Share

第8話

Author: にゃー
「見間違えてない、真帆。あのとき俺の頭にあったのは、お前を一人であそこに残したら、どれだけ泣くか、どれだけ怖がるかってことだけだった。そんな姿を想像しただけで、胸が痛くてたまらなかった。だから、俺はお前を選んだ」

その言葉の一つ一つが、焼けつくような痛みとなって紗良の胸に突き刺さった。

やはり、そうだったのだ。

生死を分ける瞬間、奏人は本能的に、別の女の涙と恐怖を気にかけた。

「じゃあ……」

真帆の声には、震えるような期待と得意げな響きが混じっていた。

「今の奏人くんにとっては……私のほうが、紗良さんより大切ってこと?」

今度の沈黙は、さらに長かった。

奏人は答えないのではないかと、紗良が思うほどに。

やがて、かすかな迷いを含んだ奏人の声が聞こえた。

それでも、否定はしなかった。

「……そうかもしれない」

そうかもしれない。

その何気ない一言が、最後の巨石となって、紗良の心にかろうじて残っていた砦を粉々に打ち砕いた。

紗良は冷たい壁に背を預けたまま、ゆっくりと床へ座り込んだ。

口元を押さえたが、声は少しも出なかった。

涙だけが次々とあふれ、熱く頬を焼いた。

病室の中で、真帆は何かに気づいたらしい。

扉のほうへちらりと目を向け、勝ち誇ったように口元を上げた。

紗良は、それを見た。

壁に手をつき、残った力を振り絞って立ち上がると、背を向け、よろめきながらその場を離れた。

それから数日、奏人が紗良の病室へ来ることはなかった。

紗良も何も聞かなかった。

静かに傷を癒やし、静かに食事を取り、窓の外の空が明るさを失っていくのを、黙って眺めていた。

退院の日、まだ完全には治っていない体を引きずるようにして、自分で手続きを済ませ、病院を出た。

道端で車を待っていると、勢いよく通り過ぎた車が水たまりを踏み、泥水が全身に跳ねた。

白いワンピースは、たちまち汚れてしまった。

紗良は眉を寄せ、近くにある高級ショッピングモールへ入った。

着替えを買うつもりだった。

シンプルなベージュのワンピースを選び、店員に包んでもらおうとしたときだった。

「そのワンピース、私がもらう」

聞き覚えのある甘い声が、背後から聞こえた。

真帆がハイヒールを鳴らし、ゆったりと近づいてきた。

紗良が手にしているワンピースを指し、店員へ愛らしい笑みを向ける。

「10倍払います」

店員は困ったように紗良を見た。

紗良は、真帆の顔に浮かぶあからさまな挑発と得意げな表情を見つめた。

長い間押し殺してきた怒りと嫌悪が、ようやく麻痺した心を突き破った。

財布を取り出し、中からブラックカードを一枚抜いて、店員へ差し出した。

奏人から渡されていた家族カードだった。

利用限度額はなく、この店でも最上級の顧客だけが持てるカードだった。

カードを見た店員の態度は、すぐに丁寧なものへ変わった。

両手で受け取る。

「かしこまりました。すぐにお包みいたします」

真帆の顔色が、たちまち険しくなった。

紗良がブラックカードを出すとは思っていなかったのだろう。

唇をかみ、まだ何か言おうとした。

だが紗良は、すでに包まれた袋を受け取り、真帆には目も向けず、その場を立ち去った。

真帆はその背中を見つめ、目を険しくした。

紗良は、人通りの少ない非常階段付近まで歩いた。

そこにある通用口から外へ出ようとした、そのときだった。

突然、首の後ろに激しい痛みが走った。

振り返る間もなく、視界が暗くなり、再び意識を失った。

次に目を覚ますと、両手は背中側で縛られ、足首にも縄が巻かれていた。

口には厚いテープが貼られている。

目の前には真帆が立ち、その両脇には、体格がよく、険しい顔つきのボディーガードが二人いた。

「目が覚めた?」

真帆は身をかがめた。

その目には、隠す気もない悪意と喜びが浮かんでいた。

「紗良さん、私がこれから何をするか分かる?私ね、あなたを徹底的に壊してあげる」

真帆は笑ったが、その声は冷え切っていた。

「でも、私が直接傷つけるだけじゃつまらないでしょう?あなたを一番愛している奏人くんに……自分の手であなたを傷つけてもらうの。そのほうが、ずっと面白いし、ずっと苦しいでしょう?」

