LOGIN整然とデスクが並ぶ宣伝部のフロアには、キーボードを叩く乾いたタイピング音と、電話越しの控えめな話し声だけが規則正しく響いていた。
窓の外には、都心の無機質なビル群が切り取られたように並んでいる。空調のよく効いた社内の廊下を、詩織は手元のタブレットに視線を落としながら、静かな足取りで歩いていた。
結婚を機に主任へ昇進して、ちょうど一年が経つ。今では数人の後輩の指導や、会社の根幹に関わるいくつかの重要案件の進行管理を任されている。感情を一切表に出さず、どんな理不尽な要求にも眉一つ動かさず、淡々と正確に仕事をこなす水瀬主任。それが、この会社における詩織の姿だった。
プライベートを見せず、誰とも深く関わらない。ただの有能な歯車として完璧に立ち回る彼女を、周囲は一目置き、同時に少しだけ遠ざけている。深く踏み込まれれば、隠し通さなければならない致命的な秘密が露呈してしまうかもしれないから。
角を曲がり、社長室へと続く長い廊下に出ようとした瞬間だった。
ふわりと、ひどく場違いな甘ったるいフローラルの香りが鼻腔を掠めた。
無意識のうちに、タブレットをなぞっていた指先が止まる。
磨き上げられた大理石の廊下の向こう側から、並んで歩いてくる二つの影があった。
一人は、洗練されたダークスーツを完璧に着こなした、この会社の若き社長である羽島陵。そして、彼の太い腕に親しげに寄り添い、軽やかな足取りで歩くのは、トップモデルのアリス・橘だった。
社長室に彼女が出入りすることは、もはやこの社内では誰もが知る公然の事実だ。すれ違う社員たちが、遠巻きに恭しく会釈をし、あるいは羨望と好奇の入り混じった眼差しをこっそりと向けている。誰もが振り返る、完璧な美男美女の姿。光を一身に集めるような二人が歩くたび、周囲の空気がそこだけ華やいでいくのがわかる。
視界に入った瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。胃の底に、鉛のような重い塊がストンと落ちる。
けれど、詩織の顔には動揺の欠片も浮かばない。全部飲み込んで、見ないふりをして、ただ静かにやり過ごすこと。秘密の妻としての惨めでみっともない感情には、きつく鍵をかけて深海に沈めている。
詩織は壁際に身を寄せると、足をとめた。そして、ただの一介の部下として、美しく完璧な角度で深く頭を下げた。視線を床に落とし、自分の存在を極限まで消す。
近づいてくる二種類の靴音。硬い革靴の音と、華奢なヒールが床を打つ音がやけに耳に響く。
通り過ぎていくはずだったその足音が、詩織の目の前でピタリと止まった。
「あれ? 水瀬さんじゃない。久しぶり、元気にしてた?」
頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような、ひどく甘い声だった。
顔を上げると、アリスが詩織を見下ろして微笑んでいた。完璧なメイクで彩られた顔に浮かぶ、薄っぺらく、どこか見下すような笑顔。
かつて入社直後の撮影スタジオで、大勢のスタッフの前で詩織を激しく叱責し、意地悪に笑い捨てたことなど、まるで最初からなかったかのような態度だ。
(……どうして、そんな顔ができるのだろう)
腹の底で、黒くどろどろとした感情が渦を巻きかける。過去を許したわけではない。彼女への静かな怒りも、自分の立ち位置への虚しさも、決して消えてはいない。
それでも、詩織の唇は勝手に完璧な弧を描いていた。
「お久しぶりです、橘さま。お陰様で、元気に務めさせていただいております」
抑揚のない、けれど失礼のない声音で答える。一切の隙を見せず、心など最初から持っていないかのような詩織の笑顔に、アリスはつまらなそうに目を細めた。
その隣に立つ陵は、詩織と一切目を合わせようとはしなかった。
彼から漂う、ベルガモットとシダーウッドの冷たい香水の匂いが、アリスの甘い香水と混ざり合って鼻を突く。
「水瀬主任、例の案件はどうなっている」
