LOGIN「はいはい、どうせ真琴は大事な奥様で、私は拾われた子。あんたとは赤の他人だよ。帰るわよ。お邪魔虫は消えますから、どうぞ夫婦水入らずで」捨てセリフを吐くと、紗友里は信行を睨みつけ、すれ違いざまに肩でドンと突き飛ばして部屋を出て行った。ついでにドアもバタンと閉めていく。紗友里がいなくなると、部屋はしんと静まり返った。格別の静けさだ。ほのかなタバコの匂いも、空気清浄機に吸い込まれて消えていく。信行は両手をポケットに入れ、表情を消した。ただ、顔の傷跡と、襟元から覗く首筋のミミズ腫れはまだ生々しかった。真琴は彼を見て、穏やかに言った。「会社で急用ができたので、残業してきます……あ、そうだ。午後に松浦先生が注射にいらっしゃるから、お部屋で休んでいてくださいね」「残業」という言葉に、信行は淡々と彼女を一瞥し、気だるげに言った。「……高瀬の奴も、人使いが荒いな」真琴は答えた。「プロジェクトの責任者ですから、忙しいのは仕方ありません」かつて興衆実業にいた頃はもっと忙しく、昼夜を問わず残業していた。真琴の態度は柔らかかったが、信行もそれ以上は言わず、机に向かってパソコンを開いた。本当は残業などしてほしくない。もっと自分の生活を楽しんでほしいと思っている。真琴は手早く支度をし、車のキーと携帯を持って実家を出た。さっき、智昭から電話があった。淳史からも電話があり、アークライトとの提携を断られた由美が、最近「精高テクノロジー」に接触しているという。家庭用ロボットのプロジェクトで提携しようとしているらしい。もしそうなれば、完全に競合することになる。しかも由美は、精高テクノロジーと組めば必ずアークライトを叩き潰せる、製品化などさせないと言い放ったそうだ。仕事のことは、信行には話さなかった。由美が誰と組もうと、それは彼女の自由だ。それに二人の関係を考えれば、信行はとっくに知っているはずだ。ただ、もし由美が精高テクノロジーの力を使ってアークライトに対抗しようというなら、アークライトも受けて立つまでだ。ハンドルを握りながら、真琴は仕事のことばかり考えていた。先ほどの紗友里との会話については、あまり深く考えなかったし、答えを知りたいとも思わなかった。あの日、信行と拓真の会話で、答えはすでに出ている
紗友里は言った。「あら、しらばっくれる気?」そして、さらに踏み込んだ。「多くは聞かないわ。一つだけ教えて。この三年間、真琴を冷遇して苦しめたのは、真琴の方から『離婚したい』って言わせるためだったの?」紗友里の分析に、信行はただただ可笑しかった。ひとしきり笑うと、窓際の棚からタバコとライターを取り出し、一本くわえて火をつけた。深く吸い込み、煙を吐き出して振り返り、笑って言った。「俺が離婚したいなら、真琴に言わせる必要があるか?三年も待つと思うか?」紗友里は疑いの目を向けた。「じゃあ、あの結婚はお爺様に無理やり押し付けられたわけじゃないってこと?」信行はさらに笑った。「紗友里、兄妹やって二十三年だぞ。この俺に、誰が無理強いなんてできる?」その傲慢さに、紗友里は呆れ果てた。「だったら、どうして真琴をいじめたの?どうして優しくしなかったの?百歩譲ってあんたが女好きだとしても、馬鹿じゃないんだから、結婚した以上は妻の顔を立てるでしょ。家では妻を大事にして、外で適当に遊ぶくらいの器用さはあるはずよ。でも、この三年間、あんたは真琴を死ぬほどいじめた。優しさのかけらも見せず、顔も立てず、やってることは全部『離婚』に向かってた……一体何のためよ?」信行の性格なら、結婚を承諾した以上、こんな不毛な扱いはしないはずだ。彼はもっと如才なく振る舞うはずだ。何しろ信行は、彼女の知る限り最も賢く、合理的な人間なのだから。紗友里の追及に、信行はタバコを持ったまま彼女を見つめた。普段は大雑把に見えて、こういう時は鋭いところを突いてくる。しばらく沈黙した後、信行は不意に問い返した。「『家では妻を大事にして、外で遊ぶ』だと?お前、俺をどんな人間だと思ってるんだ?」紗友里は食い下がった。「はぐらかさないで。答えなさいよ」ドアの外には、真琴がノックもせず、無言で佇んでいた。盗み聞きするつもりはなかった。ただの偶然だ。あの時のバルコニーでの会話と同じように。視線を外し、立ち去ろうとした時、背後から使用人の声がした。「真琴様、どうなさいました?」真琴は振り返り、笑顔で挨拶した。「須田さん」部屋の中の会話がぴたりと止んだ。紗友里は慌てて半開きのドアを開け、真琴を見て取り繕った。「真琴!お爺様
