ANMELDEN聖帝国暦644年7月――。
惑星ヴァルカン、アストレア子爵家館・応接室。重厚な扉が開き、一人の壮年の軍人が姿を現した。
整えられた銀髪、深い青の軍装。その立ち居振る舞いは、あくまで静かで嫌な威圧感はない。
彼が帝国第八外征艦隊司令官レオンハルト=トラヴァース提督であった。「……アストレア子爵殿。急な寄港となり、申し訳ない」
落ち着いた声。
その瞳には、先の戦勝の傲りも見えない。ユリウス少年は緊張しながらも頭を下げた。
「いいえ……惑星ヴァルカンは、皇帝陛下の軍の御役に立てることを誇りに思います。ご帰還の途中と伺いました。どうか、お力になりたい……!」
レオンハルトは小さく微笑む。
「感謝する。我が艦隊は長期戦闘と宙域紛争で、損耗が激しくてね。兵も船も限界だ……、どうにか補給と応急修理を施したい」
声は疲労を帯び、どこか悲しみすら滲む。
ツーシームはその声色に嘘を嗅ぎ取れなかったが、疑念に眉をひそめた。(本当に……『ただの帰還』だけなのかい?)
◇◇◇◇◇
――数日後。
ヴァルカンの港湾都市と工廠区は、歴史にない賑わいとなった。
空を覆う無数の傷だらけの戦列艦群が着陸し、何千人もの帝国兵と技術士が惑星に降り立つ。「資材搬入急げ! オルビタス級の推進炉だ、手を抜くな!」
「医療班、急患搬送! 前線帰還組だ!」 「飯はまだかー! 暑い! ビール寄越せー!」ヴァルカンの町は、他星系からも大量の労働者が流れ込み、修理工員、物資商人、飲食店が怒涛の勢いで増え、景気は爆発的に上向いた。
ツーシームの銀狐商会も例外ではない。
工廠は常にフル稼働、資材がいくらあっても足りなかった。「社長ー! リベットが尽きます!」
「じゃんじゃん発注しな! 稼げるうちに稼ぐよ!」汗と笑いが飛び交い、工員たちの顔は輝いている。
◇◇◇◇◇
ユリウスは感慨深げに街を見渡した。
「ツーシーム……、惑星ヴァルカンが、こんなに賑わうなんて」
「ああ。坊っちゃんの城下町、きっと歴史上で今が一番華やかだね」
ツーシームは手すりに肘を置き、宇宙港を見つめる――その眼差しはまだ鋭い。
「……ただし、勘違いするなよ。軍艦と兵隊は、金を落として帰ってくれる客なんかじゃない。生存と物資が全てさ。その裏に何か意図がないと、まだ言い切れない」
しかし、ユリウスは静かに首を振る。
「提督は……悪い人には見えなかった。兵士たちも、皆疲れていて……。ただ、家に帰りたいだけなんだよ」
ツーシームは少年の横顔を見やり、少しだけ柔らかく笑った。
「ま、あたい達の小さな工廠が役に立ったなら、それはそれで悪くないけどね」
港に停泊した巨大な艦影が、夕日を受けて金色に輝いていた。
惑星ヴァルカンは今、活況の中心で呼吸している。――帝国の大艦隊を支える「心臓」として。
◇◇◇◇◇
二か月後の夜――政庁バルコニー。
修理の灯がまばゆく輝く宇宙港を見下ろしながら、ユリウスとレオンハルト提督は並んで立っていた。
「提督……ヴァルカンの地が、少しでもお役に立てて良かった」
ユリウスが誇らしさを隠しきれずに言う。
レオンハルトは穏やかな銀の瞳を向けた。「戦い続きで、船も兵も疲弊していた。あなた方の厚意がなければ――この艦隊は無事に帝都へ帰れなかったかもしれない」
ユリウスは少し頬を赤らめた。
「私も帝国の一員ですから。困っている家族を助けるのは当たり前です」
その言葉に、レオンハルトは静かに微笑む。
「帝国全土を守るのが我々の役目だが……。時に、守られることもあるというわけか」
「小さな星だけど、きっと毎日、帝国のためにできることもある気がします」
「うむ。それこそ、帝国を支える大きな力だ」
レオンハルトの声音は深い敬意を帯びた。
「卿と君の星に、感謝する。修理が完了し次第、すぐ帰還するが――この恩は決して忘れない」
