桂木彰人は、今朝もまた白い光に目を焼かれていた。襖の向こう、障子越しに広がるのは、色を持たない世界だった。淡く、無機質な明るさが室内のすべてを覆い、どこまでも静かに、そこにあった。
天井に節の目立つ杉板を見上げながら、彰人は仰向けのまま、ゆっくりと瞬きをした。何度繰り返しても、見えるものは同じだった。飽きもせず、退屈もせず、ただそこに存在しているという事実だけが、時間を押し流していく。
右手を持ち上げる。指先にかかるのは、絹の肌掛け。緋色のそれをなぞるように撫でたあと、彰人は静かに起き上がった。布団の端が揺れ、微かな香が立つ。椿油。昨夜、髪に塗ったまま眠っていたことを思い出し、うなじに重さを感じた。
畳に素足を下ろし、立ち上がる。裾を引きずらぬよう、慎重に朝着の帯を締め直し、障子に向かって歩いた。ガラリと開けた先にあるのは、手入れの行き届いた中庭だった。だが、その景色すらも、彼にとっては装飾に過ぎない。
椿の葉が光を弾いていた。風はなかった。蝉の声すら遠く、邸内には自分の衣擦れと足音だけが響いた。
彰人はしばらく黙って庭を眺めていたが、やがて障子を閉め、再び部屋の中央に戻ると、書見台の前に座った。
開いたままの本。昨夜、灯を落とす寸前まで読んでいた漢詩集だった。古い紙の匂いが鼻をくすぐる。指先で頁をなぞるたびに、静電気のような感覚が生まれた。彼にとって、言葉は唯一許された娯楽だった。
だが今朝は、不思議と文字が目に入らなかった。
頬に手をあてた。冷たい。だが、それ以上に感覚が乏しい。生きている実感が、今はどこにもなかった。
「また今日も…」
声に出したとたん、空気がわずかに震えた。
誰に向けたものでもない。それでも、そうしていなければ、自分がこの部屋の一部になってしまいそうだった。
桂木家の次男として生まれた彰人には、「美しさ」以外の役目はなかった。学問も、社交も、外出も許されない。家の名誉にそぐわないとされ、父と兄は彼を「桂木家の瑕疵」として、奥の間に封じた。
彰人自身、言葉にしなくても、それを理解していた。
しかし、理解しているからこそ、それに抗えなかった。
髪を梳かすとき、鏡に映る自分の姿に、どこかうっとりする感情を覚えてしまうことがある。自分が人として愛されることを求められていないとわかっていながら、それでも誰かの手に触れられたいと願う。そうした欲は、罪だった。
その罪を、彰人は自室で一人、幾度も繰り返していた。
脳裏に浮かぶのは、艶本の頁に描かれた、男たちの交わり。肌と肌が密着し、喉がふるえ、唇が触れる場面。墨の滲みが残る紙面に、彰人は指を這わせ、自分の中のなにかを確認するように、何度も読み返した。
一人の夜。椿油を手に取り、静かに、ゆっくりと、誰かの手を想像する。誰でもいいわけではない。だが、特定の顔があるわけでもない。ただただ、指が熱を帯び、自らの肌が震えることでしか、愛を知る術がなかった。
ふと、遠くで音がした。
襖が閉じる音。低く、重く、わずかに反響を伴っていた。誰かが邸内を移動している。滅多に響かない、珍しい音だった。
彰人は思わず立ち上がった。朝着の裾が揺れる。
廊下の向こう、襖の奥で、誰かが話している。使用人の声ではない。男だ。低く、滑らかな声。聞いたことのない響き。
そのとき、胸がふっと熱を帯びた。
心臓がひとつ、強く鳴る。まるで、中から扉を叩かれているような錯覚。自分の中に誰かが入り込んできたような、不確かな感覚。
耳を澄ませる。足音が近づいてくる。
「…誰…」
声に出していた。