氷のように冷たい、業務的な声だった。「羽島社長」としての、ただの部下に向けられた絶対的な響き。そこには、戸籍上の妻に対する情など微塵も存在しない。
「順調に進行しております。明日の午後の会議にて、詳細をご報告する予定です」
詩織もまた、感情の乗らない声で淡々と、淀みなく答える。
「そうか」
それだけを短く切り捨てると、陵は再び歩き出した。彼の関心はすでに詩織にはなく、前だけを見据えている。アリスがその後を追い、二人の靴音が再び大理石の床に鳴り響き、遠ざかっていく。
振り返ることすらしない、広くて遠い背中。その後ろ姿が廊下の角を曲がり、完全に見えなくなるまで、詩織は冷たい床を見つめ、深く頭を下げ続けていた。
二人の気配が完全に消え、香水の残り香だけが微かに漂う廊下の窓際で、詩織はようやく顔を上げた。
頭のてっぺんから爪先まで、ピンと張り詰めていた糸が、わずかに緩む。ひんやりとした分厚い窓ガラスに額を近づけ、周囲に誰もいないことを確認してから、詩織は一瞬だけ、小さく息を吐き出した。
肺の奥に溜まっていた重たく淀んだ空気が、細い息となって窓ガラスを微かに曇らせる。
「橘さん、本当に綺麗ね」
不意に背後から声をかけられ、詩織の肩がビクッと小さく跳ねた。
慌てて振り返ると、資料の束を抱えた同僚の女性社員が、二人が消えた廊下の先を夢見るような目で見つめて立っていた。
「スタイルも良くて、華やかで……社長とお似合いだわ。結婚秒読みって噂、本当なのかしら。もし結婚したら、ビッグカップルよね」
悪意のない、無邪気な言葉の刃。それが、無防備な胸の奥を容赦なく、深々と抉ってくる。
本当の妻は、すぐここにいるのに。
毎日同じ家に帰り、戸籍に同じ名字を刻んでいる女が、あなたの目の前に立っているのに。
喉の奥がカラカラに乾き、息が詰まる。心臓が早鐘のように打ち始めるが、詩織はすぐにいつもの分厚い仮面を貼り直した。
「……そうですね。お似合いの、素敵なお二人だと思います」
曖昧に頷き、同僚に向けて薄く、完璧な微笑みを返す。
誰も知らないのだ。羽島陵がすでに既婚者であることも、その隠された妻が、地味で面白みのない宣伝部主任である自分だということも。
公的な空間であるこの会社では、自分はただの「有能な部下」でしかない。どんなに彼の腕の中で夜を迎えようと、どんなに痛みを伴う熱を注がれようと、この絶対的な境界線を越えることは決して許されないのだ。
「水瀬主任? どうかした? 顔色が少し悪いみたいだけど」
「いえ……なんでもありません。少し、冷房が効きすぎているようですね。席に戻ります」
冷え切った指先でタブレットの端を強く握りしめ、詩織は同僚に一礼すると、足早に自分のデスクへと戻っていった。これ以上、あの二人に関する噂話を聞いていられるほど、今日の心は頑丈ではなかった。
◇◇◇
すっかり日が落ち、夜の帳が降りた頃。重い一軒家の玄関扉を開けると、ひんやりとした静寂だけが詩織を出迎えた。
電気のついていない、暗く広いリビング。キッチンにも、ダイニングにも、当然のように人の気配はない。
陵は帰ってきていなかった。あのアリスの機嫌を取るために、今頃どこかの高級なレストランで食事でもしているのか、あるいはもっと別の、甘い時間を過ごしているのだろう。こうして帰ってこない夜のほうがずっと多い。
詩織はリビングの入り口で一度立ち止まり、暗闇を見つめた。大きなソファも、二人で座るには広すぎるダイニングテーブルも、彼が不在のこの家では、ただの冷たいオブジェでしかない。
小さく息をつき、靴音を忍ばせるようにして薄暗い廊下を進む。
向かったのは、陵が使う寝室とは反対側にある、廊下のいちばん奥の部屋。陵が決して足を踏み入れることのない、家の半分。
冷たいドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
暗い部屋のスイッチを入れると、蛍光灯の白い光が部屋中を照らし出した。同時に、鼻腔を突くのは、油絵具とテレピン油の独特の匂い。
そこは、詩織の「アトリエ」だった。
