LOGINさらさらと紙の上を走る筆の音だけが、静まり返ったアトリエに響いている。
キャンバスに向かい、無心で筆を動かしていると、詩織の意識はいつしか現実の輪郭を失い、深い記憶の底へと沈んでいった。
絵を描いているときは、いつもそうだ。指先の微細な動きだけが確かな現実となり、それ以外の世界は霧の向こうへと遠ざかっていく。集中が極限に達したとき、心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んでいた記憶の引き出しが、ひとりでに、音もなく開いていくのだ。
あれは――まだ、今の会社に入社して間もない頃のこと。
若さゆえの希望と、それ以上に大きな不安を抱えていた。
◇◇◇
初夏の、長く明るい午後だった。
郊外のスタジオに一歩踏み入れると、そこには独特の気だるい熱気が渦巻いていた。大型の撮影機材が放つジリジリとした熱、化粧品の甘ったるい香り、そして現場を駆け回るスタッフたちの焦燥を含んだ汗の匂い。それらが混ざり合い、肺の奥にねっとりと張り付くような重苦しい空気を作り出している。
天井の高いスタジオには、太陽を模したような強いライトがいくつも吊るされ、真っ白なバックドロップの前で、一人の女性が傲慢なほどに完璧なポーズを決めていた。
アリス・橘。
テレビをつけても、街を歩いても、その名前を目にしない日はないほどの売れっ子モデルだった。
宣伝部の新人として配属されたばかりの詩織は、張り詰めた空気の中で呼吸さえも遠慮がちになりながら、昼の休憩を告げる声を待っていた。
ようやく訪れた休憩時間。詩織は預かっていたメモを何度も見返し、指定された銀座の老舗から届いた折詰弁当を、彼女の控室へと運んだ。
老舗の暖簾に恥じない、端正な包み。指定されたメニュー、指定された数。何度も、それこそ念仏のように確認したはずだった。
「これじゃない」
甲高い声が、スタジオの冷え切った天井に反響した。
詩織が差し出した弁当の蓋は、彼女の鋭い指先によって無造作に弾き飛ばされた。勢いよく放り出された折詰が床に落ち、中の色鮮やかな煮物が無残に飛び散る。白い養生シートの上に、じわりと醜い茶色い染みが広がっていくのを、詩織は呆然と見つめることしかできなかった。
「私が頼んだのは、こんな脂っこい弁当じゃないわ。私を太らせたいわけ? 嫌がらせのつもり?」
アリスの冷ややかな瞳が、詩織を見下ろした。
長身を支える細い脚。彫刻のように深い顔立ち。日本人離れした金褐色の髪は、スタジオの強烈なライトを反射して、まるで彼女自身が発光しているかのような錯覚を抱かせる。その美しさが、投げつけられる言葉の刃をより鋭く、残酷に尖らせていた。
「でも……確かにメモには、この折詰をとお書きになっていて……」
必死に絞り出した反論は、それを上回る音量のアリスの怒声によって、あっけなく押し潰された。
「でも? でも、何よ! まさか私のせいだとでも言うつもり!? この私が間違えたって言うの!?」
肩を、強い力で突き飛ばされた。
不意を突かれた詩織は、たたらを踏んで数歩よろめく。バランスを崩した拍子に、アリスの掌が詩織の二の腕を強く叩いた。
パチン、と乾いた音が、しんと静まり返ったスタジオに無情に響き渡る。
痛み自体は、大したことはなかった。けれど、その肉体的な刺激よりも遥かに早く、生理的な不快感が詩織の肌を這い上がってきた。
周囲の、痛いほどの視線。
カメラマン、メイク、照明担当、そして直属の宣伝部の先輩たち。誰もがその光景を見ていながら、誰もが――厄介事に巻き込まれるのを恐れるように、一斉に目を逸らした。
(どうして、私がこんな目に……)
怒りという感情は、あまりの理不尽さに凍りついたのか、不思議と湧いてこなかった。ただ、足元で転がっている煮物が、自分の情けなさを象徴しているようで、視界がじわりと歪む。