答えはない。だが、彰人は知っていた。今、屋敷に何かが入ってきた。外から持ち込まれた、異質の何かが、自分の世界に侵入したのだと。
その瞬間、彼の中の「虚無」が、わずかに崩れた。
薄くひびが入り、そこから淡い光が差し込んできたようだった。
それが希望だと呼べるかは、まだ分からない。ただ、これまで感じたことのないざわめきが、全身を駆け巡っていた。
足音が、廊下の奥で止まった。
再び、静寂。
その静けさのなかに、香が立った。墨のような、重く深い香り。
白檀とは異なる。もっと鋭く、そして落ち着きのある香りだった。
彰人は、思わず障子に手をかけた。
だが、開けることはできなかった。
この世界の境界を、自分から破ることは、まだできなかった。
その代わりに、彼は静かに、床に座った。背筋を伸ばし、正座の形で、香の残り香を吸い込むようにして呼吸をした。
目を閉じると、耳が敏感になる。障子の向こうの気配が、よりくっきりと感じられた。
そこにいるのは、誰か。
自分を見ようとする誰かの視線。
それは、飾り物としての自分に向けられるものではないように思えた。
彰人の指先が、膝の上でわずかに震えた。
鼓動が速い。久しぶりに「今」を生きていると感じた。
それが何を意味するのか、彼はまだ知らなかった。
ただ、その香と、足音と、低い声が、確かに彼を「檻」の外へと導こうとしていることだけは、理解できた。
そのとき、襖が静かに開く音が、確かに聞こえた。
障子の向こうに朝靄が溶けていく。桂木家の静かな朝、彰人の私室は、昨夜の余韻をまだ微かに残していた。畳に座るふたりの間に流れる空気は、白檀と墨の香りが静かに混じり合い、淡く甘い。行灯はすでに消され、障子越しのやわらかな光だけが部屋の輪郭を優しく撫でていた。彰人は、机に筆を構えたまま、目の前の白い半紙と、横にいる直哉の横顔を交互に見つめていた。机の上に置かれた硯と墨壺、きれいに揃えられた紙の端…どれも昨日までと何ひとつ変わらないはずなのに、指先から伝わる感触も、紙に落ちる墨の滲みも、どこか鮮烈に思えてならなかった。直哉は、その気配に気づいていた。けれども、何も言わず、いつものように筆の持ち方を静かに直す。「もう少し、手首を柔らかく」彰人の指にそっと自分の指を重ねる。昨夜、何度も肌を重ね、濡れた掌で触れたはずの手のひら。その温度と、いま重なる指の温度が一つになり、彰人の胸に小さな波紋を広げる。筆の軸がわずかに汗ばむ。直哉の手は温かく、しなやかだった。「ここを、少しだけ下げて…そう、そのまま」筆先が紙にすっと触れる。直哉の声は、夜の熱とは異なる、淡く静かな響きをもって彰人の耳に届く。だが、耳の奥が熱くなり、頬の内側まで赤く染まるのを彰人は隠せなかった。昨夜、あれほど熱を交わしながらも、こうして教師としての直哉が傍らにいると、どうしようもなく心がざわめく。彰人は思わず小さく息を吸い込む。白檀の香が喉の奥に落ちていく。その香りが、昨夜の柔らかい肌と唇、畳に転がる汗の感触を鮮やかに蘇らせる。「……筆、重いです」そう呟く彰人の声は、どこか頼りなく、甘い。直哉は微かに眉を動かしたが、すぐに穏やかな声で応える。「慣れるまでは、無理をしなくて大丈夫です。今日は、ゆっくりで」そう言いながら、もう一度、彰人の手を包む。その手つきが妙に優しくて、彰人は思わず目を伏せた。視線の先で、二人の手が重なり合い、墨の色が指先に移る。筆を導かれる感覚と、昨夜導かれた身体の記憶が交錯する。体の奥に熱が残るような錯覚さえ覚えた。ふいに、直哉が彰人の横顔に視線を
