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政略結婚の妻を捨てたら、世界で一番手に入らない女になっていた
政略結婚の妻を捨てたら、世界で一番手に入らない女になっていた
Author: ひなた翠

第一話「冷徹な夫と香水の棘」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-05-15 15:16:32

 深夜一時を過ぎていた。

 リビングの灯りはとうに落とされ、闇に沈んだ部屋を、カーテンの隙間から漏れる街灯のかすかな光だけが、青白く撫でている。

 二重サッシの隙間から、冬の冷気が音もなく忍び寄ってきた。靴下越しの足の指は、もう感覚をなくしかけている。しんと静まり返った室内には、自分の呼吸の音だけが、妙に大きく響く。

 詩織はソファに深く身を沈めたまま、視線をダイニングテーブルへと流した。

 そこには、二人分の食器が虚しく並んでいる。丹念に焼き上げ、美しく盛り付けたはずのローストビーフには、冷えて固まったグレイビーソースがまとわりついていた。湯気の消えた味噌椀は、暗がりの中でひっそりと冷え切り、温め直される時を失っている。冷えて乾いた米の表面が、窓からの青白い光をぼんやりと撥ね返していた。半解凍のように力なく沈んだ青菜の浸し。時間をかけ、彼の好物を揃えたはずの料理が、今はただ、闇の底に置き忘れられた残骸でしかなかった。

 朝、仕事に向かう彼は確かにそう言ったのだ。

「今日は早く帰れる」

 鏡の前でネクタイを締めながら、こちらを見もせずに放たれた、いつもの無機質な声。

 それでも詩織は、その一言だけで胸が弾むのを感じていた。夕食の有無を尋ね、「家で食べる」という短い返事をもらっただけで、頬の筋肉が勝手に緩んでいくのを抑えられなかった。彼を送り出してから、すぐに近くのスーパーへ買い物に出た。普段は慎ましく選ぶ食材を、今日だけは少しだけ奮発して。彼が美味しそうに食べてくれる姿を想像するだけで、キッチンに立つ時間は輝いて見えたのだ。

(馬鹿みたいだ)

 心の中で吐き捨てた言葉が、自身の喉を逆向きに削っていく。期待すればするほど、裏切られた時の痛みは鋭く、深く胸を刺す。

 その時だった。

 静寂を破るように、玄関の鍵がガチャリと、無遠慮な金属音を立てて回された。続けて、重厚な革靴がタイルを打つ重い足音。詩織の鼓動が、一拍だけ、不規則に跳ねた。

 リビングの扉が開く。

 パチン、と乾いたスイッチの音が響いた。

 突然、天井からの橙色の照明が部屋を満たし、暗闇に慣れていた瞳の奥が、きゅっと痛んだ。詩織は眩しさに目を細め、入ってきた男を見上げた。

「起きていたのか」

 低い、平坦な声だった。

 羽島陵はソファに座る詩織を一瞥したきり、それ以上目を合わせようとはしなかった。完璧に整えられたスーツに身を包み、隙のない姿のまま、ネクタイの結び目に指をかける。それを乱暴に緩めながら、彼は部屋の奥へと歩を進める。

「今日はお夕飯を食べるとおっしゃっていたので……」

 詩織は立ち上がり、できるだけ感情を均した、穏やかな声で言った。言葉の端が震えないよう、奥歯を噛みしめる。そのまま、あえて視線をダイニングテーブルへと滑らせた。冷えて乾き、見る影もなくなった食事を、せめて一度だけでも、彼の目に映してほしかった。

「そう、だったな」

 返ってきたのは、それだけだった。

 悪びれもせず、遅れたことへの詫びの一言もなく、陵はリビングを出ていこうとする。背を向けた彼の足音が階段を踏み鳴らし、やがて二階の扉がパタンと――やや拒絶を含んだ乱暴な音を立てて閉まった。家全体が、その衝撃にかすかに揺れた気がした。

 今夜早く帰る予定だったことを、彼はおそらく完全に忘れていた。

 あるいは、途中でどうでもよくなったのか。後ろめたさの欠片くらいは、胸のどこかにあったのかもしれない。けれど、それを言葉にして妻に届ける必要など、彼の中には存在しないのだ。

 詩織は、ゆっくりと肺の中の空気を吐き出した。

 胸の奥で、何かが静かに冷えていく。それは鋭い痛みでもなく、烈火のような怒りでもない。もっと薄くて、けれど確かにはっきりとそこにある、「諦め」という名の透明な温度だった。

 その時――鼻先を、ふわりと、ある匂いが掠めた。

 彼が通り過ぎたあとのリビングに、重たく沈殿するように漂っている残り香。

 花。それも、フローラル系のなかでもひどく甘ったるく、粘り気のある――明らかに女性ものの香水だった。

 詩織の指先が、膝の上で小さく震えた。胃の奥が、冷たい氷を押し付けられたようにきゅっと収縮する。

(ああ、そういうことか)

