LOGIN「――私、もう大人だし。知らないのは先生だけ。子どもでいてほしいだけでしょう?」
口にした瞬間、空気が変わった。蝉の声は相変わらず鳴り続けているのに、部屋の中だけが真空になったような静寂が落ちてくる。先生の背中が硬くなったのが、寄りかかっている肩越しに伝わってきた。
万年筆がかたん、と座卓に置かれた。いつも指先で静かに離す先生が、音を立てて万年筆を手放すのは珍しかった。
「はあ?」
低い声が、腹の底から押し出されるようにして響いた。先生がゆっくりと身体の向きを変え、振り返る気配がする。私は先生の背中から身体を離し、畳の上に膝をついたまま、先生と向き合った。
先生の目が、真っ直ぐに私を捉えていた。普段の呆れたような眼差しでも、面倒くさそうに細めた目でもない。温度の読めない、奥の見えない目だった。
「見る? 胸元のキスマーク」
自分の声が妙に平坦に聞こえた。心臓は激しく跳ねているのに、口だけが勝手に動いている。立ち上がり、キャミソールの裾を掴んで、一息に頭の上まで引き抜いた。脱いだキャミソールが畳の上に落ちて、くしゃりと小さな音を立てる。
胸の谷間に、紫がかった痕が残っていた。大学のサークルの飲み会で、酔った男につけられた痕だった。カラオケの薄暗い個室で、やり目だとわかった瞬間に相手の股間を蹴り上げて逃げたから、キスマークだけで済んだ。ただ、先生にそんな経緯を説明する気はなかった。
ただ伝えたい。
――私はもう子どもじゃないんだと。
先生の視線が、鎖骨の下へと降りた。谷間に残る紫色の痕を見つめて、先生の喉がわずかに上下する。和服の襟元から覗く首筋に、汗が一筋伝っていくのが見えた。
半年前の光景が、脳裏にちらついた。高校三年の冬、書斎の障子を開けた先に見た、先生の膝の上に跨る女性の姿。髪を振り乱し、先生の唇を貪るように塞いでいた編集者の後ろ姿。あのとき先生は言った。大人の世界は単純明快だと。反応するかしないかだと。
私は膝で畳を擦りながら先生に近づき、座っている先生の和服の合わせ目に手を伸ばした。帯の下、太腿の付け根のあたりに手のひらを当てると、布越しに硬く熱いものが指先に触れた。先生の身体がびくりと震えて、私の手首を掴もうとする動きが一瞬遅れた。
「奪った分のやる気、返そうか?」
先生の目が見開かれた。掴みかけた手首が力を失い、宙で止まる。先生の呼吸が変わったのがわかった。浅く、速く、喉の奥で引っかかるような息遣いに変わっている。
和服の合わせ目に指を差し入れると、先生が私の肩を掴んだ。突き放すのかと思った。畳の上に押し倒されたのだと気づくまでに、一拍かかった。
背中が畳に叩きつけられ、い草の匂いが鼻をついた。夏の湿気を吸い込んだ畳は生温くて、汗で濡れた背中にじっとりと張り付いてくる。先生の顔が真上にあった。前髪をあげてセットしていた髪の何本かが額に落ちかかり、目元に影を作っている。いつもの飄々とした表情は消え、噛み締めた唇の端が白くなっていた。
「先生……」
名前を呼ぶと、唇を塞がれた。
荒々しい口づけだった。唇を押し開くように舌が入り込み、口の中を蹂躙していく。上顎を舐め、歯の裏を這い、私の舌に絡みついてきた。息ができなかった。鼻で吸い込もうとした空気は先生の吐息の熱で満たされていて、頭がくらくらする。唾液を飲み込もうとしたが飲みきれず、口の端から零れて顎を伝った。
先生の大きな手が胸に触れた。手のひらがブラジャー越しに胸を包み込み、指が布の上から乱暴に形を変える。背中に手が回り、ホックが外された。動きには迷いはなく慣れた手つきだった。ブラジャーが引き剥がされ、素肌が空気に触れる。汗で湿った胸に、先生の手のひらが直に触れた瞬間、身体の奥に表現できない何かが生まれた。
「んっ……」
声が勝手に漏れた。先生の指が胸の先端を摘み、転がすように弄ぶ。乱暴なのに、指先だけが妙に器用で、くすぐったさと快感の境界を行き来してくる。もう片方の手が腰に回り、ショートパンツのボタンを外した。ファスナーが降ろされ、布が腰から太腿へと滑り落ちていく。