夜明けは静かに、誰にも気づかれぬほど慎ましくやってきた。行灯の火はとうに尽き、畳の上には昨夜の熱と香りだけが、かすかな余韻として漂っていた。障子越しに差し込む光は、まだ白く淡く、夜の名残を払うには力が弱かった。それでも、部屋の片隅には新しい朝の気配が確かに芽吹きはじめていた。直哉は、仰向けになったまま、隣に眠る彰人を見つめていた。彰人の頬は、眠りのなかでうっすら紅潮し、唇は微かに開かれている。まだ少年の面影を残すまつげが、閉じた瞳の上で静かに震えている。肩口には自分の手の跡が淡く残っていて、夜の交わりが夢ではなかったことを、その痕跡が生々しく証していた。畳に広がる椿油と白檀の匂い、汗と体温の混じった残り香。それらすべてが直哉の身体と意識を朝の現実へとつなぎとめている。だが、胸の奥では静かな嵐が渦を巻いていた。あれほど強く誓った自制も、倫理も、昨夜のあの一瞬で崩れ去った。自分がどこで境界を越えたのか、もう思い出せない。ただ、彰人の体温を感じた時、心が抗えぬほどの渇きに染め抜かれていたのだと、今になって思い知る。拳が、しっかりと握られているのに気づく。緩めようとしたが、指は固くこわばったまま動かなかった。心のなかでは、無数の声が錯綜している。なぜ、あんなにも欲望に呑まれてしまったのか。どうして最後まで拒めなかったのか。自分の浅ましさと、理性のもろさと、そして…それでも胸の奥から滲み上がってくる、どうしようもない幸福のような熱。彰人の寝息は静かで、呼吸に合わせて白い胸が上下している。肌には、自分が残した痕が薄く点在していた。頬に触れた跡、首筋にかじりついた跡、そして太腿に指を食い込ませた紅い筋。すべてが昨夜の証であり、罪そのものであり、それなのに、ひどく愛おしいものに見えた。直哉は、そっと彰人の頬に指先を伸ばしかけて、思いとどまった。もうこれ以上、彼に触れてはいけないような気がした。昨夜の行為が、どれほど自分たちの関係を変えてしまったのかを、いま改めて噛み締める。師でも、家の書生でもなく、ただ一人の男として彼を抱いた。それは許されぬ越境であり、もはや引き返すことのできない場所まで来てしまったという実感だった。けれども、胸の底には甘美な満足がじっとりと残ってい
行灯の火はかすかに揺れながら、もうすぐ尽きる油を惜しむように細い灯を保っていた。室内は白檀の香と熱気に満たされ、畳の上で絡み合うふたりの身体が、そのすべてを吸い込んでいた。直哉の動きは荒く、必死で、だが最後にはどこか祈るように静けさを孕んでいた。彰人の内側は、痛みと甘さ、切なさと熱でどろどろに溶けている。足首が畳を擦る音、汗の粒が胸を這う感覚。指先がどこかを掴み、もつれ、乱れた息が唇から零れていく。直哉はひたすらに奥へ、奥へと求め、彰人の体を両腕で包み込む。息が絡み、肌が擦れる音が、白檀の匂いのなかで際立った。「…彰人さま…」呼吸の合間、途切れた声で名を呼ぶ。その声に応えるように、彰人の身体が僅かに跳ね、熱い何かが奥で弾けた。直哉の動きがさらに深く強くなり、彰人は瞳を閉じて、頭の奥まで焼き尽くされるような快楽に呑まれていく。「…あ…だめ、もう…っ」声はかすれ、涙の滲んだ視界に、行灯の揺らめきが滲んでいた。奥に充満する熱、前の昂ぶりを直哉の手でしごかれ、呼吸と心臓の鼓動が一つになっていく。自分が今どこにいて、誰と繋がっているのか、もう何も分からない。ただ快感の波が、深く、重く、全身を飲み込んでいく。直哉の身体が震えた瞬間、彰人の奥に灼けつくような熱が迸った。同時に彰人も、前を強くしごかれて果てる。体の奥と前、二つの場所から快感が溢れ、全ての力が抜け落ちていった。