تسجيل الدخول聖堂の一階。誰の目にも見えない女の幽霊が、綾乃の耳元でそっと囁いた。「綾乃、あの人たちが来たわ。二階にいる……でも、怖がらないで」綾乃はわずかにまつ毛を震わせた。それでも二階を振り返ることはなく、慌てる様子も微塵も見せない。怖い――そんな感情は、とっくの昔に置いてきた。五年前の西浜市で、彼女はすでに地獄をくぐり抜けてきたのだから。今日の結末が、たとえ死だとしても。今さら何を恐れる必要があるというのだろう。綾乃は静かに微笑み、幽霊へ優しく答えた。「私は怖くないわ。死角にはすでに人を配置してあるもの。怖がるどころか、この手で私たちの宿命を変えてみせるわ……」二階の暗がり。銃を握る徹の手は、絶え間なく震えていた。傷痕の男が歯を食いしばりながら怒鳴る。「撃て!何をためらっている!北斗を殺せば、彼女は俺たちのものになるんだ!」徹の指は、すでに引き金を半分以上引いていた。あと少し力を込めればいい。北斗は死ぬ。そうすれば、綾乃を西浜市へ連れ戻せる。だが――綾乃の顔に浮かぶ、あまりにも眩しい笑顔を見た瞬間、徹は再びためらってしまった。今日は、彼女の結婚式だ。長い時間をかけて、大切に準備してきた晴れの日。彼はこの一ヶ月、ずっと彼女の後を追い続けてきた。幸せそうに笑う姿を、何度も見てきた。何度もウェディングドレスを試着する姿を見てきた。聖堂で何度もリハーサルを重ねる姿も見てきた。もしここで撃てば――次の瞬間には、北斗の血が彼女の純白のドレスを赤く染める。彼女は泣くだろう。生きていけないほどの苦しみを背負うだろう。ようやく取り戻した、あの生き生きとした笑顔も、再び死んだように凍りついてしまう。「駄目だ……」徹の指先から力が抜け、拳銃が今にも滑り落ちそうになる。その躊躇に気づいた傷痕の男は激怒し、徹の手を乱暴に掴んだ。「何をしている!この役立たずが!撃て!さっさと撃て!この世界線では、お前自身の手で北斗を殺すしかない。だから俺がこうして力を貸してやっているんだ!このゴミが……!」「失せろ!」徹は真っ赤に血走った目で傷痕の男を思い切り蹴り飛ばした。涙がとめどなく頬を伝い、その場に崩れ落ちながら絶叫する。「もう無理だ……これ以上、あいつを傷つけるなんて
男は何も答えなかった。冷ややかな笑みを浮かべると、ゆっくりとサプレッサー付きの拳銃を取り出す。漆黒の銃口が、美月の眉間へと静かに押し当てられた。「今回を含めて、俺がお前を殺すのは九回目だ。これが最後になることを願うよ」男の声には、感情の起伏など微塵もなかった。まるで美月の命を奪うことなど、取るに足らない些細なことだと言わんばかりに。「いや……やめて!助けて――!」美月は絶望に満ちた悲鳴を上げた。だが、返ってきたのは、引き金が引かれる鈍い銃声だけだった。次の瞬間、鮮血が飛び散る。美月は目を大きく見開いたまま床へと崩れ落ち、そのまま息絶えた。男は無言で拳銃をしまう。しばらく冷たい目で美月の亡骸を見下ろした後、かすれた声でぽつりと呟いた。「次に会う時は、少しは身の程をわきまえて、さっさと遠くへ身を隠しておくことだ。もう二度と、俺と綾乃の邪魔をするな」そう言い残すと、男は踵を返した。一度も振り返ることなく、血の匂いが漂う地下室を静かに後にした。……S国・湖畔都市。徹は、まるで人目を避けてさまよう亡霊のようだった。遠くから綾乃の後ろ姿だけを追い続ける日々が、もう丸一か月も続いていた。その間、何度か北斗に見つかり、激しい取っ組み合いになったこともある。一番ひどかった時には、肋骨を三本も折られた。それでも、彼が血を吐き、無様に地面へ倒れ込んでも、綾乃は完全に見て見ぬふりをしていた。彼女は痛ましそうな眼差しで、北斗の頬についた小さな擦り傷をそっと撫でていたのだ。徹は激痛に全身を震わせながら、真っ赤に血走った目で惨めに懇願した。「綾乃……俺を見てくれ。俺の方が、ずっとひどい怪我をしてるのに」だが綾乃は、風のように軽い一瞥を彼へ向けると、その目の前で北斗に口づけをした。そして、北斗を優しくなだめるように囁く。「あんな人、放っておきましょう。ついてきたいなら好きにさせればいいわ。あの人がいない私は、こんなにも幸せに暮らしているんだって、その目でしっかり見せてあげればいいもの」その日を境に、北斗は二度と徹を相手にしようとはしなかった。徹はまるで負け犬のように、ただ二人の後を追い続けた。綾乃と北斗がウェディングドレスを選ぶ姿を見つめ、二人が指を絡め合い、歴史ある大聖