「……すみません」
条件反射のように、謝罪の言葉だけが口をついて出た。
代わりに込み上げてきたのは、もっと冷たく、骨の芯からじわじわと染み出してくるような屈辱と混乱の塊だった。
バッグの中には発注書の控えがある。デスクの引き出しには、彼女が書いたメモが残っているはずだ。けれど、今ここで証拠を突きつけたところで何になるだろう。ヒステリックに怒鳴り散らす女王のような女を前にして、紙切れ一枚に、自分を守る力などないことを悟っていた。
詩織はただ、震える唇をぎゅっと噛み締めた。
その時。
ふいに、視界を塞ぐように誰かがすっと前に立った。
上質な黒いスーツに包まれた、広く、頼もしい背中。詩織の視界から、アリスの歪んだ表情が覆い隠された。
石鹸のような、清潔感のある香りが鼻先をかすめる。
羽島陵だった。
いつの間にそこに来ていたのか。社長である彼がなぜこの現場にいるのか、今の詩織には考える余裕もなかった。
「申し訳ありません」
陵が、静かに、けれど深く頭を下げた。
「うちの社員の手違いにより、お弁当がご希望に添えず……多大なご不快な思いをさせましたこと、誠に失礼いたしました」
その声には、一切の驕りも誤魔化しもなかった。まっすぐで、落ち着いた、低い声。
手違いなどではない。詩織は完璧に仕事をこなした。それを最もよく知っているのは、詩織自身だ。
けれど、この会社の頂点に立つ男が、新人のミスとして嘘をつき、自分の代わりに頭を下げている。
その後ろ姿を。綺麗に整えられた襟足を。毅然とした広い肩を。詩織は立ち尽くしたまま、ただ、射抜かれたように見つめていた。
そして、顔を上げた瞬間のことだった。
詩織は、見てしまったのだ。
陵が頭を下げた先で、たった今までヒステリックに叫んでいたアリスの頬が、見る間に薄紅色に染まっていく様を。
大きく見開かれた、潤んだ瞳。
わずかに緩む、艶やかな唇。
気だるげに肩にかかっていた髪を、吸い寄せられるような指先でそっと整える。
「女」というものの輪郭が、その一瞬で別の質感へと――恋に浮き立つ生き物へと、すり替わっていく。
(――ああ)
他人事のように、頭のどこかでぼんやりと思った。
(恋に落ちる音というのを、私は今、見ているのだわ)
「わ、わたしも……少しわかりにくい伝え方を、したかもしれないわ。ごめんなさい」
アリスの声が、急激に甘く、やわらかく溶けた。さっきまでの怒声が嘘のように消え、スタジオの空気が一変する。
陵が、ゆっくりと顔を上げた。その端正な顔立ちには、大人の余裕が漂っている。
「お詫びに、近くで食事でもいかがですか。よろしければ、私に供をさせてください」
控えめで、けれど拒絶を許さないほど洗練された誘い方だった。
アリスの瞳が、ぱっと子供のように輝く。
「……嬉しい。喜んで」
彼女は機嫌よく、つい数分前に詩織を打ち据えたその同じ手で、陵の腕にしなやかに絡みついた。
二人の美しき男女の背中が、重厚なスタジオの出口へと向かっていく。
その姿が遠ざかり、見えなくなるまで、詩織は石のように立ち尽くしていた。
重い扉が閉まる音を聞いて、ようやく、肺に溜まっていた空気を吐き出せた気がした。
ハッと我に返り、現場を見回す。
そこには依然として中断された撮影の残骸と、汚れた養生シート、そして沈黙するスタッフたちが残されていた。詩織は震える膝を叱咤し、深く頭を下げた。
「お騒がせして、本当に……申し訳ありませんでした」
声は、思いのほか震えなかった。
「いいよいいよ、気にしなくて。よくあることだからさ」
メインカメラマンが苦笑いしながら手を振った。首から下げた高価なカメラをレンズクロスで拭いながら、彼は同情の混じった視線を詩織に送る。
「そうそう。ああやって新人さんをいじめるのが彼女の癖みたいなものなのよ」
