เข้าสู่ระบบやばい、やばいやばい。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、僕は机の上で握りしめていた両手にギュッと力を込めた。 一日中、いや、正確には今朝学校に着いてからずっと我慢し続けていたあの生理現象が、もう限界に達していた。 「翼ちゃん、お疲れ様――また明日ね」 カバンを持った桜井さんが振り返って手を振ってくれるけど、今はそれに応える余裕もない。脂汗をかきながら、愛想笑いを浮かべて小さく手を振り返すのが精一杯だった。 「……う、うん……ま、また……明日ね……」 「……? 顔色悪いよ? 気をつけて帰ってね」 桜井さんは少し心配そうな顔をしたけど、それ以上は何も言わずに教室を出て行った。彼女の優しい気遣いには本当に感謝している。 でも今は一刻も早く――。 クラスの人たちがぞろぞろと帰り支度をしている中、僕は無意識に内股になりながら椅子から立ち上がる。下腹部にずっしりとした水風船のような重みを感じて、思わず顔をしかめた。 男子だった頃なら、休み時間のたびに適当に男子トイレに駆け込んでいたはずなのに。今日は朝から一度も行けていない。 「どっちに入ればいいんだろう……」 頭では分かっている。今の僕は、完全に女の子の身体だ。 でも、心はまだ男子なんだ。そんな僕が女子トイレに入って、もし誰かと鉢合わせたら、なんだか覗きをしているみたいで申し訳ないし……かといって、この姿で男子トイレに入るなんて絶対に無理だ。 「うぅ……」 お腹の奥がきゅうっと痛んだ。もう、本当に限界だった。 * * * 人気のない科学棟に駆け込んだ僕は、小刻みな歩幅で階段を上がりながら必死に括約筋を締めていた。 「多目的トイレ、多目的トイレ……」 二階の突き当たりにあったそれを見つけた時は、心の底から安堵の息が漏れた。多目的トイレなら男女共用だし、個室にこもれば誰にも見られない。 「助かった……」 慌てて扉を開けて中に入り、ガチャンと鍵をかける。そして、洋式便器に向かってズボンを下ろすようにスカートを――。 「あ……」 そこで、ピタッと手が止まった。 立ったままじゃ、できない。 頭では分かっているのに、なぜか戸惑ってしまう。男子だった時の長年の癖で、無意識に便器の前に仁王立ちになろうとしていたのだ。 「そっか、座らなきゃ……」 スカートの裾を持ち上げて、ショーツを下ろし、そっと便座に腰を下ろす。下半身が冷たい空気に触れた瞬間、男のシンボルが消え去った喪失感と、全く違う構造になった自分の身体の変化を改めて実感した。 そして、何度経験しても慣れない排尿の感覚――。 「あ…」 全然違う。感覚が、全く違う。 男子の時はホースから勢いよく一直線に出ていたのに、今は座った状態でチョロチョロと控えめに、まるでシャワーのように扇状に広がって落ちていく。 当然、音も、勢いも、そして、出ている場所の感覚も完全に違う。 「うぅ……やっぱり慣れない……」 自分の身体じゃないみたいな不思議な感覚だった。ひどく恥ずかしいし戸惑うけど、でも、それ以上に安堵感の方が大きかった。 一日中我慢していた分、とても気持ちよくて、思わずほうっと息をついてしまう。 出し終わった後、トイレットペーパーで拭く時にも戸惑った。 「ばい菌が入らないように、前から後ろに向かって拭く、だっけ……」 今朝、理子先輩に顔を真っ赤にしながら教えてもらった通りに、おそるおそるペーパーを当てる。 立ち上がってショーツを引き上げ、プリーツスカートの形を整えながら、僕は洗面台の鏡を見た。 そこには、頬を上気させた見知らぬ美少女が立っていた。 「っ……」 何度見ても、思わず声が出そうになる。肩まで伸びた茶色の髪が、顔の輪郭を柔らかく縁取っている。男子だった時の面影は少しだけあるけど、でも確実に、女の子の顔だった。 