徹の悲痛な叫びと、邸宅の柵が蹴り倒される凄まじい轟音が、庭を包んでいた穏やかな空気を一瞬で打ち破った。綾乃の顔から、笑みがすっと消える。彼女は振り返り、大股でこちらへ突進してくる徹を見つめた。五年ぶりにかつての夫と再会したというのに、綾乃の胸に浮かんだのは、ほんのわずかな嫌悪感だけだった。だが、その一方で徹は、再会に激しく心を揺さぶられていた。綾乃へ伸ばした手は、小刻みに震えている。しかし彼女へ届くより早く、その手は傍らにいた北斗に容赦なく払いのけられた。それでも徹には、他の誰の姿も見えていないようだった。血走った両目で、ただひたすら綾乃だけを見つめている。「綾乃、五年間……ずっとお前を探していた。俺と一緒に帰ろう」その口調には、それが当然だと言わんばかりの確信がにじんでいた。その自信を支えているのは、かつて綾乃が彼へ惜しみなく注いでいた、見返りを求めない深い愛情だった。それどころか、彼は北斗にさえ見下すような視線を向けていた。まるで――俺がいない間に付け込んだだけだ。俺が戻ってきた以上、誰にも綾乃は奪えない――そう言わんばかりに。だが、その次の瞬間。波ひとつ立たないような綾乃の静かな一言が、彼の都合のいい夢を粉々に打ち砕いた。「氷室さん、五年前にあなたとはすべて清算しました。あなたが壊した物の請求書は弁護士から送らせます。ですから、今すぐここから出て行ってください」徹はその場で凍りついた。「綾乃、何を意地になってるんだ」彼は無理やり歪んだ笑みを作る。「あの時は俺が悪かった。それは分かってる。全部調べたんだ。俺は美月に騙されていた。あの6000万円だって……」「もういい加減にして」綾乃は最後まで聞こうともしなかった。「それはあなたと彼女の問題でしょう。私には何の関係もないわ」「違う……」徹は目を赤くし、一歩前へ踏み出した。「関係ないはずがない。もしあいつさえいなければ、俺は……もっと早く、お前と過ごす時間の中で自分の本当の気持ちに気づいていた。綾乃、お前はずっと俺に愛されたいと願っていただろう。俺は愛してる。とっくにお前を愛していたんだ。でも、それを認めるのが怖かった。お前はあまりにもまぶしい存在で……俺なんかにはふさわしくないと思っていた。だから頼む
そう言い終えるや否や、徹は勢いよく踵を返し、よろめきながら車へ乗り込んだ。黒い高級車は狂ったような勢いで、地下駐車場を猛スピードで走り去っていく。そして、徹に真実を告げたあの男は、ゆっくりと闇の中へ姿を消した。彼は静かに、徹の車のテールランプが遠ざかっていく先を見つめていた。死んだように虚ろな瞳の奥では、病的なまでの執着が渦を巻いている。彼は低く呟いた。「行け。今度こそ……間に合うといいがな」ゆっくりと視線を伏せ、ざらついた指先でポケットの中にある氷のように冷たい拳銃をなぞる。その口元には、じわりと陰惨な笑みが浮かび上がった。「もしこの世界線の俺が、それでも彼女を取り戻せなかったら……その時は……前の世界線であのゴミどもを始末した時と同じように、この俺がお前を殺す。お前たちを皆殺しにして、すべての世界線に残るのを俺一人にするしかない」彼は天を仰ぎ、虚空を見つめながら、懐かしむように小さく囁いた。「あいつらが全員死ねば、十八歳のあの日、綾乃が一目惚れするのは、過去へ戻ったこの俺になる……綾乃、今度こそ俺は、お前を悲しませない。苦しませて死なせたりもしない。だから……俺を信じてくれ」……十二時間後。一台の黒いセダンが、S国の湖畔で急ブレーキをかけて止まった。車のドアを開ける徹の手は、かすかに震えていた。五年。千八百日を超える歳月、骨の髄まで蝕まれるほど募らせ続けた想い。ついに――綾乃に会える。徹の血走った瞳は、その先にあるヴィラ6号を一瞬たりとも見失わなかった。深く息を吸い、鉛のように重い足を一歩、また一歩と前へ運ぶ。白い柵に囲まれた邸宅の庭では、見渡す限りのバラが今を盛りと咲き誇っていた。色も品種も異なるバラが、競い合うように鮮やかな花を咲かせている。そして、その花々の中でうつむき、枝を剪定していたのは、見覚えがあるのに、どこか別人のようにも見える女性だった。彼女が顔を上げた瞬間、徹の呼吸は止まった。綾乃だった。彼女は長い髪を切っていた。艶やかな黒髪のボブが頬に沿って揺れ、その端正な顔立ちをいっそう引き立てている。淡い色合いのリネンのロングワンピースが、しなやかな体のラインを美しく包んでいた。陽光を浴びた横顔にえくぼが浮かび、バラに囲まれたその姿