夜景に無数の艦影が浮かぶ。
その光のひとつひとつが、惑星ヴァルカンの再興への希望になっていた。ユリウスは強く頷く。
「安全な航路と勝利を。どうか、ご武運を」
「ありがとう、アストレア子爵」
銀髪の提督は丁寧な敬礼をひとつ――
帝国の勝利の英雄たちは、確かにこの小さな星に救われたのだった。◇◇◇◇◇
聖帝国暦644年10月初旬。
夜明けの薄紅色が港を照らし始めた頃――
帝国第八外征艦隊は帰還準備を終えていた。整備された戦列艦群が立ち並び、巨大な推進翼が静かに展開していく。
ユリウス少年は、ツーシームやグレゴールらと共に、宇宙港の見送りデッキに立っていた。
銀髪の提督レオンハルトが、タラップ越しに歩み寄ってくる。「アストレア子爵。では……」
「第八艦隊のご武運を祈っています!」
二人は固く手を握り合う。
その姿を見て、兵士たちからも自然と喝采が湧き起こった。レオンハルトは敬礼し、静かに命じる。
「第八外征艦隊――発艦」
轟音。
地響き。 光の柱が天を突き、数百の艦影が大空へと上昇した。「……行っちゃったね」
ユリウスがぽつりと漏らす。
ツーシームが安煙草を咥えながら笑った。「ま……しばらくは静かでいいさ」
しかし――
辺境惑星ヴァルカンは「静か」には、とてもならなかった。アーヴィング大公国軍総旗艦ハヌマーン。 その中枢に置かれた最高作戦指令室には、重苦しい沈黙が満ちていた。 壁面の戦術投影盤には、小惑星帯外縁の戦線、帝国軍艦隊の防衛線、そして後方を脅かす惑星ペルーンの位置が、青と赤の光点で浮かんでいる。 敵は前にいる。だが、背後にも火がついた。 誰もがその事実を理解していた。 ユリウス・アストレアは、若い身でありながら、発言の場にあった。 周囲には老練な提督、参謀、分艦隊司令官たちが並ぶ。彼らの視線は鋭く、そして重い。「私としましては、まず正面の帝国軍防衛線を撃破し、サーペント要塞を解放した後、後方の惑星ペルーンに対処すべきだと考えます」 その言葉に、議場の空気がわずかに揺れた。 最古参の参謀が、白い眉をひそめる。「だが、正面攻勢が長引けばどうなる。背後のペルーンを奪った敵別働隊が、我らの後背を突く恐れがある。前後から挟まれれば、この艦隊そのものが崩壊しかねぬ。艦隊が失われれば、その後の戦略など存在せん。やはり一旦撤退し、態勢を立て直すべきではないかのう?」 その意見は慎重であり、正論でもあった。 だが、ユリウスは退かなかった。「はい。その危険はあります。ですが、帝国軍の補給線もまた万全ではありません。敵の後方は宇宙海賊たちによって脅かされ、長期戦に耐えられる状況ではないと聞き及びます。リスクはあります。しかし、ここで我らが退けば、サーペント要塞は見捨てられ、教皇国は帝国軍に蹂躙されるでしょう」 ユリウスの声は静かだった。だが、その静けさの奥には、退けぬ覚悟があった。「敵も後背に難を抱えております。ならば、我らが恐れるべきは挟撃ではなく、機を逃すことです」 その続けた一言が、議場の流れを変えた。 ざわめきが走り、何人かの提督が互いに顔を見合わせる。慎重論に傾いていた空気が、少しずつ攻勢論へと動き出していく。 やがて、上座に座るパウルス元帥が重々しく頷いた。「ふむう。敵も後背に難あり、か。ならば、ここで退く理由は薄い。攻勢あるのみだ。以後、帝国軍防衛線突破を主目的として、具体的な作戦案を詰めよ」 一同が姿勢を正した。「はっ」 こうして、作戦の骨子は決まった。 最初の目標は、帝国軍防衛線の突破。 その要となるのが、帝国軍が築城した攻城用小型要塞アイアンオーガである。 小惑星帯を盾にし
