Masuk
水無月透が初めて魚の気持ちを理解したのは、七歳の誕生日だった。
祖母に連れられて訪れた小さな水族館で、円柱の水槽に泳ぐクマノミを見つめていたとき、突然、その魚の視線が自分に向けられているのを感じた。ガラス越しに交わる視線。そこには確かに何かがあった。寂しさ、あるいは好奇心、あるいは――透にはそれを言葉にできなかったが、魚が自分を「見ている」ことだけは確信できた。
それから二十一年。透は水族館の飼育員になった。
東京湾を望む「蒼海水族館」は、決して大きくはないが、独特の雰囲気を持つ施設だった。メインの大水槽には回遊魚が泳ぎ、暗い通路の両側には小さな水槽が無数に並ぶ。青い照明が来館者の顔を海底のように染め、子どもたちの笑い声が反響する。
透の担当は三階の「深海魚エリア」だった。光の届かない海の底から連れてこられた生き物たち。奇妙な形をした魚、透明な体を持つエビ、発光するクラゲ。来館者の多くは気味悪がって足早に通り過ぎるが、透はこのエリアが好きだった。
深海魚は、誰にも見られることを前提としていない。その孤独が、透には理解できた。
「水無月さん、また魚と話してる」
同僚の早川美咲が呆れたような声で言った。彼女は透より三つ年下の新人飼育員で、いつも明るく、人懐っこい。透とは正反対だった。
「話してない」
「嘘。絶対話してたでしょ。リュウグウノツカイに『今日の気分はどう?』って」
「......気分を聞いただけだ」
「それを『話してる』って言うの」
美咲は笑いながら、透の隣に立った。水槽の中で、体長三メートルのリュウグウノツカイが優雅に泳いでいる。銀色の体が波打ち、赤い鰭が炎のように揺れる。
「でも、水無月さんって本当に魚のこと分かってるのかもね」
「分かってるよ」
透は真面目な顔で答えた。
「例えば?」
「このリュウグウノツカイは、今朝から少し不安そうだ。昨日、水槽の水温が0.3度下がったから」
「0.3度で分かるの?」
「魚には分かる」
美咲は透の横顔をじっと見つめた。
「水無月さんって、もしかして魚になりたいの?」
透は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。
その日の午後、彼女が現れた。
透が深海魚エリアの水槽を点検していると、通路の向こうから一人の女性が歩いてきた。平日の午後、来館者はまばらだったが、彼女は一人で、ゆっくりとした足取りで各水槽を覗き込んでいた。
年齢は透と同じくらいだろうか。肩まで伸びた黒髪、白いブラウスに紺のスカート。左手首に巻かれた包帯が、妙に目を引いた。
彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で立ち止まった。ガラスに額をつけるようにして、じっと中を見つめている。その姿勢があまりに長く続いたので、透は心配になって声をかけた。
「あの、大丈夫ですか」
女性は顔を上げた。大きな瞳が透を見つめる。
「この子、私を見てます」
透の心臓が跳ねた。
「......え?」
「ダイオウグソクムシ。私をずっと見てるんです」
女性は再び水槽に視線を戻した。透も同じように水槽を覗き込む。甲殻類特有の無表情な顔。しかし――透にも分かった。確かにこのグソクムシは、彼女を見ている。
「分かるんですか」
透は声を震わせながら聞いた。
「分かります」
女性は静かに答えた。
「魚や虫の視線が」
透は言葉を失った。二十一年間、誰にも理解されなかったこと。魚が人間を見ている、という感覚。それを、この見知らぬ女性は当然のように口にした。
「あなたも......?」
「ええ」
女性は微笑んだ。その笑顔には、透と同じ種類の孤独が滲んでいた。
「私は七海と言います。毎週水曜日に、ここに来ているんです」
「水曜日に」
「はい。水曜日だけ」
「なぜ水曜日だけ?」
七海は少し考えてから答えた。
「水曜日は、私が一番
透はその言葉の意味を理解できなかった。しかし、問い詰めてはいけないような気がした。代わりに、自分の名前を伝えた。
「僕は水無月透。ここで働いています」
「飼育員さんなんですね」
「深海魚の担当です」
「深海魚......」
七海は通路の奥を見つめた。
