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第3話

作者: 心原蔵之
翌朝。

颯花はとっくに立ち去り、絵里は朝食をとりに階下へ降りた。

それを見つけた瑛多は、悪戯っぽく笑ってキッチンへ走り、温めた牛乳を運んできた。

「ママ、牛乳どうぞ!熱いうちにね」

普段、多忙な父親に代わって登校を任されている母親さえ動けなくすれば――颯花さんとの遊園地の約束が果たせるのだ。

絵里は無表情で瑛多を見た。また何か企んでいるのだろうが、もはやどうでもいい。

彼女は牛乳を一気に飲み干した。

どこか変な味がした。確かめようとした瞬間、豆の青臭い味が喉までこみ上げてきた。

絵里は瑛多をまじまじと見つめ、声を詰まらせた。「これ、何を入れたの!?」

瑛多はうつむいて言った。「豆乳だよ……ママ、嫌いなの?僕がわざわざ入れてあげたんだよ」

信じられない!私が豆乳アレルギーなのに!

絵里はそう思うとすぐに、喉が締め付けられるような感覚が押し寄せ、息ができなくなってその場に倒れ込んだ。意識が遠くなる中、瑛多が不満そうに呟く声がかすかに聞こえた。

目が覚めると、病室だった。

振り返ると、瑛多が不満げな表情でベッドの脇に立っている。絵里が目を開けたのに気づくと、彼は慌てて表情を繕い、鼻をすすりあげて声を詰まらせた。「ママ、やっと起きたんだ……もう、ずっと……」

その言葉に、絵里は体が一瞬固まった。これまでは、彼は私の不幸をむしろ喜ぶはずだったのに――なぜ突然、心配するようなふりを?

瑛多の後、育也が冷たい眼差しを向けている。

「アレルギー程度で、わざわざ病院まで運ばせるような真似は大げさじゃないか?」

「ママ、僕のことで怒ってるから、わざと倒れたふりしたんでしょ?」瑛多はしょんぼりとうつむいた。「ごめんね、もう怒らないで、謝るから。早く起きて、学校に送ってよ!」そう言いながら、彼は母親の手首を握り、点滴のチューブを意地悪く引っ張った。

点滴の針が皮膚を引き裂く鋭い痛みに絵里は顔をしかめた。絵里が無意識に瑛多を押しのけると、彼はよろめいて倒れそうになった。

「正気か!?子供に手を出すなんて!」育也の怒声が響いた。

「わあーん!」瑛多はワッと泣き出し、ベッドの絵里を叩きながら叫んだ。「悪いママ!大嫌い!!」

暴れ回る瑛多の手に引っ張られ、鋭い痛みに絵里の顔が一瞬で青ざめた。透明だった点滴チューブがみるみるうちに逆流した血液で赤黒く染まっていった。

ようやく針が抜けた時には、彼女の手の甲は見るも無惨に腫れ上がり、鮮血が真っ白なシートに不気味に広げた。

鼻腔を衝く鉄臭い匂いが、病室の重苦しい空気を一層濃厚にした。

瑛多は驚きで涙の演技も止み、茫然と絵里を見つめていた。育也も一瞬たじろぎ、思わず傷口を押さえようと手を伸ばすものの、途中で躊躇し、引っ込めてしまった。

激痛に喘ぎながら息を整えると、絵里は自ら点滴の針とチューブを全て引き抜いた。

十ヶ月をかけて産んだ子を静かに見つめて、寂しげに微笑んだ。「瑛多、それほどまでにママが憎いの?死んでほしいの?そうすれば、新しいママが来ると思っているの?」

小細工が見透かされ、瑛多は俯いてモゴモゴと言い訳もできず、ただ育也の服の裾を必死に握りしめている。

育也は唇を噛みしめ、冷たい口調で言い放った。「わざとじゃないだろう、そんなことでガタガタ言うな。 自分の子なんだから、もう少し大目に見てやれよ」

絵里はもう限界だ。

アレルギーのことは、家族全員が知っている。

瑛多はわざと豆乳を混ぜ、彼女を死ぬ寸前のショック状態に追いやった。それなのに育也は、彼女が「ガタガタ」と言うのか?

「じゃあどうすんだよ?この命でも差し出せば満足?」

育也の表情がさらに暗くなった。「一言言っただけだ。死ぬだの生きるだの、大げさな。絵里、いつから人を脅すようになった?」

言ってるそばから、ドアが開いて颯花が現れた。

瑛多の目がぱっと輝き、すぐに彼女の懐に飛び込んで、すすり泣きながら告げ口した。「ううっ……颯花さん!ママが怖いの、僕を叩いたんだよ!」

颯花は涙目の絵里を一瞥し、そして怒気を帯びた育也を見つめると、その微妙な空気を一瞬で察するように優しく瑛多の頭を撫でた。「瑛多、もう泣かないで。私も悲しくなっちゃうよ」

颯花はお見舞いの品を置くと、さも当然のように育也の隣に立った。そこにいる二人が絵に描いたような仲の良い夫婦に見えて、絵里の胸はさらに痛んだ。

颯花は申し訳なさそうにうつむいた。「絵里さん、ごめんね、私が瑛多と仲良くしすぎたせいで。悪い子じゃないだ、ただ母親の愛情に飢えてるだけなんだ」

その言葉の裏には、絵里という実母は無価値だと。

そうか、まあね。

自分こそが邪魔で無能な存在だというなら、いなくなればいい。

誰の望みも、きっと叶えてあげる。

……

病院の受付カウンターで、絵里はカルテを差し出した。

「退院手続きをお願いします」

看護師が彼女の腫れ上がった手を見て眉をひそめた。「302号室のアレルギーの方でしょう?まだ治まっていないのに……」

「用事がありますので、退院手続きをお願いします」絵里の声は枯れている。

看護師は頑な首を振った。「ダメです。あなたのアレルギー症状は深刻な状態です。ご家族の同意なしでの退院はお断りします」

絵里は言葉を失った。

家族?もう、とっくに家族なんていない。

しばし沈黙した後、彼女は書類を握りしめ、背を向けた。自分で退院すると決意した。

階段口で、降りてきた颯花とばったり顔を合わせた。

「まだいたの?」颯花は嫌味たっぷりに言った。「まさか、誰も追いかけて来なくて芝居が続けられなくなったんじゃない?望月絵里、もし離婚を撤回しようものなら、社会的に葬ってあげるわよ」

絵里は冷たい目で颯花を見た。「焦らなくていい。すぐにいなくなる。離婚が正式受理されると、一分も遅れはしない。むしろあなたこそ――

クズ男にそんなに必死?後悔しちゃうよ」

颯花は腹立たしさで拳を握りしめた。この小娘が、何様のつもりでそんな態度をとるんだ?

あの時、椎名家に異変さえなければ、育也の妻は私だったはずなのに。

図々しいったらありゃしない……この恩知らずめ!

階上からかすかな足音が聞こえてきた。

颯花は上を見上げ、口元に悪意の笑みを浮かべた。

そして絵里の耳元に顔を寄せ、ささやくように言った。「望月絵里、今日という日に、あなたの負けがどれほど決定的なものか、思い知らせてあげる」

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