「なんで僕が、こんな……」 手を洗うために髪を耳にかけると、いつもと違うサラサラとした感触に戸惑った。こんなに長い髪は初めてで、動くたびに顔にかかって邪魔だし、首元もスースーする。 「とりあえず、理子先輩のところに行かなきゃ」 ペーパータオルで手を拭き、トイレを出る。 廊下を歩いていると、慣れないブラジャーの窮屈な締め付けや、スカートの下を風が通り抜ける心許ない感覚がやけに気になった。 女子用の体操着に着替えた時も思ったけれど、男子の時みたいに大股で歩くとスカートがめくれそうになるし、いろいろと変えなきゃいけないみたいだ。 そんなことを思いながら、僕は科学部の実験室へと歩みを進めた。 * * * 実験室に入ると、理子先輩が実験台に向かって何やら機材の準備をしていた。 「お疲れ様、翼――」 振り返った彼女の顔に、ホッとしたような安堵の表情が浮かんだ。 「今日一日、本当に大変だったでしょう?」 「は、はい……まあ、いろいろと……」 僕は苦笑いを浮かべながら、いつもの指定席の丸椅子に座った。 「体調はどう? 急な女性ホルモンの変化で、どこか痛いところとか、気分が悪いところはない?」 「体調は大丈夫です。ただ、その……」 「?」 「トイレを、一日中我慢していまして……さっきやっと行けました」 理子先輩の顔が、ボンッと音を立てるように真っ赤になった。 「あ、ああ! そうよね、そういう切実な問題もあるのよね……! ごめんなさい、私ったらそこまで気が回らなくて」 「いえ、理子先輩のせいじゃないです。僕が勝手に、どっちのトイレに入ればいいのか迷っていただけなので……」 「それでもよ――結局、どうしたの?」 「科学棟の多目的トイレを使いました。あそこなら男女共用だし、あまり人がいないので」 「そう……それは良かった。女性特有の身体の扱いに慣れるまで大変だと思うけど……」 理子先輩が申し訳なさそうに僕を見つめる。その視線が、なんだか以前よりもずっと優しくて、柔らかい気がした。 「それより、何をしようとしていたんですか?」 恥ずかしさを誤魔化すように話題を変えると、理子先輩の表情が研究者のそれへと引き締まった。 「RG-47の成分分析を進めてみたの。翼の身体に起こっている変化を調べるために、血液サンプルも採取したいんだけど……痛い思いをさせてしまうわね」 「大丈夫ですよ。元に戻るためなら、何でも協力します!」 「ありがとう。それじゃあ、まず指先から少し血を取らせてね」 理子先輩に言われるまま、ランセットと呼ばれる小さな針のついた器具を指先に押し当てる。ちくっとした痛みの後、小さな血の玉ができた。 「これを、いくつかの試薬と混ぜて……」 理子先輩の手つきは慣れたもので、スポイトで採った僕の血液に複数の薬品を加えていく。 「最初は中和剤を作ろうと思ったの。RG-47の効果を強制的に打ち消す薬を」 「それができれば、僕はすぐに元に戻れるということですか?」 「理論上はそうなのだけれど……」 理子先輩の表情が曇った。試験管の中の溶液が、期待していた色とは違う、濁った赤褐色に変化している。 「ダメね……細胞レベルで定着してしまっているみたいで、想定とは全然違う反応をしてる」 「そう……ですか」 少し落胆して肩を落とした僕を見て、理子先輩は慌てたように言った。 「でも、待って! こっちを見て」 彼女が、別の試薬を入れた試験管を指さす。 「あなたの血液と結合したRG-47の成分が、少しずつ変質しているの」 「変質……ですか?」 「そう。結合が解けて、別の無害な化合物に変わろうとしている。これは……」 理子先輩の眼鏡の奥の目が、鋭く輝いた。 「もしかして、時間が経つにつれて、自然に効果が薄れる可能性があるってことですか?」 「まだ確証は持てないけど、でも希望はある。