夜更け、星明りに照らされたその街はみんな眠っている。
ただ一軒、甘い香りを漂わせるお店があった。
ほしのベーカリー、そこは人生に迷った人しか辿りつくことのできないパン屋。
なんでも、店主はその人の人生にあったものを焼いてくれるのだとか。
今日も夜の帳が降りた。街には、どこからか甘い香りが漂っている。
星明かりも届かないような路地裏に、小さなパン屋があった。
星のようなその灯りに、誉は吸い込まれるように扉を開いた。
小さな星がやってきたかのように、ドアベルが音を鳴らす。
年季の入った木の床とレンガの壁。
あたたかな光が、店内の隅々までじんわりと照らしている。
それがどこか懐かしくて、肩の力が抜けた。
ほんのり甘く、香ばしい香りで胸がいっぱいになる。
ふと、カウンターの中から渋い声が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
誉は思わず足を止めた。
「すみません。もう閉店でしたか。」
「いいや。今から営業だ。」
「こんな遅い時間から?一体なんで?」
「ここに来るやつは、決まって何かを抱えてる。」
「はぁ…?」
「人生ってのは、星のない夜を歩いてるときに腹が減るもんだ。今のお前みたいにな。」
“星のない夜“ー今の誉の心の中を表現するのには、ぴったりな言葉だった。
「ほしのベーカリーへようこそ。俺は店主の譲次だ。みんな俺のことをジョージ、と呼んでいる。」
「ジョージさん。僕は誉です。」
「誉だな。さぁ、話してみろ。」
誉は、促されるようにカウンターの椅子に腰掛けた。
店内は、みんなが来る前のスタジオのように静かだ。
「…今日は最悪な日でした。」
譲次は誉の言葉に耳を傾けながら仕込みを始めた。
スタジオのドアが、音をたてて閉まる。
今日もまた、誉はバンドのメンバーと口論になっていた。「売れなきゃ意味がない。これで飯食ってくんだろ?」そんな言葉を、メンバーから何度も投げつけられた。「誉がその考えを変えないなら、俺はここを抜けることも考えてるからな。」その言葉に、誉は何も返すことができなかった。仲間の気持ちを理解していないわけじゃない。食べていくために音楽をやっている。それもまた真実の一つだ。でも、誉は純粋に音を鳴らしたかった。誰かの心に響くような音楽を、楽しみながら作りたかった。お金や評価よりも、”心から良いと思える音楽”を届けたかった。「……はぁぁ」吐き出すようなため息が、口からこぼれる。それが空に吸い込まれていくようで、誉の心をさらに虚しくさせた。ふと、学生時代の仲間の言葉を思い出す。「頑張れよ」「俺たちは音楽を辞めるけど、お前ならやっていける」その期待が、言葉が、今の誉に重くのしかかる。心は重く沈むのに、背中には風が通るようだった。相棒のギターがないことを、肌が覚えていた。音楽を始めて、相棒と離れたことなど一度もなかった。どんな時でも肌身離さず持ち歩いていたはずなのに。忘れたわけじゃない。今はただ、ただ離れていたかった。誉が話している間、譲次は何も言わずに生地をこねていた。
それをぼうっと見ている誉に、譲次はそっとコーヒーを出した。
「ちょっと待ってな。」
譲次はそう言って店の奥へと消えていった。
誉はコーヒーを啜りながら、メンバーに言われたことを考えていた。
(やっぱり、みんないなくなっちゃうのかな)
そう思うと、寂しくて、悔しくて、涙が溢れそうだった。
ふと、懐かしい香りが鼻を掠めた。
「この匂い…」
誉の声が思わず漏れた。
焼きたての、甘くて香ばしい。でもそれだけじゃない。
この胸を掻き立てるような匂い。
譲次が焼きたてのパンを片手に戻ってきた。
まあるくて黄金に輝くメロンパン。
「これはあんたが今夜だけ持てる、小さな星だ。」
そう言って差し出されたパンを、誉は手に取った。
あたたかさが、手のひらから染み込んでくるみたいだ。
誉はその星を頬張った。
甘くて、懐かしくて、ひどく優しい味。
学生時代、ギターを背中に、仲間と食べたあのメロンパンの味。
練習が上手くいかなかった日も、お客さんに演奏を聞いてもらってたくさんの拍手をもらった日も、なんでもない日も。