メイク担当の女性が、詩織のそばに歩み寄ってきた。労わるように、その肩をポンと優しく叩く。
「気に病まないで。後で彼女が気に入ってる別の店、教えてあげるから。そこの折詰なら、あの子も文句言わずに食べるわよ」
差し伸べられた言葉の温かさに、胸の奥がつんと熱くなる。
怒鳴られている間、誰も助けてはくれなかった。けれど、彼らは――見ていなかったわけではなかった。そのささやかな連帯感が、詩織の凍りついた心を少しだけ溶かしてくれた。
「すみません……ありがとうございます」
詩織はもう一度、深く頭を下げた。
◇◇◇
午後の撮影が再開されたのは、それから一時間ほど経ってからのことだった。
現場の空気は、何事もなかったかのようにプロの仕事場へと戻っていた。アリスは何事もなかったような涼しい顔でポーズを変え、シャッターの規則的な音が、祈りのようにスタジオに響いている。
詩織はスタジオの隅で、汚れが拭き取られた養生シートの上に立ち、撮影の進行を確認しながら手元のメモにペンを走らせていた。
ふと、隣に気配を感じた。
顔を上げるより先に、耳に届いた声。
「とんだ災難だったな」
低く、穏やかな。それでいて、胸の奥を震わせるような響き。
驚いて隣を見ると、そこには先ほどアリスと出て行ったはずの陵が立っていた。
大きな手のひらが、詩織の頭の上に、ぽん、と乗せられた。
軽く、二度。
子供をあやすような、あるいは壊れ物を扱うような、どこかぞんざいで、けれど絶対的な優しさを含んだ叩き方。
痛みなど微塵もない。けれど、その一瞬――詩織の頭の中で、何かが、はっきりと音を立てて崩れ落ちた。
手のひらから伝わってくる、確かな温度。
薄い髪越しに伝わる、人間の体温というものの力強さ。
ぽん、ぽん。
その接触は一瞬で終わったはずなのに、頭の上にはいつまでも、彼の手の感触が熱を持って残り続けていた。
詩織は、火傷をしたような心地で慌てて顔を上げた。
「さ、先ほどは……庇っていただき、本当にありがとうございました」
ようやく、それだけが口を突いた。
「あの……お昼のお代は、私が後ほどお支払いします」
「いいよ。経費で落とさせておくから」
陵は軽く首を振り、柔らかな微笑みを浮かべた。
「それよりも、君と――」
「ねえ、陵! 見て!」
アリスの声が、撮影の中心から弾けるように飛んできた。
詩織に向き直ろうとしていた陵の身体が、その声に引かれるように振り返る。
「ねえ、今のポーズ、すっごく良くなかった!? 私、今の自分最高だと思うわ!」
真っ白なライトを浴びながら、アリスがカメラに向かって、媚びるように身体をしならせている。その瞳は、まっすぐに陵だけを射抜いていた。
陵が、わずかに苦笑を漏らす。
「――また」
短くそれだけを告げると、陵は吸い寄せられるようにアリスのほうへと歩み寄っていった。
残された詩織は、その背中を、ただ茫然と見送っていた。
(――ああ)
胸の奥で、自分でも信じられないほど静かに、けれど取り返しのつかない確かさで、何かが灯っていた。
暗闇の中で、細いろうそくの芯に火が落ちる瞬間のような――そんな、ささやかで、けれど一度灯れば二度と消すことのできない、業火の種だった。
頭に残る手のひらの熱が、じくじくと心臓を灼いていく。
◇◇◇
それから、二週間。
社内に、風のようにひとつの噂が駆け巡った。
「ねえ、聞いた? 広報のトップニュースだよ」
給湯室の入り口で、宣伝部の同僚がマグカップを抱えたまま、楽しげに瞳を輝かせていた。
詩織は紅茶のティーバッグを、熱い湯の中にゆっくりと沈めているところだった。立ち上る真っ白な蒸気が顔に当たり、視界が薄く滲む。
「この前の現場で、詩織に怒鳴ってたあのわがままモデルいるじゃん? あのアリス橘とうちの社長、正式に付き合い出したらしいよ。あの現場で、社長の王子様ぶりに彼女がノックアウトされたんだって」
