Mag-log in夜更け。空が泣いていた。
「ほんっと最悪」
朝から彼氏と喧嘩したさくらは、天気予報も見ずに家を出たせいでびしょ濡れになっていた。
(寒……。)
いつもの帰り道のはずだった。
でも、気づけば見覚えのない路地にいた。
星明りも届かない、少し寂しげな裏通り。
その時、ぽつんと光が見えた。
寂しさも寒さも吹き飛ばしてくれるような、暖かい光。
夕暮れの一番星のような優しい輝き。
そこに行ってみたくなった。
冷えた身体が自然とそちらへ向いていた。
なんとなく、行かなきゃいけないと思った。
迷い星は、光のほうへ流れ落ちた。
扉の向こうは想像どおり暖かい場所だった。
「いらっしゃい。」
譲次はびしょ濡れのさくらに、柔らかなタオルを差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
さくらは戸惑いつつそれを受け取ると、濡れた身体を拭きながら店内を見渡した。
どこか喫茶店を彷彿とさせるような雰囲気。
天井のライトが星のようにきらめき、暗い夜を照らしているようだった。
ほのかにパンの香りがするのに、店内のどこにもパンが見当たらない。
「あの、ここってパン屋さん、で合ってます?」
さくらの問いに、譲次はふっと笑った。
「ここは迷い星がやってくるパン屋さ。俺は店主の星野譲次だ。みんなからジョージと呼ばれている。」
「迷い星……?なんですか、それ」
「いずれわかるときが来るさ。」
「はぁ……?」
その言葉に、さくらは肩の力が抜けた気がした。
「ここ、座ってもいいですか」
そう言って、カウンター席を指さした。
譲次は静かに頷くと、生地をこね始めた。
「ちょっとだけ、愚痴を聞いてください。」
さくらはそういうと、譲次の反応も見ずに話し始めた。
さくらには、喧嘩中の婚約者がいる。
最近は些細なことで喧嘩することが多かった。
ゴミ出しを忘れていただの、食器を洗っていないだの。
たいてい怒り出すのはさくらの方。
彼氏の仕事が忙しいことは理解はしている。
でも、心が追いついていないのだ。
自分も仕事をしているのに、なんで自分ばっかり。
そう考えてしまうさくら自身が嫌いだった。
「わかってるんです。彼が忙しいこと。でも私も自分に余裕が無いから怒ってしまう。」
さくらはコーヒーカップをぎゅっと握った。
「それが嫌で、さらにイライラしちゃって……。今後大丈夫かなって」
気づけば、さくらの目から涙がこぼれていた。
「誰しも、ずっと余裕があるわけじゃないさ。みんな自分のペースで生きてる。あんただってそうだろ?」
譲次の言葉に、さくらは鼻をすすって小さくうなずいた。
「……ところであんた、今日は朝ごはんは食べたのか?」
「食べてないですけど……。なんですか?いきなり」
「じゃあまずは腹を満たそう。もう晩ご飯の時間だが、まぁいいだろう。」
困惑した表情のさくらをよそに、譲次は何も言わずに店の奥へと消えていった。
このまま仲直りできず、婚約破棄をされてしまったらどうしよう。
そんな思いがさくらの頭を駆け巡っていた。
さくらも今年で32歳になる。
周りはみんなとっくのむかしに結婚して、子供がいる家庭も多い。
なのに自分は仕事、仕事、仕事。
別に労働が嫌なわけじゃない。むしろキャリアを積めることはいいこと、とさえ思っている。
でも、周りはみんな結婚していて、なんだか自分だけ置いて行かれた気分になっているのだ。
もちろん彼氏のことは大好きだし、周りが結婚してるからという理由で結婚したいと思っているわけでもない。
(人生って、難しいなぁ……)
そんなことを考えていると、さくらの目の前に一枚のトーストが置かれた。
思わず顔を上げる。
譲次がいつの間にか戻ってきていた。
「あんたの“星“さ。」
「私の……?」
「迷ったら立ち止まってみるといい。案外近くに”星”があったりするもんだ。」
さくらはじっとトーストを見つめた。
上に乗っかったバターが、じんわりと溶けていく。
そっと手を伸ばし、口に運ぶ。
バターの中に、メープルシロップの優しい甘さを感じる。
毎朝彼氏と食べる味。
今日は食べられなかった味。
さくらの目からまた、雫が溢れる。
「私、酷いこと言っちゃったかなぁ。嫌われちゃうのかなぁ。」
涙が、さくらの頬をつたう。
譲次は、さくらの空になったカップにコーヒーを注いだ。
「大丈夫さ。きっと彼氏さんも同じことを考えてるはずさ。」
