翌日、さくらは参内し、清和天皇の御前に進み出た。「玄鉄衛の玄甲軍を、私の配下に戻していただきたく」天皇は鋭い眼差しでさくらを見据えた。「都の全兵力を、お前に委ねよというのか」「玄甲軍でございます」さくらは凛と顔を上げ、揺るぎない瞳で答えた。「陛下、京外衛所の兵、神火器部隊の一万五千はすでに燕良州へ向かっております。都の守りは玄甲軍のみ。これ以上、分散させてはなりませぬ」「都の全兵力を、朕の親衛をも含めて、お前の指揮下に置けと?」天皇は言葉を繰り返した。さくらは一瞬の躊躇も見せず、相手の疑念などまったく意に介さぬように、「はい!」と力強く頷いた。天皇は微かな笑みを浮かべた。「邪馬台には汝の夫が、関ヶ原には外祖父と叔父上が、穂村規正は汝の父の旧臣、天方十一郎は汝らが救い出した身。そこへ都の兵まで委ねるとなれば——上原卿、その意味するところが分かっておろうな?」「玄武様は邪馬台で外敵と戦い、外祖父と叔父は関ヶ原で平安京軍と対峙し、穂村将軍は賊を討ち、天方将軍は反逆者を包囲している」さくらは毅然と答えた。「私は都を守る。それぞれが己が持ち場を守り、大和国と民を護るのみにございます」天皇は頷き、笑みを深めた。だがその笑みは瞳の冷ややかさを際立たせるばかり。「理のある言葉だ。だが、朕は国と朕の身命すべてを、お前らに託すのだぞ。この信頼の重みが分かるか」「この命に代えてもお応えいたします」さくらは強く断言した。清和天皇はしばらくさくらを見つめた後、手元の奏折を整えながら静かに告げた。「承知した。そうそう、太后様が大皇子の養育にご苦労なさっておられる。恵子皇太妃と潤くんを参内させようと思う。皇太妃には太后様のお相手を、潤には大皇子の学友をさせるつもりだ」それは相談ではなく、通達だった。さくらは胸の内で激しく渦巻く憤りを必死に抑え込んだ。——陛下なのだ。兵権を全て委ねれば不安になるのも当然。我慢だ、我慢するのだ——沈黙の後、さくらは勢いよく顔を上げた。「お尋ね申し上げても宜しいでしょうか。陛下は本当に母妃様と潤くんを伴侶として召し入れられるのですか。それとも、私たち夫婦の反逆を防ぐための人質としてでしょうか」天皇の瞳に危うい光が宿ったが、声は相変わらず平坦だった。「上原さくら、無礼であろう」「どうか、もう一度の無礼をお許しく
清和天皇は、水無月清湖の調査結果と同様、寧世王が確かに領地を離れていないことを確認した。毎日のように妻子を連れて芝居小屋へ通い、雅楽を愛でる日々を過ごしているという。寧州には寧世王が設立した養育院があり、孤児や老人たちの避難所となっていた。芝居見物の後は、必ずのように養育院を訪れては様子を見て回っているとのことだった。だが、清湖の調査で、天皇の知り得なかった事実が一つ浮かび上がった。それは、寧世王が沢村家当主に命の恩がある、という事実だった。七、八年も前の話である。当時まだ家督を継いでいなかった沢村家当主が牧場の見回りの途中、何者かの襲撃に遭った。その時、偶然通りかかった寧世王一行が命を救ったのだという。寧世王は元来、控えめな性格で、沢村家との関わりを望まなかったため、当主に口止めをしたという。恩返しなど不要だと告げ、人命を救ったことは自分にとって些細なことに過ぎないと言い残したそうだ。襲撃に遭った一行のほとんどが命を落とし、生き残ったのは沢村家当主と側近の魔三郎のみ。清湖は以前、荷物の護送中に襲われた魔三郎を助けたことがあり、その縁で魔三郎から昔日の出来事を聞き出すことができたのだった。清湖からの密報を受け、さくらが紫乃に確認すると、「えっ、そんなことがあったの?私、全然知らなかったわ」と紫乃は目を丸くした。七、八年前と言えば、紫乃はすでに梅月山におり、実家で何が起きていたかなど、知る由もなかったのだ。「父上に手紙を書いてみようか……」紫乃は眉を寄せ、心配そうな表情を浮かべた。もし寧世王があの黒幕で、父上に命の恩までもあるとしたら。いざという時に、その恩を盾に取られたら、父上は手を貸してしまうのだろうか。これまで何度か沢村家が事件に関わった時も、紫乃は心配することはなかった。父は朝廷への忠誠心が厚いことを、彼女はよく知っていたから。皇商として、朝廷の軍馬を育て、兵部の武器鍛造も請け負っている。朝廷の恩恵を受けている身で、逆賊など助けるはずがない——そう、これまでは確信していた。でも命の恩となれば話は別だ。忠君愛国の人であっても、恩義には報いようとするものだから。「慌てることはないわ」さくらは落ち着いた声で言った。「清湖師姉が、あの襲撃事件のことをもう少し調べるって」「え?」紫乃は目を丸くした。「清湖さん、
