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第2話

Author: 小林
美月はその日のうちに退院手続きを済ませた。深夜、広い寝室でひとりになると、枕元のスマホが何度も鳴り響いた。

彼女はネット上で絵の個人販売をしており、自身のホームページに作品を掲載して注文を受けていた。

その購入者のひとりが、キャミワンピースを着た自撮り写真を投稿した。男性の腕に抱かれ、Vサインで顔を隠しているが、床にぼかしが入った部分には使用済みのコンドームがいくつも映っていた。

【旦那にこの絵を見られて、誰からのプレゼントか聞かれて「自分で買った」と言ったら、あたしが浮気してるんじゃないかって疑われて、めっちゃ詰められた。体中真っ赤っか……ほんと何もしてないのに(泣)!男って独占欲強すぎ!もうこんな遊びやめる!】

このコメントは瞬く間にバズり、フォロワーたちのコメントが続々と集まった。

【1個、2個……8個。買ったのは絵?それとも……(目を覆う)】

【お姉さん、私たちに隠し事しないなんて、やんちゃですね】

美月はページを閉じ、下唇を強く噛みしめて、涙を堪えた。

気にしないと思っていた。でも、写真の中の男の正体に気づいた瞬間、胸がひどく痛んだ。

彼女はそのコメントをスクリーンショットに残し、商品ページを削除した。

しばらくして、スマホにまた通知が届く。匿名アカウントが得意げに投稿していた。

【絵師さんの絵のおかげで、旦那の怒った顔が見られました。この感じだと、三人目もできちゃいそうです】

完全に目が覚めた美月は、その一文と写真を何度も繰り返し見つめた。目を閉じると、目尻から一筋の涙がすっとこぼれ落ちた。

彼女は立ち上がり、アトリエへ向かった。ここ数年は喘息の悪化で絵を諦め、この部屋も長らく使っていなかった。

だが、久しぶりに筆を手に取り、アクリル絵具のツンとした匂いの中、苦しみに耐えながら一筆ずつ丁寧に描いていった。

夜が明けるころ、最後の一筆を終えた瞬間、彼女は突然血を吐き、その飛沫がキャンバスの隅を濡らした。

鮮やかな赤は、ちょうど絵の中の桜の木に命を与えたようだった。

彼女はそれを額に収め、宅配業者に五日後、翔太のオフィスへ届けるよう依頼した。

シャワーを浴びてリビングに戻ると、ちょうど翔太が帰ってきたところだった。香水の匂いをまとった彼が抱き寄せようとしてきたが、美月は眉をひそめて身をかわした。

「その匂い、好きじゃない」

翔太の表情がわずかに曇り、慌てて言い訳をした。「昨夜は酔っててさ、デザインチームの女性に支えてもらったときについたんだと思う。気になるなら、すぐに洗い流すよ」

美月は何も言わず、そのまま階下へ向かおうとしたが、翔太は彼女の着ている服に気づき、手首を掴んだ。

「そんなにおしゃれして、どこへ行く?」

「映画。観に行くの」

美月は映画のチケットを見せた。

それは彼女が大好きな漫画家の映画だった。上映が決まったとき、翔太は「一緒に観よう」と約束してくれていた。

けれど、いざその日になると、毎回何かしらの理由で彼は来られなくなった。

当時は本当に仕事が忙しいのだと思っていたが、今となっては、たぶん白井麻衣(しらい まい)と子どもたちと過ごしていたのだろう。

今日は上映の最終日だった。

彼を待つつもりは、もうなかった。

「そういえば、一緒に観に行くって言ってたな」翔太は少し申し訳なさそうな顔で、優しく言った。「ちょっと待って。着替えてくるから、一緒に行こうか?」

これが、二人で観る最後の映画になる。

美月は翔太の瞳を見つめ、少し間を置いてから静かに頷いた。「……うん、いいよ」

映画館に着き、場内が暗くなる。スクリーンの柔らかな光が美月の頬を照らす。映画の音が流れ始め、光と影の織りなす幻想的な世界に、美月はしばし心を奪われた。

ふと翔太の方を見ようと横を向いた。彼はうつむき、スマホを操作していた。眉をひそめながら、メッセージを返信している。

美月の視線に気づくと、翔太はスマホをしまい、映画を見ようともせずに立ち上がった。「ちょっとトイレ」

どこへ、何のために行くのか。美月は分かっていた。それでも、彼のあとを追った。

シネマホールを出て廊下を進むと、翔太はベビーカーの赤ん坊の頬を撫で、麻衣の細い腰に腕を回し、長く唇を重ねていた。

「これで満足?キスまでしたんだし、もう駄々こねるな。早く子ども連れて帰れ。中に美月がいるんだから、見られないようにしろ」

麻衣は首に抱きついたまま、角の向こうに立つ美月をちらりと見て、勝ち誇ったように微笑んだ。

美月はその光景を見つめ、止まらぬ涙が頬を伝った。

胸が張り裂けそうに苦しく、立っていられず壁にもたれ、呼吸を整えてから席に戻った。

映画が終わるころ、翔太が戻ってきた。

「美月、顔色悪いな……泣いたの?」

心配そうに頬に触れ、涙の痕がくっきり残る目を見つめる翔太。

「映画が感動的だっただけ」

美月は淡々と答えた。

翔太は軽く笑いながら、指でそっと涙を拭った。

「美月は本当に涙もろいなあ。映画見て泣いちゃうなんて。お腹空いてない?食べたいものがあれば、予約するよ」

彼の満足げな顔を見て、先のことで美月はもう何も食べたくなかった。

けれど、麻衣のあの表情を思い出すと、やはりラストランの名前を返した。

翔太は彼女を喜ばせようと、レストランを貸し切り、お姫様抱っこで席まで運んだ。

ちょうどその場面を見た友人たちは、呆れたように口々に言った。

「まさか翔太とはね。派手すぎだろ」

「なにこれ、見てるだけで満腹だわ」

「お願いだから落ち着いてくれ。うちの嫁に見られたら、また比べられるじゃないか」

彼らの冷やかしにも翔太は返事もしなく、上着を脱いで美月の膝にかけた。「風邪ひくと困るからね」

数人の男は肩をすくめ、親指を立てて言った。

「翔太、まいったよ」

翔太は優しく笑った。「当然だ。俺の妻は姫君だからね。八十歳になってもお姫様抱っこしてやるよ」

それを聞いた美月は、唇の端をわずかに上げ、冷ややかに言った。「私が八十まで生きられるなら、ね」

彼女には、もう五日しか残されていなかった。

その言葉に、翔太は一瞬目を泳がせ、妙な胸騒ぎを覚えた。

そのとき、レストランの扉が開いた。黒のハイネックドレスに身を包み、宝石をこれでもかと散りばめた女が姿を現す。

翔太の視線がその女に向き、体がぴくりと固まった。

女は堂々とテーブルに近づき、明るい声で笑った。

「遅れてすみません、神谷社長。こちらが奥さんですね?」

美月は顔を上げ、目の前に立つ、艶やかな麻衣を見据えた。

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