蝉の声が耳に戻ってきた。窓の外ではまだ太陽が白く燃えていて、庭の緑が陽射しに焼かれている。縁側から入り込む熱風が、晒された肌を撫でて通り過ぎた。
先生の唇が首筋に落ちた。鎖骨の上を舐め、谷間に残るキスマークの上に唇を押し当ててくる。まるで上書きするように、痕の上を強く吸われた。痛みに似た刺激が胸の奥に響いて、背中が畳から浮きそうになる。
「あっ……先生」
先生は何も言わなかった。言葉の代わりに、唇と舌と指が答えてくる。首筋を舐め上げ、耳の下に噛みつき、胸の先端を口に含んで吸い上げる。先生の口の中は熱くて、舌が先端を転がすたびに、お腹の奥が生まれた何かが疼いた。汗で濡れた先生の前髪が私の鎖骨に触れ、くすぐったいような感覚が全身を震わせる。
先生の和服の前がはだけていた。胸板が露わになり、汗が鎖骨の窪みに溜まっているのが見える。細身に見える先生の身体は、骨格がしっかりしていて、肩から腕にかけての筋が汗に濡れて光っていた。
下着を引き下ろされた。先生の指が太腿の内側を撫で、奥へと進んでくる。秘所に触れられた瞬間、息が詰まった。誰にも触れられたことのない場所に、先生の長い指が触れている。割れ目をなぞるように指先が滑り、ぬるりとした感触が広がった。自分の身体がこんなに濡れていたのかと気づいて、恥ずかしさで目を閉じた。
「……っ」
先生の指が中に入ってきた。ゆっくりと、探るように奥へと進んでいく。内壁が指に沿って押し広げられ、異物感に身体が強張った。指が曲げられ、中を撫でられると、お腹の底から熱い塊がせり上がってくるような感覚に襲われる。先生の指がある一点を擦ったとき、全身にびりびりと電流が走り、腰が勝手に跳ねた。
「あ……そこ」
くちゅ、と水音が響いた。先生の指が出入りするたびに、蝉の声に混じって卑猥な音が畳の上に広がっていく。自分の身体が鳴らしている音だとわかっているのに、止められなかった。先生がもう一本指を増やすと、内壁がぐっと押し広げられて、微かな痛みと一緒に深い疼きが身体の芯まで貫いた。
先生が身体を起こした。和服の帯を解き、肩から生地が滑り落ちる。下穿きを脱ぎ捨てると、硬く反り返った熱が目に入った。太く、脈打つように震えている。先端から透明な雫が滲み、夏の陽射しに照らされて濡れた表面が光っていた。
先生が私の膝を押し開き、身体の間に入ってきた。熱いものが太腿の内側に触れ、肌が灼けるような感覚が走る。先端が秘所に押し当てられ、ゆっくりと圧力がかかった。
入口が押し広げられていく。先生の熱が侵入してくる感覚に、身体が本能的に強張った。先端が中に入り込んだ瞬間、鋭い痛みが下腹部を貫いた。内側が引き裂かれるような感覚に視界が白く明滅して、奥歯を噛み締めなければ悲鳴が漏れるところだった。
――痛い。
身体の奥を裂かれるような痛みが、じわじわと全身に広がっていく。涙が目尻に滲んで、畳に吸い込まれるように頬を伝って落ちた。
気持ちいいふりをしなければ。処女だと悟られたら、先生はきっとこの行為を中断するだろう。「やっぱりガキじゃねえか。大人ぶりやがって」と私を突き放すだろう。大人のふりをして先生を挑発したのは私だ。ここで痛がって泣いたら、全部が嘘だったと知られてしまう。
――それは絶対に嫌。
私は大人だと先生に知らしめたい。好きか嫌いかじゃない。反応するかしない――の、反応する側になりたい。
「ん……っ、あ」
喉の奥から、意識して甘い声を絞り出した。先生の腰が動き、奥まで一気に押し込まれる。何かが突き破られる感覚があって、お腹の奥に灼けるような痛みが弾けた。歯を食いしばり、先生の背中に爪を立てる。
――痛い。痛い。
痛みで頭が真っ白になりそうなのに、先生の和服から立ち昇る汗と煙草の混じった匂いだけが鮮明だった。
