LOGIN窓辺から振り返った信行は、ちょうど通話を終えたところだった。真琴が帰ると口にしたのを耳にし、弾かれたように顔を上げて視線を向けた。「俺を1人きりで病院に放り出して、本当に安心して帰れるのか?」「……」心底呆れた顔で信行をしばらく見つめ、真琴は淡々と口を開いた。「徹夜で誰かが付き添うほどの重傷じゃないでしょ。1人でゆっくり休んで。明日になっても紗友里が戻らないなら、また差し入れ持ってくるから」言い終えると、真琴はコートに袖を通した。その姿を認めるや否や、信行は長い腕をすっと伸ばし、真琴の手首を掴んで引き止めた。真琴も顔を上げ、彼を見つめ返す。視線が真っ向から絡み合う中、信行は少しの気後れもなく言い放った。「わかってるだろ。俺が求めてるのは、看病なんかじゃない」そこまで言うと、信行は真琴の身体をぐっと引き寄せた。そっと腕の中に抱きしめ、甘く柔らかな声で囁く。「お前に残って、そばにいてほしいんだ」真琴が口を挟む隙も与えず、弱みを見せるように言葉を重ねた。「お前がそばにいてくれた方が、よく眠れる」その告白に、押し退けようと浮き上がっていた彼女の両手が、信行の胸の前でぴたりと止まった。深く息を吸い、小さく吐き出して腕を解こうとした瞬間、信行は宥めるように先回りした。「心配するなよ。手を出したりしない。ただ、そばにいてほしいだけだ」真琴との間では、するべきことも、してはならない過ちすらも、とっくにすべて重ねてしまっている。今夜1晩くらい、焦る必要などどこにもなかった。顔を上げて見据える真琴は、呆れたように唇を尖らせた。「そんな約束、今さら意味あるの?」感情を読ませない真琴の態度に、信行は両腕を腰へと回した。その肩にそっと顎を預け、低く呟く。「帰るなよ」そう口にしながら、器用に手を伸ばして真琴の肩からバッグを下ろしてしまう。否応なく腕の中に抱きすくめられる格好になり、真琴もそれ以上、頑なに帰ろうとはしなかった。やがて真琴が身を引くと、信行はクローゼットから着替えの一式を取り出して手渡してきた。「紗友里の服だ。洗濯してある綺麗なやつだから」差し出された服を受け取ろうともせず、真琴はふと、まんまと罠に嵌められたような感覚を覚えた。まるで最初からこうなることを見越して準備
信行の言葉に、昨日の車内で紗友里から聞かされた話がよぎった。ここ2年の信行は本当についておらず、精神的にもずっと不安定だったと。そう思い至ると、胸元を押さえていた真琴の手からふっと力が抜けた。膝の上から立ち上がろうとするのをやめる。しばらく抱きしめられていたが、信行の纏う重苦しさは消えない。真琴は小さく息を吐き出して口を開いた。「歳を取るにつれて、甘えん坊に磨きがかかってない?一体誰に教わったのよ」彼女の肩に顎を預けたまま、信行はくすりと笑みをこぼす。「誰が甘えてるって?それに、俺はまだそんな歳じゃない」言いながら、自分の頬を真琴の頬へとすり寄せた。ただ彼女を腕の中に閉じ込めているだけで、全身の強張りがすうっと解けていく。世界のすべてを手に入れたような、満ち足りた心地だった。すがるように甘える熱を感じつつ、真琴は手にした折詰を机に置いた。わずかに顔を巡らせて信行を見据える。「紗友里から聞いたよ。ここ2年、ずっと調子が悪かったんでしょ。お医者さんの言うことをちゃんと聞いて、薬を飲んで治療して」信行との将来を考える気にはなれなくても、知り合って長い年月が経つ。無事でいてほしいし、病気に苦しんでほしくもない。かつて自分が味わった心身を蝕む痛みを、身近な誰かに経験してほしくはなかった。心配そうに窘める真琴に、信行は思わず苦笑を漏らす。「平気だよ、大したことない。紗友里が大げさに騒ぎすぎてるだけだ」何事もないようにやり過ごそうとする彼の胸元に手を当て、真琴はするりと腕の中から抜け出した。ふたりの間に、しばし静寂が落ちる。やがて信行は右手を伸ばし、真琴の頬を優しく撫でた。「お前が帰ってきたんだ。もうどこも悪くない」向けられた笑みを受け流し、真琴はテーブルへ視線を向けた。「先に、ご飯食べて」膝の上から完全に立ち上がり、折詰の包みを解いて目の前へ差し出す。細やかな気遣いに、信行は顔を上げて尋ねた。「お前もまだだろ?一緒に食べよう」向かいの椅子を引いて腰を下ろしながら、真琴は首を横に振る。「私は済ませてきたから、1人で食べて」どうしてか食欲が湧かない。真琴は頬杖をつき、信行が箸をつけるのを眺めた。食べたと言うなら無理強いはしない。信行は箸を割り、料理を口へ運び始
