Share

月明かりの下でさよならを
月明かりの下でさよならを
Author: キャンディーとても甘い

第1話

Author: キャンディーとても甘い
笠原南雄(かさわら みなお)と付き合い始めて五年目。

門司茜(もんじ あかね)は密かに婚約指輪を買い、勇気を振り絞って彼にプロポーズするつもりだった。

しかし運悪く、その日、パーティーに数分遅れてしまった。

ちょうど彼が友人と話しているのを耳にした。

「お前、周防希枝(すおう きえ)のために茜と五年も付き合っただけでも十分なのに、今度は彼女と結婚までしようって?正気か?」

南雄の声は冷ややかだった。

「希枝が幸せになれるなら、愛していない相手と結婚することだって厭わない」

だが、今回は茜は騒ぎ立てなかった。

……

「お母さん、私、縁談を受けるわ」

明かりの灯っていないリビングに、茜の声が幽かに響いた。

はっきりと聞き取れる口調でありながら、その響きには底知れぬ虚ろと荒れが漂っていた。

電話の向こうで、母の理子(りこ)はわずかに息を呑んだままだった。

「茜、本当に決めたの?

私もお父さんも、あの彼氏と結ばれてほしいって思っていたけれど、あれほど何度も招待しても彼は一度も会いに来ないじゃない。茜、あの人は良い人じゃないのよ」

茜は答えず、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。

暗闇に浮かぶ寂しげな姿は、ますます細く頼りなく見え、弱い風でも吹けば倒れてしまいそうだった。

理子の声はやわらぎ、まるで幼い頃、茜が傷ついたときにあやしていたあの声音になる。

「茜、今はつらいだろうけど、それでも日々は前に進まなきゃならないのよ。縁談の相手は周藤家の次男、周藤承平(すとう しょうへい)さん。商界でも名高い家柄だし、彼自身も見た目が良く、若くして医学界で頭角を現している人よ」

茜の目は空虚なまま、前方を見据えていた。

耳に届く言葉は何一つ心に入らず、思考はまだ南雄の裏切りに囚われている。

かつての甘い誓いは、今や最も残酷な嘲笑となっていた。

「お母さん、あなたたちが安心できるなら、誰と結婚しても同じよ」

その声音には一片の波立ちもなく、まるで凍りついた水面のようだった。

理子の胸に鋭い痛みが走り、涙が目に滲んでいる。

「馬鹿な子……私たちはただ、あなたに幸せになってほしいだけ。周藤さんなら、時間が経てばきっと好きになれるかもしれないわ」

茜は「うん」とだけ答えた。

「そうだわ、帰ってきたらあの笠原先輩にちゃんとお別れを言いなさい。この南城市で暮らせたのも、彼のおかげなんだから。結婚するときは、必ず招待して祝い酒を飲んでもらわないと」

茜は一瞬黙し、それから低く答えた。

「駄目よ。あの人は、その祝い酒を飲めない」

別れを告げる?結婚式に招待する?