結婚した日の夜、陵が「君の好きに使っていい」と、まるで興味がないというふうに無関心に告げた、まだ用途の決まっていなかった一室。
あれから一年。今では、大小様々なキャンバスが何枚も壁に立てかけられ、絵の具のチューブや筆が棚に整然と並ぶ、詩織にとっての絶対的な聖域になっていた。
陵は知らない。
彼はこの広い家の中で、リビングと寝室、そして水回りしか歩かない。詩織がこの部屋の奥で何をしているのか、夜な夜などんな絵を描いているのか、全く知らないのだ。家の半分も知らないまま、妻と暮らしている。
詩織は着ていたスーツのジャケットを無造作に脱ぎ捨てると、椅子に掛けられていた絵の具まみれの古いシャツを羽織った。
着慣れた、少しごわつく布の感触に包まれた瞬間。一日中被り続けていた重く息苦しい仮面が、少しだけ剥がれ落ちる気がした。
パレットに新しい絵の具を絞り出し、使い慣れた筆を握る。指先に馴染んだ木の感触が、ざわついていた心を少しだけ鎮めてくれる。
部屋の中央、イーゼルに立てかけられたキャンバスには、一枚の大きな人物画があった。顔を除いて、背景も、衣服の皺も、すべてが緻密に完成された絵だ。
暗く沈んだ背景の中に浮かび上がる、顔のない男の輪郭。広い肩幅。仕立てのいいスーツの質感。整えられた黒い襟足。近づきがたい、冷たい気配を纏った、彼の後ろ姿。
顔は、描かない。
筆の先にわずかな絵の具を取り、男の肩の輪郭を、なぞるように静かに色を重ねる。
今日、会社の大理石の廊下で、アリスを連れて遠ざかっていったあの冷たい背中。それを思い出しながら、少しずつ、少しずつ、形を整えていく。
キャンバスの上の彼は、決して詩織を傷つけない。氷のような冷たい言葉も投げかけないし、他の女の元へと歩み去ることもない。ただ永遠に、詩織の前でその美しい後ろ姿をとどめ続けてくれる。
(……同じ家に住んでいるのに)
筆を動かす手が一瞬だけ止まり、詩織は静かに目を伏せた。
――私の一番大切な場所を、あの人は知らない。
絵の具と亜麻仁油の匂いが染み付いたアトリエの静寂を破るように、エージェントであるカトリーヌが、硬い木製のテーブルの上にタブレットを滑らせた。 カチリ、と硬質な音が響く。 差し出された画面には、英語と日本語が混在したビジネスメールの文面が表示されていた。「会社の入り口に飾るための、特別な絵を描いてほしいという、企業からの新規の制作依頼よ」 コーヒーカップを持ったまま、詩織は視線を落とす。見覚えのない、日本の企業名だった。画廊を通さず、直接このアトリエへ送られてきた指名依頼。(珍しい案件ね)「この依頼主、あなたも見覚えがあるんじゃない? ほら、かつてはあなたの新作が出るたび、どんな高値でもすべて買い集める勢いだったのに、ここ数年前からぱたりと姿を見せなくなっていた、あの熱狂的な顧客よ」 カトリーヌの言葉に、詩織はコーヒーカップを置き、画面を指先でスクロールした。 依頼の目的、提示された破格の報酬額、そして、文末。 代表者名の欄に記された黒い文字を見た瞬間。 詩織の呼吸が、完全に止まった。『羽島陵』 画面上のその三文字が、鋭い刃となって詩織の網膜を突き刺す。 先日、朔の口から「会社を乗っ取られ、消息不明だ」と聞かされたばかりの、元夫の名前だ。 決して忘れることのできない、たった一人の男。 喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち始めた。指先が微かに震え、タブレットの冷たい縁を思わず強く握りしめる。「……日本だし、断る?」 沈黙の長さに気づいたのか、カトリーヌが気遣うように声を潜める。 彼女は、詩織が遠い日本に元夫を残し、逃げるようにこのパリへ渡ってきたことを、ある程度察している。有能なエージェントとしての彼女なりの、静かで優しい配慮だった。「引き受けるわ」 迷う間もなく、言葉は詩織の唇からこぼれ落ちていた。 自分の口を突いて出た言葉のあまりの速さと、そこに込められた切実な響きに、自分自身が一番驚愕している。 カトリーヌが、少しだけ目を丸くして詩織を見た。 嘘だ。本当は、消息不明だと聞いた日から、ずっと彼のことが気になって仕方がなかった。彼がどこで何をしているのか。その狂おしいほどの執着を、誰より自分自身に見透かされたような気がして、詩織はたまらず奥歯を強く噛み締めた。 その日の夜。 アトリエでの
