Short
あの冬に葬られた愛

あの冬に葬られた愛

By:  人類補完計画Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
10Chapters
723views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

医師免許を不正な告発によって剥奪されたあと、私――中村美穂(なかむら みほ)は、辺鄙な田舎で教育支援ボランティアとして働くことにした。 学校が主催したチャリティ基金の感謝会で、私は何年ぶりかに元夫・桜井真言(さくらい まこと)と顔を合わせることになった。 真言はスーツを端正に着こなし、かつての無骨で貧しかった青年とは似ても似つかない、周囲から「若くして成功した桜井社長」と呼ばれる男へと変わっていた。 隣に、教育支援ボランティアの新人が、小声ながらも驚きを隠せずに囁いた。 「先輩、あの方……確か、先輩のお部屋で写真を見たことがあります。亡くなったっておっしゃってた、元ご主人じゃないですか?」 私は首を横に振り、声を落として答えた。 「見間違いよ。似ているだけ」 すると新人は、崇拝するような眼差しで感嘆した。 「そうなんですね。聞いたところによると、桜井社長の資産は数兆円規模らしいですよ。それに、いろいろ慈善活動もされているとか。本当に社会貢献に熱心な方ですよね」 私は目を伏せ、それ以上、何も言わなかった。 ええ、もちろん善人だ。 だって、あのとき私の違法医療行為を真っ先に証言し、私から医師である資格を永遠に奪ったのは――ほかならぬ彼なのだから。

