LOGIN聖帝国暦六四五年八月中旬――。
帝国中央は、難攻不落のグラストヘイム要塞方面をいったん避け、旧第五管区であるルドミラ教国への侵攻を本格化させていた。
先日の艦隊戦で大勝を収めた帝国軍は、その勢いのまま、教国領外縁宙域にある惑星群への攻略戦へ移っていたのである。帝国軍旗艦の艦橋で、作戦参謀が鋭く命じた。
「降下部隊を発進させよ!」
「了解! 揚陸艦隊、発進シークエンス開始!」宇宙戦争において、惑星攻略の権利を握るのは制宙権を奪った側だった。
ゆえに、艦隊決戦の多くは、鉱山、農業プラント、造船所、あるいは補給基地を抱える経済価値の高い惑星近傍で起きる。勝った側が空を押さえ、そのまま地表へ牙を突き立てる。
それが、この宇宙の戦の常道であった。無数の揚陸艦が、艦隊列から切り離されて惑星へ降下してゆく。
その鈍重な船体は、正面装甲だけが異様なまでに分厚い。宇宙基礎条約により、宇宙艦艇から地上への直接攻撃は禁じられている。
だが逆に言えば、惑星側から宇宙側への反撃には制限がない。 だからこそ、揚陸艦は「殴る艦」ではなく、「耐えて突っ込む艦」として設計されていた。「敵地上部隊より砲撃!」
「荷電粒子砲、前面に集中!」 「気圏戦闘機隊を発艦させろ! 揚陸部隊を守るんだ!」次の瞬間、地表から立ちのぼる荷電粒子の火線が、大気圏へ突入しつつある揚陸艦の正面装甲を激しく削った。
赤熱する艦首。 剥がれる耐熱板。その周囲では、双方の気圏戦闘機が入り乱れ、雷鳴じみた機関砲火を浴びせ合う。
空はあっという間に火炎と破片で埋まり、制空権をめぐる殺し合いは、降下戦の様相をさらに苛烈なものへ変えていった。迎撃をくぐり抜けた揚陸艦群は、ついに地表へ到達する。
巨大な質量が大地へ突き刺さるように着陸し、前面ハッチが爆ぜる。そこから戦車、戦闘車、輸送ヘリ、空挺部隊が雪崩れ出た。
砂塵を巻き上げ、砲声を重ね、惑星防衛側の陣地へ一気に食らいついてゆく。塹壕線では歩兵同士が撃ち合い、平原では戦車砲が火を噴き、空では撃墜された戦闘機が炎を引きながら墜ちていく。
このような戦いが、教国領各地で同時多発的に展開されていた。多くの場合、結末は似ている。
制宙権を握った攻撃側が、物量と補給で守備側を押し潰すのである。戦場は常に、空を制した者へ微笑む。
そして地上戦は、その勝敗の代価を、もっとも血なまぐさい形で支払うのだった◇◇◇◇◇
聖帝国暦六四五年八月――。
長い航海の末、ユリウス一行は、ついにパニキア連邦の枢要都市のひとつである惑星ゲフェニアへ到着した。そこは海霧のかかる巨大港湾都市であった。
白い塔は珊瑚のように枝分かれし、半透明の回廊は水槽じみた光を湛え、空中通路には人間型の者、触腕を揺らす者、甲殻に覆われた者が絶えず行き交っている。
帝国領の建築とは、発想そのものが違う。ユリウスは周囲を見回しながら、異文明の厚みを無言で噛みしめた。
やがて、一行は連邦政府の庁舎へ通された。出迎えたのは、しわくちゃの緑色の皮膚を持つ老役人だった。大きな黒い瞳を細め、丁重に一礼する。
「帝国の方がお越しになるのは、いったいいつぶりでありましょうか?」
「ずいぶん久方ぶりでしょうね」
ユリウスは穏やかに答えた。
「本日は、無礼な客としてではなく、話を持つ者として参りました」
「それは結構なことに存じます」
老役人は、乾いた葉の擦れるような笑い声を漏らし、一行を応接室へ案内した。
そこもまた、異星文化の粋が詰め込まれた空間だった。
天井からは発光藻の房が揺れ、机は金属ではなく生きた木材を削り出したような質感を持ち、壁面の装飾は幾何学模様なのに、どこか脈打つ内臓めいて見える。見るものすべてが未知であり、グレゴールですら落ち着かなげに視線を泳がせていた。
応対に現れたのは、パニキア連邦最高評議会議員の一人だった。
ぬめりを帯びた緑の手で書類を持ち上げ、粘りつくような慎重さで一枚ずつ目を通していく。
机上の同時通訳機が、低い振動音を立てながら双方の言葉を変換していた。「……我らとの同盟を望む、というわけですかな?」
