なんて、野暮なことは考えちゃだめ。大切なのは、君が、店長とどんな物語を紡ぎたいか、だよ」 「……物語?」 「そう。太陽と月のどちらを恐れるのではなく、君という名の、一番星になればいいの。君だけの輝きで、店長の夜空を照らすのよ!」 我ながら、完璧なアドバイスだった。ポカン、と口を開けて固まっている陽翔くんに、私は力強く頷いて見せる。「頑張って!」と彼の背中を力強く叩き、私は恋愛プロデューサーとしての今日の任務を終えたのだった。 なのに、帰り道でも、陽翔くんの「本命」という言葉だけが耳から離れなかった。店長の話をした時、どうしてあんな顔をしたのだろう。(……感動してくれてるんだ。嬉しいな) そう思った瞬間だった。 私の脳内で、長らく休眠状態にあった『腐女子フィルター』が、カチリと音を立てて誤作動を起こした。 世界が、歪む。 待って。 あの涙の意味は、本当に純粋な「祝福」だけなのだろうか? 奏くんが、輝くんを見る目。 どこか悔しげで、それでいて相手の実力を認めざるを得ないといった、複雑で熱っぽい感情が入り混じった眼差し。 陽翔くんが、輝くんを見る目。 「先を越された」という男としての敗北感と、それでも「あいつなら任せられる」という友情、そして断ち切れない切なさが同居した濡れた瞳。 そして、輝くんが二人に向けて送った、勝ち誇ったような、けれど揺るぎない信頼に満ちたアイコンタクト。 (……はッ!!) 脳天に電撃が走った。 もしかして。 もしかして、これは『ライバル×輝』の……。 そこまで考えて、私は唇を噛んだ。違う違う。今、自分の結婚式ですから。披露宴の席順で相関図を作っている場合じゃありません。 奏くんも陽翔くんも、私に気持ちを伝えてくれた。その言葉を、都合のいい筋書きに書き換えたくはなかった。 目が合った奏くんに、小さく頭を下げる。陽翔くんは泣いたまま、くしゃくしゃの笑顔で手を振ってくれた。 「……し、栞?」 隣で輝くんが、不審そうに私の顔を覗き込んだ。 奏くんと陽翔くんを見ていた時間が、思ったより長かったらしい。私は慌てて、隣に立つ彼へ向き直った。 「……ううん。なんでもない」 輝くんはまだ少し疑わしそうだ。分かってます。その顔をされても仕方ない人生でした。 私は言い訳を探すのをやめ、自分から彼の手を取った。 「輝くん。私、今、すごく幸せ」 彼の目が、ふっと和らぐ。それを見たら堪らなくなって、背伸びをして頬に口づけた。すぐ近くから歓声が上がり、そこでようやく会場中に見られていることを思い出す。 「あ、いや、今のは……!」 「取り消しはなし」 輝くんが笑い、私の腰を引き寄せる。今度は目を逸らさずに、その顔が近づくのを待った。 カラン、カラン、と祝福の鐘が高らかに鳴り響く。 青空に吸い込まれていくフラワーシャワーの中で、私は輝くんの腕の中にしっかりと抱きしめられていた。その体温が、私を確かな幸福の中心に繋ぎ止
父の手から輝くんの手へ、私の手が託される。 触れた輝くんの手は、大きくて、温かくて、そして少しだけ震えていた。 「……待ってたよ、栞」 彼が誰にも聞こえないほどの小声で囁く。 その声の響きに導かれるように、私は彼の隣に並んだ。 牧師様の言葉が続き、私たちは誓いの言葉を交わす。 指輪の交換。 私の左手の薬指に、ひやりとした金属の感触と共に、永遠の約束が滑り込んでくる。 そして。 「それでは、誓いのキスを」 牧師様の言葉を合図に、輝くんがそっとベールを上げる。 隔てるものがなくなり、至近距離で見つめ合う。 彼の瞳の中に、緊張で強張った私の顔が映っている。 「……愛してる」 唇が触れ合う直前、彼が音のない言葉でそう言ったのが分かった。 私も、心の中で答える。 私も、愛してる。世界で一番。 チュッ、と柔らかい音がして、唇が離れる。 その瞬間、会場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 私たちは皆の方へと向き直る。 色とりどりの花びらが舞うフラワーシャワーの中、たくさんの笑顔が私たちに向けられていた。 最前列には、見慣れた、そして大好きな顔ぶれが揃っている。 まずは、氷室奏くん。 