「光の届かない場所から来た魚たち。この水族館の中で、一番孤独な魚ですね」
「そうかもしれません」
「でも、あなたがいる」
七海は透を見た。
「魚の視線が分かる人がいるなら、その魚は孤独じゃないかもしれない」
透は胸が熱くなるのを感じた。誰かに理解される、という感覚。それは透にとって、ほとんど未知の経験だった。
七海はそれから一時間ほど、深海魚エリアを見て回った。透は仕事を口実に、彼女の後をついて歩いた。彼女は各水槽の前で立ち止まり、まるで魚と会話しているかのように、長い時間を過ごした。
チョウチンアンコウの水槽の前で、七海が呟いた。
「この子、お腹が空いてますね」
透は驚いた。実際、この個体は三日前から餌の食いつきが悪かった。
「どうして分かるんですか」
「光り方が弱いから」
七海は水槽のガラスに手を当てた。包帯の巻かれた左手だった。
「お腹が空いてる魚は、光が弱くなるんです」
「......そんな話、聞いたことがない」
「でも、本当でしょう?」
透は頷いた。嘘をつけなかった。
閉館時間が近づき、七海は帰る準備を始めた。出口に向かう途中、彼女が立ち止まった。
「水無月さん」
「はい」
「また来週の水曜日、来ます」
「......待ってます」
七海は微笑んで、水族館を出て行った。
透は彼女の後ろ姿を見送りながら、自分の心臓の音を聞いていた。それは深海魚が発する超低周波のように、体の奥底で響いていた。
その夜、透は自分のアパートで魚類図鑑を開いた。しかしその内容はまったく入ってこなかった。彼の頭の中にあるのは、七海の横顔だけだった。
彼女の左手首の包帯は、なぜいつも濡れているように見えたのだろう。
翌朝、透が水族館に出勤すると、館長の鳴海が職員を集めていた。鳴海は六十代の小柄な男性で、いつも古いツイードのジャケットを着ている。彼の趣味は水族館経営ではなく、「水族館の謎の解明」だった。
「諸君、重大な発表がある」
鳴海は真面目な顔で言った。
「今日から、全ての魚に名前をつけることを禁止する」
職員たちはざわめいた。美咲が手を挙げた。
「館長、どうしてですか? お客さんは名前があった方が親しみを持てると思うんですけど」
「それが問題なのだ」
鳴海は眼鏡の奥の目を光らせた。
「魚に名前をつけると、魚は自我を持つ。自我を持つと、海に帰りたがる。そして水槽から脱走を試みる」
「そんな科学的根拠は......」
「科学で説明できないことが、この世界にはある」
鳴海は断言した。
「私は三十年、水族館を経営してきた。その経験から言える。名前をつけられた魚は、必ず水槽を脱走しようとする」
職員たちは顔を見合わせた。誰も反論できなかった。鳴海の「経験則」は、しばしば科学的常識を超えていたからだ。
昼休み、透は美咲と職員食堂で向かい合っていた。
「館長、また変なこと言い出したね」
美咲は呆れたように言った。
「でも、間違ってないかもしれない」
透は真面目に答えた。
「え? 本気で言ってるの?」
「名前は、存在を定義する。定義されると、その存在は自分が何者かを考え始める」
「魚が?」
「魚だって、考えてるかもしれない」
美咲はため息をついた。
「水無月さんって、本当に変わってる」
「よく言われる」
「褒めてないから」
その時、透のポケットで携帯電話が震えた。水族館の内線だった。受付からの連絡。
「水無月さん、お客様が水無月さんを指名してます。深海魚エリアで会いたいって」
透の胸が高鳴った。水曜日まで、あと五日もあるのに。
深海魚エリアに行くと、七海が待っていた。昨日と同じ服装だったが、左手首の包帯が新しくなっていた。
「すみません、急に」
七海は申し訳なさそうに言った。
「いえ、大丈夫です」
「昨日、聞き忘れたことがあって」
「何でしょう」
七海は少し躊躇してから口を開いた。
「水無月さんは、魚になりたいと思ったこと、ありますか」
透は昨日、美咲から同じ質問をされたことを思い出した。しかし七海の問いかけは、美咲のものとは質的に違っていた。これは冗談ではない。本気の質問だった。
「分かりません」
透は正直に答えた。
「でも、魚の方が楽だと思うことはあります。人間より、ずっと」
「どうして?」
