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第3話

Author: 夕日
「里香はわざと押したわけじゃないわ」

美月の演技はお粗末なものだったが、孝之はそれでもその言葉を信じ切っていた。

あるいは……孝之は最初から、私なんて一度も信じていなかったのかもしれない。

孝之は美月を抱きしめ、私を見るその瞳には怒りの色が混じっていた。

「里香、どうして美月にそんなに冷たいんだ?美月がうつ病を患っていることくらい知ってるだろ。

どうしてわざわざ、そんなことで美月を追い詰めるんだ」

美月をなだめるため、孝之は私に彼女のネックレスを探してこいと命令した。妊娠中であることなどお構いなしに、大勢の面前で私をプールへ突き落としたのだ。

プールサイドにいた連中が勝手なことを言っているのが、耳元で反響した。

「やっぱり、丸山さんは今でも上野さんが好きなんだよ。今の奥さんが付きまとわなかったら、結婚なんてするわけなかったもんな」

「裏話を聞いたぜ。丸山さんは奥さんのことを単なる替え玉にすぎないと思ってたらしい。正真正銘の相手が戻ってきた今、代わりなんて誰も構うはずないよな」

「丸山さん、上野さん以外と結婚しないって誓ってたし」

プールに沈むたび、凍えるような冷たさが体中の感覚を奪っていった。

ふと、孝之から告白されたあの日を思い出した。

私のために、孝之が一生懸命にお守りを手に入れてきてくれたあの日。

孝之がマラソン大会に出場して、勝った時のメダルを私にくれたこと。

一生大切にする、死ぬまで守ると言ってくれた、あの一言。

私は孝之の心の中での優先順位さえ塗り替えれば、いつか美月を超えられると信じて、ひたむきに彼を愛し続けた。

でも結局、何もしなくても勝てる人間がいるというだけの話だった。

今思えば、本当に惨めだ。

引き上げられた時、冷え切った私に誰かがコートを羽織らせてくれた。

「冷えるだろう。気をつけな」

薄暗い光の中だったけれど、すぐに分かった。

安西宏介(あんざい こうすけ)だった。

私たちは幼い頃から一緒に育った幼馴染だった。将来は同じ江原大学に行き、立派な医者になろうと約束していた仲だ。

いつからか連絡が途絶えていた。宏介が医者として大成したと聞く一方で、私は3年前の事故で、手術台に立つ資格さえ永遠に失ってしまっていた。

孝之の姿はなく、私は久々に、何とも言えない恥ずかしさを感じていた。

夢を捨て、逃げるように消えてしまった私を宏介に咎められるのが怖かった。

そして、消えた理由を答えることも。

しかし、宏介は病院に連れて行くと、じっと私を見つめたままで何も言わなかった。

「里香……」

「たかがネックレスを探すくらいで風邪引くなんて、情けないやつだな」

宏介の言葉を孝之が遮り、宏介の手から薬を取り上げてポケットにねじ込んだ。

孝之の目には、猛烈な怒りが宿っていた。

「妻の面倒は、他人の安西さんがしゃしゃり出る幕じゃない」

帰りの車の中、孝之はイライラしているようだった。

助手席で美月が眠っていて、孝之は私が愛用していたブランケットを丁寧にかけてやった。

私たちは何も話さなかった。というより、とっくに話すことなんて残されていなかったのかもしっれない。

家に帰って、初めて現実を知ることになる。

孝之が、美月のために私の福ちゃんを、誰かにあげてしまっていたことを。

どこを探してもいない福ちゃん。そしてゴミ箱の中には、昨夜テーブルの上に置いていた離婚協議書が引き裂かれて捨ててあった。

それは、昨日のうちに準備していたものだ。

孝之の方が先に、私の、いや私たちの猫のことを口にした。

まるで大したことじゃない、といった口調で。

「美月が猫アレルギーでね。もう誰かにもらってもらったから。

安心しろ。君よりもずっとちゃんとした飼い主だ」

私は呆然と立ち尽くし、心底ぞっとした。

「今なんて言ったの?」

福ちゃんは、3年前の大雨の中で凍えそうになっていた野良猫だった。

私が江原市中のペット病院を駆け回り、今夜がヤマだと言われても諦めきれなかった子だ。

葬儀の手配さえ考えていた福ちゃんが奇跡的に助かり、今はこんなに立派で可愛い猫になったというのに。

孝之はタバコをふかして、無表情のままこの話題を終わらせた。
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