大公国艦隊並びに帝国第二総軍艦隊は、小惑星帯外縁を挟み、長く膠着していた。 互いの距離は、戦列ビーム艦が照準を維持できる限界線上。 虚空を裂く光槍は幾度も交差し、小惑星の表皮を焼き、破片雲を銀砂のように散らした。 だが、その砲撃に決定的な意味はなかった。遠距離戦は損害を抑えるかわり、戦果もまた乏しい。 大公国軍の目的は、帝国軍によるサーペント要塞の解囲である。 しかし帝国軍は小惑星帯を即席の防壁に変え、岩塊の陰へ砲艦を潜ませ、機雷帯を重ね、進撃路そのものを障壁にしていた。 無理に押せば、艦列は裂かれ、逆に包囲される危険すらあった。 その停滞が、十一月下旬、唐突に崩れた。「緊急入電。帝国軍別働隊と思われる艦隊が、後方の惑星ペルーンへ降下。現地守備隊は敗走。ペルーンは敵占領下に入った模様です」「なんだと」 パウルス元帥の司令部に、押し殺した悲鳴が走った。 惑星ペルーンは、ルドミラ教皇国への派兵における後方集積地である。 弾薬、燃料、修理部材、食糧。大公国艦隊がこの宙域に踏みとどまるための物資が、そこに蓄えられていた。 パウルスは戦術表示を見据えた。前面には小惑星帯に籠る帝国第二総軍艦隊。背後には奪われた補給拠点。攻めれば障壁、留まれば飢える。「ここは慎重を期す。前線部隊を収容し、戦線を一時後退させる」「畏まりました」 大公国艦隊は攻勢を中止した。 各艦は順次、敵射程外へ退き、輸送艦群より最低限の補給を受け始めた。 その間、パウルスの座乗艦では、各艦隊司令並びに幕僚が作戦室へ集められていた。 立体星図の中で、赤い敵勢力圏がペルーンを覆っている。「まずいことになったな」「はい。我が方は集積地並びに退路を同時に失った形です」「援軍である我らが、これ以上の危険を冒す必要はありますまい。撤退すべきかと存じます」 幕僚の多くは撤退を唱えた。 戦術上、それは正しい。 だが、帝国施政時代より「不敗の猛将」と呼ばれたラプーチク中将だけが、静かに首を横へ振った。「ルドミラ教皇国がここで敗れれば、帝国が次に向ける刃は我ら大公国だけになります。その理を承知のうえで、皆様は撤退を主張なさるのか」 作戦室が沈黙した。 目前の危険だけを見れば、撤退は上策である。だが星域全体を見れば、それは未来の孤立を買う選択でもあった。 パウルスは諸将を
聖帝国暦六四五年十一月中旬――。 アーヴィング大公国がルドミラ教皇国へ差し向けた援軍艦隊は、教皇国領の要塞サーペントを包囲する帝国艦隊と、ついに正面から遭遇した。 前衛に出していた策敵艦から、鋭い通信が飛び込む。「敵と思しき艦影発見! 位置、N八九一―六一!」 その報を受けた司令長官パウルスは、ただちに命じた。「全艦艇、艦隊戦用意! 縦陣を解き、方陣へ展開せよ!」「了解!」 命令は瞬く間に全艦へ伝播し、左翼を担う第二艦隊司令ユリウスのもとにも届く。 彼の指揮下には、戦闘艦と輸送船を合わせて大小八百五十隻。 これほど大規模な艦隊を正式に率いるのは、彼にとってこれが初めてだった。 旗艦ハンニバルの艦橋は、張りつめた空気に満ちている。 ユリウスは戦術盤を睨みつけたまま、次々と指示を飛ばした。「防御シールド艦艇を前方へ展開!」「ビーム砲艦は横陣二列! 射界を重ねろ!」「了解!」 ハンニバルそのものは、なお攻撃的な主火器を使えない。 だが、その圧倒的な防御力と通信処理能力は、旗艦としてはこの上ない。 青白い表示光の中で、巨大戦艦はまるで戦場全体を抱え込む城のように沈んでいた。 ユリウスは緊張を押し殺しながら問う。「敵の総数は?」 情報士官が苦い顔で応じる。「妨害電波と小惑星帯の遮蔽により、不明です!」 その時だった。 老臣グレゴールが、場違いなほど落ち着いた足取りで茶を運んでくる。 今回の彼は名誉参謀のような立場で、これといった実務は与えられていない。「若様、敵は小惑星帯を利用して布陣しておりますな」 彼は静かに湯気の立つ茶杯を差し出した。