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第七話「白日の仮面と、沈黙の聖域」

ผู้เขียน: ひなた翠
last update วันที่เผยแพร่: 2026-05-24 08:42:54

 整然とデスクが並ぶ宣伝部のフロアには、キーボードを叩く乾いたタイピング音と、電話越しの控えめな話し声だけが規則正しく響いていた。

 窓の外には、都心の無機質なビル群が切り取られたように並んでいる。空調のよく効いた社内の廊下を、詩織は手元のタブレットに視線を落としながら、静かな足取りで歩いていた。

 結婚を機に主任へ昇進して、ちょうど一年が経つ。今では数人の後輩の指導や、会社の根幹に関わるいくつかの重要案件の進行管理を任されている。感情を一切表に出さず、どんな理不尽な要求にも眉一つ動かさず、淡々と正確に仕事をこなす水瀬主任。それが、この会社における詩織の姿だった。

 プライベートを見せず、誰とも深く関わらない。ただの有能な歯車として完璧に立ち回る彼女を、周囲は一目置き、同時に少しだけ遠ざけている。深く踏み込まれれば、隠し通さなければならない致命的な秘密が露呈してしまうかもしれないから。

 角を曲がり、社長室へと続く長い廊下に出ようとした瞬間だった。

 ふわりと、ひどく場違いな甘ったるいフローラルの香りが鼻腔を掠めた。

 無意識のうちに、タブレットをなぞっていた指先が止まる。

 磨き上げられた大理石の廊下の向こう側から、並んで歩いてくる二つの影があった。

 一人は、洗練されたダークスーツを完璧に着こなした、この会社の若き社長である羽島陵。そして、彼の太い腕に親しげに寄り添い、軽やかな足取りで歩くのは、トップモデルのアリス・橘だった。

 社長室に彼女が出入りすることは、もはやこの社内では誰もが知る公然の事実だ。すれ違う社員たちが、遠巻きに恭しく会釈をし、あるいは羨望と好奇の入り混じった眼差しをこっそりと向けている。誰もが振り返る、完璧な美男美女の姿。光を一身に集めるような二人が歩くたび、周囲の空気がそこだけ華やいでいくのがわかる。

 視界に入った瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。胃の底に、鉛のような重い塊がストンと落ちる。

 けれど、詩織の顔には動揺の欠片も浮かばない。全部飲み込んで、見ないふりをして、ただ静かにやり過ごすこと。秘密の妻としての惨めでみっともない感情には、きつく鍵をかけて深海に沈めている。

 詩織は壁際に身を寄せると、足をとめた。そして、ただの一介の部下として、美しく完璧な角度で深く頭を下げた。視線を床に落とし、自分の存在を極限まで消す。

 近づいてくる二種類の靴音。硬い革靴の音と、華奢なヒールが床を打つ音がやけに耳に響く。

 通り過ぎていくはずだったその足音が、詩織の目の前でピタリと止まった。

「あれ? 水瀬さんじゃない。久しぶり、元気にしてた?」

 頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような、ひどく甘い声だった。

 顔を上げると、アリスが詩織を見下ろして微笑んでいた。完璧なメイクで彩られた顔に浮かぶ、薄っぺらく、どこか見下すような笑顔。

 かつて入社直後の撮影スタジオで、大勢のスタッフの前で詩織を激しく叱責し、意地悪に笑い捨てたことなど、まるで最初からなかったかのような態度だ。

(……どうして、そんな顔ができるのだろう)

 腹の底で、黒くどろどろとした感情が渦を巻きかける。過去を許したわけではない。彼女への静かな怒りも、自分の立ち位置への虚しさも、決して消えてはいない。

 それでも、詩織の唇は勝手に完璧な弧を描いていた。

「お久しぶりです、橘さま。お陰様で、元気に務めさせていただいております」

 抑揚のない、けれど失礼のない声音で答える。一切の隙を見せず、心など最初から持っていないかのような詩織の笑顔に、アリスはつまらなそうに目を細めた。

 その隣に立つ陵は、詩織と一切目を合わせようとはしなかった。

 彼から漂う、ベルガモットとシダーウッドの冷たい香水の匂いが、アリスの甘い香水と混ざり合って鼻を突く。

「水瀬主任、例の案件はどうなっている」

 氷のように冷たい、業務的な声だった。「羽島社長」としての、ただの部下に向けられた絶対的な響き。そこには、戸籍上の妻に対する情など微塵も存在しない。

「順調に進行しております。明日の午後の会議にて、詳細をご報告する予定です」

 詩織もまた、感情の乗らない声で淡々と、淀みなく答える。

「そうか」

 それだけを短く切り捨てると、陵は再び歩き出した。彼の関心はすでに詩織にはなく、前だけを見据えている。アリスがその後を追い、二人の靴音が再び大理石の床に鳴り響き、遠ざかっていく。

 振り返ることすらしない、広くて遠い背中。その後ろ姿が廊下の角を曲がり、完全に見えなくなるまで、詩織は冷たい床を見つめ、深く頭を下げ続けていた。

 二人の気配が完全に消え、香水の残り香だけが微かに漂う廊下の窓際で、詩織はようやく顔を上げた。

 頭のてっぺんから爪先まで、ピンと張り詰めていた糸が、わずかに緩む。ひんやりとした分厚い窓ガラスに額を近づけ、周囲に誰もいないことを確認してから、詩織は一瞬だけ、小さく息を吐き出した。