彼は今、売れっ子のゲームシナリオライターとして第一線で活躍している。私と同じ会社に所属し、時には喧嘩し、時には背中を預け合いながら、一緒にゲームを作り上げている戦友だ。 今日の彼は、隙のない礼服姿で、眼鏡の奥の瞳を和やかに細めてこちらを見ていた。その表情はどこまでも穏やかで、まるで手のかかる弟と妹の晴れ姿を見守る兄のようだ。 その隣には、七瀬陽翔くん。 彼は大学卒業後、厳しい修行期間を経て、念願だった自分のカフェをオープンさせた。今では雑誌やSNSに取り上げられるほどの人気店のオーナーだ。 相変わらずの人懐っこい笑顔で、大きく手を振ってくれている。「先輩、おめでとう!」という口の動きが見えた。 そして、乃亜の隣には……まさかの人物。 西園寺エリカ様だ。 彼女はあれから、持ち前の驚異的なバイタリティと深いオタク知識を武器に、なんとイベント運営会社の社長になっていた。 今日の彼女は、いつもの真紅のドレスではなく、上品なシャンパンゴールドのドレスを身に纏い、扇子で口元を隠しながら優雅に
そして今日、私たちは誓いを立てる。 多くの人に見守られ、祝福されながら、これからの人生を共に歩んでいく約束を。 コンコン、と厚い扉越しに控えめなノックの音が響いた。 「失礼いたします。……新婦様、そろそろお時間です」 式場スタッフのよく通る声に、心臓が跳ね上がる。 いよいよだ。 「よし。行ってきなさい、栞」 乃亜が私の背中をバン、と景気よく叩いた。 少し痛いくらいのその衝撃に、竦みかけていた足に力が戻る。私は肺いっぱいに空気を吸い込み、深く吐き出した。 「うん。……行ってきます!」 ずしりと重いドレスの裾を爪先で蹴り上げ、私は控室の扉を押し開けた。◇ チャペルの大きな扉の前。 父の腕に手を添えながら、私は震えそうになる膝を必死に叱咤していた。 この扉の向こうには、たくさんのゲストたちが待っている。 大学時代の友人たち、会社の同僚、輝くんの仕事関係の方々。 そして何より、私たちがここに辿り着くまでの道のりを、時に厳しく、時に温かく見守ってくれた、かけがえのない仲間たち。 「栞。……綺麗だぞ」 隣で父が、少し湿っぽい声で囁く。 普段は無口で不器用な父の、絞り出すような言葉。危うく涙腺が緩みそうになり、私はぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。 今泣いたら、時間をかけて作ってもらったメイクが台無しになってしまう。輝くんに、一番綺麗な私を見てもらいたいから。 厳かなパイプオルガンの音色が、高い天井に響き渡る。 重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。 溢れ出すまばゆい光。 そして、視界いっぱいに飛び込んでくる、祝福の拍手と温かな笑顔の海。 まっすぐに伸びるバージンロードの先、祭壇の前で待っているのは、白のタキシードに身を包んだ私の最愛の人。 天王寺輝。 彼と目が合った瞬間、周りの景色からふっと色が抜け落ちたような気がした。 彼だけが、鮮やかに、圧倒的な存在感を持ってそこに立っている。 (……かっこいい) 付き合い始めてもう何年も経つのに、未だに彼の姿を見るたびに胸が高鳴ってしまう自分がおかしい。 今日の彼は、いつにも増して「王子様」だった。 仕立ての良いタキシードを完璧に着こなし、綺麗に整えられた茶色の髪が光を弾いている。そして何より、私を見つめるその瞳。蕩けるよ
あれから、いくつもの季節が巡った。 窓の外には、目に痛いほどの新緑が広がっている。初夏の陽気を含んだ風が、木々の葉を揺らす音が聞こえてくるようだ。 雲ひとつない突き抜けるような青空の下。 私は今、人生で一番高いヒールの上に危なっかしく立ち、人生で一番重たい布の塊に全身を包まれて、人生で一番強張った顔で鏡と睨めっこをしていた。 「……うぅ、苦しい。ねえ乃亜、これちょっとコルセット締めすぎじゃない?」 「何言ってんの。一生に一度の晴れ舞台でしょ? 内臓の位置なんて気にしてる場合じゃないって」 私の背後で、親友の神崎乃亜がテキパキとドレスの裾をさばいている。 今日の彼女はブライズメイドとして、淡いレモンイエローのドレスを身に纏っていた。