真帆は体を起こすと、ボディーガードへ合図した。

「まず、その顔を見られないくらいにして。目障りなの」

命じられた男が前へ出て、腕を振り上げた。

そして、紗良の頬を強く平手打ちした。

何度も、乾いた音が響いた。

紗良の頬はたちまち赤く腫れ上がった。

必死に抵抗したが、縄はきつく、二人の男の力にも到底かなわない。

どれほど殴られたのか分からない。

頭がくらくらし、頬は大きく腫れ、元の顔立ちさえ分からなくなった頃、真帆はようやく満足そうに止めた。

「もういいわ」

真帆はスマホを取り出し、見るも無残な紗良の顔を何枚か撮影した。

それから少し離れた場所へ行き、電話をかけた。

「奏人くん……」

声はたちまち、泣きそうな恐怖に満ちたものへ変わった。

「早く来て。私が欲しかったワンピースを横取りした女に、殴られたの……怖かった……でも、奏人くんがつけてくれたボディーガードがいたから、あの女を捕まえてくれたの……お願い、早く来て」

電話を切ると、真帆は紗良の前へ戻ってきた。

口に貼られていたテープを一度剥がし、さらに幅の広いテープで貼り直す。

紗良がはっきり声を出せないようにするためだった。

「あとで、たっぷり楽しんでね」

真帆は腫れ上がった紗良の頬を軽く叩き、残酷に笑った。

ほどなくして、倉庫の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。

奏人が数人の部下を連れ、急いで入ってきた。

わざと赤くした真帆の頬と、顔に残る涙の跡を見た瞬間、その表情が険しくなった。

「真帆、どうした?」

「この女よ!」

真帆は、ボディーガードに押さえつけられ、床に膝をつかされている紗良を指した。

「私が欲しかったワンピースを無理やり奪って、そのうえひどいことまで言われたの。腹が立って少し言い返したら、いきなり殴られて……見て、私の顔……奏人くん、痛いよ……」

奏人の視線が、ようやく床にいる女へ向けられた。

髪は乱れ、頬はひどく腫れ、口をふさがれている。

倉庫の中は薄暗く、顔も原形が分からないほど腫れていたため、奏人はすぐには紗良だと気づかなかった。

「俺の大切な人に手を出したのか?」

奏人の声は氷のように冷たかった。

そこには、人を従わせる威圧感と怒りがにじんでいた。

「北央市で、俺の身内にこんな真似をする奴がいるとはな」

真帆を抱き寄せ、背後の部下へ命じた。

「少し痛い目を見せろ。誰に手を出していいのか、悪いのか、思い知らせてやれ」

「はい」

部下の一人が、スタンガンのような器具を取り出した。

そして、床でもがく紗良へ近づいていく。

紗良は恐怖に目を見開き、必死に首を振った。

口からは、助けを求めるくぐもった声しか出ない。

奏人へ訴えるような視線を向けた。

だが奏人は、冷たい目で見下ろすだけだった。その表情には、何の揺らぎもなかった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 攻略終了、愛だけ残して私は消えた    第20話

    陽射しを受けた刃が、冷たく鋭い光を反射した。奏人は顔を伏せ、細く青ざめた自分の指を見つめた。その目は、恐ろしいほど穏やかだった。左手を差し出し、右手に持った小刀の先を、親指の爪の根元へ当てる。そして、ゆっくりと、迷いなく、力を込めて剥がしていった。刃が皮膚を切り、爪とその下の組織を引き離していく。かすかに、耳を塞ぎたくなるような音がした。血がたちまちあふれ、指を伝って流れ落ちた。鮮やかな緑の芝生に、目を刺すような小さな赤い染みがいくつも広がっていく。激痛に、額から一気に冷たい汗が噴き出した。体は意思に反して震え、顔は青ざめていた。それでも奏人は止めなかった。呻き声すら漏らさない。その表情は祈りを捧げるように静かで、どこか解放されたような不気味な笑みさえ浮かんでいた。慎重に、手元をぶらすことなく、親指の爪を一枚そのまま剥がし取り、隣の石のベンチへ置いた。次は人差し指。中指。薬指。小指。左手が終わると、右手へ移った。10枚の爪が、石のベンチの上に整然と並べられていた。陽射しの下で、健康的な淡い桃色を帯びている。ただ、その縁には血が付着していた。奏人の10本の指は傷だらけになり、血が絶え間なく滴り落ちていた。痛いのか。もちろん、痛かった。視界が何度も暗くなり、今にも気を失いそうなほどだった。それでも、紗良が受けた苦しみを思えば、この程度の痛みなど何だというのだろう。「紗良……」奏人は傷だらけの両手を陽射しへかざし、そっと笑った。声は、溶けるほど優しかった。「これで……少しは痛くなくなったか?俺もそっちへ行く……今度は、俺がお前を待つ。お前がどの世界にいても……地獄でも、天国でも……必ず見つける。永遠に……」奏人は大量の出血によって、再び庭で意識を失った。すぐに発見され、救命処置を受けたことで、一命は取り留めた。だが、この一件を境に、奏人は完全に心を閉ざした。一言も話さなくなった。外からどんな働きかけを受けても、何の反応も示さない。食事を口へ運ばれれば食べる。支えられて歩かされれば歩く。眠るよう言われれば、目を閉じる。精巧に作られた人形のようだった。生きてはいても、すでに死んでいるような人間だった。

