Share

第20話

last update Last Updated: 2026-01-04 19:00:00

深夜2時。トイレに起きた私は、喉の渇きを覚えて廊下に出た。冬の夜の冷たい空気が、肌をさす。

キッチンへ向かう途中──氷室様の部屋から、低いうめき声が聞こえた。

「くっ……」

苦しそうな声に、私は思わず足を止める。

ドアの前に立ち、耳を澄ます。中から、何かが壁にぶつかったような鈍い音。そして、荒く途切れ途切れの呼吸。

ノックすべき?でも、氷室様の部屋は立ち入り禁止。神崎さんにも、はっきりと言われている。

私の手がドアノブに伸びかけ、途中で止まった。

もし、怒られたら?もし、契約を破ってクビになったら、家族を救う道が閉ざされる。

数秒の葛藤のあと、私は唇を強く噛みしめ、音を立てずに廊下を戻った。

自分の部屋に入り、ベッドに座り込む。

胸が苦しかった。

氷室様は、大丈夫だろうか。先ほどのあの苦しそうな声が、耳から離れない。

氷室様は今も苦しんでいるかもしれないのに、私は契約という壁に阻まれて何もできない。

自分の臆病さと家政婦という立場の限界に、強い歯がゆさを覚えた。

もどかしい気持ちを抱えたまま、私は夜明けを待った。

翌朝。いつもの時間になっても、氷室様はリビングに現れなかった。

7時。7時半。テーブルには朝食が並び、温かい湯気が立ち上っている。その日常の光景と、彼の不在との間に、違和感が広がった。

8時を過ぎた頃、社用スマホが鳴った。神崎さんからだ。

「はい、森川です」

『おはようございます。氷室様は本日、在宅勤務です』

「在宅勤務……ですか?」

『はい。体調を崩されたようで。森川さん、無理はさせないでください』

やはり、昨夜の声は体調不良だったのだ。

「わかりました」

電話を切って、私は静かに朝食を片付けた。彼のために、何かできることはないだろうか。

昼になっても、氷室様は部屋から出てこなかった。

私はリビングで

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 月給80万円の偽装花嫁   第23話

    売り場には、ウール、カシミア、シルク、様々なマフラーが並んでいた。氷室様は、一つ一つ手に取って見ている。その真剣な横顔に、私は胸が温かくなった。不器用な人だ。でも、ちゃんと気持ちがある。「これは、どうだ?」氷室様が、グレーのカシミアのマフラーを手に取った。シンプルだけれど、上質な生地。触れると、柔らかい。「素敵ですね。落ち着いた色で、どんなスーツにも合いそうです」「そうか」氷室様は、マフラーを見つめた。「祖父は、派手なものは好まない。これくらいがちょうどいいかもしれない」「きっと、喜ばれますよ」私がそう言うと、氷室様は少しだけ微笑んだ。「……そうだといいが」氷室様は、店員を呼んだ。「これを包んでください。ギフト用で」「かしこまりました」私はその様子を、少し離れたところから見ていた。いつもの冷たい社長ではなく、一人の孫として振る舞う彼に、心が温かくなるのを感じた。◇百貨店を出ると、外はすでに夕暮れ時だった。街は、イルミネーションの光で満ちている。街路樹に巻かれた光がキラキラと輝き、いつまでも見ていたいくらい綺麗だった。「……綺麗だな」氷室様が、ぽつりと言った。「はい」私も頷く。氷室様が立ち止まり、こちらを振り返った。どうしたんだろう?数秒の沈黙。街のざわめきが、遠くに聞こえる。「イルミネーションも綺麗だが……君のほうが綺麗だ」え?今、なんて?私は、固まってしまった。頬が一気に熱くなる。「な、何を急に……」氷室様は、くすりと笑った。その笑顔は少し意地悪だが、心から楽しんでいるような顔。「事実だ」その言葉に、心臓が激しく脈打つ。顔も耳も熱

