Se connecter【理子視点】
翼がエプロンをつけてキッチンへ向かうのを、私はソファに座ったまま見守っていた。 「冷蔵庫、開けてみますね」 彼の声が聞こえて、私の胸は少し縮こまった。あの中身を見られるのは、正直とても恥ずかしい。 冷蔵庫の扉が開く音がして、しばらく沈黙が続いた。 「……うーん」 「あ、あの……あまり食材がなくて、ごめんなさい」 私は慌てて謝った。 「いえいえ、大丈夫ですよ! 残っている卵と、ウインナー、あとはキャベツがありますね。調味料も……戸棚の奥に醤油と砂糖があったので、これなら何か作れます」 翼の明るい声に、私は安堵した。でも同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 両親が海外赴任で一人暮らしになってから、まともな食事を作ったことがない。いつも片手で食べられる栄養固形食かゼリー飲料で済ませて、たまにデリバリーを頼むくらい。 こんな殺風景な食生活を翼に見られてしまうなんて……。 「本当に、ありがとう。でも疲れてるんだから、無理しないでね」 「無理なんてしてませんよ。むしろ、キッチンに立つのは久しぶりだから楽しみです」 翼の声が弾んでいるのがわかった。 * * * これまで全く日の目を見なかった広すぎるアイランドキッチンで、手際よく料理をする翼の姿に、私は思わず釘付けになっていた。 夜は少し冷えるからと、Tシャツの上から私が貸したルームウェアを羽織った彼――いや、彼女の姿に。 「あ……」 思わず息を呑む。 パステルピンクのもこもこしたパーカー。私にはピッタリのサイズだけれど、翼が着ると――。 胸元のジッパーが、明らかに窮屈そうだった。 急激に成長した豊かな胸の膨らみに生地が引っ張られ、ジッパーが胸の下までしか上がっていない。 そこから覗く白い肌と、ブラジャーの谷間が見え隠れして、なんともいえない扇情的な雰囲気を醸し出していた。 「ふふん~」 翼がご機嫌な鼻歌を歌いながら、キャベツを千切りにしている。トントンという小気味良い包丁の音が、静かなリビングに響く。 身長が縮んでしまったせいで、少し高めのアイランドキッチンでは作業がしづらいらしい。上の棚の食器を取ろうとして、つま先立ちになって一生懸命背伸びをする姿が、なんとも可愛らしかった。 パーカーの袖は少し長めで、手首まで隠れる萌え袖になっている。それがまた、無自覚なあざとさを強調していて――。 「あ、届かない……」 翼が困ったように呟く。 「踏み台、使って。そこのスツールでもいいから」 私が声をかけると、翼は振り返ってふにゃりと笑った。 「ありがとうございます。身長が低いって、結構不便なんですね」 スツールを引き寄せ、小皿を取る翼。その様子を見ていると、なんだか微笑ましくて、でも同時にひどく複雑な気持ちになった。 正直に言うと……恐ろしいほどに男受けしそうな姿だった。 小柄で可愛らしくて、胸は豊かで、料理上手。しかも、こんなに一生懸命で健気な様子を見せられたら、世の男性は確実に心を奪われるだろう。 特に、あの私の服をパツパツにしている胸のサイズは――。 「……」 私は無意識に、自分の胸元を見下ろした。 決して小さいわけではないと自負していたけれど、翼と比べると明らかに負けている。女性として、少しばかり敗北感と複雑な気持ちが湧いてくる。 でも、これは翼の本来の身体じゃない。私の作ったRG-47の影響で、こんなふうに変化してしまったのだ。 (この子に悩殺される哀れな男性を増やさないためにも……) 私は心の中で、静かに誓った。 (私がしっかり守って、早く元の姿に戻してあげなければ) 科学者としての強い使命感と、女性としての微妙な競争心、そしてほんの少しの独占欲が混じり合った、複雑な決意だった。 「理子先輩、大丈夫ですか?」 「え?」 振り返ると、翼が心配そうに私を見ていた。 「なんだか、すごく難しい顔をしてましたけど……」 「え、ええ。ちょっと研究の配合式を考えてただけよ」 「そうですか。あまり根を詰めすぎないでくださいね」 翼が優しく微笑む。その柔らかな笑顔を見ていると、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。 