隆一はうつむき、言葉を選ぶように口を開いた。「申し訳ありません、社長。私たちが使える国外ネットワークをすべて動員し、表も裏も徹底的に調べ尽くしました。ですが奥様は……まるでこの世から完全に姿を消してしまったかのようです。フライトの記録も、カードの利用履歴も、暮らしている形跡は何一つ見つかりませんでした。社長、奥様は相当な手間と代償を払って身を隠されたのでしょう。本気で、私たちに見つかりたくないのだと思われます」部屋は水を打ったような静けさに包まれた。長い沈黙の末、徹は突然激昂した。傍らにあったドレッサーを、力任せに蹴り倒した。「ふざけるな」真っ赤に血走った目で、かすれた声を張り上げた。「綾乃は十八の頃から今日まで、ずっと俺を愛し続けてきたんだ。俺から離れられるはずがないだろう!あいつを見つけ出して、俺の心にもあいつがいると伝えさえすれば、必ず俺のもとへ戻ってくる。探せ……まだ探し続けろ。ダークウェブに懸賞金をかけろ。2000億円まで積め。どんな代償を払ってでも、この世界をひっくり返してでも、必ずあいつを見つけ出せ」……だが皮肉なことに、宿命とはどこまでも残酷だった。縁が繋がっているうちは、彼がどれほど冷たく突き放そうと、綾乃はいつも彼の手の届く場所にいた。だが、一度その縁が切れてしまえば、彼が世界中を探し回り、あらゆる手を尽くしても、ほんのわずかなすれ違いさえ叶わなくなってしまう。一年。二年。三年――気づけば、五年の歳月が流れていた。長いようで、あまりにも短い五年間。しかし徹の胸にくすぶり続けた恋しさが、取り返しのつかない執着へと変わるには、それで十分すぎる時間だった。彼だって何度も試した。忘れよう。諦めよう。そう自分に言い聞かせなかったわけではない。酒に溺れ、快楽に逃げたこともある。美しい女を腕に抱いたこともある。だが最後の一線を越えようとするたび、決まって目の前には、目尻を赤くして唇を尖らせた綾乃が現れ、こう問いかけるのだ。「徹、いつになったら私の機嫌を取りに来てくれるの?早く来てくれないと、もう一生、相手にしてあげないんだから」この5年間、徹は狂ったように氷室グループの事業を世界中へ広げ続けた。誰もが彼を、類まれな才能を持ち、冷酷で決
その瞬間――徹の脳裏に、凄まじい雷が落ちた。6000万円。美月の命を救うため、その6000万円のために――彼は宗一郎に頭を下げ、入り婿の契約書にサインし、それ以来、綾乃を心の底から憎み続けてきた。だが、まさか……美月が自分を騙していたなんて。6000万円――それは、美月がM市のカジノで作った、ただのギャンブルの借金だったのだ。胸の奥で怒りが渦を巻き、自分自身を引き裂きそうになる。それでも徹の口元には、冷え切った笑みが浮かんでいた。彼の声は極限まで冷たかった。「他には?」「まだあります……」隆一はタブレットを操作し、多大な労力をかけて復元した防犯カメラの映像を次々と映し出した。一つ目は地下カジノの映像だった。美月はわざとスマホの電源を切ると、そばにいた友人へ得意げに話していた。「綾乃って本当に臆病よね。人を雇って私を捕まえようとしたくせに、最後は怖くなって手を引くんだから。でも別にいいの。私が自分から姿を隠せば、あの女はひどい目に遭うんだから」二つ目は氷室邸の寝室。映像には、美月がわざとジュエリーを壊して綾乃を挑発し、それでも相手にされないと、今度は綾乃の手首にはめられたエメラルドのバングルを力ずくで引き抜こうとする姿が映っていた。最後には自ら発作を装って床へ倒れ込み、その結果、綾乃は自分の手首の骨を折ってまで無理やりバングルを外していた。三つ目は慈善パーティーの会場。美月が綾乃の腕を強く掴み、そのまま無理やりシャンパンタワーへ突っ込んでいく様子がはっきり映っていた。それなのに彼は美月をかばうあまり、満身創痍の綾乃を大勢の前で追い詰め、強い酒を二本も無理やり飲ませたのだ。そして最後。集中治療室のテラスに設置された高画質の防犯カメラ映像。徹は読唇術に長けていた。彼は美月の唇の動きを食い入るように見つめた。――あなたのお父さんを殺そうとしてるの。――お父さんが死んだ時、あなたが今みたいに平然としていられるか、楽しみね。その直後、ボディガードが綾乃の華奢な背中を容赦なく蹴り飛ばした。十回。容赦のない蹴りが、十回も。綾乃は床にはいつくばり、大量の血を吐いていた。それなのに自分は現場へ駆けつけたあと、深い昏睡状態にある宗一郎を、真夏の炎天下へ5分間も放







