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月曜日の魚と恋をする方法
月曜日の魚と恋をする方法
Penulis: 佐薙真琴

第1章:水曜日の視線

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-06 09:56:49

 水無月透が初めて魚の気持ちを理解したのは、七歳の誕生日だった。

 祖母に連れられて訪れた小さな水族館で、円柱の水槽に泳ぐクマノミを見つめていたとき、突然、その魚の視線が自分に向けられているのを感じた。ガラス越しに交わる視線。そこには確かに何かがあった。寂しさ、あるいは好奇心、あるいは――透にはそれを言葉にできなかったが、魚が自分を「見ている」ことだけは確信できた。

 それから二十一年。透は水族館の飼育員になった。

 東京湾を望む「蒼海水族館」は、決して大きくはないが、独特の雰囲気を持つ施設だった。メインの大水槽には回遊魚が泳ぎ、暗い通路の両側には小さな水槽が無数に並ぶ。青い照明が来館者の顔を海底のように染め、子どもたちの笑い声が反響する。

 透の担当は三階の「深海魚エリア」だった。光の届かない海の底から連れてこられた生き物たち。奇妙な形をした魚、透明な体を持つエビ、発光するクラゲ。来館者の多くは気味悪がって足早に通り過ぎるが、透はこのエリアが好きだった。

 深海魚は、誰にも見られることを前提としていない。その孤独が、透には理解できた。

「水無月さん、また魚と話してる」

 同僚の早川美咲が呆れたような声で言った。彼女は透より三つ年下の新人飼育員で、いつも明るく、人懐っこい。透とは正反対だった。

「話してない」

「嘘。絶対話してたでしょ。リュウグウノツカイに『今日の気分はどう?』って」

「......気分を聞いただけだ」

「それを『話してる』って言うの」

 美咲は笑いながら、透の隣に立った。水槽の中で、体長三メートルのリュウグウノツカイが優雅に泳いでいる。銀色の体が波打ち、赤い鰭が炎のように揺れる。

「でも、水無月さんって本当に魚のこと分かってるのかもね」

「分かってるよ」

 透は真面目な顔で答えた。

「例えば?」

「このリュウグウノツカイは、今朝から少し不安そうだ。昨日、水槽の水温が0.3度下がったから」

「0.3度で分かるの?」

「魚には分かる」

 美咲は透の横顔をじっと見つめた。

「水無月さんって、もしかして魚になりたいの?」

 透は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。

 その日の午後、彼女が現れた。

 透が深海魚エリアの水槽を点検していると、通路の向こうから一人の女性が歩いてきた。平日の午後、来館者はまばらだったが、彼女は一人で、ゆっくりとした足取りで各水槽を覗き込んでいた。

 年齢は透と同じくらいだろうか。肩まで伸びた黒髪、白いブラウスに紺のスカート。左手首に巻かれた包帯が、妙に目を引いた。

 彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で立ち止まった。ガラスに額をつけるようにして、じっと中を見つめている。その姿勢があまりに長く続いたので、透は心配になって声をかけた。

「あの、大丈夫ですか」

 女性は顔を上げた。大きな瞳が透を見つめる。

「この子、私を見てます」

 透の心臓が跳ねた。

「......え?」

「ダイオウグソクムシ。私をずっと見てるんです」

 女性は再び水槽に視線を戻した。透も同じように水槽を覗き込む。甲殻類特有の無表情な顔。しかし――透にも分かった。確かにこのグソクムシは、彼女を見ている。

「分かるんですか」

 透は声を震わせながら聞いた。

「分かります」

 女性は静かに答えた。

「魚や虫の視線が」

 透は言葉を失った。二十一年間、誰にも理解されなかったこと。魚が人間を見ている、という感覚。それを、この見知らぬ女性は当然のように口にした。

「あなたも......?」

「ええ」

 女性は微笑んだ。その笑顔には、透と同じ種類の孤独が滲んでいた。

「私は七海と言います。毎週水曜日に、ここに来ているんです」

「水曜日に」

「はい。水曜日だけ」

「なぜ水曜日だけ?」

 七海は少し考えてから答えた。

「水曜日は、私が一番·············

 透はその言葉の意味を理解できなかった。しかし、問い詰めてはいけないような気がした。代わりに、自分の名前を伝えた。

「僕は水無月透。ここで働いています」

「飼育員さんなんですね」

「深海魚の担当です」

「深海魚......」

 七海は通路の奥を見つめた。

「光の届かない場所から来た魚たち。この水族館の中で、一番孤独な魚ですね」

「そうかもしれません」

「でも、あなたがいる」

 七海は透を見た。

「魚の視線が分かる人がいるなら、その魚は孤独じゃないかもしれない」

 透は胸が熱くなるのを感じた。誰かに理解される、という感覚。それは透にとって、ほとんど未知の経験だった。

 七海はそれから一時間ほど、深海魚エリアを見て回った。透は仕事を口実に、彼女の後をついて歩いた。彼女は各水槽の前で立ち止まり、まるで魚と会話しているかのように、長い時間を過ごした。