いつもこの味があった。
「そのパンにはあんたの『音楽への想い』が詰まってる。」
譲次の言葉に、誉は言葉を詰まらせた。
「売れるとか売れないとか、正しいとか間違ってるとか、そんなもんに縛られてるうちに、本当に大事なもんが見えなくなっちまう。そういうやつが多い。」
譲次はそう言ってコーヒーを啜った。
「パンだって同じだ。売るために焼いてると、だんだん味が変わってくる。」
食べかけの小さな星を、ただ黙って見つめていた。
譲次の言葉が、誉の胸に静かに沈んでいく。
(売れるとか、どっちが正しいとか、僕も囚われてたのかもしれない。)
小さな星を握る手が、震えていることに気がついた。
「…売れなくてもいいんです。僕、そんなに器用じゃないし。」
誉は、未来を見据えるようにまっすぐ譲次を見た。
「でも、音楽の楽しさだけはみんなに伝えたい。その想いだけは曲げたくない。」
「…あんた自身の星、見つけられたみてぇだな。」
「明日、仲間に僕の気持ちをちゃんと話してみようと思います。もしそれで仲間が離れていったら寂しいけど…。」
「今の誉なら大丈夫さ。」
「ありがとう、ジョージさん。」
重たかった誉の心は、すっかり軽くなっていた。
「…星が灯ったな」
ここは“ほしのベーカリー“。そこは人生に迷った人しか辿りつくことのできないパン屋。
今日もまた、ここで星の明かりが灯った。
夜更け。星明かりも届かない路地裏に、小さなパン屋があった。『ほしのベーカリー』。そこは人生に迷った者しか辿り着くことのできない、不思議な店だ。星のように光を灯すそのパン屋に、隆はどこか懐かしさを覚えていた。木枠の窓から溢れる柔らかな光。そこから漂ってくる甘い香りは、“あの人”がよく焼いていた焼き菓子の匂いに似ている。足元から冷たい夜気がやってくるのに、胸の奥だけがじんわりとあたたかかった。それはもう、戻ることのない日々の温度。隆はなんの躊躇いもなく扉を開いた。今日もまた、迷い星がやってきた。帽子を被った、少しだけ腰の曲がった老夫。「いらっしゃい」その声に、隆は帽子を取って軽く頭を下げた。「まだやっとるか」「ちょうど今から営業だったんだ。夜に焼くパンは人の心を温めるんでね」「妙なことを言うな」譲次の向かいに腰を下ろした隆は、ふと辺りを見回した。木の棚、年季の入ったカウンターには古いレジが置かれている。ここはパン屋のはずなのに、肝心のパンがどこにも見当たらない。「……パン屋という割には、パンがないじゃないか」隆がぽつりとこぼすと、譲次は笑った。「ここはほしのベーカリー。迷い星を導くパン屋さ。俺は店主の星野譲次。みんなからはジョージと呼ばれている。」「迷い星?何が言いたい」譲次はカウンターの椅子に腰掛けるよう促した。「今のあんたみたいに、自分がどこを向いてるかわからなくなったやつに“星”を渡してやるのさ。」譲次は、隆にコーヒーを差し出した。「わしはコーヒーなんぞ飲まん。紅茶はないのか。」隆の言葉に譲次は声をあげて笑った。「あんた、めんどくさい爺さんだな。ちょっと待ってな」譲次はそう言って、店の奥へと消えていった。隆は店内を見渡した。壁掛けのランプが、陽の光のように心地が良い。そのひかりが、“あの時間”“を思い出させる。隆の視界が少しだけにじむ。その時、譲次が戻ってきた。「お待ちどうさん」そう言って、隆の目の前に紅茶を置いた。立ち上る湯気に、過ぎ去った午後の景色を感じる。隆は黙って紅茶に口をつけた。ベルガモットの香りが鼻を抜ける。「……死んだ女房が、紅茶好きだったんだ。」隆の妻は、大のイギリス好きだった。毎日決まって午後3時になると、紅茶と一緒に小さな洋菓子を並べて、ティータイムを楽しんでいた