パリの午後の光は、どこかひどく乾いている。 高い天窓から斜めに差し込む陽光が、空中の細かな埃をきらきらと反射させながら、アトリエの荒削りな木板の床に淡い四角形をくっきりと描き出していた。窓の外から聞こえてくる、石畳を叩く車の走行音や、遠くで響く教会の鐘の音。それらが厚いガラス窓に遮られてくぐもった響きとなり、この部屋の静寂をより一層際立たせている。 油絵具の重たくて甘やかな匂いと、亜麻仁油の独特な香り。それに混じって、キャンバスの脇に置かれたマグカップから、微かに漂うペパーミントティーの清涼な香りが鼻腔をくすぐる。 水瀬詩織の細い指先が握る筆先が、滑らかに、そして迷いなく、キャンバスの上へ色を重ねていく。 ペインティングナイフで削り取っては、再び筆を走らせる。硬質な摩擦音と、布地が擦れる微かな音だけが、規則正しいリズムを刻んでいた。 数年の時間が、静かに、だが確実に過ぎていた。 かつて、夫の心を探り、感情を押し殺し、冷たくて広い家の中でただ息を潜めていた「妻」という名の幽霊のような女は、もうここにはいない。 世界的な覆面画家として、詩織は今、自らの足で立ち、静かで、そして確固たる生活を築き上げていた。自らの奥底から絞り出し、生み出した色彩が、海を越えて誰かの心を震わせる。誰の付属物でもない、誰の庇護も必要としない、水瀬詩織という一個の人間としての、はっきりとした輪郭。 それが、ここパリのアトリエには確かに存在していた。 パレットの上で、深い青と微かな白を混ぜ合わせ、自分だけの夜空の色を作り出そうとしていた時だった。 背後で、重い木製の扉が開く鈍い音がした。「邪魔するよ」 ノックとほぼ同時に響いたその声に、詩織は肩の力を抜いた。軽い足音とともに、草薙朔がアトリエに足を踏み入れる。彼の手に持ち込まれた二つの紙コップから、淹れたてのコーヒーの芳醇で苦味のある香りが、油絵具の匂いが充満する空気にすっと割り込んできた。 共に海外で活動する画家仲間であり、今の詩織の生活圏に最も深く立ち入る男。 朔は、キャンバスの横に置かれた、絵の具の汚れがこびりついた古いスツールに無造作に腰を下ろすと、長い足を組んだ。着古したレザージャケットが、微かに擦れる音を立てる。「そろそろ俺のものになる気ない?」「ない」 筆を止めることすらなく、詩織は即答した。
会社に出社した瞬間、空気の異質さに肌が粟立った。 見慣れているはずの、そして自らが守り続けてきたはずの社長室。その重厚なマホガニーのデスクも、壁に掛けられたクラシカルな絵画も、すべてが昨日までとは違う、ひどく他人のもののような冷徹さを帯びて陵を迎える。 何より、部屋の隅々にまで完全に染み付いていた。 噎せ返るほどに甘ったるく、粘り気のあるフローラルの香水の匂い。 詩織の残していった、あの微かな絵の具と亜麻仁油の静謐な香りとはあまりにもかけ離れた、欲望そのものを形にしたような毒々しい芳香が、陵の鼻腔を容赦なく蹂躙する。息を吸い込むたびに、胃の奥が嫌悪感で不快に脈打った。 静寂を切り裂くように、硬い音が近づいてくる。 カツカツ、と。大理石の床を、そして木製のフローリングを容赦なく傷つけるようにして、ヒールの音が暴力的なリズムを刻む。 開かれたドアの向こうから現れたのは、仕立ての良い豪奢なドレスを纏ったアリス・橘だった。彼女の唇は、獲物を追い詰めた猛獣のように、歪で底意地の悪い笑みを湛えている。「連絡、きているかしら? 今日から私がここの社長。陵は秘書よ」 勝ち誇った声が、天井の高い室内に不快に反響した。 アリスの父親が持つ絶大な権力。それを用いて裏で汚く手を回され、陵が血の滲むような思いで維持してきた会社は、一晩のうちに強引な吸収合併の波に呑み込まれていた。 