先生がゆっくりと腰を引き、また押し込んでくる。私の身体が揺さぶられた。引いて、押し込む。繰り返されるたびに、内壁が先生の形に沿って伸ばされていく。痛みの中に、微かな疼きが混じり始めた。お腹の奥を擦られるたびに、痛みとは違う感覚がじわりと滲んでくる。
「あっ、ん……先生」
先生の呼吸が荒くなっていた。額に汗が滲み、前髪が完全に額に張り付いている。いつも持ち上げてセットしてある髪が崩れると、先生の顔は驚くほど若く見えた。三十八歳には見えない。眉を寄せて唇を噛み、汗を滴らせている横顔は、まるで知らない男の人のようで、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
先生の動きが速くなった。腰を打ちつけるたびに、肌と肌がぶつかり合う湿った音が部屋に響く。蝉の声と、水音と、先生の荒い息遣いと、全部混ざり合って耳の中が淫靡な音で支配される。
二度目に求められたとき、痛みはまだ残っていた。
先生が私の身体をうつ伏せにして、後ろから腰を引き寄せた。和服の裾が私の太腿に触れ、先生の胸板が背中に覆いかぶさる。耳の横で先生の息遣いが聞こえて、首筋に唇が落ちた。背中から突き上げられると、さっきとは違う角度で奥を擦られて、痛みの奥に隠れていた快感が突然、鮮明な輪郭を持って浮かび上がった。
「あっ……あ、んんっ」
堪えていた声が漏れた。今度は作った声ではなかった。身体の奥から勝手に込み上げてくる声を、噛み殺すことができなかった。先生の腕が私の腰を抱き締め、深く、激しく、突き上げてくる。内壁が先生に吸い付くように絡みつき、繋がった場所からぐちゅぐちゅと音が溢れ出した。
汗が背中を伝い、先生の汗と混じり合って畳に落ちていく。い草と汗の匂いが鼻に充満して、夏の空気そのものが肌に絡みついてくるような錯覚に陥った。蝉の声が遠くなり、先生の吐息と自分の喘ぎだけが世界の全てになっていく。
三度目は、もう痛みは消えていた。
先生に仰向けに戻され、足を大きく開かされた。先生が腰を沈め、深く、奥まで入り込んでくる。子宮口に当たるような感覚に、身体が弓なりに反った。先生の手が私の両手を掴み、頭の上で畳に押さえつける。逃げ場のない体勢で突き上げられると、お腹の奥から快感が噴き上がるように広がっていった。
「ああっ、先生……そこ、だめ……っ」
だめ、と口にしながら、腰が勝手に先生を迎え入れるように動いてしまう。自分の身体が自分のものではないような感覚だった。快楽に溺れていくとはこういうことなのかと、頭の片隅で他人事のように思った。先生が奥を突くたびに、全身を駆け巡る甘い痺れが強くなっていく。
先生の顔が近づいた。額の汗が私の頬に落ちて、生温い雫が肌を伝う。先生の唇が額に触れ、頬を撫で、唇に重なった。さっきまでの荒々しさとは違う、妙に優しい口づけだった。舌が絡み合い、唾液が混ざり、甘い吐息が口の中で溶けていく。
「んっ……あ、ああっ」
身体の中心で何かが弾けそうになっていた。下腹部に集まった熱が限界まで膨らんで、全身の神経がそこに向かって収束していく。先生が最奥に腰を押し込み、深く繋がったまま動きを止めた。
「――っ」
先生の身体が強張り、お腹の奥に熱いものが注がれる感覚があった。脈打つように、どくどくと広がっていく熱に、私の身体も応えるように痙攣した。視界が白く飛び、全身が震えて止まらなかった。快感が波のように押し寄せては引いて、呼吸の仕方がわからなくなる。
蝉の声が、遠くの方で鳴っていた。
◇◇◇
気がつけば、外は夕暮れだった。
西日が縁側から差し込んで、畳の上を橙色に染めている。開け放たれた窓から入ってくる風は、午後の凶暴な熱気が少しだけ和らいで、汗で湿った肌に心地よかった。ひぐらしの声が、蝉時雨に混じって細く響いている。
何もまとわない身体で畳の上に横たわり、全身がぐったりと重い。指一本動かす気力が残っていなくて、ただ天井の木目を見つめていた。隣に先生の気配があった。同じように裸のまま仰向けに横たわっていて、荒い息がまだ整いきっていないのが聞こえてくる。
