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Ep.9 お風呂での葛藤

Author: いろは杏
last update publish date: 2026-05-13 18:15:49

理子先輩の家に着いて、玄関で靴を脱いでいると、彼女が振り返った。

「お疲れ様。お風呂、沸かしておいたから先にどうぞ。ゆっくり疲れを取って」

「ありがとうございます」

リビングを通って脱衣所に向かいながら、僕の心臓は少しずつ早鐘を打ち始めた。

お風呂――。

昨日の夜は色々と余裕がなくて、シャワーを浴びたこともあまりよく覚えていない。でも今日は、ちゃんと自分自身で服を脱ぎ、湯船に浸かることになる。

つまり、この身体と、より深く直接的に向き合わなければならないのだ。

「……はぁ」

脱衣所で一人になった僕は、大きくため息をついた。

壁の鏡に映る自分を見る。

何度見ても、そこには美少女しかいない。肩まで伸びた茶色の髪、華奢な体つき、そして制服を押し上げる胸の膨らみ。

「慣れない……」

呟きながら、僕はブラウスのボタンに震える手をかけた。

* * *

ブラウスとスカートを脱いだ瞬間、改めて胸の存在感に驚かされた。

理子先輩に貰った、少しサイズの合っていないブラジャーに無理やり包まれた膨らみが、僕の視界を占領する。

男子だった時には想像もできなかった脂肪の重みが、肩と背中にかかっている。

「うわぁ……」

おそるおそるブラジャーのホックに手をかける。背中側で留めるタイプだが、手探りではどうやって外すのか見当もつかない。

「えっと……こう、かな?」

何度か試行錯誤した末、生地をぐるりと前方に回して、お腹の辺りでようやくホックを外すことができた。

その瞬間、窮屈な下着から解放された胸がぽろんと零れ落ち、わずかに揺れて、より一層その存在を主張してきた。

最後にショーツを脱いで、僕は完全に裸になった。

そして、浴室のドアを開ける。

「っ……」

浴室の大きな鏡に映った自分を見て、僕は言葉を失った。

そこには、一糸纏わぬ完全な女性の裸体があった。

華奢な肩、なだらかにくびれたウエスト、重力に逆らうように上を向いた豊かな胸、そして女性特有の丸みを帯びた腰のライン。男子だった時の面影は、もうどこにもない。

吸い寄せられるように鏡に近づき、自分の身体をまじまじと見つめる。

こんなことを言うのは変だけど……とても、綺麗だった。自分で言うのもなんだけど、美術品のように整った女性の身体だと思う。

そう思った瞬間、僕は慌てて激しく首を振った。

「だ、ダメだ……何を考えてるんだ僕は……!」

でも、視線を鏡から引き剥がすことができない。

男子だった時の僕は、当然、思春期の男として女性の身体というものに興味を持っていた。

それが今、自分のものになっているのだ。

とりあえず身体を洗おうと思って、手ぬぐいを手に取る。

「まずは……髪から……」

シャンプーを手に取って、髪を濡らす。男の時とは比べ物にならないほど長い髪は、水分を含むとずっしりと重くなり、洗うのも一苦労だった。

そして、いよいよ身体を洗う番になる。

ボディタオルにたっぷり泡をつけて、腕から洗い始めた。肌が、男子の時とは全く違う。弾くようにみずみずしくて、驚くほど滑らかだ。

「うわ……すべすべ……」

腕から鎖骨、そして肩へ。そこから手を下に滑らせて――。

「あ……っ」

胸に触れた瞬間、僕はビクッと肩を揺らして動きを止めた。

マシュマロのように柔らかくて、温かくて……異様に、敏感で。

男だった時には絶対に体験したことのない鋭い感覚が、胸の先端から脳の奥へと直接突き抜けていく。

「これが……胸……」

泡のついた手で、恐る恐る、その膨らみを包み込むように触れてみる。すると、背筋がぞくっとするような甘い痺れが走った。

「っ――あ、ぁっ……」

甘ったるい声が、自分自身の口から漏れてしまう。

その声を聞いて、僕は冷や水を浴びせられたように我に返った。

「だ、ダメだ……こんなこと……」

僕は何をしているんだろう。これは自分の身体なのに、まるで――可愛い女の子の身体を好き勝手に触っているような気分になってしまっている。

男子だった時のいやらしい欲求で、自分自身に興奮しているのだ。

強烈な罪悪感と自己嫌悪が湧き上がってきた。

「最低だな、僕……」

でも、身体は残酷なほど正直だった。タオルで擦るだけで、不思議な快感が波のように広がっていく。

これが女性の身体というものなのか。こんなに敏感で、こんなに――。

「ダメ、ダメダメ……!」

慌てて胸から手を離して、他の部分を洗うことにした。

お腹、背中、足。どこもかしこも、男の時とは全然違う。肌の質感、敏感さ、すべてが新しくて、僕の理性を戸惑わせる。

最後に、一番触れにくい部分も洗わなければならなかった。

「……っ」

男子だった時との決定的な喪失と変化に、改めて現実を突きつけられる。

今日、理子先輩から『元に戻れるかもしれない』という希望をもらった。

でも、もしも時間がかかったら?

