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第六話「甘やかなる贖罪」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-05-22 22:16:26

 財界人パーティを早退した詩織は、タクシーで帰宅し、シャワーも浴びる気力もなく、薄手のネグリジェだけを身に着けて寝室のベッドに横たわっていた。

 下腹部がまだ、じくじくと灼けている。少し動いただけで、内側のいちばん深い場所が鈍く脈打って、息が詰まった。

 好きな人に抱かれた。籍を入れて半年、形だけの夫婦を続けてきたあの人に。それなのに、胸の奥はむしろ、ますます痛む。

 眠りたいのに――身体は鉛のように重く疲労していたが、瞼の裏だけが妙に冴え渡っていて、暗闇の中でじっと天井を見つめ続けていた。

 その時、階下で玄関の鍵が回る音がした。

 詩織の身体が、跳ねるように強張る。

 震える指で携帯電話を掴み、時刻を確認する。午後九時を、わずかに過ぎた頃合いだった。パーティはまだ終わっていない時間。それに何より、あの人にはアリスと過ごす夜が、当然のように用意されているはずだった。

 階段を上がってくる足音。いつもより少しだけ急いでいるような、不規則な響き。

 詩織は咄嗟に布団の奥深くへと潜り込み、固く目を閉じて寝たふりをした。

 寝室の扉が、ノックもなしに乱暴に開かれた。直後、部屋の照明がつけられ、まぶたの裏が白く染まる。

「――詩織」

 低く、いつもより酷く掠れた声で名前を呼ばれた。

 詩織は返事をしない。ベッドが軋み、すぐ近くから覗き込まれる気配がする。

 大きな手のひらが、布団の縁からはみ出していた詩織の頭の上に、そっと置かれた。優しく、髪を撫でられる。まるで子供をあやすような、不器用な仕草だ。

 息が止まりそうになった。あの、撮影スタジオの日と同じ触れ方。

 なぜ今、こんな触れ方をするのだろう。会場の物陰で、己の欲望のままに苛立たしげに腰を振っていた人と、同じ男とは思えない。

「詩織」

 もう一度呼ばれるが、寝たふりを続けた。

 陵の鼻先が髪に近づき、くんと匂いを嗅がれる気配がした。

 ふいに、陵が身体を起こす。ネクタイを引き抜く衣擦れの音。スーツの上着を脱ぎ、そのまま床へと落とす鈍い音がした。完璧主義で潔癖な彼なら、いつもは絶対に脱ぎ散らかしたりしないのに。

「詩織」

 三度目の声が、いちばん低く、重かった。

 次の瞬間、掛け布団が一気に剥ぎ取られた。

 冷たい空気とともに、彼の匂いが降ってくる。仄かなアルコールと、ベルガモットとシダーウッドの深く冷たい香水。

(――あの匂いがしない)

 詩織は気づく。会場でアリスから色濃く香っていた、あのフローラルの甘ったるい女物の香水の匂いが、彼からは一切しない。

 ベッドが大きく軋み、陵が詩織の上に跨ってきた。

 首筋に熱い唇が押し当てられる。強く吸い上げられ、軽く歯を立てられた。

「ん――っ」

 鋭い痛みに、反射のように声が漏れてしまう。

 詩織の上から、ばっと彼の身体が起き上がった。もう、目を開けるしかなかった。

「起きたか?」

 見下ろす鋼色の瞳。低い声に射すくめられ、詩織はただ瞬きを繰り返す。

「り、陵さん……何を――して」

「パーティを抜け出して何をしてた?」

 有無を言わせぬ問い詰め。

「抜け出して? 家に、帰りました」

「それが本当か。チェックしてる」

「――え?」

「他の男を咥えてないか」

 氷のように冷たい宣告。

「……、咥え――」

 詩織は絶句し、声を失う。

 反論する間も与えられなかった。

 ネグリジェの細い肩紐が、片方ずつゆっくりと引き下ろされる。明るい蛍光灯の下で、薄絹の滑らかな生地が乳房の上を伝って落ちていく。

「や、やめ……」

「黙ってろ」

 明るい部屋で、彼に素肌を晒すのは初めてだった。会場の物陰では薄暗い闇に紛れていたのに、今は何もかもが容赦なく見えてしまっている。

 陵の指が、確かめるように肌を走っていく。首筋、耳の裏、鎖骨の窪み。顔を近づけられ、執拗に匂いを嗅がれる。脇のあたりにも冷たい指を這わせ、柔らかなふくらみの輪郭をなぞる。