RG-47による女性化の効果は、永続的じゃないかもしれないわ」 「じゃあ、僕は……!」 「ええ、元に戻れる可能性はゼロじゃない。むしろ、時間が解決してくれる可能性すらある」 その言葉を聞いて、真っ暗だった心の中に、パッと希望の光が差したような気がした。 「――ありがとうございます、理子先輩。希望があるというだけでも、すごく嬉しいです」 「まだ研究と観察は続けるから。きっと、もっと具体的なメカニズムが分かるはずよ」 彼女の真剣な表情を見ていると、この人は本当に、自分の失敗を悔やんで、僕のために全身全霊で頑張ってくれているんだなと胸が熱くなった。 * * * 部活を終えて、僕たちは一緒に学校を出た。 「今日は遅くまでありがとう。実験に付き合ってくれて」 「いえいえ、僕のためのことなので、当たり前です!」 夕日が差し込む帰り道を、僕たちは肩を並べて歩いた。理子先輩の家までの道のりは、まだ少し慣れないけれど、昨日の夜よりはずっと足取りが軽かった。 「翼――」 「何ですか?」 「今日、学校はどうだった? みんなの反応とか……いじめられたり、からかわれたりしなかった?」 「思ったより普通でした。桜井さんがずっとそばにいてくれたおかげかもしれません。あと……大輔も、かばってくれたし」 「そう……よかった」 理子先輩が、心底ほっとしたような表情を見せる。 「でも、やっぱり大変でしょう? 女の子として生活するのって」 「そう、ですね……トイレとか、着替えとか、いろいろと」 「ふふっ、そうね。慣れるまで時間がかかると思うけど、何か困ったことがあったら、どんな些細なことでも遠慮しないで言ってね」 「ありがとうございます」 家に着くと、彼女は玄関の鍵を開けながら言った。 「今日は一日気を張ってて疲れたでしょう? お風呂沸かしておくから、先に入る?」 「ありがとうございます。お願いします」 お風呂。これもまだ、男の時とは違う、自分の未知の身体と向き合わなければならない慣れない体験の一つだ。 「それと、翼――」 「はい?」 「実験のことだけど、絶対に諦めないから。きっと元に戻る方法を見つけてみせるわ」 理子先輩の力強い、真剣な眼差しに、僕は思わず目頭が熱くなる。 「理子先輩……」 「だから、それまでは私が責任を持って、翼のことを守るし、面倒を見る。約束するわ」 その頼もしい言葉を聞いて、僕の心の中の不安がスッと溶けていくのを感じた。 この先どうなるか分からないし、元に戻る保証もない。でも、理子先輩がいてくれる限り、きっと大丈夫だ。 「……よろしくお願いします」 小さくそう呟きながら、僕たちは温かな明かりの灯る家の中へと入っていった。「おはよう、翼」 大好きな、優しくて落ち着いた声で目が覚めた。 僕ははち切れそうに大きなお腹を大事に抱えながら、ゆっくりと目を開けた。 「おはようございます、理子先輩」 隣で愛おしそうに微笑んでいる理子先輩を見て、僕も自然と笑顔になる。 あの星空の下で、僕が女の子として生きていくことを決めてから、もう八年もの月日が経っていた。 ひと足先に高校を卒業した理子先輩は、理系の名門大学へと進学し、今では新薬開発の界隈で名の通った若き天才化学者となった。 一方の僕は、大学で教育学を学び、念願だった保育士として働いている。そして今は、都内の日当たりの良いマンションで、二人で穏やかな同棲生活を送っていた。 「お腹の調子はどう? 蹴ってない?」 「うん、今日も元気にぽこぽこ動いてるよ」 僕は自分のお腹を愛おしく撫でた。臨月を迎えて、もうパンパンに大きくなっている。 男だった僕が、自分のお腹の中で新しい命を育み、お母さんになろうとしている。今でも時々、夢なんじゃないかと思うくらい奇跡みたいな毎日だ。 「もうすぐ会えるのね。私たちの赤ちゃんに」 「そうですね……楽しみだけど、初めてのことだから、ちょっと不安もあります」 「大丈夫よ。