マグカップを持つ詩織の指先が、ほんの一瞬、凍りついたように止まった。
お湯の中で、ティーバッグがゆらりと、力なく回転する。
茶葉の濃い色が、紙の袋からじわじわと滲み出し、透明だった湯を、ゆっくりと、けれど確実に、重苦しい琥珀色へと染め上げていく。
それを、詩織はただぼんやりと見つめていた。
「……そうなんだ。お似合いの二人だね」
詩織は、精一杯の微笑みを作った。
頬の筋肉が、自分のものではない別の生き物のように、勝手に引き攣る。
よくもまあ、こんなに自然な声で笑えるものだ、と――どこか他人事のように、自分の冷徹さを観察している自分がいた。同僚は、その笑顔の裏側にある亀裂に気づくこともなく、また別の華やかな話題へと軽やかに移っていった。
給湯室の小さな窓の外には、初夏の残酷なまでの光が降り注いでいた。
世界は、何ひとつ変わっていない。空は青く、人々は忙しなく動き、時間は平等に流れている。
変わったのは、詩織の中の、目に見えない、たった一箇所の断層だけだった。
(――そういう、ことだったのか)
恋に落ちて、わずか二週間。
告白することもなく、距離を縮めることもなく、ただ密かに、大切に温めていたあの小さな火は、燃え広がるための酸素さえ与えられないまま、誰かの靴の底で、無慈悲に踏み消された。
社長と、あのトップモデル。
誰もが納得し、祝福する、完璧な構図。
自分が割って入れる隙間など、最初から、この世界のどこにも用意されていなかったのだ。
ティーバッグを、ゆっくりと湯から引き上げる。
濃く色づいた紅茶を一口含むと――。
それは、ただひどく、喉が焼けるほどに苦かった。
(あの日――「それよりも、君と――」と、彼が言いかけた言葉の続きを……)
(私は、聞かずに済んで、本当によかった)
もし、あの言葉の先を聞いてしまっていたら。
もし、そこにほんの少しでも私への労りや、別の感情が含まれていると錯覚してしまっていたら。
この胸の火は、もっと深く、取り返しのつかないところまで私自身を焼き尽くしていただろう。
(あの日から、私の恋は――始まる前にすでに、終わっていた)
パリの乾いた風を肌に感じながら、詩織は最後のキャンバスに筆を置いた。 拠点を完全に日本へと移す手続きや住まいの移動はとうに終わっていたが、向こうで引き受けていたいくつかの細々とした仕事が残っていたのだ。それらすべてを無事に納品し、長年孤独を癒やしてくれたアトリエを完全に引き払う。 予定よりも二日早いフライトに変更できたのは、単なる幸運だった。連絡を入れようとしてスマートフォンを取り出し、ふと手を止める。驚く彼の顔が見たくて、詩織は内緒のまま帰国の途に就いた。 十数時間の長いフライトを終え、日本の湿気を含んだ空気を深く吸い込む。空港からタクシーに乗り込み、まっすぐに向かったのは彼と暮らすマンションではなく、彼が立派に再建した会社の真新しいオフィスビルだった。 静まり返った休日のエントランスに足を踏み入れる。広々とした大理石の床に、かつてあの冷たい雨の夜に持ち出したのと同じ、小さなキャリーケースの車輪の音が軽やかに反響した。 歩みを止めたのは、エントランスの奥。かつて何もない真っ白だった大きな壁の前に、一枚の絵が堂々と飾られている。 完成したばかりの、詩織の最新作だった。 足を止め、詩織は自らが描き上げたキャンバスを愛おしく見上げた。 かつての詩織は、顔をぼかした一人の男性の姿ばかりを描いていた。決して手の届かない片想いの相手を、隠し部屋という誰にも見られない檻の中でだけ、こっそりと描き続けるしかなかった。言葉にできない情念を、ただ色彩にぶつけるだけの孤独な作業。 だが、今ここにあるのは違う。 