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第120話

Auteur: フカモリ
その時、信行はようやく唇を離し、椅子に座り直した。

真琴の唇は口づけで赤く腫れ、少し乾いている。

そんな彼女を見つめ、信行は愉快そうに笑った。

「誰に習った?キスする時、目も閉じないなんて」

彼女の生い立ちや成長を知らなければ、随分と遊び慣れていると勘違いしただろう。

真琴は首筋の噛み痕を押さえ、無言で彼を見つめ返した。

目を閉じたくなかった。彼を見ていたかった。

この人が自分に夢中になっているその姿を、一生記憶に焼き付けておきたかったから。

真琴が黙っているので、信行は彼女の手の中にあるカップに目をやった。中身の黒糖生姜茶は、一滴もこぼれていない。

「大したもんだな」

真琴は顔を上げ、気まずそうに笑う。

その笑みに、信行は立ち上がった。

真琴もお腹の湯たんぽを外し、立ち上がって信行を入り口まで見送る。

そこで彼は短く告げた。

「早く寝ろ」

ドアノブを握り、真琴は頷く。

「ええ……おやすみなさい」

パジャマのポケットから右手を出した信行は、真琴の髪をくしゃっと撫でる。そのまま背を向け、隣室へと戻っていった。

ドアを閉めた真琴は、すぐにはベッドへ行かなかった。ドアに背を預け、窓際の天井をぼんやりと見上げる。

しばらくして、右手を上げ、そっと自分の唇に触れた。

信行とは、友達でいるのが一番いいのかもしれない。

ドアの前で長い間立ち尽くし、様々な思いを巡らせてから、ようやくベッドに戻って眠りについた。

その後数日間、適度な距離を保つことで、二人の間に揉め事は起きなかった。

顔を合わせることは少なかったが、それなりに平穏な日々が続いた。

……

ある日の午前。

信行が商談のためにアークライトを訪れると、そこには天音の姿もあった。

朝一番で抜糸を済ませ、そのまま智昭が会社へ連れてきたらしい。

オフィスで信行を迎えた智昭は、天音を膝から下ろして言い聞かせた。

「天音、下で遊んでおいで。パパは仕事の話があるから」

「はーい、パパ」

元気よく返事をし、少女は水筒を抱えて駆け出した。足のハンディなど気にする様子もなく、跳ねるように階下へ降りていく。

「片桐社長」

「高瀬社長」

握手を交わし、信行は口元を緩めた。

「高瀬社長は、意外と子煩悩なんですね」

智昭は笑って言う。

「子煩悩というほどでもないですが、子供一人
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