この子は、本当に優しい。 「翼、お料理の手際すごくいいわね。どこで覚えたの?」 「母に教わったんです。昔は父が単身赴任で、母と二人の時間が長くて」 翼が手早く卵を溶きながら答える。 「両親が共働きだったから、将来一人暮らしするときのために、基本的な料理は覚えておきなさいって」 「素晴らしいお母様ね」 「はい。でも、まさかこんな、女の子の姿で役に立つとは思ってませんでしたけどね」 翼が少し自嘲気味に苦笑いを浮かべる。その表情には、どうしても拭いきれない寂しさと不安が混じっているような気がした。 * * * 二十分ほどして、翼が料理を完成させた。 「お待たせしました!」 ダイニングテーブルに並べられた料理を見て、私は驚いた。 綺麗な黄色の卵焼き、キャベツとウインナーの炒め物、そして簡単な味噌汁。 どれも見た目が美しく、あの殺風景な冷蔵庫にあった、あり合わせの食材で作ったとは到底思えない完成度だった。 「すごい……本当に、あれだけの食材で?」 「はい。卵焼きには少しだけお砂糖を入れて甘めに。野菜炒めはシンプルに塩コショウで。お味噌汁は、冷凍庫の奥にあった出汁パックと乾燥ワカメを使わせてもらいました」 翼がエプロンで手を拭きながら、少し誇らしそうに説明する。 「いただきます」 私は箸を取って、まず卵焼きを口に運んだ。 「あ……」 その瞬間、私の舌は驚愕した。 ふわふわで、優しい甘さと出汁の旨みが絶妙に調和している。こんなに美味しい卵焼きは、いつ以来だろう。 続いて野菜炒めを食べる。シャキッとした食感と、ウインナーの塩気が口の中に広がる。 「おいしい……」 思わず、ため息のように呟いてしまった。 「よかった。お口に合いましたか?」 「合うなんてものじゃないわ。本当に、本当に美味しい」 私は無我夢中で箸を動かした。 最後に温かいお味噌汁を飲むと、体の芯からじんわりと解れていくような感覚があった。 「はぁ……」 満腹になって、私は小さく息を吐く。 人が作ってくれた手料理を、誰かと向かい合って食べるのは、いつ以来だろう。 この広い家に一人取り残されてから、ずっと孤独に、無機質な食事ばかりを胃に流し込んできた。 こんなに温かくて、優しい生活の匂いを、私はずっと忘れていた。 「……理子先輩?」 「ん?」 翼が、ひどく心配そうな顔で私を見つめていた。 「もしかして、泣いてますか?」 「えっ?」 手で頬を触ると、確かに濡れていた。いつの間にか、ポロポロと涙がこぼれ落ちていたのだ。 「あ、あの……まずかったですか!?」 「違うの! 美味しすぎて……」 私は慌てて指で涙を拭い、首を振った。 「誰かが私のために作ってくれた料理を食べるのが、すごく久しぶりで……なんだか、すごく嬉しくて……ごめんなさい、変よね」 「理子先輩……」 翼が、少し困ったような、でもひどく優しい顔をして私を見つめている。 「あの、よろしければ……」 「?」 「今後も、僕が毎日のご飯を作らせていただけませんか?」 翼の思いがけない提案に、私は驚いた。 「え? でも、悪いわよ。いくら居候とはいえ、翼にそんな負担をかけるなんて」 「負担だなんて、とんでもないです! お世話になってるお礼ですし、僕も料理するのは息抜きになるので」 「でも……」 「それに、お昼ご飯も作りますよ。お弁当にして、明日から一緒に学校に持って行きませんか?」 翼の目が、期待でキラキラと輝いている。 「さすがに、それは申し訳ないわ。あなただって学校の準備があるし……」 「大丈夫です。朝、少し早く起きればいいだけですから」 「いや、でも……」 「理子先輩」 翼が、少し強い口調で私の言葉を遮った。 「僕、誰かのために料理を作るのが好きなんです。毎日栄養食品なんて健康にもよくないですし――」 その真っ直ぐな言葉に、私は少しドキッとした。 「それに、僕の料理を食べて、理子先輩が喜ぶ顔を見たいんです」 「翼……」 「お願いします。僕に、作らせてください」 翼の熱意と、そのあまりにも新妻のような健気さに、私は完全に白旗を揚げてしまった。 見事に、胃袋も心も掴まれてしまったのだ。 「……分かったわ。でも、食材費は全部私が出すし、後片付けは私がやるから。