Share

第1028話

Author: 佐藤 月汐夜
桃は雅彦を避けようとしたが、どうしても無理だった。彼のあの顔を見た瞬間、胸の奥がじわじわと沈んでいくのを感じた。

次第に、何も感じなくなってきた。もしかすると、少し痛みがあったほうが目が覚めるのかもしれない。

今彼女が考えるべきことは今日あった出来事をどう雅彦に説明すればいいのか。

すべては麗子の仕組んだ罠だったと話せば、彼は信じてくれるだろうか。

そんなことを考えていた時、雅彦の手が桃の太ももに触れた。もっと奥のほうを確認しようとしているようだった。

彼の呼吸は荒くなり、その中に微かな狂気すら感じ取れた。

次の瞬間、鋭い痛みが桃の全身を貫いた。

「やめて……!」彼女は叫び、力いっぱい彼を突き放そうとした。

しかし、雅彦はまるで我を忘れたかのように、彼女の腕を押さえつけて動けなくした。

「どうして拒む?あいつのときも同じように拒んだのか? それとも、嬉しかったのか?」

彼のかすれた声には、痛みと怒りが入り混じっていた。

「私は……本当に、彼とは何もしてない。信じてくれないなら、病院に行こう。検査してもらえばわかるから」

桃の唇は痛みで真っ白になっていた。体だけではなく、心の奥まで裂けるような痛みが広がる。

彼女はまるで、底なしの渦に呑み込まれていくようだった。もがけばもがくほど、深く沈んでいく。

一番つらいのは、自分がいつからこの渦に落ちたのかさえ分からないことだった。

「医者など必要ない。俺が確かめる……それで十分だ」もはや雅彦の耳には、桃の言葉は届いていなかった。次の瞬間、強引に、桃の中へ入り込んできた。

桃の身体は何の準備もなく、痛みによって激しく軋んだ。叫び声さえも出せず、視界がかすみはじめる。

――夢だったらよかったのに。

でも、この悪夢はどうやったら覚めるの?

そして、どれだけの時間が経ったのか――彼がようやく動きを止め、離れたとき、桃の目は虚ろに宙を見つめていた。

身体の感覚はほとんど失われ、ただ、琥珀色の瞳だけがゆっくりと彼を見据えた。「……で?何が分かったの?」

彼は答えなかった。その行動は、頭で考えたものではなく、本能のままだった。桃の身体に他人の痕跡が残っていることに、どうしても耐えられなかった。だから、自分の手でそれを消そうとしただけ。

それ以外のことは、見えていなかった。

返事がなくても、桃に
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 植物人間の社長がパパになった   第1029話

    「やっぱり……信じてないんでしょ?まだ私が嘘をついてるって思ってるの?」桃は思わず声を荒げてしまった。気持ちが抑えきれず、心が一気に崩れ落ちていく。正直、あまりにも急な出来事ばかりで、最も深く傷ついたのは――間違いなく彼女自身だった。目の前の男の表情には、怒りと失望しかなかった。結局、彼は自分を疑っていた。「別に、信じてくれなくてもいい。自分で証拠を見つけるから」そう言って桃はどこからか力を振り絞り、雅彦を思いきり突き飛ばした。ぐらつく体を無理やり支えながら、ベッドを降り、痛みと怠さをこらえて服を探し、部屋を出ようとした。雅彦は慌てて桃の手をつかんだ。「桃、どこに行くつもりだ?」「麗子のところ。あの女が全部仕組んだに決まってる。証拠を見つけなきゃ……それに佐俊、あの人も何か知ってるはず。ここにはもう、いられない……」桃の目はどこか虚ろで、でも口は止まらなかった。もう二度と、何も言い返せずに泥をかけられるような思いはしたくなかった。またあのときと同じ……麗子に無理やり服を脱がされ、広場で淫らな女だと晒された、あの屈辱と無力感。もう、あんな思いは繰り返したくない。たとえ誰も信じてくれなくても、自分の無実は自分で証明する。だって今の彼女には、守るべきものがある。ちゃんと真相を明らかにしなければ、子どもたちはどうなる?ずっと陰口を叩かれながら生きていくことになるかもしれない。そんな未来、絶対に許せない。桃の必死な様子に、雅彦はもう彼女を一人で行かせるわけにはいかないと思った。だが、彼女はまるで取り憑かれたように暴れ出した。必死に止めようとしたその腕に、桃の爪が深く食い込んだ。赤い線が三本、雅彦の腕に浮かび上がる。「っ……!」雅彦は思わず息を呑んだ。このまま彼女を行かせるなんて、危なすぎる。体も心もボロボロの状態じゃ、まともな判断なんてできない。だから――そう悟った雅彦は、意を決して彼女の首筋に手で強くたたいた。桃はそのまま意識を失って、全身の力が抜け、彼の胸元に静かに倒れこんだ。雅彦は何も言わず、桃を浴室へと運び、桃の身体に付いた汚れを優しく洗い落としていく。彼女の体に残された痕を見て、胸の奥に湧き上がる怒りをぐっと押し殺しながら、ひとつずつ、丁寧に、汚れを洗い流していった。だが、彼