柔らかな陽だまりのような光に包まれながら、二つの指輪をはめた男女が、額を寄せ合い、心から幸せそうに微笑み合っている絵だった。表情もはっきりと描かれた、希望に満ちた二人の姿。 もう、一人ではない。長くて苦しかった片想いは終わり、二人で手を繋いで歩む未来が、たしかにそこにあった。 キャリーケースのハンドルを握っていた右手を、そっと持ち上げる。自分の左手の薬指を見つめると、絵の中の女性とまったく同じように、プラチナの指輪が二本、静かに重なって光っていた。 下にはめられた一本は、かつて冷たい契約の証として交わし、離婚して遠く離れた後も、二人がどうしても捨てられなかった古い指輪。細かな傷が刻まれたそれは、すれ違いと痛みの記憶。 そしてその上に重ねられたもう一本
エージェントであるカトリーヌとの最終的な打ち合わせを終え、画家の活動拠点を本格的に日本へ移すことが正式に決定し、帰国した日のこと。 大きなガラス窓から昼の明るい陽光がたっぷりと差し込む日本の国際空港の到着ロビーは、旅立つ者と帰還する者たちが交差する、独特の活気と熱気に満ちていた。 様々な言語が飛び交い、キャリーケースの車輪が滑る音が重なり合う。 詩織は、あの日家を出た時と同じ小さなキャリーケースを引きながら、慣れた足取りで雑踏を歩いていた。 ふと、前方の不自然な光景に気づく。 上等な仕立てのスーツを着た、恰幅の良いイギリス紳士の初老の男性が、抵抗する一人の若い女性の細い腕を乱暴に引っ張りながら、搭乗口へと向かって歩いていたのだ。 すれ違おうと横に避けたとき、床をひっかくような甲高いヒールの音とともに、二人の言い争う声がはっきりと耳に届いた。「パパ、やめて。私は帰りたくないわ!」「いい加減にしろ。お前のくだらないわがままで、どれだけの莫大な損害を出していると思っているんだ」「仕方ないじゃない! 日本支社の社長なんてするつもりなんて、最初からなかったんだから。ああすれば、陵が私のところへ帰ってくると思ったの!」 ぴたりと。 大理石の床を踏みしめていた詩織の足が、止まる。 聞き覚えのある、執着に満ちた甲高い金切り声。 父親に腕を強く掴まれ、美しくセットされていたはずの髪を振り乱して引きずられていた女性は――アリスだった。(……ああすれば、陵さんが帰ってくると思った……?) 詩織は、目を僅かに見開いた。 彼女が父の強大な権力を使って、陵の会社を強引に買収し、奪った理由。それは、経営への野心やビジネスとしての勝算などではなく。ただ、どうしても手に入らない陵という男を、権力と金で無理やり自分に縛り付けるための、ひどく浅はかで愚かな執着でしかなかったのだ。 結果として、彼女は会社を傾かせ、莫大な損害を出し、父の激しい怒りを買い、こうして無様に、日本から連れ去られようとしている。 欲しいものを全て強引に取りにいって、結果として愛する男も、地位も、全てを失った女の、哀れな末路。 詩織が静かにその光景を見つめていると、抵抗して激しく暴れたアリスのせいで、父親がバランスを大きく崩し、よろめいて詩織の肩に軽くぶつかりそうになった。「ソーリー……」
深海からゆっくりと浮上してくるような、心地よい微睡みの時間だった。 重い瞼をそっと押し上げると、視界の端が白くぼやけている。少しだけ開いた遮光カーテンの隙間から、朝の柔らかく、ひどく優しい光が幾筋も真っ白なシーツの上に差し込んでいた。 ふと気づくと、詩織はキングサイズの広く整えられたダブルベッドの上で一人、うつ伏せになった状態で寝ていた。 身じろぎをしようとして、思わず「んっ」と小さな声が漏れた。 昨晩、お互いの失われた数年間を埋め合わせるように、何度も、何度も激しく繋がり合ったせいか、気だるい身体が鉛のようにひどく重い。骨の芯まで溶かされてしまったような、甘い疲労感。 