「つまらないわね」紫乃は軽く笑うと、饅頭とあかりに情報を共有した後、さっさと邸を後にした。真っ直ぐに禁衛府へ向かい、さくらを見つけ出す。さくらは紫乃を奥へ引き入れると、早速「どうだった?何か見つかった?」と尋ねた。「夜になると人の気配があるの。まるで見回りみたいだけど、日が昇ると跡形もなく消えてしまう」紫乃は息を整えながら続けた。「邸内の殆どの屋敷を調べたけど、確かに人は住んでいないわ。使用人たちの住まいも確認したけど、青影の言う使用人の数と寝床の数は一致してた」さくらは眉を寄せ、考え込んだ。「地下道か密室でもあるのかしら。今は夜間の外出が禁止されているはず。あなたたちが聞いた足音が本物なら、その人たちは邸内に潜んでいるはずよ」「地下道や密室があるとなると、探るのは難しいわね」紫乃は饅頭から聞いた厨房の様子を思い出した。「厨房では毎日、百人分以上の食事が用意されているの」さくらの瞳が光った。「なら、その食事がどこへ運ばれているか見張れば、すべてが分かるんじゃない?」「そうね」紫乃は急いで報告しようとして、その視点を見落としていた。「でも、饅頭がきっと見張っているはずよ。最近の饅頭は随分頼りになるもの」さくらは仲間たちの成長ぶりに、密かな誇らしさを感じた。「親王様と青影には、何か変わった様子は?」「特には見当たらなかったけど、昨日庭を散策している時、五人の武芸者が見張っていたわ。青影に訊ねたら、親王様の護衛だと言っていたけど」「その五人は使用人部屋に?」「ええ、他の使用人と一緒よ」紫乃は続けた。「その五人以外には特に怪しい者はいなかったわ。粟原十七は、親王様の長年の側近で、故郷に身寄りがないから、老後を親王様の側で過ごしているそうよ」「あ、それと新しい執事の関谷という方がいるの。五十代後半くらいかしら。とても慈愛に満ちた方みたい」「粟原のことは知っているわ。確かに長年の付き人よ」さくらは言った。「でも関谷という名は初耳ね。武芸の心得はありそう?」紫乃は記憶を辿った。「なさそうよ。両手が震えていて、体調もあまり良くないみたい。青影の話では、邸内では主人同然の扱いだそうよ」「帰ったら、その関谷の素性を探ってみて」さくらは言った。「なぜ突然、執事という重職に就けたのか」紫乃は頷いてから、話題を変えた。「清湖
紫乃は彼らをじっくりと観察した。二人は背丈こそ低いものの、引き締まった体つきで、特に腕の筋肉が際立って盛り上がり、首筋の筋も浮き出ていた。残りの三人は比較的背が高く、呼吸に特別な乱れは感じられなかったが、その足元に目を向けると、履き物には塵一つ付いていない。明らかに内功を修めた者の特徴だった。内功の修練が深ければ、呼吸は自在に操れる。粗く荒らげば荒らすほど、また細めれば細めるほど、すべて意のままという彼らの技量は並々ならぬものと見た。「武芸は嗜んでいるの?」紫乃が尋ねると、彼らは首を振り、実に朴訥な表情を作って「いいえ」と答えた。紫乃はもう一度彼らを見定めると、突如、背の低い男に向かって拳を繰り出した。男の目が一瞬光ったが、すぐさま目を閉じ、おびえたような表情を浮かべた。紫乃は拳を引いた。一瞬の眼光に武者の本能が現れていたが、よく抑制されていた。受け止める動きに出なかったことが、かえって不自然だった。素人なら、顔を狙われれば反射的に手を上げるはずなのに。紫乃は薄く笑みを浮かべ、踵を返した。彼らは冷たい視線を交わし、ゆっくりと後退していった。青影は片手で額を支えながら、複雑な眼差しでその様子を見つめていた。期待なのか、恐れなのか。先ほどまでの平静さは完全に失われていた。三人は老親王の玉京館の隣に案内された。薔薇の花に覆われた中庭のある「薔薇苑」という屋敷だった。壁一枚隔てた玉京館では、耳の良い者なら、大きな声での会話くらいは聞き取れそうな距離だった。青影も玉京館に住んでいたが、別棟であった。元々は大長公主が老親王の側室として送り込んだのだが、老親王は側室を必要とせず、心から話し相手として遇してくれた。以前は自分の住まいがあったものの、使用人の話では最近は玉京館で過ごすことが多いという。実際に住んでみると、この湛輝親王邸の不可解さが身に染みてきた。夜になると、まるで見回りでもするかのように、多くの人影が行き交う。饅頭が起き出して確認したところ、確かに人の気配が揺らめいていた。昼間の明るく楽しげな雰囲気とは打って変わり、夜の邸内は異様な緊張感に包まれていた。その重苦しさの源は分からないものの、寝台に横たわっていても、何とも言えぬ殺気のようなものが漂っていた。日中、邸内の人々を観察してみると、あ