View More

Chapter 1

第1話

医師免許を不正な告発によって剥奪されたあと、私――中村美穂(なかむら みほ)は、辺鄙な田舎で教育支援ボランティアとして働くことにした。

学校が主催したチャリティ基金の感謝会で、私は何年ぶりかに元夫・桜井真言(さくらい まこと)と顔を合わせることになった。

真言はスーツを端正に着こなし、かつての無骨で貧しかった青年とは似ても似つかない、周囲から「若くして成功した桜井社長」と呼ばれる男へと変わっていた。

隣に、教育支援ボランティアの新人が、小声ながらも驚きを隠せずに囁いた。

「先輩、あの方……確か、先輩のお部屋で写真を見たことがあります。亡くなったっておっしゃってた、元ご主人じゃないですか?」

私は首を横に振り、声を落として答えた。

「見間違いよ。似ているだけ」

すると新人は、崇拝するような眼差しで感嘆した。

「そうなんですね。聞いたところによると、桜井社長の資産は数兆円規模らしいですよ。それに、いろいろ慈善活動もされているとか。本当に社会貢献に熱心な方ですよね」

私は目を伏せ、それ以上、何も言わなかった。

ええ、もちろん善人だ。

だって、あのとき私の違法医療行為を真っ先に証言し、私から医師である資格を永遠に奪ったのは――ほかならぬ彼なのだから。

……

「先輩、桜井社長が来ましたよ!」

隣にいた新人、西崎雅子(にしざき まさこ)が興奮した様子で私の袖を引いた。

彼女が言い終わるより早く、懐かしいオーデコロンの香りをまとった影が近づいてきた。

「美穂」

真言の声は、記憶の中よりもずっと低かった。

私は顔を上げ、感情を押し殺したまま、静かに彼を見据えた。

私が口を開く前に、満面の笑みを浮かべた校長が割って入った。

「これはこれは、桜井社長。ご多忙のところご足労いただき、誠にありがとうございます。こちらが、本校で教育支援にあたっております、中村美穂先生でございます」

そして私のほうを向き、「中村先生、こちらが今回、多大なるご支援を賜りました桜井社長でいらっしゃいます。どうぞ、ご挨拶を」と促した。

私は立ち上がり、礼儀正しく、しかし距離を保ったまま軽く会釈した。

「桜井社長、ご挨拶申し上げます」

真言の表情が、一瞬だけ曇った。その背後で、秘書が何か言いかけたが、彼はそれを手で制した。

真言は雅子に、ミネラルウォーターのボトルを一本差し出した。

「ご苦労さま、西崎先生」

雅子は恐縮しながら受け取り、興奮のあまり、軽く眩暈を覚えている様子だ。

続いて真言は、もう一本のボトルを私に差し出した。その視線が、洗いざらして少し色褪せた私のシャツの上で、ほんの一瞬止まった。

「中村先生も、ご苦労さま」

「ありがとうございます、桜井社長。ですが、私は結構です」

空気が、ぴたりと凍りついた。

気まずさを察した雅子が、慌てて場を和ませようとした。

「先輩、せっかく桜井社長がお持ちくださったものですし……少しでも。今日は日差しも強いですから」

真言の視線は、私の顔から離れなかった。その瞳の奥には、私には読み取れない感情が渦巻いている。

結局、彼はペットボトルを、そっと私の隣の机に置いただけだった。

「……喉が渇いたときにでも」

彼は一瞬、言葉を切り、話題を探すように続けた。

「ここの子どもたちは素直だ。そして、あなた方のような先生方の存在を、本当に必要としている……」

「すみませんが、少し体調が優れないので、先に失礼して休ませていただきます」

私は彼の言葉を遮るように言った。もう、この男と関わりたくなかった。ただ、遠ざかりたかった。

「えっ、それは……」

校長が困惑の表情を浮かべた。

そのとき、真言が先に口を開いた。「お送りしましょう」

「結構です。自分で帰れます」

そう言い残し、私は背を向けて歩き出した。

その瞬間、手首をぎゅっと掴まれた。

「美穂……」

私は振り返らず、淡々と言い放った。「桜井社長、言動を慎んでください」

引き合う拍子に、彼が何かを私の手に押し込んだ。

私はその手を振り払い、その物は「カラン」と音を立てて床に落ちた。