ユリウスは背筋を伸ばした。
「はい、左様です。我らが帝国を統一した暁には、別紙記載の鉱物資源、補給港使用権、交易優遇措置をお認めいたします」
議員の眼が、ぬらりと光った。
窓の外には宇宙港が広がり、大小さまざまな艦艇が発着している。
その景色を背負うように、彼はしばし沈黙した末、ゆっくり言った。「悪くない提案です。よろしい、二週間後の評議会にて討議いたしましょう。それまでは、当館にてごゆるりとなさってください」
「ありがとうございます」
ユリウスは差し出された黄色がかったべたつく手を握った。
感触は不快だったが、顔には一切出さない。外交とは、まずは表情筋の戦である。その後、一行は青白い顔をしたメイドに案内され、貴賓室へ通された。
室内は広く、床には柔らかな藻繊維の絨毯、壁際には香りを放つ水盤、窓の向こうには港の灯がちらちら瞬いている。豪奢というより、異様に贅沢だった。
夕食はさらに強烈だった。
半透明の切り身。
青い湯気を立てる粘液状のスープ。 殻ごと砕いて食べる小型甲殻類。 香辛料なのか薬品なのか判別のつかぬ匂いが卓いっぱいに漂う。グレゴールが、なんとも言えぬ顔で皿を見た。
「閣下……これは、食べ物でございますか?」
「たぶんね」
ユリウスも同じような顔で答えた。
「少なくとも、相手は我々を毒殺するなら、もう少し上品にやるはずだ」
「その理屈は安心材料になりますかな……」
ふたりは変な顔をしながらも、ひと通り口をつけた。
外交使節に出されたものを残しすぎるのも礼を欠く。これもまた仕事だった。食後には、石造りの巨大な浴場まで用意されていた。
ほとんどプールのような広さで、湯気の奥には異星風の彫像が並び、湯面には淡い燐光が漂っている。貸し切りと聞き、グレゴールはようやく肩の力を抜いた。
「ここだけ見れば、敵地へ来た気がしませんな」
「油断はしないでね」
そう言いながら、ユリウス自身も、熱い湯へ身を沈めた瞬間だけは長旅の疲れがほどけるのを感じた。
その夜。 二人は十人は眠れそうな天蓋付きの巨大な寝台へ身を横たえた。異国の香がほのかに漂う天幕を見上げながら、ユリウスは目を閉じる。
豪奢な客分として遇されてはいる。
だが実際には、帝国の未来を担保に差し出し、異星人の機嫌を量る交渉の只中にいるのだ。ゲフェニアの夜は静かだった。
その静けさの下で、最高評議会のより良い結果を待つだけだった。夜明け前の薄闇の中、ノーム人のエジルの手引きで、ツーシームたちはさびれたエーテル鉱区へたどり着いた。 小柄な男だったが、受け答えは妙に落ち着いている。 怯えはある。 だが、頭は回る。 ツーシームはそう見た。 三人はホバークラフトを降りると、鉱区全体が見渡せる高台へよじ登った。 眼下には、細長い塔のようなエーテル油井が何本も立ち、その根元には作業員たちのバラックが、まるで錆びた缶詰のように密集している。 さらに脇には、今にも崩れそうな旧式精製施設までへばりついていた。 ツーシームは、昨日トロストから渡された秘密資料をぱらぱらとめくる。 そして、視線を下へ落としたまま尋ねた。「なぁ、エジル。ここのエーテル、重質系で質はかなり悪いだろ?」「はい」 エジルは小さくうなずく。「なのに、どうして精製施設があんなボロで平気なんだい?」 エジルはしばらく黙ったあと、絞り出すように答えた。「我々労働者が、炉心近くまで入って、直接作業するからです」「はぁ?」 ビッグベアが思わず割り込んだ。「馬鹿か? 精製前のエーテルは放射性物質だぞ! 防護服を着たって、炉心じゃ五分も持たねぇだろ!」 エジルは、怒鳴られても怒らなかった。 むしろ慣れているように、静かに言う。「ええ。大変に危険です。ですが、精製コストを削らなければ利益が出ません。新しい設備を入れるには莫大な金がかかる。ですから、安い命で埋め合わせているのです」 ツーシームの目が細くなる。「安い命、ねぇ」「我々ノーム人には、法で定められた権利が薄いのです」 エジルは乾いた声で続けた。