真琴の快諾に、紗友里は何度も頭を下げて感謝した。「ありがとう、本当にありがとう!真琴、助かるよ」あまりの低姿勢に、真琴は思わず吹き出してしまう。「もう、水くさいお礼なんていいから。それじゃあ仕事に戻るね。定時で上がったら向かうから」「了解。じゃあ私も隣県へ向けて出発するね」短く約束を交わし、ふたりは通話を切った。遠出すると言っていた紗友里だが、口先だけではない。電話を置いた後、本当に友人2人と車を走らせて隣県へ繰り出していた。ここ最近、光雅のことで鬱々とした気分が続いていた。どこかで羽を伸ばして気分転換をしたかった。*東央システムズで定時まで仕事をこなした真琴は、百貨店へ立ち寄った。老舗料亭の和食弁当を買い求め、病院へ車を走らせる。病棟前の駐車場に車を滑り込ませ、丁寧に包まれた折詰を手に、病室のあるフロアへと上がった。昨夜のような気まずさはすっかり薄れている。昨朝のぎくしゃくしたやり取りも、すでに喉元を過ぎていた。折詰を提げてVIP病室の扉を静かに押し開けると、信行はベッドの上で仕事にかかりきりだった。伏し目がちに手元の書類を見つめ、シーツの上には資料が散らばっている。一心不乱な姿に、真琴は無意識に歩みを緩めた。振り返ってドアを閉める際も、音を立てないよう細心の注意を払う。だが、どれほど気配を消そうとしても、信行はそのかすかな動きを察知していた。顔を上げ、やって来たのが真琴だと確かめるなり、何食わぬ顔で声をかけてくる。「来たか」まるで最初から来ると知っていたかのような、平然とした挨拶だった。真琴は柔らかく応じる。「うん」穏やかに言葉を継いだ。「紗友里は隣県へ行ったよ。戻ってくるのは2、3日後になるって」信行が口を開く隙も与えず、持参した折詰をテーブルへ置く。落ち着いた調子で促した。「お弁当買ってきたの。薄味で食べやすいものにしてあるから、先に食べてから仕事に戻ったら?」信行が真琴の部屋で寝起きしていた間、身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれていた。だからこそ、少しでも恩を返しておきたい思いがあった。真琴の言葉を聞くや否や、信行は書類を放り出した。ベッドから足を下ろしてスリッパを突っかけ、テーブルへ歩み寄ってくる。妹もたまには気の利いた真似をす
その様子を見て、紗友里はからかうように口元を綻ばせた。「もういいじゃない。真琴の家に転がり込んで、すっかり既成事実まで作ったくせに、何がそんなに不満なわけ?明日は私が席を外してあげるから、真琴に来てもらえばいいでしょ」妹の冷やかしに、信行は気のない目を向けて淡々と言い放つ。「大した怪我じゃないし、看病なんていらない。お前は帰れ」「はいはい、お邪魔虫は退散~どうせ私の世話なんていらなくて、真琴に看病してほしいだけでしょ」紗友里は信行の前へ、すっと右手を差し出した。「車のキーちょうだい。私の車、さっき真琴に乗って帰られちゃったから」「上着のポケットだ」信行が答えると、紗友里はコート掛けからキーを取り出し、そのまま病室を後にした。帰り道、ハンドルを握りながら、紗友里は何度考えても信じられない思いだった。あれだけこじれて遠回りを重ねたふたりが、またこんな関係に戻るとは夢にも思わなかった。思わず小さく吹き出し、しみじみと呟く。「人生って、本当にわからないものね……」過ぎ去る日々の中で、これからの未来に何が起きるかなんて、誰にも予想などつかない。*その頃、真琴は自室へと戻っていた。ここ数日はいつも信行と一緒に帰宅していた。部屋にはふたり分の気配があり、それなりに賑やかだった。いま、たった1人いないだけで、妙に落ち着かない心地を覚えてしまう。胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような寂しさが広がっていく。脱いだコートをポールハンガーに掛けながら、習慣とは恐ろしいものだと真琴は小さくため息をついた。シャワーから上がると、デスクに向かって作業に取りかかった。仕事に打ち込んでいる時だけが、心を一番穏やかに保てる。余計な雑念を払うことができた。翌日もいつも通りに出社した。生活は何1つ変わらない日常をなぞっていく。波立っていた心も、次第に凪を取り戻していった。時折、病衣をまとった信行の姿がふと脳裏をかすめる。それでも感情は落ち着きを保ち、大きな揺らぎはなかった。*午後4時を回った頃、手元の仕事がひと区切りついた。その時、机上のスマホが不意に着信を告げる。紗友里からだった。端末を手に取り、真琴は穏やかな声で応じる。「どうしたの」受話口から、すぐに紗友里の声が飛び込んできた。