 肺の奥に溜まっていた重たく淀んだ空気が、細い息となって窓ガラスを微かに曇らせる。

「橘さん、本当に綺麗ね」

 不意に背後から声をかけられ、詩織の肩がビクッと小さく跳ねた。

 慌てて振り返ると、資料の束を抱えた同僚の女性社員が、二人が消えた廊下の先を夢見るような目で見つめて立っていた。

「スタイルも良くて、華やかで……社長とお似合いだわ。結婚秒読みって噂、本当なのかしら。もし結婚したら、ビッグカップルよね」

 悪意のない、無邪気な言葉の刃。それが、無防備な胸の奥を容赦なく、深々と抉ってくる。

 本当の妻は、すぐここにいるのに。

 毎日同じ家に帰り、戸籍に同じ名字を刻んでいる女が、あなたの目の前に立っているのに。

 喉の奥がカラカラに乾き、息が詰まる。心臓が早鐘のように打ち始めるが、詩織はすぐにいつもの分厚い仮面を貼り直した。

「……そうですね。お似合いの、素敵なお二人だと思います」

 曖昧に頷き、同僚に向けて薄く、完璧な微笑みを返す。

 誰も知らないのだ。羽島陵がすでに既婚者であることも、その隠された妻が、地味で面白みのない宣伝部主任である自分だということも。

 公的な空間であるこの会社では、自分はただの「有能な部下」でしかない。どんなに彼の腕の中で夜を迎えようと、どんなに痛みを伴う熱を注がれようと、この絶対的な境界線を越えることは決して許されないのだ。

「水瀬主任? どうかした? 顔色が少し悪いみたいだけど」

「いえ……なんでもありません。少し、冷房が効きすぎているようですね。席に戻ります」

 冷え切った指先でタブレットの端を強く握りしめ、詩織は同僚に一礼すると、足早に自分のデスクへと戻っていった。これ以上、あの二人に関する噂話を聞いていられるほど、今日の心は頑丈ではなかった。

    ◇◇◇

 すっかり日が落ち、夜の帳が降りた頃。重い一軒家の玄関扉を開けると、ひんやりとした静寂だけが詩織を出迎えた。

 電気のついていない、暗く広いリビング。キッチンにも、ダイニングにも、当然のように人の気配はない。

 陵は帰ってきていなかった。あのアリスの機嫌を取るために、今頃どこかの高級なレストランで食事でもしているのか、あるいはもっと別の、甘い時間を過ごしているのだろう。こうして帰ってこない夜のほうがずっと多い。

 詩織はリビングの入り口で一度立ち止まり、暗闇を見つめた。大きなソファも、二人で座るには広すぎるダイニングテーブルも、彼が不在のこの家では、ただの冷たいオブジェでしかない。

 小さく息をつき、靴音を忍ばせるようにして薄暗い廊下を進む。

 向かったのは、陵が使う寝室とは反対側にある、廊下のいちばん奥の部屋。陵が決して足を踏み入れることのない、家の半分。

 冷たいドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。

 暗い部屋のスイッチを入れると、蛍光灯の白い光が部屋中を照らし出した。同時に、鼻腔を突くのは、油絵具とテレピン油の独特の匂い。

 そこは、詩織の「アトリエ」だった。

 結婚した日の夜、陵が「君の好きに使っていい」と、まるで興味がないというふうに無関心に告げた、まだ用途の決まっていなかった一室。

 あれから一年。今では、大小様々なキャンバスが何枚も壁に立てかけられ、絵の具のチューブや筆が棚に整然と並ぶ、詩織にとっての絶対的な聖域になっていた。

 陵は知らない。

 彼はこの広い家の中で、リビングと寝室、そして水回りしか歩かない。詩織がこの部屋の奥で何をしているのか、夜な夜などんな絵を描いているのか、全く知らないのだ。家の半分も知らないまま、妻と暮らしている。

 詩織は着ていたスーツのジャケットを無造作に脱ぎ捨てると、椅子に掛けられていた絵の具まみれの古いシャツを羽織った。

 着慣れた、少しごわつく布の感触に包まれた瞬間。一日中被り続けていた重く息苦しい仮面が、少しだけ剥がれ落ちる気がした。

 パレットに新しい絵の具を絞り出し、使い慣れた筆を握る。指先に馴染んだ木の感触が、ざわついていた心を少しだけ鎮めてくれる。

 部屋の中央、イーゼルに立てかけられたキャンバスには、一枚の大きな人物画があった。顔を除いて、背景も、衣服の皺も、すべてが緻密に完成された絵だ。

 暗く沈んだ背景の中に浮かび上がる、顔のない男の輪郭。広い肩幅。仕立てのいいスーツの質感。整えられた黒い襟足。近づきがたい、冷たい気配を纏った、彼の後ろ姿。

 顔は、描かない。

 筆の先にわずかな絵の具を取り、男の肩の輪郭を、なぞるように静かに色を重ねる。

 今日、会社の大理石の廊下で、アリスを連れて遠ざかっていったあの冷たい背中。それを思い出しながら、少しずつ、少しずつ、形を整えていく。

 キャンバスの上の彼は、決して詩織を傷つけない。氷のような冷たい言葉も投げかけないし、他の女の元へと歩み去ることもない。ただ永遠に、詩織の前でその美しい後ろ姿をとどめ続けてくれる。

(……同じ家に住んでいるのに)

 筆を動かす手が一瞬だけ止まり、詩織は静かに目を伏せた。

 ――私の一番大切な場所を、あの人は知らない。

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