  • 攻略終了、愛だけ残して私は消えた    第19話

    奏人は、完全に正気を失った。それが、周囲の者たちの共通認識だった。会社には行かず、誰にも会おうとしない。一日中、あのブリキの箱と古い服を抱え、リビングの中央――紗良が最後に消えた場所に座り込み、冷たい壁にもたれていた。目は焦点を失い、口からは同じ言葉ばかりが、何度も繰り返しこぼれた。「紗良、俺が悪かった……戻ってきてくれ。何でも渡す……会社も、金も、命も、全部やる……真帆は始末した。お前を傷つけた奴らも、全員始末した……紗良、手が痛い……爪が痛い……お前が痛いのか?まだ痛んでるのか?」奏人は自分の手を持ち上げ、光にかざした。10本の指に残る無傷の爪を、じっと見つめる。やがてその目に戸惑いが浮かび、次第に狂気じみた納得へ変わっていった。「そうだ……お前が痛いなら……俺も痛まないと……一緒に痛むんだ……」奏人は顔を伏せ、親指の爪を歯で強くかんだ。そのまま力任せに引き剥がす。「うっ!」激痛とともに、爪が皮膚の一部ごと剥がれ、血が一気にあふれ出した。それでも奏人は痛みを感じていないようだった。顔には、子どものように無邪気でありながら、残酷な笑みさえ浮かんでいた。そして、次の指へ口を寄せた。「紗良……見てくれ……俺も痛い……こうすれば……お前の痛みも、少しは軽くなるだろ……」緊急連絡を受けた優太と医師たちが扉を破って入ってきたとき、目にしたのはその光景だった。奏人は床に座り込んでいた。周囲には血が点々と落ちている。顔を伏せ、薬指の爪を歯で引き剥がそうとしていた。顎もシャツの胸元も血で赤く染まっているのに、その顔には不気味なほど満ち足りた笑みが浮かんでいた。「奏人!」優太は目を見開き、止めようと駆け寄った。奏人は勢いよく顔を上げた。その目は、獲物を奪われまいとする獣のように険しかった。「来るな!俺は紗良の痛みを引き受けてるんだ!紗良が痛がってる!俺も一緒に痛まないと!」その隙に、数人の医療スタッフが一斉に取り押さえ、強制的に鎮静剤を注射した。奏人は激しく抵抗し、叫び続けた。血にまみれた自分の指から、最後まで目を離さなかった。やがて薬が効き始め、ゆっくりと意識を失っていく。それでも口からは、無意識のうちに言葉が漏れていた。「紗良……痛い…