 他の男の匂いがしないか、他の男の指の痕がないか、唇の赤みがないか――狂気じみた眼差しで、確認している。

 詩織の頬が燃えるように熱くなる。彼がこんなにも自分の身体に執着していること。そのねじれた事実が、痛みの残る身体の奥で、別の鼓動を鳴らし始めている。

 陵の指がネグリジェの裾の中へ滑り込み、下着の縁にかかった。

「ま、待っ――」

 制止は間に合わない。片膝を強引に持ち上げられ、薄い布が足首から抜き取られた。

 明るい光の下に、それが引き出された瞬間。

 陵の動きが、ぴたりと止まった。

 彼の手の中で、白い下着の布の内側に滲んだ、鮮やかな赤。そして、まだ乾ききらずに残っていた、生々しい白濁の液。

「――詩織」

 彼の声が変わる。先程までの苛立った熱が完全に抜け落ち、戸惑いに似たひび割れた響きが滲む。

「もしかして、さっきの……初めて……だったのか」

 詩織は答えられない。明るい光が眩しすぎて、彼が見せる表情を直視できず、ゆっくりと目を伏せる。

「……はい」

 小さく告げる。

 長い沈黙が降りた。

 陵は何も言わない。手の中の下着が、ベッドの脇にそっと置かれた。

 大きな手のひらが、詩織の頬に当てられる。冷たい。会場ではあれほど熱を帯びていた手が、今はひどく冷えている。

「……ごめん」

 たった三文字。彼の喉が何度か上下に動き、何かを言いかけて飲み込むのが見えた。

 次の瞬間、彼の唇が詩織の唇に降りてくる。

 今までと全く違うキスだった。最初は触れるか触れないかの軽さ。それからゆっくりと唇全体が重なり、深く、確かめるような口づけ。舌が静かに絡められ、唾液が混じり合い、かすかな水音が漏れる。

「痛かったろう?」

「……大丈夫、です」

「今度は、優しくするから」

 耳元に落ちた囁きに、嘘はなかった。

(――今度?)

 彼の指が、太ももの間へ降りていく。あの場所に触れる前に、内ももを撫で、なだめるように肌の輪郭を確かめる。会場では決してなかった、前段階の優しさ。

 指の腹が、まだ少し腫れて熱を持っているその場所に、そっと触れる。

 詩織の腰が小さく跳ねる。

 ゆっくりと外側をなぞる。会場で滲み出ていた何かと、彼自身が放ったものの名残とで、そこはまだ十分に濡れていた。指の腹が優しく円を描く。

「あ……っ」

 声が漏れる。今度は、必死に口を塞いで止めることはしなかった。

 陵の指が、ゆっくりと内側へ入ってくる。会場で無慈悲に押し込まれた時の、引き裂かれるような熱とは違う。緩やかに、丁寧に解されていく感覚。

 ふいに、彼の指がある一点を軽く押す。

 詩織の身体の奥が、ぞくりと震えた。

「ん、んっ……」

「ここか」

 彼が低く呟き、同じ場所を押し続ける。

 抗えない快感に涙が滲み、詩織の腰が勝手に跳ねる。

「我慢、するな」

「あ、あ……っ、陵、さん……」

 身体の奥から何かが込み上げて弾ける。温かい液体が止めどなく溢れ、太ももの内側がしっとりと濡れていく。

 彼の指の腹に絡んでこぼれてきた白濁を、陵はしばらく無言で見つめていた。会場で奥に注いだものの、最後の名残。

「――俺の」

 ぼそりと、独占欲にまみれた声で呟かれる。

「……陵さんの、です」

 応えるように詩織は囁く。

 彼の喉がごくりと鳴り、鋼色の瞳の奥に言葉にならない何かが激しく揺らぐのが見えた。

「詩織」

 彼の硬い身体がゆっくりと覆い被さってくる。今度は乱暴に押し付けるのではなく、すり合わせるように、確かめるように。熱を持った先端が、解された場所にぴたりと当てられる。

「ゆっくり、入れる」

 彼が入ってくる。先ほどの鋭い痛みの中に、別の甘い感覚が混じる。ゆっくりと、奥の奥まで満たされていく。

 陵の左手が、シーツの上で握りしめられていた詩織の右手を、上から包むように握り込む。指の一本一本を、自分の指の間に絡めていく。重なった肌から、互いの確かな体温が伝わってくる。

 なぜ、こんなことをするのだろう。

 会場では背後から、ただひたすらに突き上げただけの人が、今はなぜ、こんなふうに指を絡めるのだろう。

「声を、聞かせて」

 吐息混じりの囁きが耳朶を打つ。

「あっ……、ん……っ」

 目尻から涙がこぼれる。痛みの涙か、それとも別の理由か、自分でもわからなかった。

 彼の腰がゆっくりと動き始める。短く、深く。乱暴に押し付けるのではなく、ひどく慈しむような動き。奥のいちばん深い場所を、何度も、優しく押し上げてくる。

 陵の額に汗が滲む。会場でアリスの腰を抱き、何ごともなかったかのように笑っていたあの人と。物陰で苛立たしげに腰を振っていた人とも、違う。

 彼の腰の動きが、さらに深くなる。奥のいちばん柔らかい場所を強く押し上げられ、絡めた指にぎゅうっと力がこもる。

「あ、あぁっ……」

 詩織の身体の奥で、強烈な光が弾ける。会場では決して出せなかった声が、明るい寝室の中に響き渡る。

 陵もほぼ同時に息を詰め、喉の奥で低く唸った。

 奥のいちばん深い場所に、再び熱が注がれる。今度はゆっくりと満たされていく、確かな温かさ。

 陵の額が詩織の額に、こつんと当たる。汗ばんだ前髪が肌に貼りつく。荒い息と息が、至近距離で混じり合う。

 彼の汗ばんだ瞼が、わずかに震えているのが見える。何かを言いかけて、また飲み込んでいるのが、見ていて痛いほどわかる。

 絡めた指から、ようやく力が抜けていく。

 彼の大きな指が、詩織の頬に貼りついた汗ばんだ髪を、そっと払ってくれる。

 その仕草のたまらない優しさが、詩織の胸の奥を深く、深く抉る。

(なんで形だけの夫婦のはずなのに、なぜ、こんなふうに、優しく抱くんですか)

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