「あまり急がず攻めるのがよろしいのでは?」 その言葉に、大公から派遣された作戦参謀たちが一斉に咳払いし、露骨に視線で制してくる。 グレゴールは、わざとらしく肩をすくめた。「おっと、失礼、失礼」 そそくさと下がっていく老臣の背を見て、ユリウスの口元にわずかな笑みが浮かんだ。 胸を締めつけていた緊張が、ほんの少しだけほどける。 その頃には、前面の防御シールド艦が電磁防壁を幾重にも展開し終え、その後方では四百隻に及ぶビーム砲艦が、寸分の乱れもなく戦列を整えていた。 艦首砲身には青白い光が満ち、今にも死を吐き出さんとしている。 ユリウスは深く息を吸い、静かに、しかし力強く命じ
赤い砂だけが吹き荒れる惑星シャンプールに、重たい朝が来た。 サンブルク商会の支店ビル。 その会議室では、若き支店長レンギンの前に各工区の所長たちがずらりと並ばされていた。 窓の外は荒野、机の上には収支表。まるで人の命まで数字の一部に組み込まれているようだった。 ひとりの所長が、恐る恐る口を開く。「さ、流石にその部分の経費削減は、工員の生命に著しく危険かと……」 その瞬間、レンギン支店長の顔から笑みが消えた。「何を言ってるんだ!」 机を叩く乾いた音が響く。「いつも言っているだろう? 返事は、はい、か、やり遂げます、の二種類だけだ。何回言わせる気だ!」 所長は肩をすくめる。 だが支店長は追い打ちをかけた。「それとも何か? 結婚したばかりの奥さんを連れて、人っ子一人いない辺境廃鉱区へ飛ばされたいのか!?」「……い、いえ」 所長は顔を青ざめさせ、唇を震わせた。「は、はい。やり遂げます」 レンギンは、今度は満足げに笑った。「そうだ、その調子だ。そうすれば我らの賞与は上がる。万々歳じゃないか。これを皆がウインウインの好循環というのだよ!」 会議室には乾いた追従笑いが広がる。「……は、はい。その通りです」 中には進んで支店長を持ち上げる者までいた。保身か、習性か、あるいはもう諦めているのか。 少なくとも外から見分けはつかなかった。 その一部始終を、ツーシームたちは離れたホテルの一室からモニター越しに見ていた。 昨夜、彼女が秘書ローターへ握らせた金貨は、しっかり役に立ったらしい。「こういうのを見ちゃうと、人間ってのは、どうもねぇ……」 ビッグベアが腕を組み、渋い顔で呟く。 隣にいるノーム人のエジルへ目を向けるが、エジルは作り笑いを貼りつけたまま、返事に困っていた。 笑うしかない者の顔だった。 その時だった。 支店ビルの隣のコントロールタワーから、耳をつんざくような巨大警報が鳴り渡った。 モニターの向こうでも空気が変わる。 レンギン支店長だけは眉ひとつ動かさなかったが、まだ善意の残っているらしい所長のひとりが会議室を飛び出し、血相を変えて総合コントロール室へ駆け込んだ。「どうしたんだ、一体!?」 管理員は顔面蒼白のまま、震える声で答えた。「ど、毒性廃棄物タンクが二つ破裂しました……それも、気化しやすいタイプの危険
夜明け前の薄闇の中、ノーム人のエジルの手引きで、ツーシームたちはさびれたエーテル鉱区へたどり着いた。 小柄な男だったが、受け答えは妙に落ち着いている。 怯えはある。 だが、頭は回る。 ツーシームはそう見た。 三人はホバークラフトを降りると、鉱区全体が見渡せる高台へよじ登った。 眼下には、細長い塔のようなエーテル油井が何本も立ち、その根元には作業員たちのバラックが、まるで錆びた缶詰のように密集している。 さらに脇には、今にも崩れそうな旧式精製施設までへばりついていた。 ツーシームは、昨日トロストから渡された秘密資料をぱらぱらとめくる。 そして、視線を下へ落としたまま尋ねた。「なぁ、エジル。ここのエーテル、重質系で質はかなり悪いだろ?」「はい」 エジルは小さくうなずく。