「魚は、言葉を使わなくていいから」
七海は静かに頷いた。
「そうですね。言葉は、時々、本当のことを隠してしまう」
「......そう思います」
二人は並んでリュウグウノツカイの水槽を見つめた。銀色の魚体が、緩やかに波打っている。
「水無月さん」
「はい」
「私、実は......」
七海の言葉が途切れた。何かを言いかけて、飲み込んだようだった。
「いえ、何でもありません。また水曜日に来ます」
「待ってます」
七海は去り際、もう一度振り返った。
「土曜日の魚は、
「......え?」
「おかしなこと言ってごめんなさい。でも、本当なんです」
そう言い残して、七海は去って行った。
透はその場に立ち尽くした。土曜日の魚は恋をしない。その言葉の意味が、まったく分からなかった。
火曜日の夜、透と美月は地下の「中央室」にいた。 虹色に輝く水。その神秘的な光が、部屋全体を照らしている。 館長の鳴海と美咲が見守る中、透は水着に着替えた。美月はすでに全身が鱗に覆われており、服を着る必要はなかった。「準備はいいか」 鳴海が聞いた。「はい」 透は答えた。「美月さん、行きましょう」 美月は頷いた。もう人間の言葉は話せないが、意思疎通はできた。 二人は水槽に入った。 水は、想像以上に温かかった。そして、不思議な感覚があった。まるで、水ではなく、記憶の中を泳いでいるような。 透は美月の手を取った。鱗の感触が、水中では柔らかく感じられた。 水槽の底に降りると、視界が変わった。 周囲の水が、様々な色に輝き始めた。青、緑、紫、金。色が渦を巻き、二人を包み込む。 そして、透は聞いた。 声――いや、声ではない。思念? それとも記憶? それは、美月の心の声だった。 「私は、どうしたいの?」 美月の問いかけ。それは自分自身への問いでもあった。 「人間でいたい。でも、辛い」 「魚になりたい。でも、失いたくないものがある」 「どうすればいいの?」 透は美月の手を握り締めた。 そして、思った。 「僕が、答えを見つける」 水が、激しく渦巻き始めた。 透の視界が歪み、時間の感覚が失われる。 そして、透は見た。 美月の過去を。 小さな女の子。海辺で遊んでいる。波と戯れ、魚を追いかけ、笑っている。 その子は、幸せそうだった。 しかし、時間が進む。 学校。友達の輪に入れない少女。一人で、海の絵を描いている。「変な子」「暗い子」 周りの声。少女は、自分を閉ざしていく。 さらに時間が進む。 社会人。オフ
透が水族館最寄りの海岸に着いたのは、午後十時を過ぎていた。 防波堤の上を走り、暗い海を見渡す。月が海面を照らし、波が静かに打ち寄せている。「美月さん!」 透は叫んだ。「美月さん! どこですか!」 返事はない。ただ波の音だけが、透の声を飲み込んでいく。 透は防波堤から飛び降り、砂浜を走った。足が砂に取られ、何度も転びそうになる。「美月さん!」 その時、波打ち際に何かが見えた。 人影――いや、人ではない。何か別のもの。 近づくと、それは美月だった。 彼女は波打ち際に座り、波が足を洗うたびに、小さく震えていた。全身を覆っていたコートは脱ぎ捨てられ、鱗に覆われた体が月光を反射して輝いていた。「美月さん」 透は彼女の隣に座った。「水無月さん......」 美月は顔を上げた。その顔は、もはやほとんど人間のものではなかった。鱗が顔全体を覆い、目が大きくなり、口が前に突き出している。 それでも、透には彼女だと分かった。「どうして来たんですか」 美月の声は、もう人間の声帯から発されているとは思えない響きだった。「迎えに来ました」「迎えに......」「水族館に戻りましょう。準備はできています」 美月は首を横に振った。「ダメです。私、決めたんです。自然の海で、魚になるって」「どうして水族館じゃダメなんですか」「水族館は、檻だから」 美月は海を見た。「あそこでは、本当の魚にはなれない。ガラスに囲まれて、人間に見られ続ける。それは、魚の生き方じゃない」「でも......」「ここなら、自由です。広い海で、どこまでも泳げる。誰にも縛られない」 透は美月の肩に手を置こうとして、躊躇した。彼女の体は、もう人間のそれではなかった。「美月さん、本当にそれでいいんですか」「......