それならいい?」 「はい! ありがとうございます」 翼がパッと花が咲いたように嬉しそうに笑う。その笑顔を見ていると、私までつられて笑顔になってしまった。 明日から、また新しい生活が始まる。 私のために作られた、温かい翼の手料理を食べられる毎日が。「おはよう、翼」 大好きな、優しくて落ち着いた声で目が覚めた。 僕ははち切れそうに大きなお腹を大事に抱えながら、ゆっくりと目を開けた。 「おはようございます、理子先輩」 隣で愛おしそうに微笑んでいる理子先輩を見て、僕も自然と笑顔になる。 あの星空の下で、僕が女の子として生きていくことを決めてから、もう八年もの月日が経っていた。 ひと足先に高校を卒業した理子先輩は、理系の名門大学へと進学し、今では新薬開発の界隈で名の通った若き天才化学者となった。 一方の僕は、大学で教育学を学び、念願だった保育士として働いている。そして今は、都内の日当たりの良いマンションで、二人で穏やかな同棲生活を送っていた。 「お腹の調子はどう? 蹴ってない?」 「うん、今日も元気にぽこぽこ動いてるよ」 僕は自分のお腹を愛おしく撫でた。臨月を迎えて、もうパンパンに大きくなっている。 男だった僕が、自分のお腹の中で新しい命を育み、お母さんになろうとしている。今でも時々、夢なんじゃないかと思うくらい奇跡みたいな毎日だ。 「もうすぐ会えるのね。私たちの赤ちゃんに」 「そうですね……楽しみだけど、初めてのことだから、ちょっと不安もあります」 「大丈夫よ。陣痛の時も、出産も、私がずっと手を握ってついているから」 理子先輩が僕の手を、あの頃と変わらない温かさで強く握ってくれた。 この人と一緒なら、どんなことでも乗り越えていける。 「朝ごはん、作るわね。翼の好きなフレンチトーストでいいかしら」 「ありがとう、理子先輩」 すっかり板についたエプロン姿でキッチンに向かう理子先輩の後ろ姿を見ながら、僕は胸いっぱいの幸せを噛み締めていた。 * * * 僕の妊娠が分かったのは、半年前のことだった。 その少し前に、僕たちは夜のベッドで真剣に話し合ったんだ。 「翼、私たちの将来について、話したいことがあるの」 ある夜、理子先輩が私の髪を撫でながらそう切り出した。 「将来って?」 「結婚のこと……そして、家族のことよ」 理子先輩の真剣な表情に、僕も背筋を伸ばした。 「僕も、理子先輩とずっと一緒にいたいです。おばあちゃんになっても」 「私も同じ気持ちよ。それでね……翼は、子どもは欲しい?」 その質問に、僕は少し考えた。保育士とし
『私は翼を愛してる』 理子先輩のその真っ直ぐな言葉が、僕の心の最も深い場所に、静かに、けれど確かに響き渡った。 愛してる。 この完璧で、大人の余裕があって、でも本当は不器用な理子先輩が、こんな僕を。 胸の奥がじんわりと熱くなって、また視界が滲みそうになる。でも今度の涙は、恐怖や悲しみから来るものじゃない。 「理子先輩……」 「翼、急いで答えを出さなくてもいいのよ。翼の気持ちが固まるまで、何年かかっても、私はずっと待ってるから」 理子先輩は、僕のすべてを包み込むような優しい大人の微笑みを見せてくれた。 でも、僕はゆっくりと、けれどはっきりと首を振った。 「いえ……僕は、今、決めないといけない気がします」 「今?」 「はい……これは僕の人生なんですから。僕自身の口で、ちゃんと決めないと」 僕は理子先輩の手を握ったまま、満天の星空を見上げた。 無数の星が瞬いている。その一つ一つが、まるで僕のこれまでの記憶の破片のように見えた。 「少しだけ、考えさせてください」 「ええ、もちろんよ」 僕は夜の冷たい空気を深く吸い込み、自分の心の中を整理し始めた。 男性に戻る薬を飲むということ。 それは、元の安全な人生に戻るということ。もしかしたら、今のこの息の詰まるような男性恐怖症の問題も、男の身体に戻れば解決するかもしれない。 でも……僕は本当に元に戻りたいのだろうか? 女の子になってからの、この怒涛の三ヶ月間を思い返してみる。 確かに、逃げ出したいほど辛いこともたくさんあった。男性からのいやらしい視線、生理の絶望的な苦痛、そして今回の海での恐ろしいトラウマ。 でも、それと同じくらい……いや、それ以上に、奇跡みたいに素晴らしいこともたくさんあった。 可愛い服を着て鏡の前に立つ楽しさ。リップを塗って自分が綺麗になっていくメイクの喜び。あかりちゃんや美月ちゃんとの、女の子同士の甘くて楽しい友情。 そして何より……理子先輩と一つ屋根の下で過ごした、かけがえのない毎日。 「理子先輩」 「何?」 「僕……女の子になってからのこの三ヶ月間、理子先輩と一緒に過ごした時間が、これまでの人生で一番幸せでした」 「翼……」 「最初は、女の子にされたことが受け入れられなくて、戸惑ってばかりでした。でも、理子先輩がい