それは車のキーだ。手作りの、色あせた稲穂飾りのキーホルダーがついている。

私は、思わず足を止めた。

背後から、苦しみを押し殺したような彼の声が届いた。

「美穂ちゃん……俺たち、こんなによそよそしくならなきゃいけないのか?」

「桜井社長、ご冗談を。私たちの関係は、とっくに終わっています」

そう言い切ると、私は彼の傍らをすり抜け、ざわめく会場を真っ直ぐ後にした。

背後で雅子がキーを拾い上げ、慌てて追いかけてくる。その声は抑えきれない興奮と戸惑いが入り混じった。

「先輩……これって……桜井社長って、もしかして……」

私は振り返らない。ただ静かに、田舎の凸凹した土道を歩く。

風が袖口をめくり上げ、手首に残る浅い傷跡が覗いた。まるで、眠っているムカデのようだ。

それをぼんやり見つめながら、ふと思い出す。

真言と離婚して、今年で五年目になる。

そして、彼のことを心底忘れたつもりでいたのも、三年目だった。

今あらためて振り返ってみても、想像していたような波瀾も、記憶に刻まれたヒステリーも、もうどこにもない。

暮れゆく空に、夕餉の煙が細く立ち上っていた。

私は袖を引き下ろし、職員宿舎の方へと歩いていった。
Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

reviews

松坂 美枝
松坂 美枝
まあ今更だよね… 主人公の名誉を失墜させた女と再婚して金持ちになって数年後に現れて復縁迫られても… 名誉を回復させたって失ったものは戻らないし… 雅子ちゃんのがよっぽど頼りになる
2026-01-10 10:37:50
0
0
eurynome.v.j.3618
eurynome.v.j.3618
そもそもクズ元夫が腐った藻屑か地面に落ちて濡れた枯葉の如く付き纏わなければ、主人公に今更迷惑がかかることもなかった。結婚していた間の事もだけど、別れてからまで主人公の平穏な生活を乱しておいて「俺が何とかする」ってマッチポンプかよ。
2026-01-10 11:04:01
0
0
10 Chapters
第1話
医師免許を不正な告発によって剥奪されたあと、私――中村美穂(なかむら みほ)は、辺鄙な田舎で教育支援ボランティアとして働くことにした。学校が主催したチャリティ基金の感謝会で、私は何年ぶりかに元夫・桜井真言(さくらい まこと)と顔を合わせることになった。真言はスーツを端正に着こなし、かつての無骨で貧しかった青年とは似ても似つかない、周囲から「若くして成功した桜井社長」と呼ばれる男へと変わっていた。隣に、教育支援ボランティアの新人が、小声ながらも驚きを隠せずに囁いた。「先輩、あの方……確か、先輩のお部屋で写真を見たことがあります。亡くなったっておっしゃってた、元ご主人じゃないですか?」私は首を横に振り、声を落として答えた。「見間違いよ。似ているだけ」すると新人は、崇拝するような眼差しで感嘆した。「そうなんですね。聞いたところによると、桜井社長の資産は数兆円規模らしいですよ。それに、いろいろ慈善活動もされているとか。本当に社会貢献に熱心な方ですよね」私は目を伏せ、それ以上、何も言わなかった。ええ、もちろん善人だ。だって、あのとき私の違法医療行為を真っ先に証言し、私から医師である資格を永遠に奪ったのは――ほかならぬ彼なのだから。……「先輩、桜井社長が来ましたよ!」隣にいた新人、西崎雅子(にしざき まさこ)が興奮した様子で私の袖を引いた。彼女が言い終わるより早く、懐かしいオーデコロンの香りをまとった影が近づいてきた。「美穂」真言の声は、記憶の中よりもずっと低かった。私は顔を上げ、感情を押し殺したまま、静かに彼を見据えた。私が口を開く前に、満面の笑みを浮かべた校長が割って入った。「これはこれは、桜井社長。ご多忙のところご足労いただき、誠にありがとうございます。こちらが、本校で教育支援にあたっております、中村美穂先生でございます」そして私のほうを向き、「中村先生、こちらが今回、多大なるご支援を賜りました桜井社長でいらっしゃいます。どうぞ、ご挨拶を」と促した。私は立ち上がり、礼儀正しく、しかし距離を保ったまま軽く会釈した。「桜井社長、ご挨拶申し上げます」真言の表情が、一瞬だけ曇った。その背後で、秘書が何か言いかけたが、彼はそれを手で制した。真言は雅子に、ミネラルウォーターのボトルを一