陣痛の時も、出産も、私がずっと手を握ってついているから」 理子先輩が僕の手を、あの頃と変わらない温かさで強く握ってくれた。 この人と一緒なら、どんなことでも乗り越えていける。 「朝ごはん、作るわね。翼の好きなフレンチトーストでいいかしら」 「ありがとう、理子先輩」 すっかり板についたエプロン姿でキッチンに向かう理子先輩の後ろ姿を見ながら、僕は胸いっぱいの幸せを噛み締めていた。 * * * 僕の妊娠が分かったのは、半年前のことだった。 その少し前に、僕たちは夜のベッドで真剣に話し合ったんだ。 「翼、私たちの将来について、話したいことがあるの」 ある夜、理子先輩が私の髪を撫でながらそう切り出した。 「将来って?」 「結婚のこと……そして、家族のことよ」 理子先輩の真剣な表情に、僕も背筋を伸ばした。 「僕も、理子先輩とずっと一緒にいたいです。おばあちゃんになっても」 「私も同じ気持ちよ。それでね……翼は、子どもは欲しい?」 その質問に、僕は少し考えた。保育士とし
『私は翼を愛してる』 理子先輩のその真っ直ぐな言葉が、僕の心の最も深い場所に、静かに、けれど確かに響き渡った。 愛してる。 この完璧で、大人の余裕があって、でも本当は不器用な理子先輩が、こんな僕を。 胸の奥がじんわりと熱くなって、また視界が滲みそうになる。でも今度の涙は、恐怖や悲しみから来るものじゃない。 「理子先輩……」 「翼、急いで答えを出さなくてもいいのよ。翼の気持ちが固まるまで、何年かかっても、私はずっと待ってるから」 理子先輩は、僕のすべてを包み込むような優しい大人の微笑みを見せてくれた。 でも、僕はゆっくりと、けれどはっきりと首を振った。 「いえ……僕は、今、決めないといけない気がします」 「今?」 「はい……これは僕の人生なんですから。僕自身の口で、ちゃんと決めないと」 僕は理子先輩の手を握ったまま、満天の星空を見上げた。 無数の星が瞬いている。その一つ一つが、まるで僕のこれまでの記憶の破片のように見えた。 「少しだけ、考えさせてください」 「ええ、もちろんよ」 僕は夜の冷たい空気を深く吸い込み、自分の心の中を整理し始めた。 男性に戻る薬を飲むということ。 それは、元の安全な人生に戻るということ。もしかしたら、今のこの息の詰まるような男性恐怖症の問題も、男の身体に戻れば解決するかもしれない。 でも……僕は本当に元に戻りたいのだろうか? 女の子になってからの、この怒涛の三ヶ月間を思い返してみる。 確かに、逃げ出したいほど辛いこともたくさんあった。男性からのいやらしい視線、生理の絶望的な苦痛、そして今回の海での恐ろしいトラウマ。 でも、それと同じくらい……いや、それ以上に、奇跡みたいに素晴らしいこともたくさんあった。 可愛い服を着て鏡の前に立つ楽しさ。リップを塗って自分が綺麗になっていくメイクの喜び。あかりちゃんや美月ちゃんとの、女の子同士の甘くて楽しい友情。 そして何より……理子先輩と一つ屋根の下で過ごした、かけがえのない毎日。 「理子先輩」 「何?」 「僕……女の子になってからのこの三ヶ月間、理子先輩と一緒に過ごした時間が、これまでの人生で一番幸せでした」 「翼……」 「最初は、女の子にされたことが受け入れられなくて、戸惑ってばかりでした。でも、理子先輩がい