「へ……?」
譲次は窓の外を指差した。
そこには、さくらの彼氏である海がいた。
「海?なんで……?」
「きっと彼氏さんも、迷い星だったのさ。似たもの同士なこった。」
そう言って、譲次は笑い声をあげた。
「いらっしゃい。」
ドアベルの音とともに、海が入ってきた。
「なんで、ここに……」
さくらの声は震えていた。
その言葉に、海は少し困ったように笑った。
「それが、気づいたらここに辿り着いててさ」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。
それをかき消すかのように譲次が笑った。
「どうやら似た味が好きな二人みたいだな。」
そういい、海にもさくらと同じトーストを差し出した。
海は驚いた様子でトーストを見つめた。
「これ、いただいていいんですか」
その言葉に、譲次は黙って頷いた。
トーストを手にとり、一口かじる。
「……!これ、いつもさくらが作ってくれるやつだ。」
こわばっていた海の表情がゆるむ。
「いつもバター焦がしちゃうけど……。ジョージさんのはすごいね。」
そういってさくらもふっと笑った。
再び流れる沈黙。
でも、さっきよりも重たくなかった。
「ごめん」
先に謝罪の言葉が出たのは海の方だった。
「いつも仕事を言い訳に、ちゃんと向き合えてなかった。」
「……私も、同じだよ。」
さくらの声は少し、上ずっていた。
「またさ」
海が言った。
「明日も、さくらの朝ごはん食べたいな」
「……うん、もちろん。」
譲次は静かに二人の空になったカップにコーヒーを注いだ。
今日もまた二つ、星が灯った。
その星が、永くやさしく輝き続けられますように。
譲次はそっと祈った。
茜色に染まる空には、一番星が輝いている。今日は祖母の1周忌だった。翠依は、祖母の葬式以来、はじめて両親と顔を合わせ、食事を共にする予定だった。しかし、連日のバイトで溜まった疲労のせいか、気づけば眠りこけていた。約束の時間は、とうに過ぎていた。(おばあちゃん、ほんとごめん。)両親は、昔から時間に厳しい人たちだった。遅刻するなだの、5分前行動をしろだの。私は兵隊じゃないぞ、と何度思ったかわからない。両親とは裏腹に、翠依は昔から時間にルーズだった。そんな翠依を「まぁいいじゃない」と庇ってくれたのは、亡くなった祖母だけだった。でも、もう味方はいない。久々の家族水入らずの時間。楽しい時間を過ごすはずだったのに、食事どころか説教まで喰らってしまった。(はぁ……やだなぁ。もう成人したのに怒られるなんて。)帰り道。昼間の喧騒が嘘のように眠りについた商店街を一人歩く。翠依の足取りは重く、心もどこか浮かない。「おばあちゃん……」吐き出すように声が漏れた。両親に怒られた後はいつも祖母が慰めてくれていたことを思い出す。思わず、立ち止まった。ふと、路地裏から星明かりのような光が漏れていることに気がついた。翠依はなんだかそれに興味が湧いて、自然と足がそちらへ向いた。薄汚れた路地の奥に、見慣れない小さなお店が佇む。(こんなところ、あったっけ。)気づけば、自然と扉に手をかけていた。星の来店を告げるように、ベルが鳴った。「いらっしゃい」少し古びたカウンターの奥から、男性が声をかける。ガタイのいい、少しコワモテな中年の男性。(なんか、ダンディだな)ジョージの見た目に、翠依はそう思わずにはいられなかった。「ここって、何屋さんですか?」翠依の質問に、譲次は笑って答えた。「まぁ、パン屋ってことで。うちのパンはちょっと変わってるんだ。食べた人の心を、ほんの少しだけ軽くする。そんな魔法がかかってるのさ。」「はぁ……?」「あんたくらいの年頃のやつは、みんな同じ反応をするんだな。」そういって、譲次は笑い声を上げた。「俺は店主の星野譲次だ。みんなからジョージと呼ばれている。」「浜本翠依です。パン屋さんなのにパンが置いてないんですね」翠依はあたりをキョロキョロと見渡した。「今から焼くのさ。……あんたの迷い星の声、聞かせてくれるか?」