Read more
第2話
職員宿舎に戻ると、雅子が湯気の立つカップ麺を手に、そっと私のそばへ寄ってきた。「先輩……あの桜井社長と先輩って、いったいどういうご関係なんですか?あの方、先輩を見る目が違ってましたし、それに『美穂ちゃん』って呼んでましたよね……それから、あのキーホルダーの稲穂飾り……あれって、もしかして先輩のことですか?」私は答えず、窓の外に視線を向けた。校庭では、人の波が次第に散っていき、真言だけが、まるで彫像のように立ち尽くしているのが見えた。雅子は、会場で拾ってきた車のキーを、そっとテーブルの上に置いた。「先輩、この稲穂飾り……すごく丁寧に編まれてますね。もしかして、先輩の手作りですか?」私の視線は、すっかり色あせ、毛羽立ってしまった赤い稲穂飾りに落ちた。あれは、私が編み物を覚えたばかりの頃、何晩も徹夜して真言のために編んだものだ。まさか、彼が今まで大切に取っていてくれたなんて、思いもしなかった。あの頃、私は卒業して間もなく、市で一番評判のいい私立病院に就職したばかりだった。一方の真言は、友人たちと金を出し合い、小さなITベンチャーを立ち上げたばかりだった。だが会社は次々と壁にぶつかり、投資は集まらず、給料すら満足に支払えない。彼は毎日のように、四苦八苦していた。あの時期が、私たちにとっていちばん苦しかった日々だ。狭いアパートで身を寄せ合い、カップ麺一杯を分け合って食べた。焦りから口内炎を起こした真言の姿を見て、私は夜の貴重な休息時間を削り、こっそり編み物を習った。微力でも、彼の力になりたかった。指は赤い紐に擦れて真っ赤になり、痛みに悲鳴を上げそうになりながら、ようやく一つの稲穂飾りを編み上げた。あの日、投資家に断られて帰ってきた真言に、私はそれをそっと差し出した。「これ、あげる。これから、きっと良くなるから」真言は稲穂飾りを受け取り、擦りむいた私の指を見ると、目に涙を滲ませた。「美穂ちゃんがいてくれて……本当によかった」真言は私の首元に顔を埋め、声を震わせて言った。「いつか金持ちになったら、この世で一番いいものを、全部お前にやるよ」私は笑って、彼の背中を軽く叩いた。「そんなものいらない。あなたさえいればいい」あの頃、私たちは貧しくて、互いしか持っていなかった。だが、記憶の中では、あれがいちば
Read more
第3話
そんな日々に休止符が打たれたのは、ある雨の日だった。真言は雨に濡れ、すっかり見すぼらしい姿で病院を訪ねてきた。会社の最後のプロジェクトが頓挫し、共同経営者たちも皆、彼のもとを去ってしまったという。私は彼を休憩室へ連れて行こうとしたが、その途中で、病院の大株主の娘と鉢合わせた。タオルで彼の濡れた髪を拭いていると、可愛らしさの奥に傲慢さを滲ませた声が響いた。「あなたが『クラウドインタラクション』プロジェクトの桜井真言さん?父があなたの企画に興味を持っているみたい。明日、私のオフィスに来て、少し話を聞かせてくれない?」振り返ると、シャネルのスーツに身を包んだ女性が入口に立ち、興味深そうに真言を眺めていた。菅原千枝――この病院の筆頭株主の娘だ。そして、あの日を境に、すべてが変わり始めた。真言の会社は奇跡のように巨額の投資を獲得し、息を吹き返した。彼は急激に忙しくなり、帰宅は次第に遅くなった。身にまとっていたタバコと酒の匂いは、いつしかさまざまな女性用香水の匂いに変わっていった。一方で、私の病院での日々は、理由もなく居心地の悪いものへと変わっていった。千枝が、あからさまに私を狙い始めたのだ。たまには手術報告書の書式が違うと言い、たまには回診時の患者対応がなっていないと難癖をつけてきた。些細なことを針小棒大にしては上司に告げ口した。最初のうちは、真言も私を慰め、味方でいてくれた。だが、いつの間にか、彼は変わってしまった。その日も千枝が取るに足らないことで部長に告げ口し、私は事情を聞かれることもなく厳しく叱責された。悔しさに胸が詰まり、夜、家に帰って真言に愚痴をこぼした。