「労働厚生法も、ほとんど適用されません」「……法がどうこう以前に、この星の行政長官も買収されてそうだねぇ」「た、たぶん……」 エジルはそこで急に声を震わせた。「お願いです。みんなを助けてください」 ビッグベアが息を呑む。 だがツーシームは、困ったように頭をかいた。「いやぁ、そんなこと言われてもね。アタイたちは正義の味方なんかじゃない。むしろ、悪党の側の宇宙海賊さ」「ぇ!?」 エジルの目が、まん丸になった。 その顔があまりに露骨で、ツーシームは少しだけ苦笑する。 東の地平線が、わずかに白みはじめていた。 赤茶けた大地の向こうから、冷たい朝が這い上がってくる。 ツーシームはその光を見
聖帝国暦六四五年、旧第五総管区――現ルドミラ教皇国。 首都星ヒンデンブルク、中核都市ニデルの大神殿。 その最奥、香煙すら沈黙しているような聖室にて、サリーム・アル=ハディード教皇は、前教皇エロー枢機卿を密かに呼び出していた。 壁面を埋める聖像群は薄闇の中で青白く浮かび、古代の発光石をはめ込んだ円天井だけが、冷えた光を二人の間へ落としている。 神に最も近いはずの部屋で、いま交わされていたのは祈りではなく、権力の話であった。 教皇は金糸の刺繍が入った長衣の裾を整え、静かに口を開く。「枢機卿、あの聖典改定は、まだ終わらんのかね?」 問われた老枢機卿エローは、目に見えてやつれていた。 頬は落ち、指先はかすかに震えている。彼はしばし沈黙したのち、絞り出すように答えた。「我らルドミラ教は、聖帝国ノヴァに虐げられた民の支持で立っております。中でも信徒の多数を占めるノーム人を、パン一片にも劣る存在などと……どうしても、そのようには書けませぬ」 その声は弱々しかったが、まだ僅かに良心の熱が残っていた。 だが教皇サリームは、怒るでもなく、むしろ穏やかに頷いた。「そうか。では――これを見ても、同じことが言えるかな?」 そう言って、彼は卓上へ数枚の紙束と写真を無造作にばら撒いた。 白い紙片が、冷たい石の机へ音もなく広がる。 老枢機卿の目が、それへ吸い寄せられた。 そこに記されていたのは、彼が教皇位にあった頃、帝国側より受け取った賄賂の詳細。送金記録、口利きの覚書、裏帳簿の複写。 さらに数枚の写真には、当時人気だったモデル達とのホテルでの密会の場面まで、鮮明に切り取られていた。「……こ、これは!?」 老枢機卿は文字通り膝を折った。 顔色は一瞬で土気色に変わり、喉がひくつく。 ルドミラ教では聖職者の独身が尊ばれ、たとえ俗世にあっても一夫一妻が大原則。不義や姦通は重大な背教とされ、火刑さえあり得る。 それを、誰より説いてきた男の過去が、いまこの場で無惨に剥かれていた。 教皇はゆっくり立ち上がると、怯える老人のそばへ歩み寄った。 そして意外なほど優しい手つきで、その肩へ触れる。「余は、枢機卿の見識を高く買っておるのだよ。だからこそ、残念なことにはしたくない」 その声音は柔らかい。 だが、それがかえって恐ろしかった。 刃が首筋へ当たる冷たさ
中古高速船メイラード号は、空間跳躍と通常航行を織り交ぜながら、およそ五日をかけて資源惑星シャンプールへ到達した。 船窓の向こうに見えたその星は、いく筋かの雲をまとってはいるものの、全体としては赤茶けた岩の塊にしか見えなかった。 生気に乏しい。 鉱山惑星という言葉を、そのまま形にしたような景色である。「いかにもって面だねぇ……」 操縦席の後ろで、ツーシームが安煙草をくわえたまま呟く。 管制塔との面倒なやり取りを覚悟していたが、ここがアストレア家の代官の支配地だと伝わるや、交信は驚くほどあっさり終わった。「着陸許可、確認」 操縦を担当していた現地上がりの船員が肩をすくめる。「お貴族さまの名前ってのは、やっぱり便利ですねぇ」 やがてメイラード号は大気圏へ突入し、船体を赤熱させながら降下していく。 窓の外では、乾いた赤い大地がじわじわと迫ってきた。 谷も、丘も、見渡すかぎり岩と砂ばかり。 その中にぽつんと設けられた簡素な宇宙港へ、船は重々しく着陸した。 タラップを降りたツーシームは、周囲を見回して鼻を鳴らす。