信行の不機嫌な面構えは、どう見ても自分への当てつけだった。とはいえ、紗友里にはまったく意味がわからない。あからさまに納得のいかない様子の妹へ、信行はジト目を向け、心底うんざりしたように吐き捨てた。「空気を読む知能が、爪の先ほどもないらしいな」「……」今度は紗友里が言葉に詰まる番だった。白けた顔で兄を睨み返し、抗議の声を上げる。「ちょっと、言いたいことがあるならはっきり言ってよ。ネチネチ嫌味ばかり言わないで。自分の機嫌が悪いからって八つ当たりしないでよね」食ってかかる紗友里を冷ややかに見据え、信行は単刀直入に切り出した。「俺はここ最近、真琴の部屋で寝起きしてる。だからお前が残って看病する必要なんかない」他愛もないことのように投下された爆弾発言に、紗友里は雷に打たれたような衝撃を受けた。目を丸く見開き、信じられないものを見る顔で兄を凝視する。「……は?なんて言ったの?もう1回言ってみてよ」あり得ない。真琴の部屋に居候しているなど、そんな馬鹿な話があるはずもない。真琴が一番毛嫌いしている相手こそ信行だ。家に転がり込むのを許すはずがなかった。そもそも、兄に帰る家がないわけでもない。呆然とする妹を前に、信行はどこ吹く風と涼しげに口を開く。「そう驚くな。わざわざ真琴に裏を取る必要もない。これが事実だ」泰然自若とした態度、有無を言わさぬ確信、そして先ほど病室でふたりが漂わせていた妙にぎこちない空気。それらを思い返し、紗友里は納得せざるを得なかった。信行の言葉は、紛れもない真実だ。だけど、いくら何でもおかしい。真琴は信行をあれほど疎ましがっていたはずなのに、どうして自宅に泊めるのを許したのか。しかも、これほどの一大事を自分には何1つ話してくれていなかった。だが、最近の一連の出来事、とりわけ渚の醜聞が暴露された一件を丁寧に辿り直すうち、紗友里の頭の中で点と点が繋がった。大方の事情が飲み込めてくる。おそらく真琴は罠に嵌められ、そこに信行が助けに入ったのだろう。信行の顔を見つめ、紗友里はおずおずと問いかけた。「……じゃあ真琴と、その……そういうことになっちゃったの?起きちゃいけないことが全部起きたわけ?私、叔母さんになっちゃうの?」複雑に歪んだ紗友里の表情と、立て続けの
「最初から大したことないんだ。お前は帰れ」信行が放ったのは、あくまで紗友里1人に向けた言葉であり、真琴と一緒に帰れという意味では決してなかった。だが紗友里は即座に言い返す。「病院のベッドで寝込んでて、お父さんもお母さんも留守で、誰も看病する人がいないのに、どうして私が帰らなきゃいけないのよ。残って面倒を見るに決まってるでしょ」「……」滅多に見せない妹の兄思いな主張に、信行は完全に言葉を失った。せっかく怪我をしたのだから、真琴の前で弱みを見せて情に訴えかける絶好の機会だった。それなのに呑気に首を突っ込み、邪魔立てしてくるとは何事か。迷惑以外の何物でもない。とはいえ、真琴が居合わせている手前、そんな本音を口にできるはずもなかった。渚が真琴に薬を盛った件は、信行の手ですでに報復を済ませてある。祖父も事情を把握し、父の健介も信行が甘い汁を吸ったと察してはいたが、誰も蒸し返そうとはしなかった。何にせよ、真琴にとって気分のいい話ではないからだ。兄妹の押し問答を見守っていた真琴は、すっと椅子から立ち上がった。「紗友里がついててあげられるなら、私は先に帰るね」ふたりきりでも気まずい空気が漂うのに、3人揃えばなおさら身の置き所がない。先に引き揚げた方がいいという判断だった。真琴の申し出に、紗友里はあっけらかんと応じる。「うん、わかった。じゃあ真琴は先に帰って。何かあったらまた連絡するから」「……」あっさり真琴を送り出そうとする紗友里に、信行の表情が目に見えて険しく陰った。だが真琴はその変化に気を留めず、紗友里に至っては屈託のない様子で、信行のことなどまともに見ようともしない。紗友里が真琴を見送るべくエレベーターホールへ連れ立って歩き出す中、病室に取り残された彼の顔は、見るに堪えないほど苦々しく歪んでいた。*エレベーターホールで到着を待つ間、真琴は心配しなくて大丈夫だと紗友里を優しく宥めた。紗友里は肩をすくめ、何でもないように笑ってみせる。「ここに来る途中はちょっと焦ったけど、信行のピンピンした顔を見たら心配も吹き飛んじゃった。だから真琴も私のことなんて気にしないで」数日間の静寂と内省を経て、紗友里の心はすっかり落ち着きを取り戻していた。光雅と過ごしたあの一夜の過ちも、もはや大し