すると彼は、いらだたしげに眉をひそめた。「美穂ちゃん、もう少し大人になりなよ。職場で多少の摩擦なんて普通だろ?相手はああいう立場なんだ。少しは折れてやればいいじゃないか」私は呆然とした。真言が、こんな口調で私に言葉を向けたのは初めてだった。私は悔しさで目に涙が滲み、「彼女が難癖をつけてきたんだよ!」と声を荒らげた。真言はため息をつき、口調を和らげたが、スマートフォンに視線を落としたまま、どこか上の空で言った。「わかった、わかった。彼女が悪いよ。でもさ、考えてみてくれ。彼女が他の人じゃなくて、お前にだけ難癖をつけてくるってことは……お前のほ
Read more
第4話
真言の帰宅はますます遅くなり、迎えに来てくれることもなくなった。会社に仕事が山のように積み上がっていて、どうしても抜けられない――彼はいつもそう言うだけだった。私の誕生日に、私は真言の好物を食卓いっぱいに並べ、朝日が昇る時から日が暮れるまで、ただひたすら彼を待ち続けた。だが、彼はその夜、帰ってこなかった。電話もつながらないままだった。真夜中を過ぎ、ようやく目にしたのは、千枝のインスタに投稿された一枚の写真だった。豪華なクルーザーの上で、セクシーなビキニ姿の千枝が、真言に絡みつくように寄り添っている。写真に添えられたキャプションは、こうだった。【ダーリン、誕生日サプライズを用意してくれてありがとう】そうか。千枝と私は、誕生日が同じ日だったのだ。真言の会社に乗り込み、その写真を突きつけても、彼は冷ややかな表情を見せた。「もういい加減にしろ。ビジネスパートナーだって、あれほど言っただろう?それでも俺を信じられないのか?」「ビジネスパートナーで、肉体関係まで必要なの!?」私は泣き叫び、スマートフォンを真言に向かって投げつけた。彼は避けることもなく、スマートフォンの角がこめかみをかすめて床に落ちた。一筋、血がにじんだ。「ああ、そうだ。千枝と付き合っている」「なぜ?」「俺が欲しいもの、千枝が全部くれた。でも、お前はそれができない」真言は私を見据え、一語一語を突き刺すように、容赦なく言い放った。「美穂ちゃん、お前を愛している。だが、愛だけでは人は生きていけない。もう、人に頭を下げるような生活はごめんだ」私は発狂するかと思っていたが、そうはならなかった。ただ静かに彼を見つめ、離婚を切り出した。「離婚なんてしないよ」真言は私の手を掴み、哀願の色を滲ませた口調で言った。「美穂ちゃん、もう少しだけ時間をくれ。会社が安定したら、千枝とは断つ。お前は永遠に俺の妻だ。それだけは変わらない。約束する。千枝が持つものは、お前にも与える」妻?彼は、私を何だと思っているのだろう。都合のいい予備の女か?だが、私を待っていたのは、真言の謝罪ではなく、千枝の露骨な挑発だった。ある日、患者の診察をしていると、千枝がわずかに膨らんだ腹部を突き出し、診察室へ押しかけてきた。彼女はエコー写真と婚姻届受理証明書
Read more
第5話
雅子は私を見て、次に真言を見やると、困惑した表情を浮かべていた。夜の闇の中で、真言の顔は半分が影に沈み、その表情ははっきりとは読み取れない。「美穂ちゃん、俺……」「桜井社長、こんなことをしていて、奥さんは怒らないんですか?」私は彼の言葉を遮った。声は穏やかだった。だが、「桜井社長」と呼ばれたことで心を突かれたのだろう。真言は花束を抱えた手に力を込め、きつく握りしめた。「二人で話せないか」私は少し身を引き、彼を部屋の中へ入れた。雅子は察したように適当な口実を作り、足早に出て行った。部屋には私と真言だけが残り、空気は息苦しいほど重く沈んだ。真言は花束をテーブルに置いた。濃厚な香りが瞬く間に狭い空間を満たし、私は思わず胸の奥がむかついた。「まだ、アイリスが好きなんだな」言葉を探るように、真言が口にする。「別に。好きとも言えないし、嫌いでもないです」真言は黙り込んだ。しばらくして、ようやくぎこちなく口を開いた。「美穂ちゃん……昔のことは、俺が悪かった。そのときは……名声と利益に、目がくらんでいた」私は彼を見つめ、ふと可笑しくなった。たった一言の「悪かった」で、すべての傷が消えるはずがない。