すべては、陵が先ほど彼女に別れを切り出したことに対する、アリスなりの、そして橘家なりの残酷で迅速な報復に他ならなかった。 男から地位を奪い、誇りを奪い、逃げ道をすべて塞ぐ。そうして自分の手元に、都合のいい人形として永遠に縛り付けるための、浅ましくも確実な罠。 胸の奥から、乾いた笑いがせり上がってくる。 会社を守るため。ただその大義名分のために、詩織というかけがえのない存在を日陰に追いやり、冷徹な仮面を被って彼女の心を殺し続けた。その結果が、この無残な結末だった。守りたかった城は、一瞬にして砂の城のように崩れ去り、手元には何も残っていない。 アリスがゆっくりと陵の前に歩み寄ってくる。 香水の匂いがさらに色濃くなり、眩暈がしそうなほどの不快感が陵を襲った。 アリスは躊躇いもなく手を伸ばすと、丁寧に手入れされ、真っ赤なネイルに彩られた指先で、陵の顎を強引に掴み上げた。 爪が皮膚に食
絵の具と亜麻仁油の、ひどく重苦しく粘り気のある匂いが立ち込めるアトリエ。 暖房の切れた部屋の床に座り込んだまま、陵の中から時間の感覚が完全に抜け落ちていた。 一睡もしていない。瞬きをすることすら忘れ、ただ一点を見つめ続けていた。無垢材のフローリングの硬い冷たさが、上質なスラックスの薄い生地を透過し、じわじわと肌の奥まで氷のような冷気を突き刺してくる。膝を抱え込む指先はとうに温度を失い、死体のように冷え切っていた。ただ心臓だけが耳の奥で、ドクン、ドクンと、ひどく鈍く、無意味な脈動を単調に繰り返している。 真っ黒に暗転したスマートフォンの画面を、祈りを捧げる狂信者のように両手で強く握りしめる。ガラスの表面には、無精髭を生やし、絶望に顔を歪めたひどく無様な男の顔が亡霊のように映り込んでいた。 何度かけ直しても、詩織の番号からは無機質で冷酷なアナウンスが等間隔で返ってくるだけだ。メッセージアプリを開いても、画面に並ぶ緑色の吹き出しの横に「既読」の文字がつくことはない。彼女の時間を、陵という存在が完全に切り離されてしまったことを、残酷なまでに視覚が訴えかけてくる。(俺は――詩織を失った……) その決定的な事実が、冷たい泥のように胃の奥にどろりとたまり、強烈な吐き気を催させる。喉の奥からせり上がってくる酸っぱい胃液を、奥歯を強く噛み締めて必死に飲み込んだ。 唯一の連絡手段だった草薙朔からの通話も、陵を容赦なく拒絶し、ツーツーという無機質な電子音とともに切断された。 だが、諦めることなどできなかった。諦められるはずがない。 ここで手を離せば、詩織は本当に陵の届かない場所へ、永遠に消えてしまう。その恐怖が、全身の血液を急速に沸騰させ、同時に凍りつかせる。 残された手がかりは、草薙朔というあの憎き男の存在だけだった。 先日のパーティの夜。シャンデリアの眩い光の下で、詩織が陵には一度も見せたこともないほど柔らかく、無防備な笑顔を向けていた若い男の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏を激しく焼く。 詩織と同じ画家であり、彼女と親しげに笑い合っていたあの男。光の世界の住人。彼女の才能を理解し、彼女を鳥籠から連れ出そうとした男。 詩織は今、陵の手の絶対的な支配が及ばない、あの男の元へ身を寄せているに違いない。 陵以外の男の温もりを求めているかもしれない。あ
冬の終わりと春の入り口が混じり合う、酷く冷え込んだ夜だった。 都心の高級ホテルの一室。分厚いカーテンに遮られた窓の外には、無数の光が瞬く夜景が広がっているのだろうが、今の詩織にそれを楽しむ余裕はない。間接照明の仄暗いオレンジ色の光だけが、静寂に包まれた部屋を頼りなく照らしていた。 空調の微かな稼働音だけが、等間隔に鼓膜を打つ。 詩織は、部屋の隅に置かれた一人掛けのソファに深く沈み込んでいた。足元には、慌ただしく荷物を詰め込んできた小さなキャリーケースが、ぽつんと置かれている。身に纏っているのは、皺の寄った漆黒の喪服だ。黒い布地が、疲労しきった身体に鉛のように重くのしかかっている。 