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第9話

作者: 水ちゃんと忍者の土さん
実は彼の名前も、最後まで聞き取れていなかった。

私が聞き間違えたのだ。

あるいはまさか彼である可能性など、考えもしなかった、と言うべきだろうか。

この茶番劇は最初から、主役を間違えていた。

最初から、全てが間違いだったのだ。

私があれほどまでに焦がれていた人は智也であって、浩二ではなかった。

「私たちもう何年も夫婦なのに、どうして教えてくれなかったのですか」

私には理解できなかった。

智也の瞳に、様々な感情が渦巻いていた。

「もし、お前が気づかなかったのなら、それでもよかったんだ。

お前自身が気づいてくれなければ、俺がしてきたことの全てが意味をなさなくなる」

私はついに、涙を堪えきれなかった。

馬鹿な人。

なんて、馬か鹿な人なのだろう。

私がしゃくり上げて泣いていると、彼は優しく私の涙を拭ってくれた。

「千鶴、愛している」

私は彼の首筋に顔を埋め、何度も何度も頷いた。

幸せが私を包み込んでいた。

この七年間、彼は一度も私を愛していると言葉にしたことはなかった。

私のすることなすこと全てを尊重し、この上なく優しく接してくれた。

しかし、甘い言葉を囁くことはほとんどなかった。

私は彼が、生まれつき口下手なのだと思っていた。

でも、そうではなかったのだ。

私は嫁ぐ相手を間違えたが、結果として正しい人に嫁ぐことができた。

……

数日ぶりに家に帰ると、私たちが留守の間、高坂家が大騒ぎになっていたことを知った。

浩二は私が叔母になったという事実を受け入れられず、毎日、酒を一刻も手放さずにいたそうだ。

文恵は手に入りかけた幸せが掌からこぼれ落ちていくのを黙って見ていられず、家に居座り続けた。

浩二の母親も、もう私への期待は捨て、文恵を家に残そうと考えていた。

しかし、浩二がそれに反対したのだ。

彼曰く、自分には嫁がいるのだから、他の女は必要ないと。

文恵は怒りのあまり、高坂家で首を吊ろうとしたそうだ。

しかし、彼女がどれだけ騒ごうと、浩二は無関心だった。

実は当時、浩二を助けたというのは彼女の嘘だった。

彼を助けたのは別人で、文恵はただ、その手柄を横取りしただけだったのだ。

彼女は高坂家が裕福だと見て、自分の将来の保障のために、一芝居打ったのであった。

手に入りかけた獲物が逃げようとしているのを見て、彼女はつ
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