  • 植物人間の社長がパパになった   第1028話

    桃は雅彦を避けようとしたが、どうしても無理だった。彼のあの顔を見た瞬間、胸の奥がじわじわと沈んでいくのを感じた。次第に、何も感じなくなってきた。もしかすると、少し痛みがあったほうが目が覚めるのかもしれない。今彼女が考えるべきことは今日あった出来事をどう雅彦に説明すればいいのか。すべては麗子の仕組んだ罠だったと話せば、彼は信じてくれるだろうか。そんなことを考えていた時、雅彦の手が桃の太ももに触れた。もっと奥のほうを確認しようとしているようだった。 彼の呼吸は荒くなり、その中に微かな狂気すら感じ取れた。次の瞬間、鋭い痛みが桃の全身を貫いた。「やめて……!」彼女は叫び、力いっぱい彼を突き放そうとした。しかし、雅彦はまるで我を忘れたかのように、彼女の腕を押さえつけて動けなくした。「どうして拒む?あいつのときも同じように拒んだのか? それとも、嬉しかったのか?」彼のかすれた声には、痛みと怒りが入り混じっていた。「私は……本当に、彼とは何もしてない。信じてくれないなら、病院に行こう。検査してもらえばわかるから」桃の唇は痛みで真っ白になっていた。体だけではなく、心の奥まで裂けるような痛みが広がる。彼女はまるで、底なしの渦に呑み込まれていくようだった。もがけばもがくほど、深く沈んでいく。一番つらいのは、自分がいつからこの渦に落ちたのかさえ分からないことだった。「医者など必要ない。俺が確かめる……それで十分だ」もはや雅彦の耳には、桃の言葉は届いていなかった。次の瞬間、強引に、桃の中へ入り込んできた。桃の身体は何の準備もなく、痛みによって激しく軋んだ。叫び声さえも出せず、視界がかすみはじめる。――夢だったらよかったのに。でも、この悪夢はどうやったら覚めるの?そして、どれだけの時間が経ったのか――彼がようやく動きを止め、離れたとき、桃の目は虚ろに宙を見つめていた。身体の感覚はほとんど失われ、ただ、琥珀色の瞳だけがゆっくりと彼を見据えた。「……で?何が分かったの?」彼は答えなかった。その行動は、頭で考えたものではなく、本能のままだった。桃の身体に他人の痕跡が残っていることに、どうしても耐えられなかった。だから、自分の手でそれを消そうとしただけ。それ以外のことは、見えていなかった。返事がなくても、桃に