相変わらずの切れ長で美しい瞳と、凛とした立ち振る舞い。主役の私の方が霞んでしまいそうなほどの美人っぷりだ。 「ほら、できた。……うん、悪くない」 乃亜が満足げに頷き、私の背中を鏡の方へとぐいと押した。 そこに映っていたのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ、見知らぬ誰かのような自分の姿。 繊細なレースが鎖骨のラインを縁取るオフショルダー。ふわりと空気を含んで広がるAラインのスカートには、無数の小花が散りばめられ、動くたびにさざ波のように揺れる。プロの手によって丁寧に編み込まれた髪の上には、照明を受けてキラキラと瞬くティアラが鎮座していた。 「……私、本当にお嫁に行くんだね」 鏡の中の自分と目を合わせ、ぽつりと漏らす。 なんだか、足元がふわふわとして実感が湧かない。まるで、スクリーンの向こう側で繰り広げられる物語を、客席から眺めているような不思議な浮遊感がある。 「何寝ぼけたこと言ってんのよ。ここまで来て夢オチでしたなんて言ったら、私が許さないからね」 乃亜が呆れたように笑い、私の肩にぽんと手を置いた。 その掌から伝わる確かな体温と重みに、ようやく少しだけ、ここが現実なのだという感覚が戻ってくる。 そう。今日は、私の結婚式だ。 机を紙で埋め、送信ボタンの前で固まっていた日が、今も時々夢に出てくる。二次募集で内定をもらった『株式会社アルカディア・ワークス』で、私は今、プランナーとして走り回っている。好きだけでは済まないことばかりだけれど、会議に出す企画書の最初の読者は、相変
「え? うん、いいけど……」 三人は私から少し離れた、広場の片隅へと歩いていく。 夕陽を背にして立つ三つのシルエット。 何か重要な話をしているようだけれど、ここからでは風に流されて声は聞こえない。 胸騒ぎがする。 でも、不思議と不安はなかった。 彼らの背中から漂う空気が、決して険悪なものではないと分かっていたからだ。 しばらくして、話が終わったのか、三人がこちらへ戻ってきた。 その表情は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。 「……終わったよ、栞」 輝くんが戻ってきて、再び私の手を取る。 「何の話だったの?」 「ん? ……男同士の、秘密の話」 彼は悪戯っぽく笑って、教えてくれなかった。 奏くんと陽翔くんを見ると、二人は何かを納得したように、満足げな顔でこちらを見ていた。 「……月詠。俺は先に行く」 奏くんが、私に近づいてくる。 そして、そっと手を差し出した。 「え?」 「握手だ。……今日の記念に」 戸惑いながらも手を出すと、彼は私の手をギュッと強く握りしめた。 その手は意外なほど熱く、そして優しかった。 「……幸せになれよ」 ボソッと呟かれた言葉に、目頭が熱くなる。 「奏くん……」 「それと、天王寺」 奏くんが輝くんへ向き直った。 「式の日取りが決まったら、早めに知らせろ。仕事を空ける」 「……ああ」 「さっきも言ったが、知らせるのは月詠任せにするなよ」 輝くんが頷いた。その顔を見届け、奏くんは鞄を肩に掛け直した。 「じゃあな」 奏くんはひらりと手を振り、雑踏の中へと消えていった。 「俺も帰ります!」 陽翔くんが元気よく手を挙げる。 「先輩! またバイトで!」 「うん、お疲れ様!」 「あ、輝先輩。……約束、忘れないでくださいね」 陽翔くんが意味深な言葉を残し、輝くんに拳を突き出す。 輝くんも拳を合わせ、コツンとぶつけ合った。 「ああ。分かってる」 陽翔くんもまた、笑顔で去っていった。 二人を見送った後、私は輝くんを見上げた。 「……ねえ、本当に何の話だったの?」 「内緒」 輝くんは人差し指を唇に当て、ウィンクする。 「式の話をされた。……あいつら、来てくれるって」 「え……」 「ちゃんと招待状、送ろうな。……二人で