【理子視点】 翼の温かい涙が私の服に染み込んでいく。星空の下で、声を殺して震える小さな身体を抱きしめながら、私は心の奥底で渦巻くひどく複雑な感情と向き合っていた。 翼が語ったこの三ヶ月間の想いを聞いて、私の胸はナイフで抉られるような痛みを感じている。 女の子になって嬉しかったこと。生理の苦しみ。そして、男たちに蹂躙されかけた今回のトラウマ……。すべてが、私が勝手にこの子の身体を造り変えてしまったことから始まったことなのに。 「翼……」 私は翼の顔を上げさせ、頬に伝う涙を、そっと指で拭ってあげた。 「ありがとう。ずっと一人で抱え込んでいた痛みを、素直に話してくれて」 「理子先輩……」 翼が潤んだ瞳で私を見上げる。その瞳には、自分が何者か分からなくなってしまった不安と恐怖が色濃く残っている。 「私も、翼に話さなければならないことがあるの」 私は、夜のひんやりとした空気を深く吸い込んだ。 今まで自分のエゴで胸の奥に秘めていた秘密を、全て打ち明ける時が来たのだと思った。 「でも、その前に……ごめんなさい」 「え?」 「私の身勝手な好奇心のせいで、翼の人生をめちゃくちゃに変えてしまって……本当に、ごめんなさい」 私は翼の前で、深く頭を下げた。 「理子先輩、顔を上げてください! 僕、そんなつもりで言ったんじゃ……」 「いいえ、これは私の責任よ。あの日、私の作った未完成な薬で、翼を強制的に女性にしてしまった……」 あの日のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。 「最初は、科学者としての失敗を挽回するために、何とか元に戻す解毒剤を作らなければって必死に研究していたわ」 「理子先輩……」 「でも、時間が経つにつれて……翼が私の手の中でどんどん可愛く、美しく輝いていく姿を見るようになって……私の心に、醜いエゴが芽生えてしまったの」 私は星空を見上げた。 「正直に言うと、毎日が幸せだった。翼が可愛い服を着て、私にメイクを褒められて嬉しそうに照れる姿を見ると、たまらなく愛おしかった。このまま、ずっと私の可愛い女の子のままで、私のそばにいてほしいって……本気でそう思ってしまったの」 「そんな……」 「自分の犯した罪への罪悪感よりも、あなたを自分好みの女の子として独占したいという支配欲が勝ってしまった。……私は、本
「翼、今日は少しだけ、気分転換に出かけましょうか」 翌朝、理子先輩が朝食の片付けをしながら提案してくれた。 「出かけるって……どこにですか? 外は、まだちょっと……」 僕は身をすくませた。外に出れば、また見知らぬ男の視線に晒されるかもしれない。それがひどく怖かった。 「大丈夫よ。親戚の別荘が、県境の山の方にあるの。自然がいっぱいで、見知らぬ人は誰一人いない、完全に隔離された静かなところよ」 理子先輩は、怯える僕を安心させるように優しく微笑んだ。 「きっと気分が良くなると思うわ。私がずっと守ってあげるから、どうかしら?」 「はい……理子先輩と一緒なら、行ってみたいです」 僕は頷いた。確かに、ずっと部屋の中で怯えて塞ぎ込んでいるより、理子先輩が安全だと言う場所で、少し外の空気を吸った方がいいかもしれない。 「それで、車で行くんだけど……私の叔父にお願いして、運転してもらうことにしたの」 「叔父さん……ですか? あの、男の人は、まだ……」 「安心して。叔父といっても、翼もよく知っている田村先生よ。今回の件で、翼のことを本当に心配してくれているの」 その名前を聞いた瞬間、胸の鼓動が早くなる。 「あの……田村先生って……僕のクラスの担任の……?」 「ええ、そうよ。私が彼をボディーガードとして手配していたの。だから大丈夫、田村先生は翼を助けてくれた恩人よ。それに、移動中は私がずっと翼を抱きしめているから」 理子先輩が僕の震える手を、両手でしっかりと握ってくれた。 「……わかりました」 大人の男の人と密室の車に乗るのは怖かったけど、僕は理子先輩を信じることにした。 一時間後、家の前に黒いSUVが停まり、田村先生が迎えに来てくれた。 「よう、体調はどうだ?」 田村先生が車から降りてきて、低い声で声をかけてくれた。 その瞬間、僕の体はビクッと大きく跳ね上がり、呼吸が浅くなった。 頭では命の恩人だと分かっているのに、大人の男の大きな体格と低い声の圧力が、あの海岸での恐怖のフラッシュバックを呼び起こしてしまう。 「ひっ……あ……えっと……っ」 「おっと、すまん。近づきすぎたな」 田村先生は僕の過呼吸気味の反応を見てすぐに察し、両手を少し上げて、三歩ほどサッと距離を取ってくれた。 「……先生、翼はまだ男性の骨格や