「もし桜井社長が、それを言いに来ただけなら、もう結構ですよ」私はドアの方を指さした。「出て行ってください」私の冷淡さは、明らかに真言の予想を超えていた。彼は一歩踏み出し、私の手を掴もうとする。「美穂ちゃん、お願いだから話を聞いてくれ。千枝とは、とっくに関係を切った。今、離婚手続き中なんだ」「あら、そうですか。それはおめでとうでございます」「今回は、お前のために来たんだ。わかってるよ、昔の俺はクズだった。すぐに許してくれとは言わない。ただ……償わせてくれないか?」「償う?」私はその言葉を繰り返し、ただひどく馬鹿らしく感じた。「桜井社長は、どう償うつもりですか?また偽の証明書を作って、私を不倫相手にするつもりですか?」真言の顔は瞬時に青ざめ、唇が震えたが、言葉は出てこなかった。そのとき、廊下の奥からハイヒールの音が、遠くから次第に近づいてきた。次の瞬間、ドアが「バン」と勢いよく開く。千枝が立っていた。高価なスーツに身を包み、化粧は完璧だが、目には怒りが満ち
Read more
第6話
千枝は、ここまで真っ向から突き返されたことがなかったのだろう。一瞬、呆然と立ち尽くした。「離して!」だが雅子は放さなかった。むしろさらに力を込めた。千枝は歯を食いしばり、痛みに顔を歪めた。「警告するよ。さっさと出て行きなさい。でなきゃ警察に通報するから!」雅子は、雛を守る親鳥のように、異様なまでの戦闘力を発揮していた。それまで黙っていた真言が、ついに動いた。彼は前に出て千枝をぐっと後ろへ引き寄せ、冷え切った声で言った。「もういい加減にしろ」千枝は真言を見ると、再び気勢を取り戻し、私と雅子を指さした。「真言、中村を庇うの?」そして私に向き直り、吐き捨てるように言った。「あんた、いったい何をした?どうして真言がこんなに私と離婚したいの!」「私は何もしてない」私は冷たく言い放った。「もう一度言うわ。あなたの夫のほうから、私にしつこく付き纏ってきたのよ」雅子もすかさず加勢する。「そうだよ!この人がしつこく、うちの美穂先輩に絡んできたの」真言の顔色は、見るからに悪かった。千枝を見つめるその目には、はっきりと嫌悪が浮かんでいる。「お前は帰れ」「嫌よ!真言、今日ははっきり言って。この女と、いったいどういう関係なの!」「帰れって言ってるだろ!」真言の声が、突然大きく響いた。その怒声に千枝は身を震わせ、瞬く間に涙を浮かべながら、顔を不満で歪めた。彼女は私を睨みつけ、無言のまま「覚えておきなさい」と目で言い残すと、ハイヒールを鳴らしながら、怒りを孕んだまま去っていった。真言は疲れ切った様子で眉間を揉み、私のほうを見た。「ごめん、美穂ちゃん。彼女はああいう性格で、周りに甘やかされて育ったんだ。もう二度と、お前に迷惑をかけないよう言い聞かせる」私は彼を見て、ひどく皮肉な気持ちになった。「桜井社長。あなたの家庭の揉め事には興味がないです。もう帰ってください」真言はその場に立ち尽くしたまま、動かなかった。「美穂ちゃん……俺が何を言っても信じないだろうけど、今回は本気だ。千枝とは離婚する。昔、お前への借りは、全部返していく」借りを返す?壊された私の人生や、失った夢を、彼は何で償うつもりなのか。「真言、ここを出て行って。もう、あなたには会いたくない」そう告げる
Read more
第7話
私がオフィスを出ると、日差しがあまりにも眩しく、目の奥がじんと痛んだ。町の入口で井戸端会議をしていた数人の婦人たちは、私の姿を認めるや否や、露骨に目つきを変えた。ひそひそと交わされる声は、大きすぎず小さすぎず、意地悪なほどはっきりと私の耳に届く。「たぶん、あの人だよ。都会で不倫してて、その相手がここまで追いかけてきたって話だろ」「見た目はまじめそうな娘なのにねえ。不倫だなんて」「なるほどね、顔つきからしてどこか妖しいところがあるもの」まるで五年前に引き戻されたかのように、世界から切り離されていたあの絶望が、生々しくよみがえった。胸の奥を巨大な岩で押さえつけられているようで、息が詰まる。噂は、小さな町の中で瞬く間に広がっていった。人から人へ伝わるたび、話は雪だるま式に誇張されていく。ある者は、私が大物社長に囲われており、教育支援に来たのはただの余興にすぎないのだと言った。