「ここは見るからに田舎だねぇ」 横からトロスト技師が端末を見ながら応える。「記録によると、ここの人口は三千人らしいですよ」「何! たった三千人だと!?」 巨体のビッグベアが、本気で目を丸くした。 その声が、乾いた港の空気にやけに大きく響く。 トロストは眉をしかめ、訂正する。「いや、正しくは正規民が三千人、だそうです」 その一言で、空気が少しだけ冷えた。 ツーシームは煙草をくわえ直し、頭をかく。「嫌なこと聞いたねぇ……」 正規民が三千人。 ならば、その外側にいる者たちがどれほどいるのか。 数字に出ない労働者、契約外民、流民、ノーム人、債務奴隷まがいの鉱夫――ろくでもない想像がいくつも浮かぶ。 荷物を検疫ゲートへ通していると、こちらへ歩いてくる女がいた。 眼鏡をかけた、よく整った顔立ちの美人である。こんな荒れた鉱山惑星には似つかわしくないほど、身なりもきちんとしていた。「技師のトロスト様、御一行ですね?」 トロストが軽く手を挙げる。「ああ、そうだ。サンブルク商会まで頼む」 今回、アルテミス商会の商会長たるツーシーム本人が表へ出れば、現地に余計な警戒を招くおそれがある。 そのため表向きは、無名の技師トロ
聖帝国暦六四五年十月下旬――。 ユリウスは旗下の貴族たちへ召集をかけ、その艦艇群を惑星ヴァルカンの衛星軌道上へ集結させていた。 輸送船、巡洋艦、旧式駆逐艦、武装商船を改造した補助艦までが、宇宙桟橋の周囲へ幾重にも並ぶ。 まだ寄せ集めの色は濃い。 ゆえに彼は、各家ごとにばらばらな指令系統を一本化し、ようやく一個艦隊らしい形へ整えようとしていたのである。 その最中、アーヴィング大公からの勅使来訪が告げられた。「何かあったのでしょうか?」 老臣グレゴールが眉を寄せる。 疫病、戦況、宮中の政争――不穏な種はいくらでもあった。 だがユリウスは背筋を伸ばし、短く命じる。「失礼の無いように、お通ししろ!」「はっ!」 やがて衛兵たちに先導され、勅使が応接室へ姿を見せた。 ユリウスは上座へ招き、自ら頭を垂れる。 室内は張りつめていた。 だが、側近たちの危惧は杞憂に終わる。 勅使は厳かに巻書を開き、朗々と読み上げた。「アストレア侯爵を、大公国軍の元帥に任じる」 一瞬、空気が止まった。 すぐにユリウスは深く一礼する。「ありがたき幸せ」 差し出された元帥杖と任命証を、彼は恭しく受け取った。 若き辺境侯爵が、ついに大公国軍の最高位へ押し上げられたのである。 任命の儀が終わると、勅使は急に肩の力を抜いた。「いやぁ、お忙しい中、申し訳ない」「いえいえ、遠路はるばるご苦労様です」 勅使ロンメル子爵は、かつてのアストレア家と同じく資源惑星を治める地方領主で、どこか土の匂いを残した男だった。 茶が出されると、彼は苦笑して言う。「私も侯爵様のように出世して、元帥にでもなってみたいものですな」 ユリウスもわずかに笑った。「おおよそ、運が良かったのが大きいですよ」 そんなひとときの後、ロンメル子爵の乗るシャトルは桟橋を離れ、星の闇へ消えていった。 その背を見送りながら、グレゴールはついに目頭を押さえる。「若様……ついに軍の最高峰におなりで、先代様もあの世でお喜びに……ううっ」「爺よ、泣くな」 ユリウスは照れくさそうに顔をしかめ、それでも力強く言った。「僕は、もっと立派になってみせる」 三日後。 六百隻に達した艦隊は、ヴァルカン軌道を離脱。 星系外縁へ進出すると、次々に空間跳躍を敢行し、ルドミラ教皇領への援軍として旅立っていった