もし彼女にまだ感情が残っているなら、彼は気にするはずだ。いや……実は、彼はずっと気にしていた。……翌朝、信行が目を覚ますと、隣は空っぽで、真琴の姿はなかった。部屋の中を見回していると、紗友里がドア枠に寄りかかり、リンゴをかじりながら気だるげに声をかけてきた。「探しても無駄よ。真琴なら、お爺様に呼ばれていったわ」信行は彼女を一瞥し、無視して視線を戻した。紗友里は信行をじっと見つめて尋ねた。「本当は離婚したくないんでしょ。昨日のあれ、わざとやった同情を引くための芝居でしょ?」言い返そうとする信行を遮り、紗友里は畳みかける。「もし真琴が心を痛めて、昔みたいに飛び出してきて、お爺様に離婚しないって言えば、兄ちゃんの勝ちだった。離婚しなくて済んだ。でも、真琴は乗ってこなかった。とりなしてもくれなかった……無駄骨だったわね」一晩考えて、紗友里が出した結論はこうだ。信行ほどの知恵者が、ただ祖父の怒りを買うためだけに騒ぎを起こすはずがない。だから……可能性は一つ。真琴が頑として離婚を譲らないので、どうしようもなくなって、あんな博打に出た。結果は、ただ痛い思いをしただけだったが。紗友里の名推理に、信行は呆れ果てて冷ややかな目を向けた。「……買い被りだ。お前ほど腹黒くはない」紗友里は笑った。「私より腹黒くない?全身『悪知恵』の塊みたいな男が何言ってんのよ」食べ終わったリンゴの芯をゴミ箱に放り投げ、紗友里は持ちかけた。「ねえ信行、私にお願いしてみなさいよ。『協力してくれ』って。そうしたら、真琴の様子を探ってあげるわ。まだ脈があるかどうか」信行は彼女を見るのも億劫そうに追い払った。「紗友里、暇なら他で遊んでこい」紗友里は得意げに脅した。「本当に行っちゃうわよ?あの痛いのが全部無駄になってもいいの?私、真琴の親友なんだから、影響力はあるわよ。復縁をアシストできるかは分からないけど、邪魔するのは簡単なんだからね」信行が冷ややかな視線を送ると、紗友里は構わずに部屋に入り込み、ニヤニヤと笑いながら詰め寄った。「ねえ、正直に言いなさいよ。本当は真琴に惚れたんでしょ?未練タラタラなんでしょ?」……その頃、真琴は祖父との話を終え、信行の部屋に私物を取りに戻ってきていた。しかし、部屋の前
あのバルコニーでの拓真との会話を思い出し、「タイプじゃない」と言われたこと、「お前には価値がない」と言い放たれたことが脳裏をよぎり、真琴の手がふと止まった。真琴の沈黙に気づき、信行が振り返る。視線が合うと、真琴はハッと我に返って誤魔化した。「……傷、深いですね」そう言って、努めて優しく薬を塗り広げた。処置を終え、パジャマを持ってバスルームへ向かう足取りは重かった。頭の中では、昔の記憶がぐるぐると渦巻いている。過去に、そしてこの現実に別れを告げる時が来たからだろうか。思い出は、やけに鮮明だった。しばらくして、真琴がシャワーを浴びて戻ると、信行は窓際で電話をしていた。真琴は髪を拭きながら、邪魔をしないように気配を消す。電話の相手は由美だ。「信行、明日は日曜日よ。映画に行きましょう。新作の評判がいいの」信行は淡々と言った。「用事がある。行けない」由美は不満げに声を尖らせた。「最近忙しすぎるわよ。しばらく一緒にご飯も食べてないじゃない」信行は窓の外を見ていたが、ガラスに映り込んだ真琴の姿に目が釘付けになった。彼女は近づいてこない。こちらを見ようともしない。その表情はあまりに淡々としていて、まるで自分たちの結婚の「部外者」のようだ。「信行?聞いてるの?」由美に呼ばれ、信行は我に返った。視線を戻し、感情のこもらない声で告げる。「最近は都合が悪いんだ。また今度な」由美の返事も待たずに通話を切った。振り返ると、真琴も彼を見ていた。視線がぶつかる。だが信行が口を開くより早く、真琴はふいっと視線を逸らし、何事もなかったかのようにドライヤーのスイッチを入れた。あまりの無反応さに、信行は近づいてドライヤーを奪い取った。音が止み、真琴が見上げると、信行は彼女を見下ろして問い詰めた。「お前には感情ってものがないのか?」今度は、真琴も黙ってはいなかった。「……感情があったら、気にしてくれるんですか?」即答され、信行は言葉を失った。まさか彼女から、こんなに鋭い刃のような言葉が返ってくるとは思わなかった。信行が答えられないのを見て、真琴は黙って背を向けた。衝動的に言い過ぎてしまったと後悔したからだ。背を向けた彼女の手首を、信行が掴んで引き戻す。顎を強引に上向かせようとし