会場の外へ出ると、空は茜色に染まっていた。冷たい風が頬に触れ、ようやく自分がどれだけ泣いたか分かる。 入口から少し離れた場所で輝くんが手を挙げた。隣には奏くんと陽翔くんもいる。私はエリカ様とそちらへ向かい、まず輝くんの前で足を止めた。 「一緒に来てくれて、ありがとう」 彼は一瞬驚き、それから笑った。 「うん。楽しそうだったね、栞」 差し出されたハンカチを受け取ると、私の手ごとそっと握られた。 「物語もよかったけど。あとで栞が何を話すか、そっちが楽しみだった」 また泣きそうになってしまう。舞台の二人に感動した気持ちを、この人に話したくてたまらなかったことまで、見抜かれた気がした。 「……長くなるよ?」 「知ってる」 後ろから陽翔くんがティッシュを差し出す。 「先輩、まず鼻。話す前にそっちです」 「う、うるさいっ。これは感動の涙なの!」 笑いながら受け取ると、奏くんが静かに眼鏡をかけ直していた。その目元も少し赤い。からかう気にはなれず、私は何も言わずにティッシュの袋を差し出した。 「ふぅ……。魂が浄化されましたわ」 エリカ様が、満足げに溜息をつく。 その顔は憑き物が落ちたように晴れやかで、いつもの棘々しさが嘘のようだ。 「ええ。……最高のイベントでした」 奏くんも頷き、受け取ったティッシュをそっとポケットへ収めた。 「また、イベントがあったらご一緒しましょうね、同志よ」 答えようとした時、彼女が扇子を閉じた。 「その前に。……あなたに、謝らなくてはならないことがありますわ」 急に改まった声に、私も背筋を伸ばした。 「あの日、召使いだの、平民だのと。知らない方を、あんなふうに呼ぶべきではありませんでした」 彼女は私を見ていた。言葉を急いで継ぎ足すことも、笑い話にすることもなかった。 あの日の痛みが少し戻った。それでも、今日、隣で同じ台詞に泣いた人の顔を、私はもう知っている。 「……嫌でした。あれは」 「ええ」 「でも、今日は楽しかったです。また、一緒に見たいと思いました」 エリカ様が小さく息を吐いた。扇子を持つ手が、胸元から下りる。 「……では、次の抽選も、二人で申し込みましょう」 私とエリカ様は、固い握手を交わした。 かつての恋敵が、今や最強のオタク仲間。 人生、何が起
翌朝。 小鳥のさえずりと、窓から差し込む眩しい朝日で目を覚ました。けれど、体を起こそうとして異変に気づく。 重い。物理的に、体が動かない。「…………え?」 恐る恐る目を開けると、そこには絶句するような光景が広がっていた。 右腕を枕にして、天使のような寝顔で眠る輝くん。 私の肩に頭を乗せ、眼鏡をずらして幼子のように眠る奏くん。 そして足元では、私の太ももにしがみついて「むにゃ……」と寝言を漏らす陽翔くん。 (ぎ
どれくらい眠っていただろうか。 ふと、意識の端が浮上した。まどろみの中で聴覚だけが鮮明に世界を捉える。 雨音はいつの間にか止み、深い静寂が満ちていた。その静止した世界に、ぽつり、ぽつりと、低い話し声が落ちてくる。「……寝たか」「ああ。……穏やかな寝息だ」「すげえ無防備な顔。……襲っちゃいたいくらい可愛いっすね」 おどけた調子の中に、隠しきれない熱を含んだ陽翔くんの声。 私は動くタイミングを完全に失ってしまった。私の寝顔を
土煙が雨風に浚われていく。 破壊された扉の向こう、雷光に切り裂かれた闇の中に二つの人影が浮かび上がっていた。「……離れろ、天王寺」 どさり、と重い音が響く。どこで拾ったのか、赤錆の浮いたバールが床に投げ捨てられた。 踏み込んできた奏くんが、大股で距離を詰めてくる。濡れそぼった黒髪が青白い頬に張り付き、眼鏡の奥の双眸は凍てつくように冷たい。だが、その底には抑制の効かない焦燥と、ドロドロとした怒りが渦を巻いているのが見て取れた。「先輩から……離れてくださいッ!」
「とりあえず、窓際から離れよう。雷が近いし、風が入ってくる」 輝の声に引かれ、別館のさらに奥、資料棚が迷路のように入り組んだスペースへと足を踏み入れた。 頼りなく揺れるスマホのライトが、積み上げられた古文書や民具の影を不気味に長く引き伸ばしていく。外では絶え間なく雷鳴が轟き、建物全体が風に煽られミシミシと悲鳴を上げていた。「うぅ……」 生きた心地がしない。 古びた建物特有の湿った空気と、密室という逃げ場のない圧迫感。喉の奥にへばりつくような恐怖が、胃の腑を冷たく締め上げる。「ここなら少しは