金曜日の夜、透は眠れなかった。 明日、土曜日。七海が最後に人間の言葉を話す日。その後、彼女は完全に魚になってしまうのだろうか。 透はベッドから起き上がり、窓を開けた。夜風が部屋に流れ込む。遠くで、波の音が聞こえる気がした。 スマートフォンを手に取り、海洋生物学の論文を読み漁った。変態のメカニズム、遺伝子発現の変化、形態形成のプロセス。 しかし、どの論文も人間には適用できない。人間が魚になる、という現象は、科学の範疇を超えていた。 それでも透は諦めなかった。何か、ヒントがあるはずだ。七海を助ける方法が。 午前三時、透はある論文に目を留めた。 「海洋哺乳類における先祖返り現象:クジラ類の四肢再生に関する遺伝学的考察」 クジラやイルカは、かつて陸上で暮らしていた哺乳類が海に戻った生物だ。進化の過程で四肢を失い、鰭を獲得した。しかし稀に、退化したはずの四肢の痕跡が現れる個体がいる。先祖返り――遺伝情報に残る過去の形態への回帰。 もし、人間の遺伝情報にも、魚だった頃の記憶が残っているとしたら? 全ての脊椎動物は、魚類から進化した。人間の胚発生の初期段階では、鰓裂(えらあな)に似た構造が現れる。それは、人間が魚の子孫である証拠だ。 七海の変態は、先祖返りなのかもしれない。四億年前、魚から陸上生物への進化が起きた。七海は、その進化を逆行している。 しかし、なぜ彼女だけが? 透は別の可能性を考えた。心理的要因。七海は「人間でいることが辛い」と言った。もし、精神的なストレスが遺伝子発現に影響を与えているとしたら? エピジェネティクス――環境や経験が遺伝子の働きを変える現象。ストレスホルモンが特定の遺伝子をオンにし、魚類化のプログラムが起動する。 しかし、それも仮説に過ぎない。証明する方法はない。 透はスマートフォンを置き、再び窓の外を見た。 東の空が、わずかに明るくなり始めていた。 土曜日の朝、透は水族館に向かった。 開館前の静かな館内に入ると、すでに館長の鳴海が待っていた。
月曜日の朝、透が出勤すると、水族館全体に異様な空気が漂っていた。 職員たちが水槽の前で首を傾げ、何かを確認している。美咲が慌てた様子で透に駆け寄ってきた。「水無月さん、大変!」「何が?」「魚が、みんな変なの!」 透は美咲に連れられて、メイン水槽へ向かった。大型の回遊魚が泳ぐ水槽を見て、透は息を呑んだ。 魚たちが、全て逆向きに泳いでいた。 普段は反時計回りに回遊するはずの魚の群れが、時計回りに泳いでいる。それだけではない。深海魚エリアでも、熱帯魚エリアでも、全ての魚が通常とは逆の方向に泳いでいた。「これ、病気ですか?」 美咲が不安そうに聞いた。「分からない......」 透は水槽に近づき、魚たちを観察した。健康状態に問題はなさそうだ。ただ、泳ぐ方向だけが逆になっている。 館長の鳴海が現れた。「ああ、やはりか」「館長、これは......」「月曜日の呪いだ」 鳴海は平然と言った。「月曜日は、全てが逆行する日。魚も、時計も、人の心も」「時計も?」 透は壁の時計を見た。時計は正常に動いているように見えた。「今日ではない。木曜日だ」 鳴海は謎めいた笑みを浮かべた。「木曜日になれば、分かる」 その言葉の意味を理解したのは、三日後だった。 木曜日の朝、透が水族館に入ると、すぐに異変に気づいた。 館内の全ての時計が、逆回転していた。 壁掛け時計も、デジタル時計も、職員の腕時計も。全てが反時計回りに動いている。時刻表示は正常だが、針や数字が逆方向に進んでいく。「これ、マジで?」 美咲が自分の腕時計を見つめている。「修理に出さなきゃ......」「美咲さん、他の人の時計も見て」 透が言うと、美咲は周りの職員の時計を確認した。全員の時計が、同じように逆回転していた。「なに