夜更け。空が泣いていた。「ほんっと最悪」朝から彼氏と喧嘩したさくらは、天気予報も見ずに家を出たせいでびしょ濡れになっていた。(寒……。)いつもの帰り道のはずだった。でも、気づけば見覚えのない路地にいた。星明りも届かない、少し寂しげな裏通り。その時、ぽつんと光が見えた。寂しさも寒さも吹き飛ばしてくれるような、暖かい光。夕暮れの一番星のような優しい輝き。そこに行ってみたくなった。冷えた身体が自然とそちらへ向いていた。なんとなく、行かなきゃいけないと思った。迷い星は、光のほうへ流れ落ちた。扉の向こうは想像どおり暖かい場所だった。「いらっしゃい。」譲次はびしょ濡れのさくらに、柔らかなタオルを差し出した。「あ、ありがとうございます。」さくらは戸惑いつつそれを受け取ると、濡れた身体を拭きながら店内を見渡した。どこか喫茶店を彷彿とさせるような雰囲気。天井のライトが星のようにきらめき、暗い夜を照らしているようだった。ほのかにパンの香りがするのに、店内のどこにもパンが見当たらない。「あの、ここってパン屋さん、で合ってます?」さくらの問いに、譲次はふっと笑った。「ここは迷い星がやってくるパン屋さ。俺は店主の星野譲次だ。みんなからジョージと呼ばれている。」「迷い星……?なんですか、それ」「いずれわかるときが来るさ。」「はぁ……?」その言葉に、さくらは肩の力が抜けた気がした。「ここ、座ってもいいですか」そう言って、カウンター席を指さした。譲次は静かに頷くと、生地をこね始めた。「ちょっとだけ、愚痴を聞いてください。」さくらはそういうと、譲次の反応も見ずに話し始めた。さくらには、喧嘩中の婚約者がいる。最近は些細なことで喧嘩することが多かった。ゴミ出しを忘れていただの、食器を洗っていないだの。たいてい怒り出すのはさくらの方。彼氏の仕事が忙しいことは理解はしている。でも、心が追いついていないのだ。自分も仕事をしているのに、なんで自分ばっかり。そう考えてしまうさくら自身が嫌いだった。「わかってるんです。彼が忙しいこと。でも私も自分に余裕が無いから怒ってしまう。」さくらはコーヒーカップをぎゅっと握った。「それが嫌で、さらにイライラしちゃって……。今後大丈夫かなって」気づけば、さくらの目から涙がこぼれていた。「
夜更け、星明りに照らされたその街はみんな眠っている。ただ一軒、甘い香りを漂わせるお店があった。ほしのベーカリー、そこは人生に迷った人しか辿りつくことのできないパン屋。なんでも、店主はその人の人生にあったものを焼いてくれるのだとか。今日も夜の帳が降りた。街には、どこからか甘い香りが漂っている。星明かりも届かないような路地裏に、小さなパン屋があった。星のようなその灯りに、誉は吸い込まれるように扉を開いた。小さな星がやってきたかのように、ドアベルが音を鳴らす。年季の入った木の床とレンガの壁。あたたかな光が、店内の隅々までじんわりと照らしている。それがどこか懐かしくて、肩の力が抜けた。ほんのり甘く、香ばしい香りで胸がいっぱいになる。ふと、カウンターの中から渋い声が聞こえてきた。「いらっしゃい」誉は思わず足を止めた。「すみません。もう閉店でしたか。」「いいや。今から営業だ。」「こんな遅い時間から?一体なんで?」「ここに来るやつは、決まって何かを抱えてる。」「はぁ…?」「人生ってのは、星のない夜を歩いてるときに腹が減るもんだ。今のお前みたいにな。」“星のない夜“ー今の誉の心の中を表現するのには、ぴったりな言葉だった。「ほしのベーカリーへようこそ。俺は店主の譲次だ。みんな俺のことをジョージ、と呼んでいる。」「ジョージさん。僕は誉です。」「誉だな。さぁ、話してみろ。」誉は、促されるようにカウンターの椅子に腰掛けた。店内は、みんなが来る前のスタジオのように静かだ。「…今日は最悪な日でした。」譲次は誉の言葉に耳を傾けながら仕込みを始めた。スタジオのドアが、音をたてて閉まる。今日もまた、誉はバンドのメンバーと口論になっていた。「売れなきゃ意味がない。これで飯食ってくんだろ?」そんな言葉を、メンバーから何度も投げつけられた。「誉がその考えを変えないなら、俺はここを抜けることも考えてるからな。」その言葉に、誉は何も返すことができなかった。仲間の気持ちを理解していないわけじゃない。食べていくために音楽をやっている。それもまた真実の一つだ。でも、誉は純粋に音を鳴らしたかった。誰かの心に響くような音楽を、楽しみながら作りたかった。お金や評価よりも、”心から良いと思える音楽”を届けたかった。「……はぁぁ」吐き出すよう