  • 月給80万円の偽装花嫁   第22話

    12月24日。クリスマスイブ。昨夜、氷室様から『明日、10時にリビングへ。私服で構わない』とメッセージが届いて以来、不安と期待が交錯し、私はほとんど眠れなかった。◇朝10時、私はリビングで氷室様を待っていた。紺色のワンピースに、ベージュのコートを羽織っている。控えめにメイクし、髪は後ろで一つにまとめた。鏡で何度も確認したが、そのたびに心臓が激しく鳴った。どこに行くのか、何の用事なのか。そして――なぜ、私なんだろう。廊下から足音が聞こえ、息を呑む。氷室様が、リビングに現れた。黒いロングコートに、首元をすっきりと見せるダークグレーのタートルネック。いつもの隙のないスーツ姿とは違う、大人の余裕を感じさせるラフな装い。……心臓に悪いほど、格好いい。「おはようございます」私は、慌てて立ち上がった。「ああ、おはよう」氷室様は私を一瞥した。その視線に、私の顔はカーッと熱くなる。「……似合っている」「え?」「そのワンピース。よく似合っている」その言葉に、心臓が思いきり跳ねた。「あ、ありがとうございます……」まさか、褒めてくれるなんて。氷室様は、少しだけ口角を上げた。「準備はいいか?」「はい」「では、行こう」◇タクシーに乗り込むと、氷室様は運転手に行き先を告げた。「銀座、四越百貨店まで」銀座?私は、少し驚いた。高級ブランドが立ち並ぶ、あの銀座。一体、何の用事だろう。タクシーが走り出す。車内は、静かだった。窓の外、東京の街はまばゆいクリスマスの装飾で彩られている。街路樹のイルミネーション、華やかなショーウィンドウ。街中が、幸せそうだ。私は、隣の氷室様をちらりと見た。彼は、窓の外を見つめたまま、何を考えているのか

  • 月給80万円の偽装花嫁   第21話

    数時間後。私がリビングで洗濯物を畳んでいると、廊下から物音がした。そっと廊下を覗くと、氷室様の部屋の前に置いたトレイが、きれいさっぱり空になっている。生姜湯のカップも、鎮痛剤の包装も、冷却シートの袋も。全て、部屋の中に持ち込まれていた。よかった……!ほっと、胸をなでおろす。少しでも、楽になってくれたらいいな。◇夕方、17時を過ぎた頃。私がキッチンで夕食の準備をしていると──廊下から足音が聞こえ、氷室様がリビングに現れた。黒いシャツに、グレーのパンツ。髪は少し乱れているが、顔色は昨日よりもずっと良い。「氷室様!」私は抑えきれない安堵とともに、声を上げた。「お体、大丈夫ですか?」氷室様はソファに座り、小さく頷く。「……ああ。少し、片頭痛がしただけだ」氷室様は、テーブルの上の空のカップに目をやる。「……ありがとう」ぼそりと小さな声。だが、その言葉は私の心を射抜いた。「い、いえ!お役に立てたなら、良かったです」「ああ。君の生姜湯が効いた」氷室様は、私を見た。その目は、わずかな温かさを帯びていた。「助かった」その言葉に、私の口元が勝手にゆるむ。なんてことのない言葉なのに。相手が氷室様っていうだけで、「ありがとう」も「助かった」も、なぜかものすごく嬉しかった。「お食事、お作りしましょうか?消化に良いお粥もすぐに……」「いや、普通の食事で構わない。先にシャワーを浴びてくる。食事はその後でいい」「かしこまりました」◇30分後、リビングに戻ってきた氷室様からは、石鹸の香りがした。夕食の献立は、鶏肉の照り焼き、野菜の煮物、味噌汁、ご飯。消化に良く、栄養バランスを考えたものだ。「どうぞ」席を勧めると、

  • 月給80万円の偽装花嫁   第20話

    深夜2時。トイレに起きた私は、喉の渇きを覚えて廊下に出た。冬の夜の冷たい空気が、肌をさす。キッチンへ向かう途中──氷室様の部屋から、低いうめき声が聞こえた。「くっ……」苦しそうな声に、私は思わず足を止める。ドアの前に立ち、耳を澄ます。中から、何かが壁にぶつかったような鈍い音。そして、荒く途切れ途切れの呼吸。ノックすべき?でも、氷室様の部屋は立ち入り禁止。神崎さんにも、はっきりと言われている。私の手がドアノブに伸びかけ、途中で止まった。もし、怒られたら?もし、契約を破ってクビになったら、家族を救う道が閉ざされる。数秒の葛藤のあと、私は唇を強く噛みしめ、音を立てずに廊下を戻った。自分の部屋に入り、ベッドに座り込む。胸が苦しかった。氷室様は、大丈夫だろうか。先ほどのあの苦しそうな声が、耳から離れない。氷室様は今も苦しんでいるかもしれないのに、私は契約という壁に阻まれて何もできない。自分の臆病さと家政婦という立場の限界に、強い歯がゆさを覚えた。もどかしい気持ちを抱えたまま、私は夜明けを待った。◇翌朝。いつもの時間になっても、氷室様はリビングに現れなかった。7時。7時半。テーブルには朝食が並び、温かい湯気が立ち上っている。その日常の光景と、彼の不在との間に、違和感が広がった。8時を過ぎた頃、社用スマホが鳴った。神崎さんからだ。「はい、森川です」『おはようございます。氷室様は本日、在宅勤務です』「在宅勤務……ですか?」『はい。体調を崩されたようで。森川さん、無理はさせないでください』やはり、昨夜の声は体調不良だったのだ。「わかりました」電話を切って、私は静かに朝食を片付けた。彼のために、何かできることはないだろうか。◇昼になっても、氷室様は部屋から出てこなかった。私はリビングで