先生が先に起き上がった。畳に手をついて上体を起こす音がして、和服を拾い上げる衣擦れが続く。私は目だけを動かして、先生の背中を捉えた。汗に濡れた肩甲骨が夕日に照らされて、筋が赤銅色に光っている。
浴衣に袖を通した先生が、帯を結んでいた。いつもは前髪を上げてセットしてある髪が、情事で乱れて額に垂れ下がっている。横顔が夕陽に染まって、より艶やかに見える。『オトコ』の姿を纏う先生は、視界に入れるだけで私の心臓が勝手に早鐘を打ちだす。
先生が身支度を整え終えると、私に背を向けたまま口を開いた。
「やる気は返してもらったから、もうお前は来るな」
声に、温度がなかった。蝉もひぐらしも鳴いているのに、先生の声だけが冬のように冷たくて、畳の上の空気が凍りついたような気がした。
「え?」
聞き間違いかと思って身体を起こした。背中が畳から剥がれるとき、じっとりと汗で張り付いていた肌が引っ張られて、微かな痛みが走る。
「帰れ」
低く、不機嫌な声だった。先生はまだこちらを振り返らない。浴衣の背中が夕日を受けて橙色に染まり、大きな肩が壁のように私を遮っていた。
「どういうこと?」
手を伸ばして、先生の浴衣の袖を掴もうとした。指先が布に触れた瞬間、先生の手が飛んできて、私の手を弾いた。乾いた音が畳の上に落ちて、弾かれた手の甲がじんと痺れる。
「もうガキじゃないんだろ? 大人なら、家に居場所がなくても一人で対処できるだろ。ここはもうお前の避難場所じゃない」
先生がそう言い切って、書斎を出ていった。廊下を歩く足音が消えていく。障子の向こうに先生の影がなくなって、ひぐらしの声だけが書斎に残された。
畳の上で、裸のまま膝を抱えた。窓の外で風が吹いて、風鈴が鳴る。短い音が一つだけ鳴って、すぐに静かになった。
――なんで?
胸の奥にあった何かが、音もなく崩れ落ちていくのがわかった。
八月の終わり、先生から原稿が届いた。 連載の原稿ではなく、あの未発表作品の、完成稿だった。 茶封筒は分厚く、ずっしりと重かった。二百枚以上。先生が私をモデルに書いた長編小説の、書き直された完全版。五月に冒頭の五十枚を受け取ってから三ヶ月。先生は連載と並行して、この原稿を書き続けていたのだ。 その日の夜、律希を寝かしつけてから、アパートの小さなテーブルの上に原稿を広げた。麦茶を一杯だけ用意して、赤ペンをペン立てから一本取り出した。 最後のページを読み終えたとき、原稿の束のあとに一枚の紙があった。原稿用紙ではなく、便箋のような白い紙。先生の万年筆で一行だけ書かれていた。 ――この物語を、六年遅れの告白とともに。 赤ペンを握る手に力をいれる。 便箋の「この物語を、六年遅れの告白とともに」の横に、赤い文字を書いた。『却下。あとがきに私情を挟まないでください』 赤ペンを持った手が、止まった。 「却下」の文字の下に、余白があった。先生の一行と、私の一行の間に、白い空間が広がっている。 その余白に、小さく書き足した。赤ペンの先を紙に押し当てて、震える指で。 ――でも、受け取りました。 赤ペンのキャップを閉めた。便箋をじっと見つめた。先生の黒い万年筆の文字と、私の赤い文字が並んでいる。二つの筆跡が一枚の紙の上で向き合っていた。 十分ほどそうしていて、ようやく便箋を原稿の一番上に戻した。茶封筒に原稿を収めて、封を閉じた。 翌日、先生のマンションに原稿を届けた。玄関で茶封筒を差し出した。「全部読みました。最後の一枚にだけ、赤を入れてあります」 先生が茶封筒を受け取り、中を確認しようとする先生を置いて、私は踵を返した。「紗那」「感想は言いません。読んでください、私の赤字を」 振り返らずに玄関を出た。エレベーターの中で、壁に背中を預けた。 目を閉じた。心臓が早鐘を打っていた。赤ペンで書いた文字が、目の裏にちらついていた。 ◇◇◇ 一年後――。 書斎の障子を開けると、パソコンの画面を睨みつけている先生の背中が見えた。 和服ではなく、紺色のシャツ姿の背中だった。肩幅が広くて、背骨の線が布地の上からうっすらと浮き出ている。座卓の上に万年筆は置かれておらず、代わりにノートパソコンが一台、開いたまま鎮座していた。先生の指がキーボードの上で