【理子視点】 翼の温かい涙が私の服に染み込んでいく。星空の下で、声を殺して震える小さな身体を抱きしめながら、私は心の奥底で渦巻くひどく複雑な感情と向き合っていた。 翼が語ったこの三ヶ月間の想いを聞いて、私の胸はナイフで抉られるような痛みを感じている。 女の子になって嬉しかったこと。生理の苦しみ。そして、男たちに蹂躙されかけた今回のトラウマ……。すべてが、私が勝手にこの子の身体を造り変えてしまったことから始まったことなのに。 「翼……」 私は翼の顔を上げさせ、頬に伝う涙を、そっと指で拭ってあげた。 「ありがとう。ずっと一人で抱え込んでいた痛みを、素直に話してくれて」 「理子先輩……」 翼が潤んだ瞳で私を見上げる。その瞳には、自分が何者か分からなくなってしまった不安と恐怖が色濃く残っている。 「私も、翼に話さなければならないことがあるの」 私は、夜のひんやりとした空気を深く吸い込んだ。 今まで自分のエゴで胸の奥に秘めていた秘密を、全て打ち明ける時が来たのだと思った。 「でも、その前に……ごめんなさい」 「え?」 「私の身勝手な好奇心のせいで、翼の人生をめちゃくちゃに変えてしまって……本当に、ごめんなさい」 私は翼の前で、深く頭を下げた。 「理子先輩、顔を上げてください! 僕、そんなつもりで言ったんじゃ……」 「いいえ、これは私の責任よ。あの日、私の作った未完成な薬で、翼を強制的に女性にしてしまった……」 あの日のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。 「最初は、科学者としての失敗を挽回するために、何とか元に戻す解毒剤を作らなければって必死に研究していたわ」 「理子先輩……」 「でも、時間が経つにつれて……翼が私の手の中でどんどん可愛く、美しく輝いていく姿を見るようになって……私の心に、醜いエゴが芽生えてしまったの」 私は星空を見上げた。 「正直に言うと、毎日が幸せだった。翼が可愛い服を着て、私にメイクを褒められて嬉しそうに照れる姿を見ると、たまらなく愛おしかった。このまま、ずっと私の可愛い女の子のままで、私のそばにいてほしいって……本気でそう思ってしまったの」 「そんな……」 「自分の犯した罪への罪悪感よりも、あなたを自分好みの女の子として独占したいという支配欲が勝ってしまった。……私は、本
「翼、今日は少しだけ、気分転換に出かけましょうか」 翌朝、理子先輩が朝食の片付けをしながら提案してくれた。 「出かけるって……どこにですか? 外は、まだちょっと……」 僕は身をすくませた。外に出れば、また見知らぬ男の視線に晒されるかもしれない。それがひどく怖かった。 「大丈夫よ。親戚の別荘が、県境の山の方にあるの。自然がいっぱいで、見知らぬ人は誰一人いない、完全に隔離された静かなところよ」 理子先輩は、怯える僕を安心させるように優しく微笑んだ。 「きっと気分が良くなると思うわ。私がずっと守ってあげるから、どうかしら?」 「はい……理子先輩と一緒なら、行ってみたいです」 僕は頷いた。確かに、ずっと部屋の中で怯えて塞ぎ込んでいるより、理子先輩が安全だと言う場所で、少し外の空気を吸った方がいいかもしれない。 「それで、車で行くんだけど……私の叔父にお願いして、運転してもらうことにしたの」 「叔父さん……ですか? あの、男の人は、まだ……」 「安心して。叔父といっても、翼もよく知っている田村先生よ。今回の件で、翼のことを本当に心配してくれているの」 その名前を聞いた瞬間、胸の鼓動が早くなる。 「あの……田村先生って……僕のクラスの担任の……?」 