夜更け。今夜の空は一段と澄んでいた。輝く星々の中に、今にも消えそうな光が一つあった。「今回も入選おめでとう!」「やっぱお前の才能すげぇよ!」俺は幼いころから趣味で物語を書くのが好きだった。周りからの後押しもあり、コンテストに応募してみたら入選することができた。「いやぁ、たまたまだよ」口ではそんなことを言っているが、実際はそうでは無いことを彼らはきっと知っている。「次の作品も楽しみにしてるからな」別れ際、友人がそういってくれた。『ありがとう』が、うまく出てこなかった。夕暮れの商店街を歩く。空が、徐々に茜色にのまれていく。パンの香りが鼻を掠めた。ふと、学食で食べるクロワッサンを思い出す。なんとなく特別になれる気がして、いつも選んでしまう。(もうこの時間は閉まってるはずじゃ……)気になって匂いをたどると、路地裏に一軒のパン屋があった。(こんなところにお店なんてなかったはず)目の前で立ち尽くしていると、白いコック帽をかぶった、がたいのいい男性が店から出てきた。「よぉ兄ちゃん。なんか迷い事がある顔してるな。」「はぁ、まぁ。」なんだこの人。思わず喉まで出かかった。「本当ならまだ少し早いが……。ほしのベーカリー、開店だ。入りな。」断れる雰囲気でもなかったため、店の敷居を跨いだ。店内はどこか懐かしくて、おばあちゃんの家を彷彿とさせるようだった。「自己紹介がまだだったな。俺は店主の星野譲次だ。みんなからはジョージと呼ばれている。」みんな、ということはそれなりに客足も少なくないんだろう。「俺は栞です。女の子みたいな名前ですけど。」「いいじゃねぇか、かっこいいぜ。」そういってくれたジョージさんは、店の説明をしてくれた。どうやら悩みを抱える人たちが自然とやってくるお店らしい。カウンターに静かにおかれたカプチーノを眺めながら、俺は自然と話し始めていた。▽▽▽俺の実家はめっちゃ田舎にあって、祖父母と両親で農家をやっているんです。もともと田植えとか稲刈りの時期には手伝ってて、そうでなくても実家に帰って手伝いをすることが多くて。最近父が腰を痛めちゃって、頭下げてきたんです。「大学出たら帰ってきてくれねぇか」って。実家に帰るのはいいんです。……でも、僕にはやりたいことがある。小さいころから小説書いて、その世界に入るの
夜更け。星明かりも届かない路地裏に、小さなパン屋があった。『ほしのベーカリー』。そこは人生に迷った者しか辿り着くことのできない、不思議な店だ。星のように光を灯すそのパン屋に、隆はどこか懐かしさを覚えていた。木枠の窓から溢れる柔らかな光。そこから漂ってくる甘い香りは、“あの人”がよく焼いていた焼き菓子の匂いに似ている。足元から冷たい夜気がやってくるのに、胸の奥だけがじんわりとあたたかかった。それはもう、戻ることのない日々の温度。隆はなんの躊躇いもなく扉を開いた。今日もまた、迷い星がやってきた。帽子を被った、少しだけ腰の曲がった老夫。「いらっしゃい」その声に、隆は帽子を取って軽く頭を下げた。「まだやっとるか」「ちょうど今から営業だったんだ。夜に焼くパンは人の心を温めるんでね」「妙なことを言うな」譲次の向かいに腰を下ろした隆は、ふと辺りを見回した。木の棚、年季の入ったカウンターには古いレジが置かれている。ここはパン屋のはずなのに、肝心のパンがどこにも見当たらない。「……パン屋という割には、パンがないじゃないか」隆がぽつりとこぼすと、譲次は笑った。「ここはほしのベーカリー。迷い星を導くパン屋さ。俺は店主の星野譲次。みんなからはジョージと呼ばれている。」「迷い星?何が言いたい」譲次はカウンターの椅子に腰掛けるよう促した。「今のあんたみたいに、自分がどこを向いてるかわからなくなったやつに“星”を渡してやるのさ。」譲次は、隆にコーヒーを差し出した。「わしはコーヒーなんぞ飲まん。紅茶はないのか。」隆の言葉に譲次は声をあげて笑った。「あんた、めんどくさい爺さんだな。ちょっと待ってな」譲次はそう言って、店の奥へと消えていった。隆は店内を見渡した。壁掛けのランプが、陽の光のように心地が良い。そのひかりが、“あの時間”“を思い出させる。隆の視界が少しだけにじむ。その時、譲次が戻ってきた。「お待ちどうさん」そう言って、隆の目の前に紅茶を置いた。立ち上る湯気に、過ぎ去った午後の景色を感じる。隆は黙って紅茶に口をつけた。ベルガモットの香りが鼻を抜ける。「……死んだ女房が、紅茶好きだったんだ。」隆の妻は、大のイギリス好きだった。毎日決まって午後3時になると、紅茶と一緒に小さな洋菓子を並べて、ティータイムを楽しんでいた