優しく、濃厚なキスに、信行は一瞬、背中の痛みを忘れた。廊下から足音が近づいてくる気配に、真琴は慌てて彼を突き放し、心底呆れたように言った。「……お爺様の手加減が、まだ足りなかったみたいですね」信行は悪びれもせず笑って、彼女の唇を親指で拭った。その眼差しだけは、妙に優しかった。真琴はそんな彼を冷ややかな目で見据えると、無視して食器を片付け、階下へ降りていった。しばらくして。部屋に戻ると、信行が着替えを手に持ち、シャワーを浴びに行こうとしていた。真琴は驚きのあまり、信行を凝視して言った。「……正気ですか?命が惜しくないんですか?」信行は平然と言った。「大げさだな」「……」真琴は絶句した。まるで理解不能な化け物を見るような目を向ける真琴に、信行は有無を言わせず着替えを押し付け、首根っこを押さえて強引にバスルームへ連れ込んだ。無視して立ち去ろうとしたが、信行が内側から鍵をかけてしまったので出られなかった。結局、彼に言われるがまま、洗えるところを洗う手伝いをさせられる羽目になった。バスルームから出た時、真琴は彼を直視できなくなっていた。信行のその図太さとデリカシーのなさには、呆れるのを通り越して感心するばかりだ。部屋に戻っても、真琴の耳が赤く、視線を合わせようとしないのを見て、信行は面白がってからかった。「夫婦なのに、まだそんなに恥ずかしいか?」真琴は顔を上げ、努めて冷静を装って言い返した。「恥ずかしがらなかったら、あなたは笑っていられませんよ」真琴の反撃に、信行はさらに笑みを深めた。「ユーモアまで身につけたか」以前の彼女は、いつも真面目腐っていて、ただ言われた通りに従うだけの存在だったのに。信行のどこか得意げな様子に、真琴は冷ややかに、わざと水を差した。「そんなにご機嫌なら、月曜日に離婚届を……」言い終わらないうちに、信行は両手で彼女の顔を包み込み、また唇を塞いだ。今度は真琴も怒り、彼の胸を押して強く突き放した。「怪我人の分際で調子に乗らないでください。本気で怒らないと思って……」「怒る」と言い切る前に、信行はまた顔を包んでキスをした。信行のあまりの傍若無人ぶりに、真琴はさらに強く押した。すると信行は息を吸い込み、耳元で小声で言った。「……真琴、痛いぞ
ベッドを整えながら、信行の問いに、真琴はゆっくりと立ち上がった。振り返って信行を見つめ、しばらくしてから薄く笑って答えた。「そんなことにはなりません。お爺様だって手加減しますし、本当にあなたを殺したりしませんから」真琴は「どうするか」という問いには直接答えなかった。信行は彼女を見て、それ以上何も言わず、ベッドに横たわって目を閉じた。ただ……今日の折檻は無駄だったようだ。……夜七時。真琴は階下で夕食を済ませ、卵雑炊を持って上がってきたが、信行は「味が薄くて食欲がない」と拒否した。椅子に座り、彼がベッドの上でノートパソコンを開いて仕事をするのを見て、真琴はそのタフさに呆れると同時に感心した。この人は、鉄の体でも持っているのか。雑炊を持ったまましばらく彼を見つめていたが、食べる気配がないので、優しく、しかし事務的に注意した。「あと半月は消化の良いものしか召し上がれません。栄養を摂らないと、傷の治りが遅くなりますよ」信行はベッドに座り、背もたれには寄りかからず、キーボードを叩きながら顔も上げずに言った。「点滴を増やせばいい」信行が平然と仕事に没頭しているので、真琴は黙って雑炊をサイドテーブルに置いた。信行も手を止め、彼女を見た。信行の視線に、真琴は何も言わず、もう勧めもしなかった。視線が絡み合い、真琴は不意に昔のことを思い出した。かつて、この部屋で過ごした日々のことを。学生時代、彼女はここで何度も宿題をし、信行の宿題も手伝わされた。多くの場合、彼女が机に向かって真面目に宿題をしている横で、信行は寝ていた。ある時、彼のベッドでうっかり昼寝をして目が覚めると、隣に信行もいて、彼女を抱きしめて眠っていたことがあった。あの頃は……良かった。あの頃、彼女はよく「紗友里に会いに来た」と言っていたが、本当は信行に会いたかった。信行は遠慮なく真琴に用事を言いつけるのが好きで、だから彼女はよくこの部屋に引き留められた。思い出が蘇り、祖父の「最後くらいはきちんと別れろ」という言葉を思い出し、真琴は置いた雑炊をまた手に取った。口では勧めず、ただ無言で雑炊をかき混ぜ、レンゲですくって彼の口元に運んだ。差し出されたそれを、信行は無表情に見つめた。今の真琴は、少し彼と意地を張り合っているようだ。