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2.書生、来たる

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-01 09:50:54

玄関の扉が、低く唸るような音を立てて開かれた。

午後の陽が庭石に反射し、土間の敷石に淡い光を落とす。桂木邸において、外から人が訪れるという出来事は稀だった。ましてや、それが「新しい書生」となると、なおさらだ。

三崎直哉は、黒の学生服に身を包み、背筋を正して敷居をまたいだ。日焼けした頬に汗の筋が一筋、滲んでいる。左手には革の鞄、右手には紹介状の封筒。歩みは静かで、だが一歩ごとに床板がわずかに軋んだ。

出迎えたのは、年配の女中だった。眉間にしわを寄せながら、直哉の持つ封筒に目をやる。

「三崎直哉どの、帝大よりお越しとのこと…はい、応接間へご案内いたします」

声はか細く、どこか遠慮がちだった。桂木邸全体に染みついた、空気を乱すことを恐れるような声音。

直哉は軽く頭を下げると、女中の後について廊下を進んだ。

屋敷の内部は、外観から想像するよりも遥かに暗かった。襖の向こうから香が漂う。白檀か、それとももっと複雑な香木か。直哉には、その香の名は分からなかった。ただ、それが非日常の世界へ自分が踏み入った証のように感じられた。

足音を抑えながら廊下を進む。左手には手入れの行き届いた庭が続き、右手には幾重もの襖。そのすべてが閉ざされており、家全体が何かを秘めるように、静かに息を潜めていた。

「こちらです」

女中が示した襖の前で立ち止まり、軽く咳払いをしたあと、音を立てぬように襖を開いた。

応接間の中は薄暗く、障子越しの光が僅かに畳を照らしていた。調度品は少なく、空間そのものが一つの格調だった。直哉は足元に気を配りながら、座卓の前へと歩み寄る。

そこに、彼はいた。

座卓の奥、日だまりの中に座っていた青年は、まるで一幅の絵のようだった。長い睫毛に縁取られた切れ長の目が、ふと動いた。視線がまっすぐにこちらを射抜いた。

息を呑んだ。

直哉の胸に、鈍い衝撃が走った。

それは驚きでも、賞賛でもない。もっと本能的な、感覚に近い。

ーー美しい。

それ以上の言葉を、直哉の理性は拒んだ。そう思ってしまえば、もう戻れない気がしたからだ。

青年の肌は透けるように白く、黒髪は肩近くまで流れていた。手首は細く、顎の線は滑らかで、だがどこか張りつめた緊張感があった。静かで、壊れやすい…だが、それだけではない。