たった数時間前、母の葬儀を終え、誰のいない冷たい寝室で離婚届にサインをした。愛しているからこそ、これ以上彼のそばにいることはできなかった。身を引き裂かれるような思いでペンを走らせ、逃げるように家を飛び出したのだ。 行く当てなどなかった。冷たい夜風に吹かれながら、ぼんやりと街を歩き、気づけば一つの番号をタップしていた。 頼れる相手は、もう、朔しかいなかった。 同じ画家であり、誰よりも詩織の本音を知る親友。彼は急な連絡にも嫌な顔一つせず、現在滞在しているこのホテルの部屋へ詩織を招き入れてくれた。 温かいコーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。朔が淹れてくれたマグカップを両手で包み込んでいるものの、指先は氷のように冷たいままだ。 静寂を破ったのは、ローテーブルの上に置かれたスマートフォンの無機質な振動音だった。 ブーッ、ブーッ、と。硬いテーブルの天板を震わせる音が、部屋の空気を一瞬にして張り詰めさせる。 マグカップを持つ詩織の手が、びくりと跳ねた。中の褐色の液体が波打ち、表面に歪な波紋を作る。 ソファの向かい、ベッドの端に腰掛けていた朔が、ゆっくりと手を伸ばして画面を覗き込んだ。長い前髪の奥で、鋭い双眸が僅かに細められる。「お前の旦那からだ」 淡々とした、平坦な声だった。 その言葉が耳に届いた瞬間、詩織の心臓が警鐘のように激しく打ち鳴らされた。胃の奥がぎゅっと収縮し、冷や汗が背筋を伝い落ちる。 彼がかけてくるはずはない。そう思っていた。離婚届を見つければ、彼は安堵して、アリスという本命の女性の元へ向かうはずだ。それが、詩織が望んだ結末なのだから。 朔は詩織の強張っ
どれくらいの時間が過ぎたのか、わからない。 絵の具と亜麻仁油の重苦しい匂いが立ち込めるアトリエの床に座り込んだまま、陵の中から時間の感覚が完全に抜け落ちていた。フローリングの硬い冷たさが、上質なスラックス越しにじわじわと肌を刺してくる。指先はとうに温度を失い、心臓だけが耳の奥で鈍く、無意味な脈動を繰り返していた。 静寂が鼓膜にへばりつく。広い屋敷の中で、今は自分の呼吸音すらひどく遠く感じられた。 視界の端には、キャンバスの中にいる陵自身がいる。 冷徹に計算された光と影。そこに描かれているのは、妻に対する陵の傲慢さと無関心だ。陵を完全に見限った女が残した、冷酷なまでの最後通告。描きかけの筆跡が、彼女の絶望の深さを物語っているようで、見つめるたびに胸の奥が鋭く抉られた。 息を吸うたび、喉の奥が砂を噛んだようにザラつく。肺に酸素が届かず、浅い呼吸が繰り返される。(詩織……) 声にもならない名を呼んで、ふと、ある記憶が脳裏に蘇る。 先日のパーティ。彼女が、陵には見せたこともないほど柔らかく、無防備な笑顔を向けていた若い男の姿。 草薙朔。 詩織と同じ画家であり、彼女と親しげに笑い合っていたあの男なら、詩織の連絡先を知っているかもしれない。たとえ直接教えてもらえなくても、今の陵の言葉を、血を吐くようなこの謝罪を取り次いでくれる可能性はある。 暗闇の中で、わずかな光の糸が垂れ下がってきた気がした。 だが、陵のスマートフォンにあの男の連絡先は入っていない。凍りついた思考を無理やり動かし、陵は一つの残酷な事実に思い至る。(アリス……) 胃の奥から、強烈な吐き気が込み上げてくる。腹の底で嫌悪がどろりと渦を巻いた。 アリスなら、草薙の連絡先を知っているはずだ。彼女が最近、あの若い画家に目をつけて落としにかかっていることは、陵も把握済みだった。 あの男はパーティで堂々と宣誓布告をしてきたのだ。陵の妻である詩織に、明確な好意を寄せて。 彼ならきっと詩織の居場所を知っているはず。 ちっぽけなプライドにこだわっている余裕など、今の陵には一欠片も残されてはいなかった。なりふりなど構っていられない。詩織と繋がるたった一本の細い糸を手繰り寄せられるなら、陵は泥水を啜ってでも縋りつく。彼女を失う恐怖が、全身の血液を急速に冷やしていく。 震える指で液晶画面を叩き、