  • 攻略終了、愛だけ残して私は消えた    第18話

    数か月後の、重苦しい午後。奏人はいつものように、家の中をあてもなく歩き回っていた。長い間、使用人の手も入っておらず、あちこちに薄く埃が積もっている。空気には、古びたような、死んだような匂いが漂っていた。気づけば、奏人は2階の書斎まで来ていた。そこは、紗良が時折、本を読んだり絵を描いたりしていた場所だった。紗良がいなくなってからは、思い出すのがつらくて、ほとんど入っていなかった。だがその日は、何かに導かれるように扉を開けた。奏人はあてもなく室内を見回した。やがて視線が、机のそばの目立たない一角で止まる。そこには、さほど大きくないブリキの箱が置かれていた。色は少しくすみ、小さな錠前がかかっている。奏人は歩み寄り、箱を手に取った。見覚えがあった。ずっと以前、紗良がこの箱を取り出していたことがあった。窓辺に座り、箱を見つめながら物思いにふけっていた。奏人に気づくと、紗良は笑って箱をしまい、女の子だけの秘密だと言った。あの頃の奏人は紗良のプライバシーを尊重し、中を見ようとは一度も思わなかった。だが今、この箱は奏人に残された最後の希望だった。同時に、奏人を完全に打ちのめす最後の一撃になるかもしれなかった。道具を探し、簡単に壊れそうな錠前をこじ開けた。中に入っていたのは、宝石でも、秘密の手紙でもなかった。分厚く、縁が少し擦れたスケッチブックが数冊あるだけだった。奏人の胸が大きく跳ねた。震える指で一番上の一冊を取り、表紙を開いた。最初のページに描かれていたのは、少年時代の奏人だった。色あせるほど着古した制服を身につけ、まだらに汚れた路地の壁にもたれている。口元には傷が残っていたが、その目には狼のような気丈さが宿っていた。絵は驚くほど生き生きとしており、目元にある小さなほくろまで、はっきり描かれていた。その横には、整った字で短い言葉が添えられていた。【今日も奏人が殴られた。見ているだけで胸が痛い。ばか。勝てないのに、どうして逃げないの?】奏人は息を止め、急いで次のページをめくった。熱を出し、粗末なアパートのベッドで体を丸め、苦しそうに眉を寄せる奏人。その横には、こう書かれていた。【奏人が悪い夢を見て、ずっとお母さんを呼んでいた。こっそりキスした。今度は私の夢

  • 攻略終了、愛だけ残して私は消えた    第17話

    奏人はキッチンへ駆け込み、果物ナイフをつかむと、リビングの中央へ戻った。ためらうことなく、刃を左の掌へ滑らせる。たちまち血があふれ、淡い色のカーペットへ滴り落ちた。鮮やかな赤い花のような染みが、次々と広がっていく。奏人は痛みを感じていないかのように、血の流れる掌で床に何かを描き始めた。インターネット上の閉鎖的な掲示板で見つけた、得体の知れない召喚の陣だった。線は歪み、血と混ざり合い、不気味で禍々しいものに見えた。「紗良……戻ってきてくれ……俺の血で、お前の魂を呼び戻す……紗良……戻ってきてくれ……」奏人は陣の中央に跪き、何もない空間へ向かって叫び続けた。何度も紗良の名を呼ぶ声は、夜の闇に響く鳥の鳴き声のように凄まじかった。血は流れ続け、奏人の顔からは次第に血の気が失われていった。視界も何度も暗くなった。それでも奏人は構わなかった。体の痛みと失われていく血が、紗良のいる世界へ通じる橋を作ってくれるとでも信じているようだった。やがて失血のために視界が完全に暗くなり、奏人はその場へ倒れ込んだ。そのまま意識を失った。次に目を覚ましたとき、奏人は冷たい病室にいた。優太がベッドの脇に座っていた。目は落ちくぼみ、顔にはひげが伸びている。奏人と比べても、ほとんど変わらないほど疲れ切っていた。奏人が目を覚ましたのを見ても、優太は怒鳴らなかった。ただ目を赤くしたまま、疲れた声で尋ねた。「そこまでする価値があるのか?」奏人は天井を見つめた。目は虚ろで、何も答えなかった。長い沈黙が続いた。優太が、また口を閉ざしたままなのだろうと思い始めた頃、奏人はようやく話した。声は異様なほど穏やかだった。その静けさが、かえって寒気を覚えさせた。「前に、紗良はこの世界の人間じゃないかもしれないと言ったな。どういう意味なのか、具体的に話せ。調べたことを、全部教えてくれ」優太は奏人を見つめ、何か言いかけては口を閉ざした。「話せ」奏人は顔を向けた。その目には、死んだような静けさの中にも、消えない執着があった。優太はため息をつき、書類袋を取り出した。中から数枚の薄い紙を抜く。「使える人脈はすべて使った。中には……普通なら使わない手段も含まれてる」優太は低い声で話し始め