「ええ、そうよ。私が彼をボディーガードとして手配していたの。だから大丈夫、田村先生は翼を助けてくれた恩人よ。それに、移動中は私がずっと翼を抱きしめているから」 理子先輩が僕の震える手を、両手でしっかりと握ってくれた。 「……わかりました」 大人の男の人と密室の車に乗るのは怖かったけど、僕は理子先輩を信じることにした。 一時間後、家の前に黒いSUVが停まり、田村先生が迎えに来てくれた。 「よう、体調はどうだ?」 田村先生が車から降りてきて、低い声で声をかけてくれた。 その瞬間、僕の体はビクッと大きく跳ね上がり、呼吸が浅くなった。 頭では命の恩人だと分かっているのに、大人の男の大きな体格と低い声の圧力が、あの海岸での恐怖のフラッシュバックを呼び起こしてしまう。 「ひっ……あ……えっと……っ」 「おっと、すまん。近づきすぎたな」 田村先生は僕の過呼吸気味の反応を見てすぐに察し、両手を少し上げて、三歩ほどサッと距離を取ってくれた。 「……先生、翼はまだ男性の骨格や
「……ただいま」 理子先輩の家のドアを開けて中に入った瞬間、僕はせき止めていた息を吐き出すように、ほっと深く息をついた。 「お疲れさま、翼。ゆっくり休みましょう」 理子先輩が僕の荷物を受け取ってくれる。いつものリビング、いつものソファ、いつもの理子先輩の家の匂い。外の世界から遮断された、ここは完全に安全な空間だった。 でも、僕の心はどこかおかしかった。 「翼、少し横になってて。今日は私が夕食の準備をするから」 「はい……」 「大丈夫――こういう日のために、密かに練習してたのよ」 僕はソファに座って、理子先輩がキッチンに向かうのを見送った。 その瞬間、急に胸の奥がざわざわと波立ち、強烈な不安に襲われた。 「理子先輩……っ」 「何?」 「えっと……その……」 一人になるのが怖い、なんて言えなかった。理子先輩の姿が見えなくなるだけで、またあの男たちが暗がりから出てきそうで怖いなんて、子どもみたいで恥ずかしい。 「大丈夫よ、すぐそこにいるから。何かあったら呼んでね」 理子先輩は僕の怯えた瞳を見て、すべてを察してくれたみたいだった。 キッチンから聞こえてくる、包丁でトントンと野菜を切る音。お湯を沸かす音。いつもなら心地よく感じるはずの生活音なのに、今の僕には、どんな音も神経を逆撫でするノイズにしか聞こえない。 その時、玄関の方で「ガタン」という音がした。 「ひっ!」 僕は反射的に頭を抱え、ソファの上でボールのように身を縮こまらせた。心臓がドクンドクンと耳の奥で激しく鳴り、息が浅くなる。 「翼? どうしたの?」 理子先輩が手を止めて、慌ててキッチンから出てきた。 「あ……えっと……今、玄関で、音が……誰か、入って……っ」 「ああ、隣の部屋の人が帰宅してドアを閉めた音よ。ここはオートロックだし、誰も入ってこない。大丈夫よ」 理子先輩が僕の隣に座って、震える肩を抱き、そっと手を握ってくれた。 「ごめんなさい……変ですよね、こんな、些細な音で……」 「変じゃないわ。あれだけの恐怖を味わったんだもの、神経が過敏になるのは当然の防衛反応よ」 理子先輩の温かい手に包まれ、僕は少しだけ呼吸を落ち着かせた。 「……夕食、一緒に作りましょうか? 一人でじっとしているより、私の隣にいた方が気が紛れるかもしれないし」
「……翼? 翼、聞こえる?」 優しい、大好きな声が、深い海の底から響くように聞こえてくる。 僕は鉛のように重いまぶたを開けて、ゆっくりと意識を浮上させた。 「あ……理子先輩……?」 「よかった……気がついたのね」 理子先輩の顔が、ぼんやりと見えてきた。ひどく心配そうな、泣きはらしたような表情を浮かべて、僕の手を両手でぎゅっと握りしめてくれている。 「ここは……?」 「救急病院よ。田村先生が、警察のパトカーと一緒に連れてきてくれたのよ。中村さんは……ショックで過呼吸になってしまって、今、先生が外のベンチで落ち着かせているわ」 そう言われて、僕はぼやけた視界で周りを見回した。白い壁、白いシーツ、冷たい消毒薬の匂い。たしかに病院の個室ベッドの上にいるようだった。 「体の調子はどう? 痛いところはない?」 「えっと……」 僕は体を動かしてみた。