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遅すぎたスコーン

last update Last Updated: 2025-07-27 21:57:06

夜更け。星明かりも届かない路地裏に、小さなパン屋があった。

『ほしのベーカリー』。そこは人生に迷った者しか辿り着くことのできない、不思議な店だ。

星のように光を灯すそのパン屋に、隆はどこか懐かしさを覚えていた。

木枠の窓から溢れる柔らかな光。そこから漂ってくる甘い香りは、“あの人”がよく焼いていた焼き菓子の匂いに似ている。

足元から冷たい夜気がやってくるのに、胸の奥だけがじんわりとあたたかかった。

それはもう、戻ることのない日々の温度。

隆はなんの躊躇いもなく扉を開いた。

今日もまた、迷い星がやってきた。

帽子を被った、少しだけ腰の曲がった老夫。

「いらっしゃい」

その声に、隆は帽子を取って軽く頭を下げた。

「まだやっとるか」

「ちょうど今から営業だったんだ。夜に焼くパンは人の心を温めるんでね」

「妙なことを言うな」

譲次の向かいに腰を下ろした隆は、ふと辺りを見回した。

木の棚、年季の入ったカウンターには古いレジが置かれている。

ここはパン屋のはずなのに、肝心のパンがどこにも見当たらない。

「……パン屋という割には、パンがないじゃないか」

隆がぽつりとこぼすと、譲次は笑った。

「ここはほしのベーカリー。迷い星を導くパン屋さ。俺は店主の星野譲次。みんなからはジョージと呼ばれている。」

「迷い星?何が言いたい」

譲次はカウンターの椅子に腰掛けるよう促した。

「今のあんたみたいに、自分がどこを向いてるかわからなくなったやつに“星”を渡してやるのさ。」

譲次は、隆にコーヒーを差し出した。

「わしはコーヒーなんぞ飲まん。紅茶はないのか。」

隆の言葉に譲次は声をあげて笑った。

「あんた、めんどくさい爺さんだな。ちょっと待ってな」

譲次はそう言って、店の奥へと消えていった。

隆は店内を見渡した。

壁掛けのランプが、陽の光のように心地が良い。

そのひかりが、“あの時間”“を思い出させる。

隆の視界が少しだけにじむ。

その時、譲次が戻ってきた。

「お待ちどうさん」

そう言って、隆の目の前に紅茶を置いた。

立ち上る湯気に、過ぎ去った午後の景色を感じる。

隆は黙って紅茶に口をつけた。

ベルガモットの香りが鼻を抜ける。

「……死んだ女房が、紅茶好きだったんだ。」

隆の妻は、大のイギリス好きだった。

毎日決まって午後3時になると、紅茶と一緒に小さな洋菓子を並べて、ティータイムを楽しんでいた。

隆が定年を迎え、自宅にいる時間が増えた。

隆の妻は嬉しそうに日替わりの洋菓子を焼いた。

「今日はスコーンを焼いてみたの。一緒に食べましょう?」

そんなふうに、楽しそうに誘ってくる妻に、隆は毎回付き合わされていた。

もともと甘いものがそこまで好きではなかった隆。

それに、今までせわしい生活を送ってきていたところに、突然入り込んできた”ゆったりとした時間”。

そこにむずがゆさを覚えたのかもしれない。

「こんなもの、どこが美味いんだ」

出されるたびに、隆は素っ気なく言っていた。

それでも隆の妻は、隆のために、いやな顔一つせず、毎日甘さ控えめの菓子を焼いた。

―――きっと、隆がこっそり完食していたことを気づいていたのだろう。

そんなある日、突然妻が倒れた。

心筋梗塞だった。

「きっと、罰が当たったんじゃ。女房を大切にしなかった罰が」

隆の持つカップから、湯気が立ちのぼる。

「…女房が死んだ日、台所には小麦粉やらバターやらが並んどった。たった一度でも言ってやればよかった。変な意地なんて張らずに…」

隆は左手を、ぎゅっと握りしめた。

「…ちょっと待ってろ。」

譲次はそういうと、店の奥へと消えていった。

しばらくして、譲次がトレイを手に戻ってきた。

それを隆の前に差し出すと、隆は少し驚いた表情を浮かべていた。

「スコーンか……」

「このスコーンにはあんたの”後悔”と”感謝”を詰め込んだ。」

「……食っていいのか」

「もちろんだ。」

隆はスコーンの腹を割った。

香ばしいバターの香りと、ほのかに香るアールグレイ。

何もつけずに、スコーンを口に放り込んだ。

バターとオレンジの奥に広がる、ベルガモットの香り。

自宅でよく食べた、あの懐かしい味がする。

「……女房の作ったスコーンのが、何倍も美味かったなぁ…」

隆の鼻をすする音が店内に響く。

「そりゃそうだ。愛情の籠ったものには、どんなプロでも敵わんさ。」

譲次はコーヒーカップをカウンターにそっと置いた。

「あんたの奥さんも、今頃『よかった、まだ思い出してくれるのね』って笑ってるはずさ」

「…なんでそんなことがわかる」

「迷い星の声を聴くのは得意なんでね。」

隆の前に、紙袋が差し出される。

「これは?」

「サービスさ。あんたの隣にいる奥さんも一緒に食べたがってるはずさ。それから、言えなかったあんたの”感謝”を伝えてやんな。」

隆は目を開いたまま、紙袋に手を伸ばした。

「あんた、女房が見えるのか?」

「……さぁな。でも死んだからって、もうそばにいないわけじゃない。星となって、あんたの心の中の灯りとして、ずっとそばにいてくれてるはずさ。」

「……ありがとう」

声を詰まらせながら、隆は譲次に礼を言った。

ここは”ほしのベーカリー”。

迷い星に光を灯すパン屋さん。

今日は二つ、星が灯った。

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