二人の叫びが夜の空気に重なり、行灯の灯が大きく揺れる。「…っ、彰人さま…」「…直哉さま…」呼吸も、鼓動も、全てがほどけていく。ふたりは畳に倒れ込むように重なり合い、汗と油に濡れた肌を、互いに必死で抱きしめた。直哉は、彰人の髪に額を埋め、熱い吐息を繰り返す。彰人は、ただ黙って目を閉じ、直哉の重みを全身で受け止めた。何も言葉はなかった。すべての音が遠ざかり、ふたりの間にだけ、静かな熱が残る。白檀の香がより濃くなり、椿油の残り香が肌と肌の間に留まる。汗のしずくが首筋から胸へと滑り、畳の上に小さな染みを作る。それさえも、いまは美しい
行灯の火は深夜の底で呼吸し、ふいに強まり、また細く揺れる。障子越しに降り注ぐ夜気は湿り、畳は汗と油を滲ませてひっそりと濃密な匂いを放っていた。桂木彰人の体は、裸のまま直哉の腕の中に包まれ、油と汗が交じりあう温度に焼かれていた。直哉は激しさと必死さの狭間で、まるで己の全てを賭けるように彰人の体を求め続けた。重なる肌と肌、熱い掌が髪や頬、細い肩や背中を這い、膝の裏まで撫で尽くす。そのたび、油を塗った滑らかな皮膚が直哉の指を受け入れ、粘度のある音を立てた。彰人は目尻を赤く染め、唇を噛みしめ、時折呻きのような声を喉の奥で震わせた。痛みも、熱も、甘さも、すべてが一つに溶けてゆく。「…彰人さま…」直哉は呼吸を荒くしながら、名前をかすれるように呼ぶ。その声はもう師でも書生でもなく、ただ一人の男の欲望そのものだった。唇が彰人の首筋を這い、耳朶を噛み、耳の奥に熱い息を流し込む。彰人は無意識に首を反らし、細い指先が直哉の背を掴む。「やめ…ないで…」その声は震えている。恐れと快楽と羞恥が入り交じり、言葉の奥に滲む甘やかな哀願。それを聞いた直哉の目に、光が宿る。体がますます深く、奥へと沈んでゆく。彰人の内壁は熱くきゅっと締め付け、直哉の昂ぶりを深く受け入れて離さない。二人の呼吸が部屋の空気を震わせ、白檀と椿油と汗の香りが一層濃くなった。「…痛く…ないですか」直哉が、額にかかった髪をかきあげながら、囁くように問いかける。その手が彰人の涙に触れる。彰人は小さく首を振り、荒い息のまま直哉の手のひらに頬をすり寄せた。頬は火が入ったように熱く、涙の跡が光っている。「大丈夫…もっと…」唇が、言葉を探しながら震える。身体の奥で、何かがはじける音がした。快楽と痛みはもはや同じ線上にあり、どちらとも名付けられない熱に変わっていた。直哉はそのすべてを、抱きしめる腕で、ぶつかる腰で、貪る唇で確かめる。掌が彰人の胸を優しく撫で、立った乳首を親指で転がす。彰人の体は跳ね、喉の奥から低い呻きが漏れる。唇が鎖骨から胸元、乳首へと這い降り、舌が湿っ
夜の静寂は、行灯の灯りに吸い寄せられるように濃く深くなっていた。室内には白檀の香が漂い、濡れた畳の匂いと混じり合って、まるで夢の底に沈むような感覚を直哉に与えていた。彼は敷居をまたいだ直後から、視線を彰人から外せなくなっていた。畳に膝をつくと、行灯の光に照らされた彰人の裸体が、かすかに震えているのが分かった。彼の指先には、椿油のぬめりが薄く光っていた。羞恥と熱に染まった頬、潤んだ瞳。直哉は一度、息を深く吸い込んだ。だがその呼吸さえも、油の甘さと白檀の濃密さに喉を満たされる。全身が、感覚の網に絡め取られていく。彰人は、直哉の気配をまっすぐ受け止めていた。逃げようとしない。羞じらいながらも、膝を開き、潤んだまなざしで彼を呼んでいる。その「呼び」に、直哉は抗えなかった。理性が喉の奥でひび割れる音がした。