土曜日の朝、透は珍しく早く目が覚めた。 アパートの窓から差し込む光が、床に魚の影のような模様を作っている。透は布団の中で、七海の最後の言葉を反芻していた。 土曜日の魚は、恋をしない。 魚類学の知識を総動員しても、その意味は理解できなかった。産卵期と曜日の相関? そんなデータは存在しない。それとも、比喩なのか。しかし七海は「本当なんです」と言った。 透は起き上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。「魚の観察日記」と書かれた、中学生の頃から続けているノートだ。 ページをめくると、様々な魚のスケッチと、観察記録が並んでいる。魚の表情、泳ぎ方のパターン、餌への反応。そして、透が独自に記録してきた「魚の感情」についてのメモ。 「3月12日、クマノミが寂しそうだった」 「5月8日、マンボウが喜んでいた」 「9月20日、サメが怒っていた」 科学的根拠のない、主観的な観察記録。しかし透にとっては、これが真実だった。 新しいページを開き、透はペンを走らせた。 「11月17日、七海という人に会った。魚の視線が分かる人。左手首に包帯。『土曜日の魚は恋をしない』と言った」 書きながら、透は自分の手が震えていることに気づいた。 水族館に着くと、館内は週末の賑わいに包まれていた。家族連れ、カップル、修学旅行らしき高校生の集団。透は人混みを避けるように、職員通路を使って深海魚エリアへ向かった。 エリアに入ると、予想外の光景が広がっていた。 七海が、そこにいた。 水曜日にしか来ないはずの七海が、土曜日の水族館に立っていた。しかも、様子がおかしかった。 彼女はダイオウグソクムシの水槽の前で、ガラスに両手をついて、まるで何かと格闘しているかのような表情を浮かべていた。左手首の包帯から、水滴が滴り落ちている。「七海さん?」 透が声をかけると、七海は振り返った。その目には、透が見たことのない種類の焦りがあった。「水無月さん......」「どうしたんですか。水曜日じゃ......」「来ちゃいけなかった」 七海は苦しそうに言った。「土曜日に、ここに来ちゃいけなかったのに」「なぜ?」「土曜日の魚は、恋をしないから」 透は彼女の言葉の意味を掴もうとした。しかし、理解の糸口が見つからない。「七海さん、座りませんか。ベンチがあります
水無月透が初めて魚の気持ちを理解したのは、七歳の誕生日だった。 祖母に連れられて訪れた小さな水族館で、円柱の水槽に泳ぐクマノミを見つめていたとき、突然、その魚の視線が自分に向けられているのを感じた。ガラス越しに交わる視線。そこには確かに何かがあった。寂しさ、あるいは好奇心、あるいは――透にはそれを言葉にできなかったが、魚が自分を「見ている」ことだけは確信できた。 それから二十一年。透は水族館の飼育員になった。 東京湾を望む「蒼海水族館」は、決して大きくはないが、独特の雰囲気を持つ施設だった。メインの大水槽には回遊魚が泳ぎ、暗い通路の両側には小さな水槽が無数に並ぶ。青い照明が来館者の顔を海底のように染め、子どもたちの笑い声が反響する。 透の担当は三階の「深海魚エリア」だった。光の届かない海の底から連れてこられた生き物たち。奇妙な形をした魚、透明な体を持つエビ、発光するクラゲ。来館者の多くは気味悪がって足早に通り過ぎるが、透はこのエリアが好きだった。 深海魚は、誰にも見られることを前提としていない。その孤独が、透には理解できた。「水無月さん、また魚と話してる」 同僚の早川美咲が呆れたような声で言った。彼女は透より三つ年下の新人飼育員で、いつも明るく、人懐っこい。透とは正反対だった。「話してない」「嘘。絶対話してたでしょ。リュウグウノツカイに『今日の気分はどう?』って」「......気分を聞いただけだ」「それを『話してる』って言うの」 美咲は笑いながら、透の隣に立った。水槽の中で、体長三メートルのリュウグウノツカイが優雅に泳いでいる。銀色の体が波打ち、赤い鰭が炎のように揺れる。「でも、水無月さんって本当に魚のこと分かってるのかもね」「分かってるよ」 透は真面目な顔で答えた。「例えば?」「このリュウグウノツカイは、今朝から少し不安そうだ。昨日、水槽の水温が0.3度下がったから」「0.3度で分かるの?」「魚には分かる」 美咲は透の横顔をじっと見つめた。「水無月さんって、もしかして魚になりたいの?」 透は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。 その日の午後、彼女が現れた。 透が深海魚エリアの水槽を点検していると、通路の向こうから一人の女性が歩いてきた。平日の午後、来館者はまばらだったが、彼女は一人で、ゆっくりとした足取り