心の中で茜は苦く笑った。なんて皮肉なことか。

電話を切った直後、玄関からかすかな物音がした。

すぐにリビングは明るい光に包まれた。

家にいる茜を見つけ、南雄は一瞬驚き、その後、満面の笑みを浮かべた。

彼は足早に近寄り、いつものように茜をそっと抱き寄せ、柔らかく問いかけた。

「うちの茜ちゃんを怒らせたのは誰だ?」

そう言いながら、首筋に頬をすり寄せ、口づけようとした。

茜はわずかに顔をそらし、その仕草をかわし、無表情で言った。

「お酒臭いわ。先にシャワーを浴びてきて」

南雄は茜の頬を軽くつまみ、笑みを浮かべて答えた。

「はいはい、姫のご命令だ。じゃ俺、ピカピカに洗ってまいります」

浴室へ向かいかけた彼は、ふと思い出したように足を止め、興味深げに尋ねた。

「そういえば、誰に祝い酒を飲ませるって?誰かの結婚式のことか?」

私のだ。

心の中でそう呟きながら、口では淡々と答えた。

「誰でもない、身内よ」

その言葉を聞き、南雄の眉間のしわはすぐに消え、再び軽やかな表情に戻った。

「そうか。じゃあ、俺たちが結婚するときは、皆呼ぼうな」

遠ざかっていく背中を見つめ、茜の口元にかすかな苦笑が浮かんだ。

真実が明らかになった瞬間、かつての甘さも愛も、跡形もなく消え去った。

残ったのは、果てしない痛みと絶望だけ。

もう、結婚することはない。

テーブルの上で、突如として振動音が響いた。南雄のスマートフォンだった。

覗くつもりはなかった。

だが、立ち上がった拍子に、ふと目に入ったその画面に、見覚えのあるアイコンと「ONLY」という目立つ登録名があった。

しかも、その相手は茜のLINEの友だちリストにも存在していた。

画面に浮かんだ新着メッセージに、視線が吸い寄せられた。

【南雄、彼はもう私のことを要らないの。希枝には、もうあなただけ】

その瞬間、冷たい電流が全身を走った。

手足の感覚が失われ、呼吸が少し遅れ、頭は真っ白になった。

やがて、南雄が浴室から出てきた。

茜はウォーターサーバーの前で、機械のようにコップに水を注いでいた。

手が震え、水はこぼれそうになっている。

南雄は何気なくスマートフォンを手に取った。次の瞬間、顔色は一気に蒼ざめ、瞳には緊張が浮かんだ。

彼はためらうことなく寝室へ駆け込み、慌てて上着を羽織っている。普段は几帳面な彼が、このときばかりはボタンを掛け違えていることにも気づかなかった。

彼が足早にドアのところまで歩いて行ったとき、ようやくテーブルのそばでずっと一言も発せずに立っていた茜のことを突然思い出したようだった。

「茜、これから手術があるんだ。ちょっと行ってくる」

茜は平静な笑みを浮かべた。

「ええ、行ってらっしゃい」

彼は芝居を続け、希枝のもとへ急ぐ。ならば、自分も最後までこの芝居に付き合ってやろう。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 月明かりの下でさよならを   第17話

    承平の温かく、そして安心感に満ちた腕の中に包まれ、茜は彼にしっかりと寄り添っていた。この瞬間、茜の心は未来への憧れと喜びで満ちていた。彼女は知っていた。自分と承平の美しい未来は、まるで昇り始めた朝日と同じように、いま幕を開けたばかり。希望と無限の可能性にあふれているのだと。これからの日々は、きっと、いつも笑顔で、すべてが思い通りになる。……後日談1一年後。茜は、自分が新しい命を授かったことに気づき、驚きと喜びで胸がいっぱいになった。その知らせを聞いた承平は、茜を抱き上げて何度も回り、なかなか手を離そうとしなかった。茜は驚いて声をあげた。「きゃっ!」すると、承平は彼女の小さな顔を両手で包み、何度も何度もキスをした。「本当に……よかった。結局巡り巡って、こうして君に出会えた。本当に……よかった」茜は目を細めて笑った。「愛してる」その言葉を聞いた瞬間、承平は一瞬きょとんとし、次の瞬間には目が赤くなった。彼女が初めて、自分に「愛してる」と言ってくれたのだ。彼の茜が、ついに心を完全に開いてくれた。妊娠中の茜を、承平はこれまで以上に大切に扱った。まるで雛を抱く親鳥のように、些細なことにも息を詰めるほど細心の注意を払った。彼は多くの仕事を断り、検診は一度も欠かさず付き添った。さらに料理まで学び、彼女のために栄養たっぷりの食事を用意した。十ヶ月後、生まれた小さな周藤家の赤ちゃんは、目元は承平にそっくりで、笑顔は茜を思わせる愛らしさを持っていた。承平はその子を抱き、初めて父となった喜びと優しさで目を細めた。茜はベッドの上からその光景を見つめ、胸いっぱいの幸福を感じた。これからの日々、この小さな命が、二人の家庭にもっと多くの笑顔と甘やかさをもたらすだろう。そして彼らの幸福な物語は、子どもの成長とともに、永遠に続いていくのだ。後日談2薄暗い病室で、南雄は病床に横たわり、消毒液の鼻を刺す匂いと、長年の酒とタバコが染みついた腐敗のような臭気に包まれていた。痩せ細り、骨と皮だけの体。かつての整った顔立ちはやつれ果て、深く落ち込んだ眼窩には絶望と虚無が漂っている。末期の胃癌による痛みは、まるで悪魔のように彼の身体をむしばみ、一呼吸ごとに拷問を受けているかのようだった。だが