何度も自分を律してきた禁欲の壁が、静かに、だが確実に崩れていく。その崩壊の音は、誰にも聞こえないはずなのに、部屋中に響きわたるような気がした。「彰人さま…」そう呼ぶ声も震えていた。彰人の肩に手を置き、そっと引き寄せる。指先に触れた肌はひどく柔らかく、ぬめりと汗と熱で滑る。全身の筋肉が緩むのを止められなかった。自分がいま何者で、何をしているのか、ただ一つの欲望だけが支配していく。彰人の唇に、自分の唇を重ねた。微かに開かれた口腔から、白檀と椿油、そして人肌の甘い匂いがふわりと立つ。彰人は驚いたようにまつげを震わせたが、抗うことはしなかった。むしろ、受け入れた。唇が重なる。湿った熱が、全身を一気に駆け抜けた。「……っ」彰人の声が、喉の奥で小さく洩れる。その声に背中を押されるように、直哉はさらに唇を深く、強く押しつけた。彰人の肩を両手で支え、身を預ける。二人の身体の熱が畳に伝わり、夜の静寂を焼いていく。指が肩から鎖骨、胸元へと滑る。椿油が皮膚に残したぬめりが、どこか淫靡で、触れるごとに新しい熱を呼び起こした。直哉は、彰人の胸へ唇を移した。小さく硬く立った乳首に、そっと舌先を這わせる。行灯の灯りが、その一部始終をほの明るく照らしていた。彰人は息を詰め、肩を震わせた。熱い吐息が髪に触れる。
夜半の静けさが、私室の内側に濃く積もっていた。行灯の芯は小さな音を立てて燃え、薄い紙障子に金の揺らぎを映す。白檀の香が低く空気に満ち、それを吸うたび、胸の内で何かが柔らかくほどけ、同時に締めつけられる。桂木彰人は膝を正し、ゆるく羽織を合わせたまま、文机の前に座していた。机の隅には、昼間の学びの名残りのように硯と筆が並ぶ。その手前に、琥珀の光を抱いた小瓶が一つ、心臓のように静かに沈んでいる。椿油の瓶だ。障子の向こうは、夜気がぬるく漂っているらしい。庭のどこかで、湿った葉が擦れる音が一度だけして、すぐに止んだ。音が消えると、自分の呼吸だけがはっきり分かる。息が浅い。舌の奥に、微かな甘さが残る。白檀のせいだけではない。あの人の呼吸が、ふと耳の奥に蘇るのだ。彰人は、指先で瓶の縁をなぞった。冷たい硝子の感触が、熱の帯を引くように指腹を刺激し、むしろ内側の火照りを意識させた。瓶の口を開ける。油が、僅かに光を震わせた。匂いが立つ。椿の匂いは、白檀の深さに寄り添いながら、肌の記憶に触れてくる。それは幼い頃、母の髪を結う侍女の手元を見ていたときに感じた、あの静かな艶の匂いでもあった。だが今夜、それは別の意味を帯びている。掌に、油を少し落とした。とぷん、と小さな音がした気がした。行灯の光に揺れて、掌の上の油が金色にほどける。彰人はそのまま、指先で油を温めた。皮膚に吸い付くような重さがあり、指の腹がゆっくりと滑らかさを得る。その触感は、掌の中心から全身へ、じわじわと熱を広げていく。羽織の合わせを、左手で静かに緩めた。喉元に冷たい空気が触れる。胸の肌が灯りを受け、薄く影を帯びる。息をひとつ深く吸い、吐いた。自分に問いかけるように、胸に触れた。鼓動ははっきりと早い。手のひらを下へ滑らせ、帯にかかる。結び目をほどく音が、妙に大きく響いた。羞恥が頬に上がる。だが、指は止まらない。今夜は、止めないと決めていた。下衣の布が畳に触れて柔らかな音を立て、足首の周りに落ちる。膝を少し開き、畳の目が肌に押し返す微かなざらつきを感じる。行灯の光が、膝の内側にやわらかな線を描いた。彰人は一度目を閉じ、油を含んだ右手の指を見下ろした。光に濡れた指先は、まるで別の生き物のように艶を持ち、鼓動と同じリズムで、かすかに震えて見えた。