六月になった。 先生のマンションに通う頻度が、少しずつ増えていた。月に二、三度だったのが、週に一度になり、律希が「おじちゃんの家に行く日?」と保育園の朝に聞いてくるようになった。 先生は律希に何かを強いることをしなかった。一緒に遊ぼうとも、こっちに来いとも言わない。先生はいつも通り仕事部屋のデスクに向かっていて、律希がその周りをうろうろするのを黙認しているだけだった。律希の方が勝手に先生のそばに寄っていく。万年筆に惹かれるように、先生のデスクの横にちょこんと座り込む。 ある日、律希が先生の仕事部屋で大人しくしていると思って覗きに行くと、先生のデスクの端に律希が座っていた。先生が万年筆で原稿を書いている横で、律希が鉛筆でノートに何かを書いている。「何してるの?」「字を書いてる」 律希のノートを覗き込んだ。ひらがなが並んでいた。「り」「つ」「き」。自分の名前だった。でも「り」の縦線が曲がっていて、「つ」は丸みが足りなくて、お世辞にも上手とは言えなかった。「おじちゃんが教えてくれた」 先生の方を見た。先生は原稿に目を落としたまま、何食わぬ顔で万年筆を動かしていた。でもデスクの端に、先生の筆跡で「りつき」と書かれた紙切れがあった。万年筆の、流麗なひらがな。先生の字は独特の癖があるが、ひらがなだけは教科書のように整っていた。律希がそれを手本にして練習していたのだ。「先生、ありがとうございます」「頼まれただけだ」 先生は原稿から目を上げなかった。律希が鉛筆を握り直して、もう一度「り」を書いた。さっきより少しだけ縦線がまっすぐになっている。「おじちゃんの『り』、かっこいいんだよ」 律希が先生の書いた紙切れを持ち上げて見せてきた。確かに先生の「り」は美しかった。万年筆のインクの濃淡が線に表情を与えて、たったひらがな一文字なのに品がある。「おじちゃんみたいに書きたい」「万年筆じゃないと、ああはならないよ」「じゃあ万年筆がほしい」「まだ早い。鉛筆で上手に書けるようになってから」 先生が初めて原稿から目を上げた。律希を見下ろして、短く言った。「姿勢が悪い。背中をまっすぐにしろ。肘をつくな」「はーい」 律希が背筋を伸ばした。五歳児なりの精一杯のまっすぐだった。先生が何も言わずに原稿に視線を戻した。二人が並んでいる。先生の大きな背中と、律希の小さ
あの夜から、三人で過ごす日が増えた。 毎週ではないが、月に二度か三度。金曜日に先生のマンションで夕飯を食べ、お風呂に入り、三人でソファに並ぶ。律希が先生の腕に寄りかかって眠ったら、寝室に運んで川の字で寝る。 先生の料理の腕はあっという間にあがっていった。二回目はシチュー。にんじんの大きさは相変わらず不揃いだったが、じゃがいもの大きさは学習していた。三回目は肉じゃが。出汁の取り方を私がメッセージで送ったら、「読んだ」とだけ返信が来た。読むようになっただけでも進歩だった。 律希は先生のことを「ペンだこのおじちゃん」と呼び続けていた。律希はすっかり先生に懐いていた。 先生の万年筆を覗き込み、先生の膝の上に乗って字を書きたがり、先生の背中に寄りかかってうとうとする。先生が何かを書いていると、邪魔をせずに隣に座って絵を描いている。その静かな並びかたが、かつての私と重なった。 先生と律希が並んでいる姿を見るたびに、微笑ましくて自然と笑顔になった。 ◇◇◇ 五月に入って少し蒸し暑くなり始めた頃。 律希を寝かしつけた後、リビングに戻ると先生がソファに座っていた。テーブルの上に珈琲が二つ。私の分も淹れてくれていた。 先生の隣に座った。「原稿の直し、順調ですか」「進んでる」「連載の方は?」「二話分、ストックがある」「すごいですね。