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第2話

Author: レモン精をフルボッコ
個室は落ち着いた上品な空気に満ちていたが、咲良にはそれを味わう余裕はなかった。向かいの席では、雅人と望月芽衣(もちづき めい)が肩を並べて座っている。

二人のやり取りを耳にして、咲良はようやく事情を理解した。雅人と芽衣は仲睦まじく、今日のお見合いは家族に結婚を急かされている友人の代理として雅人が来ただけで、そこに偶然咲良が鉢合わせしたのだ。

料理が運ばれると、雅人は気を利かせて席を立ち、芽衣のために辛味を和らげる牛乳を取りに行った。

「咲良さん、どうして召し上がらないんですか?」芽衣の柔らかな声が響く。「ここのチゲ鍋、なかなか予約が取れなくて……ずっと食べたかったんです。雅人が一か月も前から予約してくれて」

咲良の胸は、大きな手で何度も握り潰されるように締めつけられた。それでも笑みを作り、「雅人さんは、芽衣さんに本当に優しいんですね」と口にする。

そう言って箸を取り、一口運び、機械的に噛みしめた。

咲良の胃はひどく弱く、少しでも辛い物を口にすれば激しく吐いてしまう。かつて雅人は、咲良の前で辛い料理を出すことなど絶対になかった。

それなのに今、彼はチゲ鍋の店に芽衣を連れてきて、運ばれてくる料理はどれも唐辛子まみれだ。

芽衣は幸せそのものの笑顔で言う。「私もそう思います。雅人は、私のお願いを断ったことがないんです」

そのとき、雅人が牛乳を手に戻ってきた。咲良が箸を動かすのを目にし、瞳がわずかに細まる。思わず牛乳を差し出しかけたが、無表情のまま咀嚼し飲み込む咲良を見ると、足を止め、牛乳を芽衣に渡した。

咲良の胃はすぐさまし、反応し燃えるような灼熱感が広がる。込み上げる吐き気を必死に押し殺し、席を立つ。「少しお手洗いに」

視界が何度も暗転し、胃の不快感と全身を走る絶え間ない激痛で、歩くのもやっとだった。それでも何とか洗面台までたどり着き、両手で縁をつかみ、ついに堪えきれず吐き出す。

胃の中はほとんど空で、出てくるのは血の混じった酸っぱい液体ばかり。蛇口をひねると、生理的にあふれた涙まで一緒に流れていった。

数分後、咲良は痛み止めを数錠飲み、痙攣する腹を押さえながら個室の前まで戻った。

しかし半開きの扉の向こうで見えたのは、雅人が穏やかな眼差しで芽衣の唇の端を拭ってやる姿だった。

脳裏に、交際していた頃の雅人が甦る。

咲良が食事を受け付けないときは、根気強くなだめ、程よい温かさのお粥を口元まで運んでくれた。

月華をこっそり病院から連れ出したときには、眉をひそめて叱りながらも、その懇願の視線に折れて表情を緩めた。

見栄を張ってハイヒールで山に登ったときは、背負って家まで運んでくれた。

だが今、あの無限の包容と温もりをくれた人は、もう自分のものではない。

薬の苦味が口の中に広がった瞬間、胃の痙攣がさらに強まり、咲良はまた込み上げる吐き気を抑えられなかった。口を押さえ、ふらつきながら再び洗面所へ駆け込む。

今度は酸っぱい液体すら出ず、ただ涙がにじむ。全身を襲う痛みは、痛み止めすら効かないほどだった。

咲良が再び戻ると、個室のスタッフが告げた。「芽衣さまのご気分が優れず、雅人さまが病院へお連れになりました」

咲良はその場に立ち尽くし、しばらくしてからようやく涙を拭い、ゆっくりとその場を後にした。

レストランを出たあと、彼女は一人で病院へ向かい、抗がん剤と鎮痛剤を受け取った。

「咲良さん、がん細胞はすでに全身に転移しています。外出先で倒れてもおかしくありません。入院治療を強くお勧めします」医師はカルテを手に、眉をひそめながらも辛抱強く説得した。

咲良は全身の痛みと痙攣に耐え、笑みを浮かべて首を横に振る。「まだやり残したことがあるんです」

医師はため息をつく。「海外にいれば、最期の時間をこんなに苦しむことはありません。なぜそこまでして帰国を?」

咲良は小さく答えた。「恋人との十年の約束を果たすためです」

病院を出て、咲良は夜空を見上げた。しかしずずっと痺れている体では、長く見上げていられない。それでも意地になって探し続け、体が悲鳴を上げ、激痛が四肢を駆け巡っても――あの頃見つけた北極星は、もうどこにもなかった。

帰り道、咲良は思い出す。恋人同士になったばかりの頃、二人は出会ったバーを再び訪れた。個室の二階テラスで、咲良は雅人の肩にもたれ、一番輝く北極星を見上げた。

雅人が言った。「北極星は永遠の象徴だ」咲良はふと思いつき、十年の約束を交わした。「十年後の今日、たとえどこにいても、どんなふうになっていても、ここに戻って、一緒にもう一度北極星を見よう」

雅人は穏やかな笑みでうなずいた。

視界が涙で滲み、咲良は朦朧としたまま家に戻り、ベッドに倒れ込むようにして眠りについた。その夜、彼女は高熱にうなされた。

夢の中は、すべて雅人だった。

熱に浮かされること三日、咲良はもう駄目かもしれないと思った。だが神はまだ、ほんのわずかな情けを残してくれていた。彼女は生き延びたのだ。

目を覚ました直後、咲良の携帯に雅人からのメッセージが届く。

【お前の「仕事」はまだ終わっていない。バー・ミッドナイトブルーに来い】

咲良が駆けつけると、バー・ミッドナイトブルーのVIPルームは、以前と変わらぬ内装のままだった。

ここは二人が初めて出会った場所であり、十年の約束を交わした場所でもある。

咲良の胸は自然と高鳴り、ドアノブを握る手に力がこもる。

扉を開けると、そこには見知った顔ぶれが揃っていた。友達の集まりだった。

咲良は二階へと続く階段の方へ目をやり、少し緊張を解く。

雅人と芽衣は、皆に囲まれてソファの中央に座っていた。彼は真っ先に咲良を見つけ、「座れ」と短く告げた。

その声でようやく、周囲も咲良に気づく。賑やかだった室内は一瞬で静まり返った。

ここにいる誰もが、咲良と雅人の過去を知っている。しかし今の雅人の立場を思えば、当時の話を口にする者はいなかった。

嘲りや好奇の入り混じった視線を受けながら、咲良は雅人の隣の、唯一空いた席に腰を下ろす。

「さっきは何の話をしてた?」

「雅人が、芽衣の胃の調子を気遣ってお酒を控えてるって話だよ」

「そういえば、咲良さんはお酒がすごく強かったよね。芽衣の代わりに飲んであげたら?」

その一言で、空気がぴたりと止まった。

咲良の体は緊張で固まり、爪が掌に食い込む。周囲のざわめきには耳を貸さず、ただ隣の雅人に視線を向けた。

長い脚を組み、影に身を沈めた雅人は、黙ったまま煙草の煙を吐き出す。白い煙がその顔立ちをぼやかし、まるで他人事のように、向こう岸から火事を眺めているような眼差しだった。

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