またある者は、私が他人の家庭を壊したせいで行き場を失い、正妻に殴られて仕事にも行けなくなったから、ここへ転がり込んできたのだと言った。さらにひどいことに、男女関係がだらしなく、尻の軽い女だと私を罵る者まで現れた。雅子は怒りを抑えきれず、その場に飛び出し、口やかましい婦人たちに真っ向から食ってかかった。「あなたたち、でたらめを言わないでください!先輩は、そんな人じゃありません!」だが、その声もすぐに大勢の罵声にかき消された。「小娘に何が分かるっていうんだい。私たちはちゃんと見たんだよ」「そうだそうだ。あの夜、高級車に乗った女が乗り込んできて、大騒ぎになったじゃないか」「火のないところに煙は立たないって言うだろう。何もなけりゃ、あんな騒ぎになるはずがない」雅子は腹が立って顔を真っ赤にした。帰ってくると、私に抱きつきながら声を上げて泣いた。「先輩、どうしてみんな、あんな無責任なことが言えるんですか!だめです、みんなに真実を説明しなきゃ。先輩が濡れ衣を着せられるなんて、ダメです!」私は雅子の手をそっと引き、静かに首を横に振った。「無駄だよ、雅子。野次馬にとって、真実が何かなんて重要ではないわ」噂というものの重さを、私は誰よりもよく知っている。あの頃、私も同じように数えきれない非難を浴び、言い訳ひとつできなかった。
Read more
第8話
ドアは、私の目の前でゆっくりと閉まった。私と彼の世界は、完全に隔てられた。私はドアにもたれかかり、全身から力が抜け落ちていくのを感じていた。真言が去って三日目、私はいまだ停職のままだった。雅子は慌てふためきながら、毎日私のために奔走し、必死に疑いを晴らそうとしてくれていた。町の掲示板には、彼女の手で書かれた大きな張り紙まで貼られ、その夜に起きた出来事が事細かに説明されていたほどだ。だが、効果はほとんどなかった。噂というものは雑草のようなもので、一度根を張れば、容易には引き抜けない。その日の午前、部屋で本を読んでいると、階下から突然、校長の声が響いた。「中村先生!中村先生、早く降りてきてください!」訳も分からぬまま階段を下りると、庭はすでに人で埋め尽くされていた。校長や学校の同僚たち、そして好奇心に駆られた村人たちもいた。その人垣の中央に、二人の人物が立っていた。真言と、不機嫌さを隠そうともしない千枝だった。千枝の顔色はひどく悪く、丹念に施された化粧の下からも、疲労と怨嗟が滲み出ていた。私の姿を認めると、彼女はぎろりと鋭く睨みつけてくる。一方、真言の視線は、私が現れた瞬間から一度も逸れることなく、私に釘付けだった。真言は一歩前に出ると、衆目の前で深々と頭を下げた。「美穂、ごめんなさい」場内は一瞬で騒然となり、あまりの唐突さに、誰もが呆然と立ち尽くした。真言は背後にいた千枝を引き寄せ、肩を押さえつけるようにして、無理やり頭を下げさせた。「謝れ」千枝の体は硬直し、唇を強く噛みしめたまま、言葉を発しようとしない。「謝れって言ってるんだ!」真言が声を荒らげ、腕に力を込めると、千枝の顔が苦痛に歪んだ。村人たちがざわめき始めた。「どういうことだ……桜井社長が中村先生に頭を下げてるなんて」「あの女、中村先生が不倫相手だって言ってたじゃないか。それが、今さら謝罪だと?」無数の視線と真言の圧力に晒され、千枝はようやく顔を上げた。真っ赤に充血した目で私を睨みつけ、歯の間から言葉を絞り出した。「……ご、ごめんなさい」その声には、屈辱と憎悪が濃く滲んでいた。それでも真言は満足せず、周囲を見渡し、朗らかな声で口を開いた。「皆さん、先生方。本日は、最近流布している中村美穂先生に関する噂
Read more
第9話