  • 攻略終了、愛だけ残して私は消えた    第16話

    ある日、険しい崖の近くで、連日の高熱と疲労のせいで奏人は足を滑らせ、そのまま崖下へ落ちかけた。「朝倉社長!」一番近くにいた隊員が目を見開き、飛びつくようにして奏人の手首をつかんだ。奏人の体は宙に浮き、足元には底の見えない谷が広がっていた。風が乱れた髪を吹き上げる。その下に現れた目は、不気味なほど穏やかで、どこか安堵さえ浮かべていた。このまま落ちれば、紗良に会えるのだろうか。それで、罪を償えるのだろうか。「しっかりつかまってください!」隊員は声を張り上げた。腕には血管が浮き、全身の力を込めて奏人を引き上げようとしている。ほかの隊員たちも駆け寄り、力を貸した。ようやく引き上げられた奏人は、崖際に倒れ込み、激しく咳き込んだ。「朝倉奏人!」背後から怒鳴り声が響いた。奏人がゆっくり振り返ると、優太が少し離れた場所に立っていた。急いで駆けつけたのか、全身に旅の疲れをにじませ、目は赤く、顔には疲労と怒りが浮かんでいた。優太は大股で近づくと、奏人の襟元をつかみ、地面から引き起こした。興奮で声が震えていた。「今の自分がどんな姿か見てみろ!人間なのか幽霊なのかも分からないじゃないか!女一人のために、命まで捨てるつもりか!」奏人は虚ろな目で優太を見たまま、何も答えなかった。「紗良が山にいるはずないだろ!」優太は、どうにか正気に戻そうと怒鳴った。「少しは考えろ!あれだけひどいけがをして、両手の爪まで失ったんだぞ!そんな状態で、どうやって山へ登る!お前から逃げて傷を治すつもりなら、医療設備の整った街か、国外へ行くはずだ!こんな人里離れた山奥へ来るわけがない!お前は紗良を捜してるんじゃない。死に場所を探してるだけだ!」奏人の目に、ようやくわずかな反応が戻った。優太の腕を、救いを求めるようにつかんだ。声はかすれ、今にも砕けそうだった。「なら、紗良はどこにいる?病院にもいない。ホテルにもいない。移動した記録も何一つない……ほかにどこへ行ける?山しかない。まだ捜していない山のどこかにいるはずだ……紗良は痛くて、怖がってる……俺が見つけないと……」「初めから、お前に見つかるつもりがないとしたら?本当に俺たちが考えたとおり、この世界の人間ではなかったとしたら?やるべきことを終えたのか、それ

  • 攻略終了、愛だけ残して私は消えた    第15話

    奏人の声はすぐにかれ、やがて潰れた。呼びかけるたび、血を吐くような声になった。手や顔には、とげのある低木や鋭い岩で切った傷がいくつも走り、泥と汗が混じって、見る影もない姿になっていた。足の裏には水ぶくれができ、それが破れて化膿した。一歩進むたびに、胸まで突き抜けるような痛みが走った。それでも奏人は歯を食いしばり、適当にガーゼを巻くだけで、また歩き続けた。体の痛みを感じている間だけは、骨まで食い尽くすような後悔と恐怖を、わずかに忘れられるようだった。夜になると、隊員たちは野営地にテントを張り、火を起こして食事を作った。だが奏人は食べることも眠ることもなく、強力な懐中電灯を手に、暗い山の中をあてもなく歩き回り、紗良の名を呼び続けた。何度も崖から落ちかけ、そのたびに隊員たちが必死で引き戻した。「朝倉社長、少し休んでください。続きは明日にしましょう」隊員が懸命になだめた。「駄目だ。紗良は暗いところが怖い。それに雷も苦手なんだ」奏人は空を見上げた。黒い雲が集まり始めていた。「雨が降って雷まで鳴ったら、一人でどうするんだ……」隊員に話しているのか、独り言なのかも分からない。その目は焦点を失い、意識もかなり曖昧になっていた。低い雷鳴が空を渡った。続いて、大粒の雨が降り始めた。奏人は全身を震わせ、勢いよく顔を上げた。その顔から、たちまち血の気が引いた。「紗良――!」人の声とは思えない叫びを上げ、雨の中へ飛び出した。さらに深い闇へ向かって、何もかも振り切るように駆けていく。「紗良、怖くない!俺が来た!ここにいる!雷なんか怖がらなくていい!紗良!返事をしてくれ!頼む!一度でいいから答えてくれ!」雨と涙が入り混じり、顔を流れていた。奏人は何度もよろめき、木の根につまずいて泥の中へ倒れた。それでも必死に起き上がり、また前へ走った。懐中電灯は、いつの間にかどこかへ落としていた。稲妻が照らすわずかな光だけを頼りに、闇の中を手探りで捜し続けた。隊員たちは懐中電灯を持って追いつき、完全に自制を失った奏人を無理やり押さえた。「朝倉社長、落ち着いてください!雨が激しすぎます!危険です!」「放せ!紗良は雷が怖いんだ!きっとどこかで泣いてる!捜しに行かないと!放せ!」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status