FAZER LOGIN信行がこっそりと唇を重ねてきた瞬間。真琴は布団の中で、思わずシーツを強く握りしめてしまった。まさか病人にまで手を出すことはないだろうと高を括っていたが、どうやら彼を買い被りすぎていたらしい。真琴が目を閉じたままでも、信行には彼女が目を覚ましていることがはっきりと分かっていた。ただ早く帰ってほしくて、ずっと寝たふりをしていたのだということも。それでも、信行は体を離そうとはしなかった。唇は真琴のそれに優しく触れたまま、ついには微かに口をこじ開けようとしてくる。静まり返った夜更けは、最も空気が曖昧に溶け合い、心が揺らぎやすい時間帯だ。もしこの雰囲気に乗じて、ここ数日の膠着状態を打ち破れるなら。このまま彼女との関係を一歩でも前に進められるなら。信行にとっては、これ以上ない好機だった。どこまでも優しく、けれど確実に踏み込んでくる信行のキス。そして、そっと入り込もうとする舌の感触。限界を迎えた真琴は、ついに演技を続けることができずに眉をひそめた。布団の中から両手を出し、彼の胸元に当てて強く押し返そうとする。しかし、その拒絶すらも信行は許さない。彼女の両手首を掴み込むと、そのまま身を屈め、耳元に顔を寄せて甘い声で囁いた。「俺は、お前のことが好きなんだ」ずっと好きだった。今も、誰よりも。信行は宥めるように言葉を続ける。「あの頃は……俺が若すぎた。自惚れていて、どうしようもなく未熟だった。もう一度だけ、チャンスをくれないか。二度と失望させたりしないから」静まり返った部屋。薄暗い照明が、二人の間の空気をひどく甘く、曖昧なものにしている。その上、彼は一晩中ここに付きっきりで看病をしてくれた。こんな風に向き合わされて、心が全く揺るがない人間などそうはいない。何度も食い下がり、プライドを捨てて頭を下げてくる彼を前にして、真琴は戸惑いを隠せなかった。昔から彼女はこういう性質だった。強引な態度には反発できても、優しく押し切られることにはめっぽう弱い。加えて、今回の真琴の病気は信行にとって絶好のタイミングだった。光雅も貴博も東都市を離れ、彼の邪魔に入る者は誰もいない。「好きだ」という直球の告白に、真琴はこくりと唾を飲み込んだ。何か言い返そうと何度も口を開きかけるが、言葉は
身体は鉛のように重く、疲労の極致にあるはずだった。だが、目を閉じてみても、信行がすぐ隣にいるのだと意識するだけで、どうしても眠りにつくことができなかった。頭の中で数字を数えてみる。1から100まで何度も往復したというのに、一向に睡魔は訪れない。静まり返った部屋の中では、互いの微かな呼吸音ばかりが鮮明に鼓膜を打っていた。どれくらい時間が経っただろうか。掛け布団が首元までそっと引き上げられたのを感じ、真琴はゆっくりとまぶたを開いた。視線がぶつかる。真琴が突然目を開けたことに驚いたのか、信行が身を乗り出して小声で尋ねた。「また目が覚めたのか?どこか苦しいのか。やっぱり病院へ――」「ううん」気遣う言葉を遮り、真琴は小さく首を振った。「さっきから、ずっと眠れていなかっただけ」「……」信行は何も言わず、ただ彼女を見つめ返した。真琴は静かな声で続ける。「本当に、こんなことしなくていいのに」信行がどれほどプライドの高い人間か、真琴は痛いほど知っている。他人にへりくだり、甲斐甲斐しく看病などするような男ではない。これ以上、自分に優しくしてほしくなかった。薄暗いオレンジ色のランプに照らされた真琴の他人行儀な態度に、信行はそっと手を伸ばし、彼女の額に触れた。「いいから」その声音は、どこまでも優しかった。「生まれた時から知ってる仲だろ。たとえ一緒になれなくても、恋愛感情がなくても、俺がお前の世話をするのは当たり前のことだ」そう言って、信行は真琴の布団をさらにしっかりと整えてやる。「余計なことは考えるな。早く寝ろ。体を治さないと、やりたい研究だってできないだろ」昔と同じような慰め方に、真琴はそれ以上反論するのをやめ、ただ静かに彼を見つめた。やがて、信行の手が真琴の手をそっと包み込んだ。病気で心が弱っているからか、それともこの深い夜の静寂のせいか。信行に手を握られても、真琴はそれを振り払おうとはしなかった。こんな夜更けに、わざわざ残って看病してくれている。彼なりの誠意なのだろう。それに、熱を出して一人きりでベッドに横たわっているよりも、誰かがそばにいてくれる方が、確かに安心できるのも事実だった。真琴の手を握りしめながら、信行はその指先が先ほどよりも少しずつ温もりを