あの公開謝罪の後、千枝は完全に姿を消した。一方で、真言はまるでこの学校に根を下ろしたかのようだ。彼はスーツから普段着に変え、毎日のように学校へ顔を出しては敷地内をうろつくようになった。そして、新しいコンピュータを寄付したり、業者を呼んでグラウンドを補修させたりした。子どもたちは彼を慕い、「桜井さん、桜井さん」と取り囲む。教師たちも口を揃えて彼を称賛し、「心の温かい篤志家だ」と持ち上げた。それがすべて、私に見せつけるための演出だと分かっているのは、私だけだった。私の授業が終わる時間を見計らい、熱いお茶を手に職員室の前で待っていたり、私が宿題の採点に集中している隙を狙って、そっと机の上に昼食を置いたりもした。調理室の手伝いまで覚えようとして、かえってキッチンをめちゃくちゃにしてしまったことさえあった。真言は不器用なやり方で私の機嫌を取ろうとし、こうした取るに足らない些細な行為で、骨の髄まで染み込んだあの傷を埋め合わせようとしていた。しかし、私の胸に残るのは、ただの虚しさだけだった。彼が届けてくるものは、そのまま返した。声をかけられても、私は聞こえないふりをした。彼をまるで空気のように扱い、徹底して無視し続けた。雅子は、真言が日に日に苦い表情を浮かべているのを見て、ひそかに溜飲を下げていた。「先輩、さすがです!あんな男、そうやって扱うのが一番ですよ。聞いた話ですけど、あの千枝って女、気が触れたみたいに家で泣き叫んで、桜井の会社に押しかけて物を壊したらしいです。それに、菅原家の会社も今回のスキャンダルで株価が大暴落して、もう持たないとか」私はその話を聞いても、心に何の波紋も立てず、ただ小さくうなずいた。すでに、すべてが私とは無関係だ。ある日、私は子どもたちを連れて校庭で遊んでいた。真言がまた姿を現し、少し離れた場所に立ったまま、黙って私たちを見守っていた。そのとき、一人の子どもが不意に転び、膝を擦りむいてワンワン泣き出した。私は慣れた手つきで携帯している救急キットを取り出し、傷口を消毒してからバンドエイドを貼ってやった。「はい、もう泣かないよ。男の子なんだから、強くならなくちゃね」子どもはすすり泣きながらもこくりとうなずき、再び友だちの輪へ戻っていった。私が道具を片付けて振り
Read more
第10話
彼の顔は苦痛に歪み、懇願の色が色濃く浮かんでいた。「真言……もうやめてください。意味がないです」「意味がないなんて、どうしてだ?」彼は必死に訴えた。「美穂ちゃん、俺が悪かった。本当に反省してるんだ。もう一度だけチャンスをくれ。また昔みたいに、二人でやり直そう。な?」「昔に戻るですって?」私は乾いた笑みを浮かべた。「もう戻れないです。私が世間から後ろ指をさされ、誰よりも真言を必要としていたあの時に見捨てられました。まさにその瞬間に、私が愛した桜井真言は死にました」一瞬にして血の気を失った彼の顔を見つめ、私は言葉を重ねた。「今さらあなたがしていることなんて、ただの自己満足です。自分を慰めるための気休めに過ぎません。私を傷つけたと後悔しているんじゃありません。大切なものをその手で壊してしまった愚かな自分に、耐えられないだけでしょ。あなたが愛しているのは私じゃないです。死ぬまで愛を誓い、何があっても決して離れないと誓った、あなたの空想の中にいる中村美穂です。でも、その女ももう死にました。五年も前に、あなたに奈落の底へ突き落とされたあの日に」私はポケットから車のキーを取り出すと、色褪せた稲穂結びのキーホルダーごと、彼の手のひらに押し付けた。「これも、あなたと一緒に過去に置いていくべきです」真言の手を振りほどき、私は一度も振り返ることなく校庭を横切った。それきり、真言が学校に姿を見せることはなかった。後から聞いた話では、真言は戻るなり千枝に離婚を突きつけたらしい。千枝はそれを受け入れず、泣き喚いては自殺を仄めかすなど、家は修羅場と化したという。しかし真言は動じず、別居に踏み切ると、彼女のクレジットカードをすべて停止した。かつてはあれほど高慢だった菅原家の令嬢も、真言という庇護と資金源を失い、一夜にしてどん底に落ちた。千枝は日に日に短気で怒りっぽくなり、ヒステリーを起こすようになった。ある時は真言の会社に乗り込んで大騒ぎし、警備員につまみ出されて大恥をかいたとも聞いた。千枝はもはや正気ではなかった。それから数ヶ月が経った頃、雅子が意味ありげな顔で教えてくれた。千枝が傷害罪で実刑判決を受けた。警察に通報したのは真言自身だ。千枝が過去に犯した違法行為の証拠も、すべて彼が提出したらしい。
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status