  • 月明かりの下でさよならを   第16話

    絶望の叫び声が、この静まり返った部屋に虚しく反響した。しかし、それはもはや茜の心を動かすことはなかった。南雄は狂気に陥ったかのように、両眼を血走らせ、絶望と無念を湛えた視線を浮かべ、口の中で何度も繰り返し呟いた。「もうすぐ俺たちは結婚するはずだったのに……あとほんの少しだったのに……どうしてこんなことになったんだ!どうしてだ!」そう言うと、彼は狂ったように拳を振り上げ、地面を何度も何度も力任せに叩きつけた。「ドン、ドン」という音が静寂の中に響き渡り、その一撃、また一撃が、彼の胸の奥底に渦巻く無限の後悔と痛苦を吐き出しているかのようだった。彼は胸を引き裂くように泣き、絶望、自責、そして茜を失う恐怖がその涙に混ざり合い、溢れ出した涙は堤防が決壊した洪水のように頬を伝って流れ落ち、眼前の床を濡らしていった。しかし、茜の表情にはかけらの哀れみも、心の揺らぎも見られなかった。彼女はただ一瞥、その混乱と絶望に満ちた光景を見やると、きっぱりと顔を背け、二度と南雄を見ることはなかった。彼女はそっと承平の腕に手を添え、互いに目を合わせる。二人は以心伝心のように小さく頷き、そして一度も振り返ることなく、確かな足取りでその場を後にした。残されたのは、空っぽの部屋に響き続ける南雄の悲痛な泣き声だけであり、茜はすでに、承平と共に歩む幸福な未来へと、揺るぎなく進み始めていた。数ヶ月の時が流れた。承平と過ごす甘やかな日々の中で、茜の生活は次第に穏やかさを取り戻し、南雄との過去の因縁も、次第に遠い記憶の彼方へと消えていった。ある日、何の変哲もない午後。茜のスマートフォンに、見知らぬ番号から一通のメッセージが届いた。開いてみると、それは一本の動画であった。画面の中には、血の気が失せた顔に決意の色を宿した南雄が映っている。彼は手に固く金槌を握りしめ、その目は狂気と絶望で満ちていた。次の瞬間、彼は何のためらいもなくその金槌を振り上げ、自らの誇りであった――手術台で幾多の奇跡を生み出してきた両手を、容赦なく打ち砕いた。鈍い衝撃音とともに、その両手は惨たらしい姿で砕け、瞬く間に鮮血が噴き出し、床を赤く染め上げた。不意を突く血生臭く狂気じみた光景に、茜は目を見開き、息を呑んだ。だが、その視界を遮るように、大きな手が彼女の目を覆い、これ以上

  • 月明かりの下でさよならを   第16話

    絶望の叫び声が、この静まり返った部屋に虚しく反響した。しかし、それはもはや茜の心を動かすことはなかった。南雄は狂気に陥ったかのように、両眼を血走らせ、絶望と無念を湛えた視線を浮かべ、口の中で何度も繰り返し呟いた。「もうすぐ俺たちは結婚するはずだったのに……あとほんの少しだったのに……どうしてこんなことになったんだ!どうしてだ!」そう言うと、彼は狂ったように拳を振り上げ、地面を何度も何度も力任せに叩きつけた。「ドン、ドン」という音が静寂の中に響き渡り、その一撃、また一撃が、彼の胸の奥底に渦巻く無限の後悔と痛苦を吐き出しているかのようだった。彼は胸を引き裂くように泣き、絶望、自責、そして茜を失う恐怖がその涙に混ざり合い、溢れ出した涙は堤防が決壊した洪水のように頬を伝って流れ落ち、眼前の床を濡らしていった。しかし、茜の表情にはかけらの哀れみも、心の揺らぎも見られなかった。彼女はただ一瞥、その混乱と絶望に満ちた光景を見やると、きっぱりと顔を背け、二度と南雄を見ることはなかった。彼女はそっと承平の腕に手を添え、互いに目を合わせる。二人は以心伝心のように小さく頷き、そして一度も振り返ることなく、確かな足取りでその場を後にした。残されたのは、空っぽの部屋に響き続ける南雄の悲痛な泣き声だけであり、茜はすでに、承平と共に歩む幸福な未来へと、揺るぎなく進み始めていた。数ヶ月の時が流れた。承平と過ごす甘やかな日々の中で、茜の生活は次第に穏やかさを取り戻し、南雄との過去の因縁も、次第に遠い記憶の彼方へと消えていった。ある日、何の変哲もない午後。茜のスマートフォンに、見知らぬ番号から一通のメッセージが届いた。開いてみると、それは一本の動画であった。画面の中には、血の気が失せた顔に決意の色を宿した南雄が映っている。彼は手に固く金槌を握りしめ、その目は狂気と絶望で満ちていた。次の瞬間、彼は何のためらいもなくその金槌を振り上げ、自らの誇りであった――手術台で幾多の奇跡を生み出してきた両手を、容赦なく打ち砕いた。鈍い衝撃音とともに、その両手は惨たらしい姿で砕け、瞬く間に鮮血が噴き出し、床を赤く染め上げた。不意を突く血生臭く狂気じみた光景に、茜は目を見開き、息を呑んだ。だが、その視界を遮るように、大きな手が彼女の目を覆い、これ以上