やはり、さっさと彼を帰らせるべきだった。そう後悔した時には遅かった。キッチンを片付け終えた信行が書斎に姿を現した。真琴がパソコンを立ち上げているのを見るなり、彼の顔色がスッと険しくなる。「さっきは素直に休むと約束したはずだが。もう忘れたのか」頭上から降ってきた鋭い声色に、真琴は思わずビクッと肩を揺らした。妙な後ろめたさが胸に湧き上がる。乾いた唇をペロリと舐め、誤魔化すように言い訳を口にする。「ちょっと資料を確認しようと思っただけよ。仕事じゃないわ」そう言いながら、そそくさとパソコンをシャットダウンした。東都に戻ってきてから、彼に対してこんな引け目を感じたのは初めてのことだった。パソコンの電源が落ち、画面が真っ暗になったのを確認して、信行の表情もようやく少し和らいだ。真琴はここぞとばかりに切り出す。「もう用事は済んだでしょ。体調も随分と良くなったし、あなたも早く帰って休んで」しかし、その言葉は信行の機嫌を再び損ねただけだった。「俺が帰った途端、また仕事の続きを始める気だろ」図星を突かれそうになり、真琴は小さく首を振る。「違うわ。本当に休むつもりよ」「なら、お前がベッドに入って、完全に眠りに落ちるのを見届けてから帰る」そう言い終えると、信行は再び真琴のパソコン画面へと視線を向けた。ディスプレイが完全に真っ暗になったのを確認してから、また真琴の顔を見据える。その真っ直ぐな視線に圧され、真琴は小さくため息をつく。「……好きにして。私は先に部屋で休むから」真琴が書斎を出て寝室へ向かうと、信行も当たり前のように後ろからついてきた。彼は部屋に入るなり、棚の上に置かれていた薬袋を手に取り、成分や用法に目を通し始めた。これで彼女の病状をある程度把握したらしい。薬袋を持ったまま、信行が振り返る。「午後は何時に薬を飲んだ?」「2時過ぎ……3時くらいだったかしら。紗友里が来て……」熱で朦朧としていたため、正確な時間は覚えていない。真琴の記憶が曖昧だと見るや、信行はそれ以上問い詰めることはせず、自分のスマートフォンを取り出して紗友里に電話をかけた。「紗友里か。今日の午後、何時に真琴のところへ来て、何時に薬を飲ませた?」電話の向こうから、紗友里の声が漏れ聞こえてくる。
簡単な手料理が並び、部屋の換気扇が静かに回っている。たったそれだけのことで、冷え切っていた真琴のマンションに、人の温もりと柔らかな生活の匂いが満ちていた。リビングに姿を現した真琴を見ると、信行はごく自然な動作で椅子を引いた。真琴が腰を下ろすのを見届け、手元に箸を渡す。さらに彼女の皿の上のステーキを一口大に切り分けながら、穏やかな声で告げた。「味付けは薄くしてあるが、栄養はしっかり摂れる。食べられる分だけでいい、残さず食べろ」箸を受け取り、真琴は小さく頷く。「うん、ありがとう」どこか線を引いたような彼女の感謝に、信行はそれ以上何も返さず、ただ黙々とステーキを切り続けた。部屋の中は静まり返っている。まるで長年連れ添った老夫婦のように、多くを語らずとも互いを気遣うような、そんな穏やかな空気が漂っていた。真琴がステーキを口に運んでいると、不意に信行が口を開いた。「仕事が立て込んでいるなら、少しペースを落とせ。体が資本だ、仕事なんていくらやっても終わりはないんだからな」「分かってる」素直に頷く真琴を見て、信行はふっと口角を上げた。「そういうところは昔と全く同じだな。誰に何を言われても、お前は返事だけはひたすらいい」その言葉に、真琴は黙り込んだ。昔。そう、彼らには確かに昔があった。だがそれは、とうの昔に色褪せた、気の遠くなるほど遥かな過去の出来事だ。真琴の隣に座り、信行は瞬き一つせず、静かに食事を進める彼女の横顔を見つめていた。今や彼女がたった一人で生きているのだという事実に思い至り、信行の胸の奥がギュッと締め付けられる。彼女を守りたい。これからの人生、ずっと彼女を大切にしたい。もう一度だけ、チャンスがほしい。しかし、真琴の心の中に、彼に対する信頼はすでに微塵も残っていなかった。じっと見つめる視線の先で、真琴がテーブルの上の料理をほとんど平らげたのを確認し、信行の口元に浮かんだ笑みが深くなる。昔と何も変わらない。静かで、どこまでも愛らしい。最後の一切れを飲み込んだ時、真琴の口の端に黒胡椒のソースがわずかに残った。信行は即座にティッシュを引き抜き、スッと手を伸ばして彼女の口元を優しく拭い取った。甲斐甲斐しく世話を焼くその手つきも、昔と何一つ変わっていない。