少し動くだけで、上質なシーツに擦れる素肌が異常なほど過敏に反応し、ちりちりとした痺れを伝えてくる。特に、彼を何度も深く迎え入れた下腹部の奥底が、ジンジンと、未だに火を持ったように熱く疼いていた。 目を閉じれば、彼に激しく打ち据えられ、限界まで奥を押し広げられた強烈な快感が鮮明に蘇る。まるで、まだ陵の圧倒的な質量と熱が、自分の中に深々と残されているみたいだった。 彼が隣にいないことに気づき、かすかな不安が胸をよぎる。だが、遠くのリビングの方から微かな物音が聞こえ、すぐに安堵した。 痛む腰を庇いながら、シーツを巻き込むようにしてゆっくりと身体を反転させ、仰向けになって高い天井を見上げた。 ふと、視界の端。 少しだけ開いたままになっている寝室の扉の向こう、リビングの壁の一部が見えた。 そこに、見慣れた額縁が掛かっている。 昨夜、玄関から抱き抱えられて通り過ぎた時には、暗さと情熱に浮かされてはっきりと認識できなかったが、それは間違いなく、かつて詩織自身が描き上げた絵だった。 顔をぼかした、彼の肖像画。 彼が私を愛していると証明してくれた、大切な過去の欠片。 朝の光の中でぼんやりとそれを見つめていた詩織の口から、ふと、無意識のうちに声が漏れた。「……あれ?」 違和感の正体を探るように、詩織は自分の裸体を包み込んでいるシーツを、指先でそっと撫でた。 なめらかで、少しひんやりとした肌触り。 そして、ゆっくりと視線を巡らせ、視界に入るファブリックの色合いや、枕カバーの縁に施された控えめな意匠を確認する。 昨晩は深い暗闇と、理性を吹き飛ばすほどの激しい情熱にすっかり浮かされ
詩織の弱音を完全に塞ぎ、すべての言い訳を消し去るような、深く、そして貪欲なまでの激しい口づけだった。 互いの体内の酸素をすっかり奪い尽くし、熱い口内を幾度も味わい尽くしたあと、名残惜しそうに、微かな銀の糸を引きながらゆっくりと二人の唇が離れていく。 はぁ、はぁ、と、未だに荒く上下を繰り返す互いの胸が、コートやスーツの厚い布地越しに、ぴったりと隙間なく触れ合っていた。衣服の擦れる微かな音が、静まり返った空間にやけに生々しく響く。重なり合った鼓動のリズムが、一つの巨大な地鳴りのようになって詩織の全身の皮膚を揺るがしていた。 陵は、骨ばった大きな両手で詩織の後頭部を優しく包み込み、引き寄せる。そのまま、詩織の額に自らの額をぴたりと押し当てた。至近距離で見つめ合う漆黒の瞳には、かつての冷徹な仮面など微塵も残されておらず、ただ熱い情動だけがゆらゆらと揺らめいている。 陵が、微かに震える熱い息を吐き出した。「……詩織を抱きたい――だが、その前に、どうしても君に聞いてほしいんだ」 低く、ひどく切実な、どこか祈るような響きを孕んだ声が耳元に落ちる。 そのあまりの必死さに、詩織は胸を突かれ、彼の広い胸に顔をうずめたまま、こくりと小さく頷くことしかできなかった。 靴も脱がないまま、小さなキャリーケースを床に転がしただけの、無機質な高級マンションの玄関。 一定の静止時間を過ぎた頭上のセンサーライトが、カチッ、という冷たい電子音を立てて、再び無情に消え去った。 不意に訪れた、完全な暗闇。 一切の光が遮断され、網膜の奥に深い黒が広がる。視覚を完全に奪われたことで、残された他の五感が、恐ろしいほどの鋭敏さで目を覚まし始めた。 静寂の中で、すぐ目の前にある彼の雄としての高い体温が、じわじわと詩織の肌を焦がすように伝わってくる。首筋の柔らかな皮膚を直に撫でる、彼の熱く甘い吐息。ウールコートの繊維の匂いに混じる、彼特有の清涼で重みのある体臭。 その濃密な気配と、どこにも逃げ出すことのできない絶対的な質感が、詩織の心を激しく、そして痛いほどに震わせていた。 陵が、これまで長い歳月の間、ずっと胸の奥底に堰き止めていた不器用な言葉を、暗闇の中に一つずつ、慎重に置き始めた。「アリスとは……ただのビジネス関係だったんだ。身体の関係が全くなかったとは言わない。少なからず俺は、表