夜更け。空が泣いていた。「ほんっと最悪」朝から彼氏と喧嘩したさくらは、天気予報も見ずに家を出たせいでびしょ濡れになっていた。(寒……。)いつもの帰り道のはずだった。でも、気づけば見覚えのない路地にいた。星明りも届かない、少し寂しげな裏通り。その時、ぽつんと光が見えた。寂しさも寒さも吹き飛ばしてくれるような、暖かい光。夕暮れの一番星のような優しい輝き。そこに行ってみたくなった。冷えた身体が自然とそちらへ向いていた。なんとなく、行かなきゃいけないと思った。迷い星は、光のほうへ流れ落ちた。扉の向こうは想像どおり暖かい場所だった。「いらっしゃい。」譲次はびしょ濡れのさくらに、柔らかなタオルを差し出した。「あ、ありがとうございます。」さくらは戸惑いつつそれを受け取ると、濡れた身体を拭きながら店内を見渡した。どこか喫茶店を彷彿とさせるような雰囲気。天井のライトが星のようにきらめき、暗い夜を照らしているようだった。ほのかにパンの香りがするのに、店内のどこにもパンが見当たらない。「あの、ここってパン屋さん、で合ってます?」さくらの問いに、譲次はふっと笑った。「ここは迷い星がやってくるパン屋さ。俺は店主の星野譲次だ。みんなからジョージと呼ばれている。」「迷い星……?なんですか、それ」「いずれわかるときが来るさ。」「はぁ……?」その言葉に、さくらは肩の力が抜けた気がした。「ここ、座ってもいいですか」そう言って、カウンター席を指さした。譲次は静かに頷くと、生地をこね始めた。「ちょっとだけ、愚痴を聞いてください。」さくらはそういうと、譲次の反応も見ずに話し始めた。さくらには、喧嘩中の婚約者がいる。最近は些細なことで喧嘩することが多かった。ゴミ出しを忘れていただの、食器を洗っていないだの。たいてい怒り出すのはさくらの方。彼氏の仕事が忙しいことは理解はしている。でも、心が追いついていないのだ。自分も仕事をしているのに、なんで自分ばっかり。そう考えてしまうさくら自身が嫌いだった。「わかってるんです。彼が忙しいこと。でも私も自分に余裕が無いから怒ってしまう。」さくらはコーヒーカップをぎゅっと握った。「それが嫌で、さらにイライラしちゃって……。今後大丈夫かなって」気づけば、さくらの目から涙がこぼれていた。「
夜更け、星明りに照らされたその街はみんな眠っている。ただ一軒、甘い香りを漂わせるお店があった。ほしのベーカリー、そこは人生に迷った人しか辿りつくことのできないパン屋。なんでも、店主はその人の人生にあったものを焼いてくれるのだとか。今日も夜の帳が降りた。街には、どこからか甘い香りが漂っている。星明かりも届かないような路地裏に、小さなパン屋があった。星のようなその灯りに、誉は吸い込まれるように扉を開いた。小さな星がやってきたかのように、ドアベルが音を鳴らす。年季の入った木の床とレンガの壁。あたたかな光が、店内の隅々までじんわりと照らしている。それがどこか懐かしくて、肩の力が抜けた。ほんのり甘く、香ばしい香りで胸がいっぱいになる。ふと、カウンターの中から渋い声が聞こえてきた。「いらっしゃい」誉は思わず足を止めた。「すみません。もう閉店でしたか。」「いいや。今から営業だ。」「こんな遅い時間から?一体なんで?」「ここに来るやつは、決まって何かを抱えてる。」「はぁ…?」「人生ってのは、星のない夜を歩いてるときに腹が減るもんだ。今のお前みたいにな。」“星のない夜“ー今の誉の心の中を表現するのには、ぴったりな言葉だった。「ほしのベーカリーへようこそ。俺は店主の譲次だ。みんな俺のことをジョージ、と呼んでいる。」「ジョージさん。僕は誉です。」「誉だな。さぁ、話してみろ。」誉は、促されるようにカウンターの椅子に腰掛けた。店内は、みんなが来る前のスタジオのように静かだ。「…今日は最悪な日でした。」譲次は誉の言葉に耳を傾けながら仕込みを始めた。スタジオのドアが、音をたてて閉まる。今日もまた、誉はバンドのメンバーと口論になっていた。「売れなきゃ意味がない。これで飯食ってくんだろ?」そんな言葉を、メンバーから何度も投げつけられた。「誉がその考えを変えないなら、俺はここを抜けることも考えてるからな。」その言葉に、誉は何も返すことができなかった。仲間の気持ちを理解していないわけじゃない。食べていくために音楽をやっている。それもまた真実の一つだ。でも、誉は純粋に音を鳴らしたかった。誰かの心に響くような音楽を、楽しみながら作りたかった。お金や評価よりも、”心から良いと思える音楽”を届けたかった。「……はぁぁ」吐き出すよう