左腕に強く掴まれた内出血の痛みがあり、首筋と頬も、殴られたのか熱を持っているような鈍い痛みがある。でも、致命的な怪我はなさそうだ。 「いくつかの打撲と擦過傷があるけど、大きな怪我はないって先生がおっしゃってたわ。無理やり飲まされた強いアルコールと睡眠薬の症状も、点滴でだいぶ抜けてきているはずよ」 「アルコール……睡眠薬……?」 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中に断片的な記憶が、強烈な吐き気とともに蘇ってきた。 海岸の死角のテントで……入れ墨の男の人たちに……変な味のするジュースを無理やり飲まされて――。 「あ……そうだ……僕、あの時……っ!」 記憶が少しずつ繋がっていく。恐怖で心臓が早鐘のように打ち始めた。 「大丈夫よ、もう安全だから。もう何も心配いらないの」 理子先輩が、僕の頭を胸に抱き寄せて優しく撫でてくれる。その温かさに、僕は少しだけ呼吸を落ち着かせた。 「先生、意識が戻ったようです」 理子先輩が呼びかけると、カーテンの奥から白衣を着た男性の医師が近づいてきた。 その瞬間。 僕の体が、ビクッと大きく跳ねた。 「ひっ……!」 なんだろう、この感覚。 男性の医師を見ただけなのに、その骨格の大きさや、低い声のトーンに本能が激しく反応し、強烈な動悸と息苦しさが襲ってくる。 「……翼、大丈夫?」 「は、はい……ちょっと、びっくりしただけです……」 僕
土曜日の午前十時。僕たちは最寄り駅の改札前で桜井さんを待っていた。 理子先輩から借りた、少し大きめの白いニットワンピースに身を包み、足元は慣れないローヒールのパンプス。 休日のお出かけなんて、男だった頃は適当なシャツとジーンズだったのに、今は準備をするだけで一苦労だった。 「おはよう、翼ちゃん」 桜井さんが手を振りながらやってきた。今日はベージュのニットにデニムのロングスカートという出で立ちで、いつもの制服とは違った大人っぽい魅力がある。 「おはよう、桜井さん」 ちなみに、理子先輩も普段の学校でのかっちりした服装とは違って、ふんわりとした白いブラウスにカーキのフレアスカ
僕が女の子になってから――つまり、理子先輩との同居生活が始まってから、一週間ほどが経った。 朝、僕が朝食とお弁当を作り、学校に行って授業を受ける。放課後は部活で元に戻る方法を研究して、帰宅する。 そこから僕が夕食を作って、一日を終える――そんな疑似同棲のような日常のリズムが、少しずつ出来上がっていた。 でも、一つだけ、誰にも言えない深刻な問題があった。 「うっ……」 体育の授業中、持久走で走っている最中に、胸のあたりに鋭い痛みが走った。 「翼ちゃん、大丈夫?」 隣を走っていたクラスメイトが心配そうに声をかけてくれる。 「だ、大丈夫……っ」 僕は苦笑いを浮かべて
理子先輩の家に着いて、玄関で靴を脱いでいると、彼女が振り返った。 「お疲れ様。お風呂、沸かしておいたから先にどうぞ。ゆっくり疲れを取って」 「ありがとうございます」 リビングを通って脱衣所に向かいながら、僕の心臓は少しずつ早鐘を打ち始めた。 お風呂――。 昨日の夜は色々と余裕がなくて、シャワーを浴びたこともあまりよく覚えていない。でも今日は、ちゃんと自分自身で服を脱ぎ、湯船に浸かることになる。 つまり、この身体と、より深く直接的に向き合わなければならないのだ。 「……はぁ」 脱衣所で一人になった僕は、大きくため息をついた。 壁の鏡に映る自分を見る。 何度見
やばい、やばいやばい。 放課後のチャイムが鳴った瞬間、僕は机の上で握りしめていた両手にギュッと力を込めた。 一日中、いや、正確には今朝学校に着いてからずっと我慢し続けていたあの生理現象が、もう限界に達していた。 「翼ちゃん、お疲れ様――また明日ね」 カバンを持った桜井さんが振り返って手を振ってくれるけど、今はそれに応える余裕もない。脂汗をかきながら、愛想笑いを浮かべて小さく手を振り返すのが精一杯だった。 「……う、うん……ま、また……明日ね……」 「……? 顔色悪いよ? 気をつけて帰ってね」 桜井さんは少し心配そうな顔をしたけど、それ以上は何も言わずに教室を出て行った