今後、詩織の絵が飾られる予定の、真っ白な空白の壁。 その巨大なキャンバスのような壁面を前にして、二人は仕事の話を始めた。 ついさっき、唇が触れ合う寸前まで近づいた。互いの熱い吐息が混じり合い、理性が焼き切れるかと思った、あの生々しい熱が、まだ二人の間に色濃く燻っている。 ふとした拍子に視線が交差するたび、心臓が跳ね、気まずさと、隠しきれない甘い余韻が空気を微かに揺らした。空調の効いたエントランスの空気が、そこだけひどく湿度を帯びているように感じる。 それでも、絵を飾る場所の確認は、社長である陵と、画家である詩織の間で、あくまでビジネスライクに進められていく。 絵のサイズ。窓からの光の入り方。壁の色とのコントラスト。 当たり障りのない、無機質な仕事の言葉。しかし、その合間に、少しずつ、まるで氷が溶け出すように、私的な言葉が混じり始めていた。「ここなら、夕方の光が綺麗に入る」「ええ……そうね。西日が直接当たらないのも、絵の具の劣化を防ぐにはちょうどいいわ」「君の描く青は、少し暗い方が映えるから」 陵の声が、少しずつ低く、柔らかみを帯びていく。 かつての冷徹で、命令するような硬いトーンはそこにはない。(彼は、私の描く絵を深く理解してくれている) 単なるビジネスとしての評価ではない。世界的な覆面画家として名前が売れる前から、彼は詩織の絵を買い、見つめ続けてくれていた。水瀬詩織という人間の内面が剥き出しになったキャンバスの「青」を、彼はずっと深く愛してくれている。 その事実が、詩織の胸の奥を温かいもので満たした。 数年間、ずっと凍りついていたぎこちない空気が、静かに、ゆっくりとほどけていくのを感じていた。「ここに、詩織が一番描きたいものを描いて欲しい」 それは、愛おしむような、ひどく甘い響きだった。 同時に、陵の大きな手が、ふと、詩織の右手に伸びた。 そっと、大切に包み込むように握られる。手のひらから直に伝わってくる、懐かしく力強い体温。びくりと肩が跳ねたが、振り払うことなどできなかった。「今夜、夕食を一緒に……」 耳元に低く落ちた声に、詩織の鼓動が、とん、と小さく跳ねる。 無言で応じようとした瞬間、握られた手から、陵の長くて骨ばった指が、ゆっくりと詩織の指の間へ滑り込んでくる。 ごつごつとした男の指先が、華奢な指の隙間を押し
彼が他の女性と、あの寝室で、私の描いた絵を見上げながら新しい夜を紡いでいる。その残酷な想像が、鋭い爪を立てて心臓の柔らかな部分をぐちゃぐちゃに掻き毟る。息をするたびに肺が軋み、目の前がチカチカと点滅し始めた。「本当に、社長ったら寝室の絵を――」「余計なことを言わなくていい」 背後から、不意に声が落ちた。 ピシャリと、冷や水を浴びせかけるような鋭い響き。 低く、ひどく静かな、けれど有無を言わさぬ絶対的な威圧感を孕んで、鼓膜の奥を直接震わせるような男の声。 聞き覚えのある、いや、細胞の隅々にまで染み込んで決して忘れることのできなかったその声に、詩織の肩がびくりと大きく跳ねた。 呼吸が、完全に止まる。 高いヒールを履いた靴の裏が、大理石の床にべったりと張り付いてしまったかのように、身体がぴくりとも動かない。指先から急速に温度が奪われ、代わりに全身の血液が心臓に向かってドクドクと逆流していくのがわかる。 気のせいではない。幻聴でもない。 恐る恐る、軋む首を動かし、スローモーションのようにゆっくりと振り返る。 そこに、彼が立っていた。 数年ぶりの彼が――。 仕立ての良い、深いネイビーのスリーピーススーツに身を包み、長身を静かにそびえ立たせている。