  • 月給80万円の偽装花嫁   第19話

    氷室様は、仕事の書類を抱えたまま。穏やかな寝息を立てている。スーツも脱がず、ネクタイも緩めず。珍しい光景に、私は足を止めた。疲れ果てて、そのまま眠ってしまったのかな?私は、そっとリビングに入った。彼の寝顔を見るのは、初めてだった。長い睫毛に、整った鼻筋。いつもの冷たい表情とは違う。眉間の皺も消え、穏やかな顔をしている。まるで、少年のような。氷室様って、こんな顔もするんだ……。私は、クローゼットからブランケットを取り出した。起こさないように、契約違反にならないように。慎重に、そっと彼にかけようとした、その瞬間──。氷室様の目が、パチッと開いた。黒い瞳が、まっすぐ私を捉える。「……っ!」手が、触れる寸前で止まる。息が止まりそうになった。私の顔が、彼の顔の真上にあった。吐息が届くほどの距離。私たちは数秒、見つめ合う。ドクン、ドクン、ドクン。心臓が、激しく鳴る。氷室様の目は、私の目を捉えたまま。何も言わず、ただ黙って見つめている。時間が止まったような感覚だった。「……す、すみません!起こしてしまって」ようやく声が出た私は、慌てて身を引いた。氷室様はゆっくりと体を起こし、ブランケットを手に取った。「……いや」小さな声。その一言が、やけに響いた。「……ありがとう」その労いの言葉に、私は家政婦の自分を思い出す。「いえ……お疲れのようでしたので。夕食はすぐにご用意できます」氷室様はブランケットを膝に置くと、窓の外に目をやる。「……今、何時だ」「19時です」「そうか」氷室様は立ち上がり、書類を手に取った。しかし、そ

  • 月給80万円の偽装花嫁   第18話

    ある日の午後。神崎さんが書類を届けにやって来た。「森川さん、これから買い物ですか?」「はい」「実は、氷室様のことでお話したいことがありまして。少し、お付き合いいただけませんか」その真剣な表情を見て、私は直感した。もしかして、前に家を訪ねてきたときに、話そうとしていた、あの続きではないだろうか。◇近所の、少しざわめいたカフェで、私たちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。神崎さんはカップを両手で包み込み、温めるようにしながら、静かに話し始める。「氷室様……最近、本当に変わりましたね」「変わった?」「ええ。毎日、ちゃんとご飯を食べているって聞きました。以前は、朝食なんて絶対に摂らなかったんですから」「……」「朝食は絶対に食べない。昼も会議の合間にコンビニ弁当を掻き込む。夜は栄養ドリンクで済ませることも多かった」「そんなに……」私は胸が痛んだ。深夜、あの社長室で見た彼の疲労が、全て現実の姿だったのだ。「睡眠時間も3時間とか。休日も会社に出て仕事をしている……そんな生活が、何年も続いていた」神崎さんは、コーヒーを一口、口に含む。その目の奥には、長年見守ってきた者だけが持つ、深い疲労の色があった。「でも、あなたが来てから、変わった。毎朝ちゃんと朝食を食べて、夜も少しずつ早く帰るようになった」「そうなんですか?」「ええ。私は氷室様の秘書として、10年以上見てきましたが……こんなに人間らしい彼を見るのは、本当に久しぶりです」神崎さんの目は、どこか遠い過去を見ているようだった。「森川さん、氷室様のことで一つお願いがあります」「はい」神崎さんは、少し間を置いてから、真摯な目で私を見つめ直した。「ここからは、彼の友人としてお話しますが……氷室様

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status