「……ただいま」 理子先輩の家のドアを開けて中に入った瞬間、僕はせき止めていた息を吐き出すように、ほっと深く息をついた。 「お疲れさま、翼。ゆっくり休みましょう」 理子先輩が僕の荷物を受け取ってくれる。いつものリビング、いつものソファ、いつもの理子先輩の家の匂い。外の世界から遮断された、ここは完全に安全な空間だった。 でも、僕の心はどこかおかしかった。 「翼、少し横になってて。今日は私が夕食の準備をするから」 「はい……」 「大丈夫――こういう日のために、密かに練習してたのよ」 僕はソファに座って、理子先輩がキッチンに向かうのを見送った。 その瞬間、急に胸の奥がざわざわと波立ち、強烈な不安に襲われた。 「理子先輩……っ」 「何?」 「えっと……その……」 一人になるのが怖い、なんて言えなかった。理子先輩の姿が見えなくなるだけで、またあの男たちが暗がりから出てきそうで怖いなんて、子どもみたいで恥ずかしい。 「大丈夫よ、すぐそこにいるから。何かあったら呼んでね」 理子先輩は僕の怯えた瞳を見て、すべてを察してくれたみたいだった。 キッチンから聞こえてくる、包丁でトントンと野菜を切る音。お湯を沸かす音。いつもなら心地よく感じるはずの生活音なのに、今の僕には、どんな音も神経を逆撫でするノイズにしか聞こえない。 その時、玄関の方で「ガタン」という音がした。 「ひっ!」 僕は反射的に頭を抱え、ソファの上でボールのように身を縮こまらせた。心臓がドクンドクンと耳の奥で激しく鳴り、息が浅くなる。 「翼? どうしたの?」 理子先輩が手を止めて、慌ててキッチンから出てきた。 「あ……えっと……今、玄関で、音が……誰か、入って……っ」 「ああ、隣の部屋の人が帰宅してドアを閉めた音よ。ここはオートロックだし、誰も入ってこない。大丈夫よ」 理子先輩が僕の隣に座って、震える肩を抱き、そっと手を握ってくれた。 「ごめんなさい……変ですよね、こんな、些細な音で……」 「変じゃないわ。あれだけの恐怖を味わったんだもの、神経が過敏になるのは当然の防衛反応よ」 理子先輩の温かい手に包まれ、僕は少しだけ呼吸を落ち着かせた。 「……夕食、一緒に作りましょうか? 一人でじっとしているより、私の隣にいた方が気が紛れるかもしれないし」
「……翼? 翼、聞こえる?」 優しい、大好きな声が、深い海の底から響くように聞こえてくる。 僕は鉛のように重いまぶたを開けて、ゆっくりと意識を浮上させた。 「あ……理子先輩……?」 「よかった……気がついたのね」 理子先輩の顔が、ぼんやりと見えてきた。ひどく心配そうな、泣きはらしたような表情を浮かべて、僕の手を両手でぎゅっと握りしめてくれている。 「ここは……?」 「救急病院よ。田村先生が、警察のパトカーと一緒に連れてきてくれたのよ。中村さんは……ショックで過呼吸になってしまって、今、先生が外のベンチで落ち着かせているわ」 そう言われて、僕はぼやけた視界で周りを見回した。白い壁、白いシーツ、冷たい消毒薬の匂い。たしかに病院の個室ベッドの上にいるようだった。 「体の調子はどう? 痛いところはない?」 「えっと……」 僕は体を動かしてみた。左腕に強く掴まれた内出血の痛みがあり、首筋と頬も、殴られたのか熱を持っているような鈍い痛みがある。でも、致命的な怪我はなさそうだ。 「いくつかの打撲と擦過傷があるけど、大きな怪我はないって先生がおっしゃってたわ。無理やり飲まされた強いアルコールと睡眠薬の症状も、点滴でだいぶ抜けてきているはずよ」 「アルコール……睡眠薬……?」 