「なのに、どうして精製施設があんなボロで平気なんだい?」 エジルはしばらく黙ったあと、絞り出すように答えた。「我々労働者が、炉心近くまで入って、直接作業するからです」「はぁ?」 ビッグベアが思わず割り込んだ。「馬鹿か? 精製前のエーテルは放射性物質だぞ! 防護服を着たって、炉心じゃ五分も持たねぇだろ!」 エジルは、怒鳴られても怒らなかった。 むしろ慣れているように、静かに言う。「ええ。大変に危険です。ですが、精製コストを削らなければ利益が出ません。新しい設備を入れるには莫大な金がかかる。ですから、安い命で埋め合わせているのです」 ツーシームの目が細くなる。「安い命、ねぇ」「我々ノーム人には、法で定められた権利が薄いのです」 エジルは乾いた声で続けた。「労働厚生法も、ほとんど適用されません」「……法がどうこう以前に、この星の行政長官も買収されてそうだねぇ」「た、たぶん……」 エジルはそこで急に声を震わせた。「お願いです。みんなを助けてください」 ビッグベアが息を呑む。 だがツーシームは、困ったように頭をかいた。「いやぁ、そんなこと言われてもね。アタイたちは正義の味方なんかじゃない。むしろ、悪党の側の宇宙海賊さ」「ぇ!?」 エジルの目が、まん丸になった。 その顔があまりに露骨で、ツーシームは少しだけ苦笑する。 東の地平線が、わずかに白みはじめていた。 赤茶けた大地の向こうから、冷たい朝が這い上がってくる。 ツーシームはその光を見
聖帝国暦六四五年、旧第五総管区――現ルドミラ教皇国。 首都星ヒンデンブルク、中核都市ニデルの大神殿。 その最奥、香煙すら沈黙しているような聖室にて、サリーム・アル=ハディード教皇は、前教皇エロー枢機卿を密かに呼び出していた。 壁面を埋める聖像群は薄闇の中で青白く浮かび、古代の発光石をはめ込んだ円天井だけが、冷えた光を二人の間へ落としている。 神に最も近いはずの部屋で、いま交わされていたのは祈りではなく、権力の話であった。 教皇は金糸の刺繍が入った長衣の裾を整え、静かに口を開く。「枢機卿、あの聖典改定は、まだ終わらんのかね?」 問われた老枢機卿エローは、目に見えてやつれていた。 頬は落ち、指先はかすかに震えている。彼はしばし沈黙したのち、絞り出すように答えた。「我らルドミラ教は、聖帝国ノヴァに虐げられた民の支持で立っております。中でも信徒の多数を占めるノーム人を、パン一片にも劣る存在などと……どうしても、そのようには書けませぬ」 その声は弱々しかったが、まだ僅かに良心の熱が残っていた。 だが教皇サリームは、怒るでもなく、むしろ穏やかに頷いた。「そうか。では――これを見ても、同じことが言えるかな?」 そう言って、彼は卓上へ数枚の紙束と写真を無造作にばら撒いた。 白い紙片が、冷たい石の机へ音もなく広がる。 老枢機卿の目が、それへ吸い寄せられた。 そこに記されていたのは、彼が教皇位にあった頃、帝国側より受け取った賄賂の詳細。送金記録、口利きの覚書、裏帳簿の複写。 さらに数枚の写真には、当時人気だったモデル達とのホテルでの密会の場面まで、鮮明に切り取られていた。「……こ、これは!?」 老枢機卿は文字通り膝を折った。 顔色は一瞬で土気色に変わり、喉がひくつく。 ルドミラ教では聖職者の独身が尊ばれ、たとえ俗世にあっても一夫一妻が大原則。不義や姦通は重大な背教とされ、火刑さえあり得る。 それを、誰より説いてきた男の過去が、いまこの場で無惨に剥かれていた。 教皇はゆっくり立ち上がると、怯える老人のそばへ歩み寄った。 そして意外なほど優しい手つきで、その肩へ触れる。「余は、枢機卿の見識を高く買っておるのだよ。だからこそ、残念なことにはしたくない」 その声音は柔らかい。 だが、それがかえって恐ろしかった。 刃が首筋へ当たる冷たさ