スランプ前より速い」「紗那のせいだ」「私のせい?」「おかげだ」 先生が珈琲を一口飲んで、カップをテーブルに置いた。煙草を吸いたそうな仕草で胸ポケットに手を伸ばしかけて、途中で止めた。律希がいる夜は煙草を控えるようになっていた。律希が寝た後でも、匂いが残るからと吸わない。誰に言われたわけでもなく、先生が自分でそうし始めた。「紗那」「はい」「俺と結婚してくれ」 先生の声は静かだった。情事の熱に浮かされたときとは違う。穏やかな空気の中で、先生は真っ直ぐに私を見て言った。「律希の父親になりたい。紗那の隣にいたい。三人で暮らしたい」 先生の目に迷いはなかった。あの仕事部屋で原稿と向き合うときの、書くべき言葉が見えている目と同じだ。「先生」「律、だ。名前で呼んでくれたのは一度きりだ。もう一度聞きたい」「……先生」「律」「先生」 先生が眉間に皺を寄せた。私は珈琲のカップを持ち上げて、一口飲んだ。「結
保育園に着いたのは、いつもより十分早かった。 編集長が「さっさと帰りなさい」と追い出してくれたおかげだ。追い出された理由が「先生の機嫌を損ねるな」だったのは、もう深く考えないことにする。 教室に入ると、律希が絵本棚の前にしゃがみ込んでいた。いつもの光景だ。大判の絵本を膝に乗せて、真剣な顔でページをめくっている。「りっくん、ママ来たよ」 律希がぱっと顔を上げた。絵本を棚に戻して駆け寄ってくる。「ママ、はやい」「今日はね、お出かけするから早く来たよ」「ペンだこのおじちゃんのとこね!」「そう。おじちゃんが、りっくんのごはんを作ってくれたんだって」「おじちゃん、ごはん作れるの?」「……どうだろうね」 先生が料理をしている姿を、一度も見たことがない。あの平屋に通っていた六年間、先生の台所には料理をしているような形跡がなかった。冷蔵庫はいつも麦茶しか入ってなかった。あれはきっと私が飲むから用意してくれただけで、先生はいつもブラックコーヒーを飲んでいた。 ――先生って何を食べて生活してきたんだろう? 律希の手を引いて保育園を出ながら、最悪の場合はコンビニに走ればいいやと思う。 先生のマンションに向かう電車の中で、律希はずっとそわそわしていた。座席に座っても膝の上で足をぶらぶらさせて、窓の外を見たり私を見たりしている。「ママ、おじちゃんはなんのお仕事してるの?」「お話を書く人だよ」「絵本?」「絵本じゃなくて……大人が読む本。長いお話」「ふうん」 律希が窓の外に目を戻した。しばらく黙ってから、「おじちゃんのお話、面白い?」と聞いてきた。「面白いよ。たくさんの人が読んでる」「ママも読む?」「ママはね、おじちゃんのお話を読んで、間違ってるところを直すのがお仕事なの」「おじちゃん、間違えるの?」「たまにね」「ふうん」 律希がまた「ふうん」と言って、膝の上に視線を落とした。考え事をしているときの律希は口元がきゅっと結ばれて、先生と同じ顔になる。電車の窓に映った小さな横顔を見ながら、今夜この子が先生と並んだとき、どんな顔をするのだろうと思った。 ◇◇◇ マンションのエントランスで鍵を使った。先生にもらった鍵だ。手のひらの中ですっかり温まった小さな金属を差し込んで回すと、自動ドアが開いた。 部屋の前で律希の手を握ったまま、イ
◆先生Side 紗那が出ていった後、しばらくベッドの上で動けなかった。『連載中の原稿が書き終わったら、息子に会ってくれませんか?』 願ってもない紗那からの言葉に、身体が固まる。 身体を起こし、仕事部屋に戻る。床一面に原稿が散らばっている。 一枚拾い上げた。 俺の万年筆の黒い文字の横に、赤ペンの文字があった。紗那の字だった。「ここ、違います」 ヒロインが一人でベッドに横たわり、涙を流す場面。紗那の赤字がその横に並んでいた。「子育て中に思い出して泣いてる暇なんてないです。疲れてきって爆睡です」 別の一枚を拾った。ヒロインが主人公の小説を読んで、切なさに胸を押さえる場面。