 チョウチンアンコウの水槽の前で、七海が呟いた。

「この子、お腹が空いてますね」

 透は驚いた。実際、この個体は三日前から餌の食いつきが悪かった。

「どうして分かるんですか」

「光り方が弱いから」

 七海は水槽のガラスに手を当てた。包帯の巻かれた左手だった。

「お腹が空いてる魚は、光が弱くなるんです」

「......そんな話、聞いたことがない」

「でも、本当でしょう?」

 透は頷いた。嘘をつけなかった。

 閉館時間が近づき、七海は帰る準備を始めた。出口に向かう途中、彼女が立ち止まった。

「水無月さん」

「はい」

「また来週の水曜日、来ます」

「......待ってます」

 七海は微笑んで、水族館を出て行った。

 透は彼女の後ろ姿を見送りながら、自分の心臓の音を聞いていた。それは深海魚が発する超低周波のように、体の奥底で響いていた。

 その夜、透は自分のアパートで魚類図鑑を開いた。しかしその内容はまったく入ってこなかった。彼の頭の中にあるのは、七海の横顔だけだった。

 彼女の左手首の包帯は、なぜいつも濡れているように見えたのだろう。

 翌朝、透が水族館に出勤すると、館長の鳴海が職員を集めていた。鳴海は六十代の小柄な男性で、いつも古いツイードのジャケットを着ている。彼の趣味は水族館経営ではなく、「水族館の謎の解明」だった。

「諸君、重大な発表がある」

 鳴海は真面目な顔で言った。

「今日から、全ての魚に名前をつけることを禁止する」

 職員たちはざわめいた。美咲が手を挙げた。

「館長、どうしてですか? お客さんは名前があった方が親しみを持てると思うんですけど」

「それが問題なのだ」

 鳴海は眼鏡の奥の目を光らせた。

「魚に名前をつけると、魚は自我を持つ。自我を持つと、海に帰りたがる。そして水槽から脱走を試みる」

「そんな科学的根拠は......」

「科学で説明できないことが、この世界にはある」

 鳴海は断言した。

「私は三十年、水族館を経営してきた。その経験から言える。名前をつけられた魚は、必ず水槽を脱走しようとする」

 職員たちは顔を見合わせた。誰も反論できなかった。鳴海の「経験則」は、しばしば科学的常識を超えていたからだ。

 昼休み、透は美咲と職員食堂で向かい合っていた。

「館長、また変なこと言い出したね」

 美咲は呆れたように言った。

「でも、間違ってないかもしれない」

 透は真面目に答えた。

「え? 本気で言ってるの?」

「名前は、存在を定義する。定義されると、その存在は自分が何者かを考え始める」

「魚が?」

「魚だって、考えてるかもしれない」

 美咲はため息をついた。

「水無月さんって、本当に変わってる」

「よく言われる」

「褒めてないから」

 その時、透のポケットで携帯電話が震えた。水族館の内線だった。受付からの連絡。

「水無月さん、お客様が水無月さんを指名してます。深海魚エリアで会いたいって」

 透の胸が高鳴った。水曜日まで、あと五日もあるのに。

 深海魚エリアに行くと、七海が待っていた。昨日と同じ服装だったが、左手首の包帯が新しくなっていた。

「すみません、急に」

 七海は申し訳なさそうに言った。

「いえ、大丈夫です」

「昨日、聞き忘れたことがあって」

「何でしょう」

 七海は少し躊躇してから口を開いた。

「水無月さんは、魚になりたいと思ったこと、ありますか」

 透は昨日、美咲から同じ質問をされたことを思い出した。しかし七海の問いかけは、美咲のものとは質的に違っていた。これは冗談ではない。本気の質問だった。

「分かりません」

 透は正直に答えた。

「でも、魚の方が楽だと思うことはあります。人間より、ずっと」

「どうして?」

「魚は、言葉を使わなくていいから」

 七海は静かに頷いた。

「そうですね。言葉は、時々、本当のことを隠してしまう」

「......そう思います」

 二人は並んでリュウグウノツカイの水槽を見つめた。銀色の魚体が、緩やかに波打っている。

「水無月さん」

「はい」

「私、実は......」

 七海の言葉が途切れた。何かを言いかけて、飲み込んだようだった。

「いえ、何でもありません。また水曜日に来ます」

「待ってます」

 七海は去り際、もう一度振り返った。

「土曜日の魚は、·········

「......え?」

「おかしなこと言ってごめんなさい。でも、本当なんです」

 そう言い残して、七海は去って行った。

 透はその場に立ち尽くした。土曜日の魚は恋をしない。その言葉の意味が、まったく分からなかった。

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