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中に断片的な記憶が、強烈な吐き気とともに蘇ってきた。 海岸の死角のテントで……入れ墨の男の人たちに……変な味のするジュースを無理やり飲まされて――。 「あ……そうだ……僕、あの時……っ!」 記憶が少しずつ繋がっていく。恐怖で心臓が早鐘のように打ち始めた。 「大丈夫よ、もう安全だから。もう何も心配いらないの」 理子先輩が、僕の頭を胸に抱き寄せて優しく撫でてくれる。その温かさに、僕は少しだけ呼吸を落ち着かせた。 「先生、意識が戻ったようです」 理子先輩が呼びかけると、カーテンの奥から白衣を着た男性の医師が近づいてきた。 その瞬間。 僕の体が、ビクッと大きく跳ねた。 「ひっ……!」 なんだろう、この感覚。 男性の医師を見ただけなのに、その骨格の大きさや、低い声のトーンに本能が激しく反応し、強烈な動悸と息苦しさが襲ってくる。 「……翼、大丈夫?」 「は、はい……ちょっと、びっくりしただけです……」 僕
土曜日の午前十時。僕たちは最寄り駅の改札前で桜井さんを待っていた。 理子先輩から借りた、少し大きめの白いニットワンピースに身を包み、足元は慣れないローヒールのパンプス。 休日のお出かけなんて、男だった頃は適当なシャツとジーンズだったのに、今は準備をするだけで一苦労だった。 「おはよう、翼ちゃん」 桜井さんが手を振りながらやってきた。今日はベージュのニットにデニムのロングスカートという出で立ちで、いつもの制服とは違った大人っぽい魅力がある。 「おはよう、桜井さん」 ちなみに、理子先輩も普段の学校でのかっちりした服装とは違って、ふんわりとした白いブラウスにカーキのフレアスカ
僕が女の子になってから――つまり、理子先輩との同居生活が始まってから、一週間ほどが経った。 朝、僕が朝食とお弁当を作り、学校に行って授業を受ける。放課後は部活で元に戻る方法を研究して、帰宅する。 そこから僕が夕食を作って、一日を終える――そんな疑似同棲のような日常のリズムが、少しずつ出来上がっていた。 でも、一つだけ、誰にも言えない深刻な問題があった。 「うっ……」 体育の授業中、持久走で走っている最中に、胸のあたりに鋭い痛みが走った。 「翼ちゃん、大丈夫?」 隣を走っていたクラスメイトが心配そうに声をかけてくれる。 「だ、大丈夫……っ」 僕は苦笑いを浮かべて
【理子視点】 翼がエプロンをつけてキッチンへ向かうのを、私はソファに座ったまま見守っていた。 「冷蔵庫、開けてみますね」 彼の声が聞こえて、私の胸は少し縮こまった。あの中身を見られるのは、正直とても恥ずかしい。 冷蔵庫の扉が開く音がして、しばらく沈黙が続いた。 「……うーん」 「あ、あの……あまり食材がなくて、ごめんなさい」 私は慌てて謝った。 「いえいえ、大丈夫ですよ! 残っている卵と、ウインナー、あとはキャベツがありますね。調味料も……戸棚の奥に醤油と砂糖があったので、これなら何か作れます」 翼の明るい声に、私は安堵した。でも同時に、申し訳ない気持ちでいっぱい
理子先輩の家に着いて、玄関で靴を脱いでいると、彼女が振り返った。 「お疲れ様。お風呂、沸かしておいたから先にどうぞ。ゆっくり疲れを取って」 「ありがとうございます」 リビングを通って脱衣所に向かいながら、僕の心臓は少しずつ早鐘を打ち始めた。 お風呂――。 昨日の夜は色々と余裕がなくて、シャワーを浴びたこともあまりよく覚えていない。でも今日は、ちゃんと自分自身で服を脱ぎ、湯船に浸かることになる。 つまり、この身体と、より深く直接的に向き合わなければならないのだ。 「……はぁ」 脱衣所で一人になった僕は、大きくため息をついた。 壁の鏡に映る自分を見る。 何度見