「申し訳ないですけど、就職して恋愛小説の編集者になるまで先生の作品を読んでいません。理由はムカつくから。私をあっさり捨てた男の作品を読んで、泣くわけない」 また一枚。ヒロインが主人公を許す場面。「こんなに簡単に許さない。許したいけど許せない。六年間一人で、好きな人の子どもを抱えて生きていた女を甘く見ないでください」 一枚一枚、拾い集めた。膝をついて、床を這うようにして、二百枚以上の原稿を集めた。冒頭からおよそ五十枚に、紗那の赤字が入っていた。残りの百五十枚は、白いままだった。紗那が読めたのはそこまでだったのだろう。 俺が想像で書いた紗那と、本物の紗那の距離が、赤字で突きつけられていた。 ――強いな、紗那は。『強くなるしかなかったんです』 紗那の言葉を思い出して、胸が痛くなる。(俺がそうさせたのか) 全然、わかっていなかった。紗那という女性を。 十二歳の幼い頃のまま、弱い生き物だと思い込んでいた。 デスクの前に座った。原稿を並べ直した。赤字の一つ一つを読み返した。紗那の怒り、紗那の悔しさ、紗那の孤独、紗那の意地、紗那の強さ。その全部が、赤ペンの文字に変換されて原稿の余白に詰め込まれていた。 紗那は、ずっと一人で戦っていた。 俺がウジウジと後悔し、紗那への想いを断ち切れない間に紗那はどんどんと大人になり、母になり進んでいたのだ。 俺の小説を出版する会社で働くことを選び、好きな人の子を産めたのは幸せだと、笑って言った。あの笑顔の裏に、これだけの感情が渦巻いていた。 ――俺はクズだな。 万年筆を手に取った。 インクの出を確認して、新しい原稿用紙を引き寄せた
「返せ」 先生が立ち上がった。デスクを蹴飛ばすように膝で押しのけ、私に向かって腕を伸ばしてきた。原稿を胸に抱き締める。先生の手が原稿の端を掴んだ。「返せっ、紗那」「返しません。まだ読み終わっていません」 先生が原稿を引き、私が抱え込む。力比べにならなかった。先生の腕力に引きずられ、膝が本棚の前の床を滑る。先生の身体がぶつかり、バランスを崩して二人とも床に倒れた。 原稿が空中に散った。 二百枚以上の原稿用紙が、ばさばさと音を立てて部屋中に降り注いだ。先生の万年筆の文字が書かれた紙が、床に、デスクの上に、丸められた原稿の上に、重なり合って広がっていく。 私は先生の身体の下にいた。背中に原稿用紙が敷き詰められ、紙の端が肌に触れてかさかさと音を立てている。先生が腕で身体を支えて、覆い被さる形で私を見下ろしていた。「大丈夫か? 頭、打ってないか?」「――はい」 先生の顔が近かった。 目の下の隈。痩せた頬。乱れた髪が額に落ちかかっている。「先生」 手を伸ばした。先生の頬に触れた。指先に、無精髭のざらつきが伝わってくる。先生が息を飲んだのがわかる。指が頬を撫で、顎の線を辿り、唇に触れた。乾いた唇だった。「キスしていいですか」 先生の目が見開かれた。 返事を待たなかった。先生の首に腕を回し、自分から唇を合わせた。 先生の唇は乾いていて、煙草の匂いがした。先生は動かなかった。固まったまま、私のキスを受けている。舌で先生の唇をなぞると、先生の身体がびくりと震えた。堰が切れるように、先生の唇が動き始めた。 深い口づけだった。先生の舌が入り込み、口の中を貪るように這い回る。六年前の畳の上と同じ荒々しさを感じた。 先生の舌に自分の舌を絡めて応え、唾液が混ざり合い、吐息が溶け合った。息が苦しくなるまでキスをして、唇が離れたとき、先生の目が潤んでいた。「紗那……」 先生が唇を噛んだ。苦しそうな顔だった。先生が私から離れようと身体を起こすと、私は先生の腰に足を巻きつけた。「駄目だ。あのときと同じになる」「私、もう子どもじゃないですよ」「そう言ってあの夏も大人のふりしただろ」「今はもう大人です」「編集者と作家の関係に戻りたいって言ったのは紗那だ」「あれ……撤回します。先生が欲しい。抱かれたい」「――撤回の撤回は、許さないぞ」 先生が苦笑する