 仕事が早く終わったから、別の場所へ行ったのだ。家で夕飯を待つ妻がいることなど、美しい誰かの隣では露ほども思い出さなかったのだろう。誰かと、とろけるような甘い夜を過ごしてきたのだ。

 所詮、自分はその程度なのだ。

 そう、その程度。彼にとっての自分とは、そこにいて当然の家具のような存在で、戻ろうが戻るまいが、心に波風一つ立たない、取るに足らない相手。

 冷え切った指先で、詩織は自分の左手の薬指に触れた。プラチナの台座が鈍い光を返す指輪。愛の証であったはずのそれは、今や重さばかりが意識される、冷徹な金属の輪でしかない。

(早く帰ってくれると思って、わざわざあんなに頑張って作って……)

 馬鹿だ。

 本当に、救いようがないほど馬鹿みたいだ。

 肺の奥から、乾いた笑いに似た息が漏れた。声にならないそれは、虚ろな沈黙の中にすぐさま呑み込まれていく。

 詩織はソファの肘に手をつき、立ち上がった。

 膝が、思いのほか強張っていた。冷えのせいか、それとも絶望を抱えて長く座り続けたせいか。視界が一瞬、ふらりと頼りなく揺らぐ。傾いだ身体を、テーブルの縁を掴んで辛うじて支えた。

 ダイニングに並んだ料理を、もう正視することはできなかった。

 自分の注いだ愛情と努力が、無惨なゴミとなって捨てられるのを認めたくなくて、視界に入れることすら耐え難かった。

 よろよろと、覚束ない足取りでリビングを出る。

 廊下の明かりはつけなかった。階段の踊り場から漏れる、陵がつけた微かな光だけを頼りに、彼が決して足を踏み入れることのない方向へ――家の奥、突き当たりの一室へと向かう。

 冷たいドアノブを掴み、一気に押し開けた。

 扉の向こうに広がるのは、彼の知らない世界だ。

 遮光カーテンを閉め切った部屋に、絵の具の匂いがふわりと頬を撫でた。テレピン油のつんとした刺激的な香り、リンシードオイルの油じみた重厚な重み。それらが混じり合った独特の芳香が、リビングに残っていた忌々しい女物の香水を、詩織の鼻先から静かに押し流していく。

 壁際に乱雑に並ぶキャンバス。過去に描き上げたもの、途中で投げ出したもの、完成して壁を向けられたもの。中央に置かれたイーゼルの上には、まだ何も描かれていない一枚の白い面が、窓の隙間から差し込む青白い月明かりの中で、ぼうっと神聖な光を湛えて浮かび上がっていた。

 ここだけが、誰にも侵されない詩織の場所だった。

 リビングと寝室、そして必要最低限の水回りしか歩かない男。この家の半分も、その主である妻の心の半分も知らないまま、彼は「自分の妻」と暮らしているつもりでいる。

(皮肉なものだわ)

 乾いた嘲笑が、胸の奥でこぼれた。

 詩織は、色とりどりの絵の具の染みが幾重にも重なった、古い大きなシャツを羽織った。袖に腕を通し、その重みを感じると、ほんの少しだけ、バラバラになりかけていた自分が自分に戻れる気がした。

 震える指で、パレットナイフを握る。

 パレットの端に、深い藍色の絵の具を絞り出した。続けて、寒々しい灰色、重厚な鉛白、そしてほんの少しの、血のような紅。それらが無言のままに混じり合い、詩織の心そのもののような、暗い諦念を煮詰めた色を作っていく。

 筆先を整え、真っ白なキャンバスの面に触れた。

 最初の一筆は、いつも寒気を感じるほどに震える。

 けれど、一度描き始めてしまえば、もう何も考えなくていい。陵への拭えない愛執も、蔑ろにされる屈辱も、言葉にできない醜い感情も、すべて。声にならない叫びを、ただ筆にのせて、純白の闇の中に塗り重ねていけばいいのだ。

 荒れていた息が、少しずつ、規則正しいものへと整っていく。

 窓の外で、冬の風が梢を激しく鳴らした。乾いた、冷酷な音。

 詩織はまばたきもせず、ただキャンバスの奥だけを見つめていた。視界の端に、自分の左手の薬指が映り込む。絵の具で汚れた指の中で、指輪だけが場違いなほどに、冷ややかに鈍く光っている。

(恋を……恋なんて、していなければ、もう少し楽だったのに)

 奥歯を噛み締め、筆を強く握り直す。

 どんなに冷たくあしらわれても、どんなに裏切られても、胸の奥に消えない熱がこびりついていることを、詩織はもう、認めるしかなかった。その消えない熱が、今夜も彼女に、救いのない絵を描かせるのだ。

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