  • 月明かりの下でさよならを   第14話

    男の顔は紙のように真っ白で、血の気が一切なく、今にも倒れそうなほどふらついていた。次の瞬間、「ガシャーン」という鋭い音が響き、南雄の手に握られていたワイングラスが床に叩きつけられ、ガラスの破片が四方に飛び散った。まるで制御不能の獣のように、彼の両目は血走って、その瞳には一切を顧みない狂気が宿っていた。周囲の人々が反応する間もなく、彼は一切お構いなしに赤いバージンロードへと突進してきた。「茜!」声を張り裂くように叫び、その声には果てしない絶望と悔しさが滲んでいた。「彼に嫁ぐな!」その叫びは、静かで厳かな結婚式の会場に反響し、一瞬で全ての調和と静寂を打ち砕いた。茜の胸がきゅっと締め付けられる。彼の絶叫は式場の空気を震わせ、招待客たちの視線を一斉に引き寄せた。人々は驚きと困惑を隠せず、この異様な光景へと顔を向けた。混乱の中、屈強な警備員たちが素早く動いた。数歩で南雄を取り囲み、有無を言わせず腕を取り、あっという間に式場の外へと引きずり出した。扉の外に押し出された彼の両目は、怒りと絶望で見開かれ、今にも裂けそうなほど充血していた。その視線は火花を散らすかのように鋭く、式場内の光景を睨みつけて離さなかった。式場の中では、茜と承平が招待客たちの祝福に包まれながら、厳かに指輪を交換していた。永遠の誓いを象徴する二つの指輪がライトに照らされ、煌めきを放ちながら互いの指に収まっていく。司会者の重々しく長い誓約の言葉が会場に響き渡った。茜は静かで揺るぎない表情のまま、真っ直ぐ承平の目を見つめ、はっきりと力強く言葉を落とした。「私、誓います」短い言葉だったが、その響はとんでもない重みを持ち、この結婚への確固たる決意と彼への深い愛情を宣言していた。式場の外でその言葉を耳にした瞬間、南雄はまるで金縛りにあったかのように動きを止めた。頭の中が真っ白になり、体から一気に力が抜け落ちた。魂を失った木偶人形のように、壁に背を預けてゆっくりと座り込み、虚ろな瞳に絶望を浮かべたまま、かつて愛した女性が他の男に生涯を誓う姿をただ見つめるしかなかった。やがて招待客たちは三々五々会場を後にし、華やかだった式場は少しずつ静けさを取り戻していった。茜は疲れながらも幸せに満ちた体を引きずり、控え室にやって来た。しかし、目