有田先生による湛輝親王邸の調査で、ここ数ヶ月の間に数名の使用人が居なくなっていたことが判明した。有田先生は都中の仲介所を探り回ったが、正規の雇用経路で入った者たちではないことが分かった。役所の奴籍文書にも記録は残っていない。協議の末、紫乃自身が湛輝親王邸に住み込むことを決意した。「湛輝親王様とはずっとお付き合いがあるからさ、私は信じてるわ」紫乃はさくらに告げた。「もし本当に黒幕の正体が湛輝親王様だったとしても、私には文句を言う資格なんてないわね」さくらは紫乃を一人で行かせる気にはなれず、饅頭とあかりも同行させることにした。何かあった時の心強い助けにもなる。もし湛輝親王が本当に身の危険を感じているのなら、あかりと饅頭の同行を拒むはずがない。助けは多ければ多いほど良いはずだ。逆に拒否するようなら、紫乃を呼んだ真の意図は別にあると見るべきだろう。さくらが自ら一行を送り届けると、湛輝親王は嬉しそうに出迎えた。友人二人も一緒だと聞くと、手を打ち鳴らして「これは賑やかになりますな。ようこそ、ようこそ」と笑顔を見せた。「では、ここを我が家のようにさせていただきますわ」紫乃が屈託なく笑いながら言うと、「それは結構」湛輝親王は即座に厨房へ、今夜は料理を増やすよう指示を出した。さくらも笑みを浮かべながら一同と共に邸内へ入った。特に注意深く老親王の様子を観察すると、確かに心から喜んでいるように見えた。だが、その喜びが真実のものか、それとも演技なのか……この世の中、人の心など簡単には見抜けないものだと、さくらは思わずため息をついた。さくらは昼餐を共にした後、禁衛府へ戻っていった。紫乃は椎名青影に案内を頼み、三人で邸内を巡ることにした。湛輝親王邸の花園は梅月山ほどではないものの、なかなかの趣があり、この季節ならではの風情を醸し出していた。青影はゆっくりとした足取りで、同じように緩やかな口調で邸内の各院を説明していく。これまでは老親王と彼女の二人の主人に、半ば主人同然の関谷という執事がいただけだという。「関谷?」紫乃は首を傾げた。「執事が替わったの?」「ええ」青影は重たげな足を引きずりながら答えた。「前の方は年配でしたので、故郷へお戻りになられました。あ、そうそう、親王様のお側の方々も皆、故郷へ戻られましてね。只今は粟原十七と
ある者は、生まれながらにして戦場の申し子なのだ。戦場に立つ玄武は、都にいる時よりも遥かに決断が早く、迷いがなかった。誰の顔色を伺う必要もなく、誰に気を遣うこともなく、ただ自分の信じる道を進めばよかった。三日と経たぬうちに、噂を広めていた者たちは一人残らず捕らえられた。練兵場に引き立てられた彼らは、兵士たちの前で二十回の軍棒を食らい、痛みに悶え苦しみながら、問われるままに全てを白状した。背後の黒幕など知らぬと彼らは言う。ただ銀子を受け取り、言われた通りに噂を流しただけだと。その結果がどうなろうと、自分たちには関係のないことだった。「羅刹国の八十万の大軍が押し寄せている」……虚言!「清和天皇が北冥親王を処刑した」……もちろん嘘。その当人がここにいるではないか。「親房元帅は戦えぬと悟って逃げ出した」……これも偽り。あれは単なる臆病者の逃亡だ。噂が一つ一つ明かされるたび、兵士たちの怒りは頂点に達し、「打ち首にせよ」との怒号が響き渡った。軍を惑わす輩、死は免れまい。しかし玄武は冷ややかな目で一同を見渡すと、「噂を鵜呑みにした者たちよ。己の至らなさを省みよ。そして、これからの戦いに魂を込めるのだ」と声を張り上げた。軍を惑わす者は敵。敵の血こそが、最初の敗北がもたらした傷を洗い流してくれる。そして、新たな殺伐の心をも呼び覚ますのだ。噂を流した者たちへの処刑を終えると、玄武は鹿之佑に都へ急報を送らせた。北冥親王が邪馬台に到着したものの兵符を持たぬため、将軍たちの統率について判断を仰ぐ、という内容だった。その急報が発せられてから三日後、思いがけず勅旨が届いた。玄武は一瞬驚いたものの、すぐにさくらの手配だと悟った。親房甲虎の逃亡の報が都に届けば、さくらが必ず勅旨を取り付けるだろうと。鹿之佑に急報を送らせたのも、邪馬台軍の立場を陛下に示すためだった――彼らが従うのは兵符と勅旨であり、北冥親王という個人ではない、と。これなら陛下も幾分か安堵されるだろう。都では、清和天皇も鹿之佑からの急報に目を通していた。読み終えると、天皇の表情が和らいだ。最も懸念していた玄武の邪馬台軍における絶対的な地位の問題が、この急報によって払拭された。邪馬台軍は朝廷の軍であって、玄武個人の軍ではないことが明確になったのだ。鹿之佑の急