かつての傲慢な若さは削ぎ落とされ、代わりに幾多の修羅場を潜り抜けてきた大人の男としての、研ぎ澄まされた凄みが漂っていた。 感情を一切読ませない、氷のように冷たく端正な無表情。 それは、記憶の中に刻み込まれた彼の姿そのものだった。 時が、完全に止まった。 エントランスの空調の音も、遠くから聞こえていたはずの都市の喧騒も、周囲の空気から一切の音が消え去る。ただ、早鐘のように激しく打つ自分の鼓動だけが、耳の奥でやけに大きく、暴力的に響いている。 彼の漆黒の瞳が、真っ直ぐに詩織を捉えていた。その奥で、何かが微かに揺らめいたように見えたが、由衣が目を丸くして慌てた声を上げたことで、その機微はかき消された。「お兄ちゃん? あれ、会議は?」「お前が気にすることじゃない」「いやいやいや、外せない重要な会議があるって言ってたじゃん!」「いいから。お前は席を外せ」「もうっ、なによそれ……」(……お兄ちゃん?) 張り詰めていた糸が、ぷつん、と音を立てて切れた。 陵の、妹。「羽島」という同じ苗字。少し
整然とデスクが並ぶ宣伝部のフロアには、キーボードを叩く乾いたタイピング音と、電話越しの控えめな話し声だけが規則正しく響いていた。 窓の外には、都心の無機質なビル群が切り取られたように並んでいる。空調のよく効いた社内の廊下を、詩織は手元のタブレットに視線を落としながら、静かな足取りで歩いていた。 結婚を機に主任へ昇進して、ちょうど一年が経つ。今では数人の後輩の指導や、会社の根幹に関わるいくつかの重要案件の進行管理を任されている。感情を一切表に出さず、どんな理不尽な要求にも眉一つ動かさず、淡々と正確に仕事をこなす水瀬主任。それが、この会社における詩織の姿だった。 プライベートを見せず、誰
財界人パーティを早退した詩織は、タクシーで帰宅し、シャワーも浴びる気力もなく、薄手のネグリジェだけを身に着けて寝室のベッドに横たわっていた。 下腹部がまだ、じくじくと灼けている。少し動いただけで、内側のいちばん深い場所が鈍く脈打って、息が詰まった。 好きな人に抱かれた。籍を入れて半年、形だけの夫婦を続けてきたあの人に。それなのに、胸の奥はむしろ、ますます痛む。 眠りたいのに――身体は鉛のように重く疲労していたが、瞼の裏だけが妙に冴え渡っていて、暗闇の中でじっと天井を見つめ続けていた。 その時、階下で玄関の鍵が回る音がした。 詩織の身体が、跳ねるように強張る。 震える指で携帯電話
「あっ――」 息を呑む間もなく、強引に引っ張られる。 抵抗する暇も与えられないまま、大広間の壁際、アーチの装飾と大ぶりな観葉植物の鉢が作り出す暗がりへと引きずり込まれた。 背中が冷たい壁にぶつかる。直後、ばんと鈍い音が響き、陵の大きな手が壁につかれた。 完全に退路が塞がれた。 見上げた至近距離に、冷徹な氷のような眼差しがある。いつもは感情を一切表に出さない彼の瞳の奥に、今は暗く重い炎が揺らめいているように見えた。「なんで、ここにいる」 地を這うような、低い声。 その声色に背筋がゾクリと震え、詩織は肩を竦めた。「父に、どうしてもと命じられて……」「あの男とは、どういう関係だ
婚姻届に判を押した、あの夜から半年が過ぎていた。 季節は二度ほど、ささやかに巡った。家には二人分の家具が増え、二人分の食器が並ぶようになったが、詩織の中に「夫婦」という確かな手応えを、運んできてはくれなかった。 心の中に隙間風が吹くような、寄る辺ない日々。名前ばかりの絆が、ただ重く、詩織の肩にのしかかっていた。 ◇◇◇ 今夜の詩織はいつもと違い、シャンデリアの光に、深く、深く、照らされていた。 都内の老舗ホテル、最上階の大広間。財界人を一堂に集めた、年に一度の祝賀パーティ。天井から吊り下げられた無数のクリスタルが、床に敷き詰められた深紅の絨毯に、万華鏡のような光の粒を落とし