帝都ネオ=ベルゼブブ、皇宮地下深く。 幾重もの防音隔壁に閉ざされた秘密の長距離通信室には、淡い青光を放つ極低周波通信モニターが静かに唸っていた。 その前に立つのは、銀髪をきっちり結い上げた女――宰相ローゼンタールである。 冷たい美貌は夜の氷みたいに研ぎ澄まされ、その双眸だけが獲物を見定める猛禽のように鋭かった。 彼女はゆっくり椅子へ腰を下ろし、片肘をついて問う。「……で、パニキアの最果てを知ったであろう者どもを、取り逃がしたと申すのか?」 モニターの向こう、荒い走査線の中に映るのは、禿げ上がった中年男の顔だった。 男は額の汗をぬぐいながら、かすれた声で答える。「は、はい……誠に申し訳ありません」 ローゼンタールは、わずかに口角を上げた。 だがそれは笑みではない。 相手の喉元へ刃をあてたまま、ほんの少しだけ押し込むような表情だった。「人間種殲滅教団の連中も、役立たずよな」 彼女は指先で机を叩く。「毎年、あれほど多大な資金援助を流してやっておるというのに……」 男の喉が、目に見えて上下した。「も、申し訳ありません。ですが、Pウイルスの件は順調でございます」 その瞬間、ローゼンタールの目が細くなる。「……ふふふ」 低く、湿った笑いが通信室へ転がった。 彼女は身をわずかに乗り出し、モニターの向こうを覗き込む。「それくらいは頑張ってもらわねば困る。でなければ、お前の首もずいぶん涼しかろうて」「は、はい! お任せください!」 男はあわててうなずき、額から流れる汗を袖で乱暴に拭った。 そのみじめな姿を眺めていたローゼンタールは、もはや興味を失ったように視線を外す。 細い指が通信機の切断スイッチへ触れた。 ぷつり。 音もなく画面が暗転し、部屋には機械の低い駆動音だけが残った。 しばし沈黙。 やがてローゼンタールは、ひとりごとのように呟く。「さて……もう外は夜か」 彼女はゆっくり立ち上がった。 机上の書類束、暗号鍵、消えたモニター。 そのどれにも未練を見せず、黒い衣の裾を翻す。「新しいノクターン公爵様のご機嫌も取らねばのぉ……」 その声には、忠義も敬意もほとんど感じられなかった。 あるのはただ、権力という猛獣をどう飼いならすか、それだけを考える鋭利な知性である。 秘密通信室の扉が静かに開く。 その先には、
海賊船「モリガン」は、偽装商船「銀の秤」からおよそ二時間遅れでワープを敢行していた。 重力振の共鳴を避けるためである。 もし近接した時間差で同一航路へ飛べば、位相の乱れから航跡を読まれる危険があった。 護衛である以上、影のまま付いてゆく必要があったのだ。 だが、ワープアウトした直後、艦橋の空気が一変する。「なんだあれは!?」 正面スクリーンに映ったのは、「銀の秤」を左右から挟み込む二隻の武装船だった。 朱色の船体。細長い艦首。獲物へ喰らいつく寸前の牙のような電磁砲塔。 ただの警備艇ではない。 その配置、その間合い、その殺気だけで十分だった。 ツーシームは寝起きの気だるさを一瞬で捨て、鋭い声を飛ばす。「砲撃長! 電磁砲、発射用意! 方位F-304、D51!」「了解!」 艦橋に緊張が走る。 だが、すぐ横からトロスト技師が慌てて口を挟んだ。「いやいや、少し様子を見るべきです! ここで撃てば「銀の秤」は助かるでしょうが、戦闘を起こせば連邦の艦艇がすぐ寄ってきます!」 その理屈はもっともだった。 ここは敵地深く。 一発でも派手にやれば、周辺宙域の監視網が目を覚ます。 「モリガン」の秘匿行動も、ユリウスの帰還路も、一気に危うくなる可能性があった。 だがツーシームは、まるで迷わなかった。「いや、乗り込まれてからじゃ遅い。砲撃開始だ!」 その一言で、皆のためらいは消えた。 次の瞬間、「モリガン」前部甲板の電磁砲塔が火を噴く。 加速された徹甲弾が暗黒を裂き、二隻の武装艇の後方へ突き刺さった。 狙いは見事だった。 前面装甲ではなく、防御の薄い機関部側面から後尾寄りを射抜いたのである。「一番艦、命中!」「二番艦、続けて命中!」 朱色の船体が「くの字」に歪み、わずか二秒も耐えられず爆散する。 閃光。破片。噴き出す火球。 二隻の武装艇は、宇宙の藻屑となって四散した。 ツーシームは間髪入れず怒鳴る。「商船『銀の秤』へ打電! 我に構わず逃走すべし!」「了解!」「送信完了しだい急速潜航!」「了解!」 通信が飛ぶ。 そのわずかな間にも、「モリガン」の位相エーテル機関は深い唸りを増していた。 そして次の瞬間、艦体は現実宇宙の輪郭から滑り落ちるように沈み込み、再び異次元の深淵へ姿を消す。 だが同時に、危険な狼煙も上がった