  • 月明かりの下でさよならを   第13話

    華やかな結婚式の準備品の数々だけでなく、承平は、心を温める数多くの行動を取っていた。彼は南城の外科医の第一人者であり、その卓越した技術と名声は広く知られている。日頃は目の回るような忙しさの中にあっても、彼は毎日欠かさず茜のもとを訪れ、その負傷した手首の手当てを自ら行った。薬を優しく取り替え、傷の回復を丁寧に確認した。その一つ一つの動作には、深い気遣いと痛ましさが込められていた。まるで茜の手首が、この世で最も大切な宝物であるかのように、一切の妥協を許さない。さらに、結婚式当日に彼女が何の後悔もなく、最高の美しさを披露できるよう、彼は特別に一双の婚礼用グローブを誂えた。そのデザインは驚くほど巧妙で、婚紗との相性も抜群だった。しかも、そのグローブは茜の手首に残る治りきらぬ傷跡を、完璧に覆い隠すことができた。この政略結婚に対し、茜は当初、大きな期待を抱いてはいなかった。家族の意向に従う、それだけのことだと思っていたのだ。だが、予想に反して、この縁談は彼女に数々の嬉しい驚きをもたらすことになった。茜の誕生日がきた。承平は、失われた十五年の時を埋め合わせるかのように、心を込めて一つ一つの贈り物を用意した。それはどれも、かつて茜が心から愛し、今もなお大切に思っている品々だった。実はこの十五年、彼はずっと茜の好みを記録し続けていたのだ。幼い頃にお気に入りだったぬいぐるみ。夢中になって眺めた画集。大人になってから憧れたアクセサリー。それらを一つも欠かさず覚え、手を尽くして探し出し、贈り物として彼女のもとへ届けた。承平が深い愛情を込めた表情で片膝をつき、きらめくダイヤの指輪をそっと取り出した時、茜の目には、一瞬で涙が浮かんだ。それは、この世で一度きりの愛を象徴するブランドのリングであり、「唯一の愛」を意味する、何物にも代えがたい逸品だった。しかし茜はその指輪を見つめながら、思考はいつの間にか南雄と過ごした日々へと迷い込んでいた。あの時、彼女は南雄の金庫でまったく同じこの指輪を見かけた。一瞬、胸が躍った――きっと彼が自分のために用意してくれたに違いない、そう信じて。いつか南雄が大勢の前でこの指輪を持ち、ロマンチックなプロポーズをしてくれると、夢見るように想像していた。だが、希枝が戻ってきたあの夜、全てが変わった。

  • 月明かりの下でさよならを   第12話

    その時、車内で承平がゆっくりと口を開いた。声には感慨と深い情愛が滲んでいた。彼は茜を見つめ、その瞳には感謝と愛惜が満ちている。「茜、僕の母は早くに亡くなり、継母はずっと僕に悪意を抱いていた。彼女は僕を殺そうとしていたんだ。もし君がいなかったら、きっと僕はとうに乗り越えられなかっただろう」そう言って一度小さく息を詰めた。まるで過去の痛みを思い返すかのように、そして再び口を開いた。「恩を返し、身を捧げるべきなのは、本当は僕の方だ」その言葉が終わったと、車内の空気は一層温かく、そしてどこか微妙な色を帯びた。承平の視線は終始、優しく茜に注がれ、この一瞬、過去の出来事はすべて、二人を固く結びつける目に見えぬ絆に変わっていく。茜はその真摯で深い言葉を聞き、心臓が一拍遅れたように跳ねた。今まで感じたことのない胸のざわめきが、静かに広がっていく。その微妙な空気を少し和らげようと、彼女は無意識に冗談を口にした。「まさか私に会うために、わざわざ同じ便に乗ってきたんじゃないでしょうね?」軽口のつもりだったが、承平は驚くほど真剣に答えた。彼は茜の目を真っ直ぐに見据え、ためらいなく言った。「ああ。僕はずっと南城にいた。そして、君に恋人がいることも知っている……」そう言いかけた時、その瞳に一瞬翳りが差し、彼はゆっくりと目を伏せ、声を潜めた。「もし君が本当に彼を好きなら、僕は遠くから二人を祝福し、結婚祝いだって贈るつもりだった。でも、ほんの少しでも彼が君を大切にしないなら、僕は迷わず君を奪い返す」茜の胸が震える。南雄に傷つけられた記憶が、瞬く間に押し寄せた。口を開きかけるも、何から言えばいいのか分からない。ふと、茜は何かを思い出したように、目に一瞬のひらめきを宿し、静かに問いかけた。「じゃあ、あの日ホテルの個室の外で騒ぎを起こして、私を救ったのは……あなた?」承平は彼女の傷ついた手を見つめ、その表情には痛ましさが溢れ、目の縁が赤く染まった。小さく頷き、悔しさを滲ませながら言った。「遅れてしまった……結局、あいつに君を傷つけさせた」その言葉に、茜の心には温かな流れが広がった。それは冬の日差しのように、彼女の全身をやわらかく包み込んだ。彼女は無傷の手を伸ばし、そっと彼の手を握った。そして優しく、し

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status