  • 植物人間の社長がパパになった   第1027話

    すべてを目の当たりにした桃は、思考が真っ白になっていた。ただ、反射的に自分の体に布団を掛けて隠すしかなかった。しばらくして、桃はそっと顔を上げた。視線の先には、彼女をじっと見つめる雅彦の姿があった。その瞳には怒りがあった。だがそれ以上に、混乱と苦しみ、そして言葉にできない戸惑いが浮かんでいた。桃は何か言おうとして口を開いた。けれど、喉が枯れて声が出ない。自分でも何が起きたのか分からないのに、何をどう説明すればいいというのだろう。どうしようもない思いは、結局ただの苦しいため息になった。桃のそんな様子に、雅彦の胸はズタズタに引き裂かれるような痛みでいっぱいになった。彼女が黙っているのは、ただ逃げているだけのように感じられた。大きな部屋に、重たい静けさが漂った。しばらくして、記者を連れ出した部下が戻ってきて言った。「カメラの中身はすべて確認済みです。データは削除し、メモリーカードも破棄しました」「佐俊の方は私が先に連れて戻ります。雅彦様も、あとでじっくりお話をされるでしょうし……」雅彦はただ黙って頷いた。海は、血まみれで傷だらけの佐俊を連れてその場を去った。去り際、佐俊は一度だけ振り返り、桃に向かって真剣な表情で言った。「……ごめん」その言葉に、桃はふと悟った。つまり、すべてに佐俊も関わっていたのだ。彼女は気づかぬうちに、ずっと前からこんな綿密に仕組まれた罠にハマっていて、少しずつ追い詰められ、今の状況にまで至っていたのだ。部屋には桃と雅彦の二人だけが残された。二人の視線がそっと交わった。「……何も、説明しないつもりか?」雅彦が無理に口を引きつって笑った。だがその笑みは、泣き顔よりも痛々しかった。――まさか、こんなことが自分の身に起きるとは思わなかった。なのに、目の前のこの女を――彼は、怒鳴ることも、責めることもできない。……どうしてもできないのだ。自分に向けるはずの怒りすら、飲み込むしかない。あまりにも、惨めだった。「……私は、裏切ってない」桃はかすれた声で、ようやくそう言った。声はまるで紙やすりで削ったように荒れていて、話すたびに喉が痛んだ。それでも彼女は、その痛みに気づいていないかのようだった。だが、桃自身でも分かっている。こんな姿で何を言っても、説得力なんてあるはずがない。雅彦

  • 植物人間の社長がパパになった   第1026話

    佐俊は最初こそ抵抗しようとしたが――相手は雅彦だった。歯が立たない。拳を数発食らっただけで、彼は地面に倒れ込み、息も絶え絶えになりながら殴られ続けるばかりだった。雅彦はまるで感覚が麻痺したかのように、ひたすら拳を振るい続ける。顔にも、身体にも、怒りのままに拳を叩き込むその姿は、まるで相手を殺さなければ気が済まないとでも言うようだった。周囲の記者たちは、もともと「菊池家の奥様の浮気」というスキャンダルを狙ってここに来ていた。だが、目の前の光景に、足がすくみ、その場から動けなくなった。怒りに駆られた雅彦は、本気で相手を殺すつもりなんじゃないか?たしかに気持ちは理解できる。だが、もしここで人が死ねば、ただでは済まない。ちょうどその時、海が到着した。場の状況を一目で把握すると、冷静な口調で部下たちに指示を出す。「記者たちを全員追い出せ。撮った写真も動画も全部削除しろ。メモリーカードも破棄しろ」海は桃を嫌っていたが、それでも分かっていた。この件が世間に漏れれば、最も傷つくのは、雅彦本人だということを。妻に裏切られた男が、さらにその一部始終を世界中に晒される――普通の男でも壊れるのに、プライドの高い雅彦が無事で済むはずがない。「そんなの許されない!」「不倫したくせに、今度は私たちの口を塞ごうっての?」「カメラに触るな!触ったら警察に通報するぞ!」記者たちは口々に叫んだ。だが海は冷ややかに笑う。警察?たとえ記者であろうと、ここまで他人のプライバシーを侵害する権利などない。「損害賠償は菊池グループが責任を持って対応する。だがその中身は……おとなしく渡してもらう」海の命令と共に、訓練を受けた男たちが素早く動き、記者たちを連れ出した。カメラやスマホといった機材もすべて没収されていった。記者たちは強気な態度を取っていたが、銃を持ったごつい男たちを見ると、さすがにおとなしくなった。不満はあっても、結局は部屋から追い出されていった。全員が出ていったのを確認すると、海は無言で立ち尽くす桃を冷たく睨みつけた。だが、桃は何の反応も示さなかった。魂が抜けたかのように、その場に立ち尽くしていた。海は、そんな彼女の姿を見て苛立ちを抑えきれなかった。ここまでされても、平然とした顔――恥知らずにもほどがある。視線を佐俊に移すと、彼は