その目が、こちらを見ていた。

驚きも、戸惑いも、警戒もなく、ただ淡々と、直哉を観察している。

「はじめまして、三崎直哉です。帝大法学部に在籍しており、このたび書生としてお世話になります」

言葉を選びながら、丁寧に頭を下げた。

青年は何も言わなかった。ただ、数秒の沈黙のあとで、静かに頷いた。

その所作ひとつが、何か異質だった。無関心ではない。だが関心を示すでもない。まるで、言葉のやりとりを必要としていないようだった。

女中が台に菓子を並べ、茶を置いたあと、黙礼して部屋を出て行った。襖が閉まり、再び静寂が戻る。

二人きりになった空間に、濃い沈黙が落ちた。

茶の香が、かすかに立ち上る。

直哉は、視線を落とし、湯呑に手を伸ばした。だが指が触れる寸前、目の前の青年の手が、先にそれを取った。

「…冷めますよ」

声が落ちてきた。

低く、柔らかい。耳の奥に残る響きだった。

「ありがとうございます」

直哉は答えたが、その目が一瞬、青年の顔から離せなかった。

この青年は、誰なのか。使用人の誰からも紹介されていない。だが、その佇まいは明らかに特別だった。周囲の空気さえ、この人物に従っていた。

「桂木…様でいらっしゃいますか」

「…そう、呼ばれることは滅多にありません。彰人と申します」

その名を、直哉は胸の中で繰り返した。

彰人。音の響きが、その姿に不思議に馴染んでいた。直哉はそれを丁寧に記憶に刻んだ。

彰人は、湯呑を唇に運びながら、視線を逸らさなかった。まるで、直哉の言葉の裏にあるものを探るように、その眼差しは深く静かだった。

「帝大…法学部」

彰人がぽつりと言う。

「賢い方なのでしょうね」

「いえ、ただ、運良く…学ぶ機会を得られただけです」

「ここに来るのも…運ですか?」

問いの意図が読めなかった。だが、真剣だった。冗談でも皮肉でもない。ただ純粋に、その意味を探ろうとしている目だった。

「はい。運と、ご縁があってのことです」

「縁…ふうん」

彰人は、湯呑を置いた。

そして、ゆっくりと指先でその縁をなぞった。細い指が磁器の表面を滑り、やがて止まる。

「あなたの目は、他の人と違うのですね」

直哉は一瞬、息を詰めた。

「…と、申しますと?」

「こちらを見ているのに、見ていないような。けれど、ちゃんと私を見ているような。鏡のようで…水のよう」

表情は変わらなかったが、その声にはわずかな熱があった。

直哉は言葉に詰まり、だがすぐに笑みを整えた。

「失礼があったなら、申し訳ありません」

「いいえ、嫌な感じではありませんでした。ただ、少し不思議だなと」

そのとき、障子の外から、足音が近づいた。女中の声が、小さく響く。

「三崎さま、お部屋のご用意ができました」

直哉が立ち上がると、彰人も立った。動きに無駄がなく、品があった。

「また…会うのでしょう?」

「はい。書生として、勉学をお手伝いする立場ですから」

「そう…楽しみにしています」

そう言った彰人の声に、微かに柔らかさが混じっていた。

直哉はその変化に気づいたが、あえて何も言わず、深く一礼して応接間を後にした。

襖が閉まったとたん、背後の空気が断ち切られたように感じた。

直哉は歩きながら、胸の内に残る微かなざわめきを感じていた。

あの目。あの肌。あの静けさの中に潜む、言葉にならない欲求。

この屋敷に仕えることが、自分にとってどういう意味を持つのか。

それを知るのは、まだ少し先のことになるだろう。

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  • 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜   53.春の扉、開く音

    春の光は、やわらかな白絹のように新居の廊下を包んでいた。午睡を誘うような淡い陽射しが、木の床をなぞり、行灯のそばで埃を金色に浮かび上がらせている。静けさのなか、直哉は茶椀を両手で抱え、無意識に何度も息を吐いていた。午前のうちに掃き掃除を済ませ、障子を張り替え、香袋を新調した。小さな庭には白椿がひとつだけ咲き、門の前には春の風が通り過ぎていく。部屋の隅には、ふたり分の湯呑みと茶葉、菓子皿がきちんと並べられていた。この家で、待つのは今日が初めてだった。どれだけの日々、あの人の便りを胸に押し当てては、「また会える日」を想い続けてきたのか。季節は幾度も巡り、苦しさも、焦がれるような期待も、いまはすべて静かな鼓動に溶けていた。戸口をノックする音が、家のすべてを震わせた。「三崎さん、ご在宅でしょうか」明るくはないが、柔らかな声。すぐに心臓が跳ね上がる。「……どうぞ」震えぬよう気をつけて、声を返す。だが、すでに膝のあたりが強張っていた。ゆっくりと、玄関の引き戸が開く。木枠が鳴り、春の風とともに彰人が立っていた。袴ではなく、薄鼠色の着流し。かつてよりも面差しは大人びて、けれど瞳の奥には懐かしい影がある。少しだけ緊張しているのか、手土産を持つ手がぎこちなく見えた。「ご無沙汰していました」彰人が一歩、床に足を下ろす。その所作だけで、直哉は胸の奥から熱が湧き上がるのを感じた。「よく、来てくださいました」ようやく出た声は、かすれていた。それでも、言葉は確かに空間を満たした。しばし無言のまま、ふたりは見つめ合った。廊下の先から射し込む光のなかで、彰人の頬がわずかに赤らむ。「お邪魔します」やっとのことで彰人が笑う。微笑みは、初めて会ったあの日よりも柔らかく、しかしどこか憂いを含んでいる。直哉はその姿を、言葉もなく見つめた。彰人は廊下を進み、居間へと入る。香箱座りで畳に腰を落とし、両手を膝に置く。まるで昔の甘えをなぞるようだが、いまはその仕草に大人の気配が滲んでい

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