このままこの身体の快感に慣れてしまって、男としての心まで溶けて、女の子になってしまったらどうしよう。

そう思うと、なんだかひどい無力感と恐怖に襲われた。

「僕は……どうなっちゃうんだろう……」

温かい湯船に浸かりながら、僕はただ、ぼんやりと湯気で霞む天井を見つめることしかできなかった。

* * *

お風呂から上がって脱衣所に出ると、バスタオルで全身を優しく拭き上げる。

男の時は割と力任せにゴシゴシと拭いていたが、この身体の柔肌でそれをしてしまうと、ヒリヒリと赤くなって痛むのだ。

続いて、別のタオルで髪を包む。しかし、長く、大量に水を含んでいたため、隙間からポタポタと水滴が落ちてくる。

「翼、大丈夫?」

パジャマ代わりの大きなTシャツとハーフパンツを着た僕に、リビングから理子先輩の声が聞こえた。

「あ、はい! でも、その……髪が長くて、うまく拭けなくて……」

「あら、そうよね。待ってて、お手伝いするから」

しばらくして、理子先輩がドライヤーを持ってリビングのソファに現れた。

「こっちで乾かしましょう。私の前に座って」

「ありがとうございます」

僕はソファの床に座り、後ろにいる理子先輩にドライヤーをかけてもらった。

「まず、タオルでしっかり水分を取って……それから、ドライヤーは根元から毛先に向かって風を当てるのよ」

「はぁ……」

「あと、最後は冷風で仕上げると、キューティクルが引き締まって髪にツヤが出るの」

理子先輩の手つきは慣れたもので、僕の髪を指で梳きながら丁寧に乾かしてくれる。優しいフローラルの香りがした。

「理子先輩、すごく上手ですね」

「一人暮らしだから、自分でやるしかないのよ。あ、それと」

理子先輩はテーブルから、小さなボトルを二つ取り出した。

「化粧水と乳液。女性の肌には絶対に必要なの」

「化粧水……ですか?」

「そう。お風呂上がりは肌が乾燥しやすいから、すぐにしっかり保湿しないとシワになっちゃうわ」

理子先輩に教わりながら、僕は生まれて初めて化粧水を使った。

「手のひらに適量を取って……顔全体を包み込むように、優しくパッティング。こうやって」

理子先輩が自分の顔で実際にやって見せてくれる。僕も真似をして、顔をぺちぺちと叩いた。

「あ……なんかしっとりする」

「でしょう? それから、この乳液で水分にフタをするの。これも大事よ」

乳液も同じように塗ってみる。確かに肌が吸い付くようにもちもちになった気がする。

「すごい……男の時とはこんなに違うんですね」

「女性の肌はデリケートだから、毎日のケアが大切なのよ。慣れれば簡単だから」

理子先輩の熱心な指導で、僕は女性としての基本的なスキンケアを学んだ。

「ありがとうございます。なんとなく、やっていけそうな気がします」

「それはよかったわ――今は男の人でもこういった手入れをする人が多いみたいだから、元の身体に戻れても、このケアを続けてみるのもアリかもしれないわね」

理子先輩が微笑む。

ごく自然に、僕が元に戻れる前提で話をしてくれる――そのことに、さっきお風呂で感じていた不安が少しだけ和らぎ、無性に安心した。

* * *

「夕食、何か食べたいものある?」

理子先輩がスマートフォンを取り出しながら言った。

画面には、とある飲食店のデリバリーアプリが表示されている。

「えっと……特には……」

僕が画面を眺めていると、ふと疑問が湧いた。

「そういえば、理子先輩、昨日もモバイルオーダーでしたけど……自炊はしないんですか? キッチン、すごく綺麗ですけど」

その質問をした瞬間、理子先輩がビクッと肩を揺らし、スッと顔を背けた。

「あ、あの……それは……」

「?」

「……実は、料理が……壊滅的にできないの」

理子先輩が、消え入るような小さな声で白状した。

「えっ?」

「化学実験の複雑な調合はできるのに、料理は全然ダメなのよ。この前、ただの卵焼きを作ろうとして、フライパンごと卵を炭化させちゃって……」

理子先輩が恥ずかしそうに俯く。

「そ、そうなんですか……」

「情けないでしょう? 実験なら1ミリグラム単位で薬品を計れるのに、『塩コショウ少々』とか『キツネ色になるまで』とか、そういう感覚的な分量がどうしても理解できなくて……」

「なるほど……」

「女なのに、料理もできないなんて……」

僕は慌てて理子先輩をフォローした。

「そんなことないですよ! みんな得意不得意がありますし。それに、理子先輩は実験が誰よりも上手じゃないですか」

理子先輩の少しポンコツな意外な一面を知って、僕はなんだかひどく親近感を覚えた。いつも完璧で頼りになる先輩にも、苦手なことがあるんだ。

「あの……もしよろしければ……」

「?」

「冷蔵庫に食材があるなら、今度から僕が作りますよ。料理は結構得意なんです」

理子先輩の眼鏡の奥の目が、まん丸になった。

「本当に!?」

「はい。両親が共働きだったので、母に教わって、大抵のものは一人で作れるようになってたんです」

「それは……すごくありがたいわ。でも、翼にそんなことさせたら迷惑じゃない?」

「とんでもないです! 居候させてもらってお世話になってるのは、僕の方ですから」

理子先輩が、パァッと花が咲いたように嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかしら?」

「はい! 任せてください」

僕はそう言って立ち上がり、エプロンを探すためにキッチンの方へと向かっていったのだった。

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