真琴の驚きをよそに、信行は何事もなかったかのように部屋の奥へと足を踏み入れた。ベッドのそばまでやってくると、腰をかがめ、すっと手を伸ばして彼女の額に触れる。「俺が入ろうと思えば、どうとでもなるさ」その声音は、驚くほど優しかった。彼の言葉を聞き、真琴は少しだけ警戒を解いた。伏し目がちに視線を落とし、力のない声で呟く。「紗友里から聞いたのね……私が倒れたこと」自分の体調不良を伝えたのは、紗友里ただ一人だ。今日の午後、彼女が医者を連れてきて、山のような薬を置いていってくれたばかりだった。真琴の問いかけに、信行は額に当てていた右手をそのまま滑らせ、彼女の頬をそっと撫でた。「ああ。さっき病院で、紗友里の口から聞いた」だが実際には、紗友里が自らペラペラと喋ったわけではない。今日に限って真琴が病院に顔を出さなかったため、信行が不審に思って紗友里を問い詰めた。そこでようやく、真琴が高熱を出して寝込んでいることを吐かせた。その後、信行は紗友里から強引にマンションのカードキーを奪い取ってきた。最初は紗友里も頑なに渡そうとしなかったが、信行が本気で顔を曇らせて凄み、見かねた祖母まで説得に加わったことで、ついに折れたのである。頬に触れる彼の手の温もりを感じながら、真琴は自分の右手を持ち上げ、その手をそっと引き剥がした。「もう平気よ。熱も下がってきたし、一晩寝ればよくなるから」どこまでも他人行儀な真琴の態度。信行はそれに反論することなく、静かに尋ねた。「今日は一日中、何も口にしてないんじゃないか?何か……」信行が言い終わるよりも早く。ぐぅぅぅ、と。真琴のお腹が、実に情けない音を立てて鳴り響いた。途端に、信行の言葉がピタリと止まる。二人はそのまま、無言で互いの顔を見つめ合った。真琴が気まずさに顔を染め、何か言い訳をしようと口を開きかけた瞬間、信行が先を越した。「冷蔵庫に何があるか見てくる。何か作ろう」真琴が止める隙も与えず、言葉を続ける。「まだ病み上がりだ。少し消化のいいものにしておく」ゆっくりと身を起こす信行を見上げ、真琴は慌てて引き留めようとした。「いいのよ、自分でデリバリーでも……」「いいから」信行は振り返り、真琴を見下ろして短く遮った。「そんなに遠慮するな
あれからずっと考え続け、渚はある結論に達していた。あの時、信行は真琴と一緒にいたはずだ。彼女に対する誠意を示すために、わざと自分へあんな冷酷な態度をとってみせたに違いない。そう思い至ると、渚は真琴の瞳を真っ直ぐに見据え、握り合う手に思わずギュッと力を込めてしまった。突然の強い圧に驚き、真琴は顔を上げて渚を見る。視線がぶつかり合う。渚は引きつったような笑みを浮かべ、慌てて真琴の手を離した。「西脇博士とお近付きになれて、大変光栄ですわ」心にもないお世辞を並べ立てる渚に対し、真琴は軽く微笑んだだけで何も答えなかった。その後、幸子に呼ばれてベッドの傍らに腰を下ろす。しばらく他愛のない会話を交わしてから、真琴は早々に別れの挨拶をして席を立った。渚とその祖父がまだ滞在しており、すぐに帰る気配もなかったからだ。部外者である自分が長居するよりも、彼らに時間と空間を譲るべきだと判断した。……夜の8時過ぎ。真琴が自宅マンションに戻った頃、光雅から一本の電話が入った。急用ができ、浜野へ一度戻らなければならないという。それを聞き、真琴も本来なら一緒に行きたかった。しかし光雅は首を縦に振らない。「お前が今戻れば、おそらく二度とこっちへは帰ってこられない。もう少し待て。この熱狂が冷めるまで辛抱しろ」そこまで言われてしまえば、真琴も食い下がるわけにはいかない。おじい様とおばあ様によろしく伝えてほしいとだけ頼み、同行を諦めた。光雅が浜野市へ発った後、真琴の業務量は普段よりも格段に跳ね上がった。東央システムズでの日常的な決裁や事務処理まで、すべて彼女の肩にのしかかってきた。それに加え、帝都大学での講義も控えている。事前のシラバス作成や教材準備にも追われ、まるで独楽のようにせわしなく回り続ける日々を送ることになった。ある日の朝。スマートフォンのアラーム音が鳴り響く中、真琴は両腕を目の上に乗せたまま、ピクリとも動けなかった。頭は鉛のように重く、手足の力が完全に抜け落ちている。ベッドから起き上がることすらできない。次の瞬間、自分の身体が明らかな異常をきたしていることに気づいた。目の上に乗せていた腕をわずかにずらし、手の甲を額に当てる。しまった……熱がある。ここ最近の過労がたたり、ついに身