  • 植物人間の社長がパパになった   第1025話

    桃は、ふと自分が眠ってしまっていたことに気がついた。けれども、この夢はなぜか落ち着かず、身体が火照るような感覚にさいなまれ、何度も寝返りを打っていた。もう秋だというのに、どうして?「桃?」誰かが、自分の名前を呼んでいる。桃は目を開けて、その声の主を確認しようとしたが、まぶたがどうしても上がらず、声を出そうとしても出ない。手足にも力が入らず、ただただ身体が沈んでいくような感覚だった。これは、おかしい。彼女の意識はぼんやりと危険を察していた。だがそのとき、耳元の声は遠のいていき、代わりに、ひんやりとした指先が、彼女の服のボタンにかかるのを感じた。「桃……ごめん。でも、どうすることもできないんだ……」耳元で低く響いたその声。桃は誰の声か確かめようとした。雅彦? でも、なぜ彼が「ごめん」と言うのか……その疑問は答えのないまま、彼女は抗えないほどの疲労感に引き込まれ、まるで深海へと沈んでいくように、完全な暗闇へと意識を失っていった。……再び目を覚ましたとき、桃は激しいカメラのシャッター音と、目を刺すようなフラッシュの光に思わず顔をしかめた。ぼんやりと目を開いた彼女は、目の前の光景に呆然とした。これが現実なのか、それともまだ夢なのか、自分でも判別がつかない。ただ、ふと腕をつねると、鋭い痛みが走り、それが夢ではないことを告げた。記者たちは、まるで血の匂いを嗅ぎつけた猛獣のように、彼女を取り囲み、矢継ぎ早に問いかけてきた。「桃さん、あなたと佐俊さんの関係はいつから始まったんですか?」「二人のお子さん、もしかしてこの方との間の子なんですか?雅彦様はこのことをご存知で?」「亡くなった初恋の人にこの男性が似ているって話ですが、彼を替え玉にして想いを引きずっているって本当ですか?」次々と投げかけられる恥辱的な質問に、桃の身体は小刻みに震えた。彼女は目を伏せ、自分の状態を確認した。裸の身体を一枚のシーツがかろうじて覆い、肌にはいくつもの赤紫の痕跡が残っていた。まるで、昨夜ここで何かがあったかのように。頭が真っ白になる。記者の質問はもう耳に入らなかった。体を少し動かしてみると、ふとある違和感に気づいた。あの行為のあとに感じるはずの体の重さや痛みが、まったくない。桃は、経験のある女性として、こういう時にどんな感覚が残るか

  • 植物人間の社長がパパになった   第1024話

    しかし、桃はすぐに思い直した。麗子が今回、電波遮断器まで用意している以上、出口にも見張りを配置しているはずだ。この状況で変装せずに出ようとすれば、まず間違いなく捕まってしまうだろう。そう判断した彼女は、小さく頷いて同意した。──逃げ延びることさえできれば、その後、雅彦にきちんと説明すればいい。今は非常時だ。彼もきっと事情を分かってくれるはず。「わかった。あなたの言う通りにする」桃の答えを聞いた佐俊は、その瞳に浮かぶ信頼の色に、胸の奥がわずかに痛んだ。しかし、その迷いと罪悪感はすぐに表情の奥に隠された。「外の様子を注意深く見ておくよ。隙を見て出るから、絶対に気づかれないように」「わかった……」桃は極度の緊張に包まれながら、外の物音に神経を研ぎ澄ませた。だからこそ、彼女は気づかなかった。さっきまでの佐俊の表情に浮かんだわずかな違和感に気づく余裕もなかった。二人はしばらく待ち続けた。やがて外の物音が静かになると、桃は彼の上着を着て、マスクで顔を覆い、佐俊の腕にしっかりと抱かれて外へ出た。二人の体格差もあり、桃はほとんど彼の服にすっぽりと包まれた。顔もマスクに覆われ、胸元に顔を埋めるような姿勢だったため、一見して誰か分からない。そのまま人混みの中をすり抜け、ようやく商業ビルの正面口にたどり着いた。桃はそっと顔を上げ、周囲を見回す。すると、案の定、何人かの目つきの鋭い男たちが、人々の出入りを警戒しながら見張っていた。桃はすぐに頭を下げ、視線を逸らす。佐俊は彼女の様子に気づき、腕にさらに力を込めた。二人とも無言のまま、人混みに紛れて歩を進める。幸いなことに、この時間帯は人出が多く、多少不自然な格好をしていても、誰にも怪しまれることはなかった。佐俊はそのまま彼女を連れて駐車場へと向かった。周囲に怪しい人影がないことを確認すると、ようやく腕をほどいた。「もう大丈夫。この辺にやつらはいないはず」桃は大きく息を吐いた。「本当に……ありがとう。あなたがいなかったら、私はきっと逃げられなかったよ」「私たちは友達だろう?そんな礼なんていらない。さ、乗って。家まで送っていくよ」桃は一瞬ためらった。本当なら雅彦を呼んで迎えに来てもらいたかった。録音しておいた証拠も、早く彼に見せたかった。だが、佐俊は続けて言った。「今はもう安全かもし

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status