セラフィナたちが、国境へと移動している丁度その頃、聖教騎士団長レヴィと大天使ガブリエルの二名もまた、精霊教会の本部がある都市国家アッカドを目指し、旅を続けていた。
砂漠地帯某所── 都市国家アッカドに向かうと言う行商人との交渉を終えたレヴィは、広場で現地の子供たちと戯れているガブリエルの元へと足早に向かった。 レヴィたちが立ち寄っているのは、やや小規模なオアシス都市であった。砂漠地帯の中にはオアシスと呼ばれる、絶えず水が得られる場所がある。そうした場所には人が集まりやすく、場合によっては血で血を洗うような争いに発展することもしばしばあると言う。「──ガブリエル様。ただいま、アッカドへと向かうという行商人との交渉を終えて参りました」 レヴィの言葉に、子供たちに御伽噺を語って聞かせていたガブリエルは髪を指先でかきあげつつ顔を上げる。天使であることに気付かれぬよう、彼女は魔術で翼を巧妙に隠していた。「ふふっ……ご苦労様です、レヴィ。それで、如何でしたか?」「はい。交渉の結果、喜んでアッカドまで我らを同行させてくれるとのことに御座います。代わりに、少しばかり報酬を弾むことになってしまいましたが……」 若干不満そうに、レヴィは白い頬をぷくっと膨らませる。商人という生き物には、強欲な者しかいないのか……そう言いたげな様子である。 もっと、もっとと子供たちがガブリエルに御伽噺を聞かせてくれとせがむ。どうやら、この短時間ですっかり懐かれてしまったようだ。 異なる存在を信仰する異教徒が相手であろうとも、聖教徒と同じように接するガブリエル。慈愛と優しさに満ちたその様は正しく、神の代理人と呼ぶに相応しい。あの邪智暴虐なる枢機卿クロウリーでさえ、彼女には頭が上がらないのも納得である。 そんなガブリエルのことを、レヴィはほんの少し羨ましく思った。先代騎士団長たる親の七光りと、クロウリーを始めとする年寄り連中から小馬鹿にされ、まるで相手にして貰えないレヴィにとって、尊崇を集めるガブリエルは憧れ以外の何者でもなかったのだ。「──お待たせ致しました」宿の食堂にて夕食を摂った後、シェイドは食堂に併設されている酒場のカウンターに腰掛け、独り考え事をしながら黙々とカクテルを飲んでいた。 カウンターを挟んだ向かい側では、元ハルモニア帝国軍人という異色の経歴を持つ宿の支配人が、流れるような手付きで作業をしている。聞けば"|最終戦争《ハルマゲドン》"の際に片目を負傷し、上官や部下に迷惑は掛けられないとの理由から、やむなく退役したのだという。 そしてカウンターからやや離れた場所では、シェヘラザードがシェイドの方をそれとなく気にしつつ、優雅な所作でカクテルを口に含んでいるのが見えた。その様はさながら、砂漠に咲いた一輪の白き花のようである。 パズズに見つかる恐れがあったとはいえ、初対面の相手に失礼なことをしてしまったので、詫びのしるしに是非とも酒を馳走したい──シェヘラザードはそう言って食後の酒にシェイドを誘ったのだった。 酒代をシェヘラザードが出すことについては、シェイドも何も言わなかった。しかし、シェヘラザードと一緒に酒を飲むことだけは固辞した。 まだ相手がさして親しくもない、知り合って間もない間柄というのは勿論だが、それ以上にシェイドが警戒していたのは、色仕掛けを用いた籠絡……即ちハニートラップであった。 今や良き相棒と言っても差し支えないセラフィナの神秘的、耽美的とも言える美貌の前には流石に霞んでしまうものの、シェヘラザードもまた傾国の美女と呼ぶに相応しい、珠玉の如き美貌の持ち主である。その美貌を武器として異性を誑かすのは、恐らく造作もないことだろう。 尤も、シェヘラザード本人にその気があるのか否かは現状定かではない。それでも、万が一のことを考えると彼女を警戒せざるを得ないのは、致し方のないところではあった。「──失礼」「……うん?」 シェイドが顔を上げ、声のした方へと視線を動かすと、ハープを手に携えた青年が爽やかな笑みを浮かべながら軽く手を挙げる。 出で立ちからして吟遊詩人だろうか。多くの異性からモテそうな甘い顔立ちをしているが、同時に歴戦の古豪かの如きオーラも纏っている、良く分からない雰囲気の
ハルモニア国境── 竜舎前の広場にセラフィナたちを背に乗せたドラゴンが降り立つと、親善外交の場としてよく使われている高級宿の方から数名の護衛を伴い、精霊教会の巫女装束に身を包んだ若い女が現れる。「──綺麗……まるで、白百合の花のよう」 こちらへと歩み寄ってくる女の姿を見つめ、キリエが思わずといった様子で嘆声を漏らす。 年の頃は二十歳前後、日焼けしている護衛の兵たちと比較すると明らかに肌が白く、ハルモニア人によく見られる身体的特徴がちらほらと散見される。 丁寧に薄化粧の施された顔は目鼻立ちがくっきりとしており非常に可愛らしいが、身に纏う落ち着いた雰囲気の所為だろうか、可愛さよりも綺麗さの方が優っているように感じられた。「──出迎え、ご苦労」 ドラゴンの背から軽やかな動きで飛び降りたアモンが、穏やかな声で労いの言葉を掛けると、巫女はその場に片膝を付き、胸に片手を当てながらアモンに対して深々と一礼した。「……ハルモニア式の敬礼で応えるとは見事であるな、シェヘラザード」「有り難きお言葉、痛み入ります」 シェヘラザードと呼ばれた巫女は、端正な顔に柔和な笑みを浮かべると、再度アモンに対し丁寧に一礼をする。「──彼女は何者?」 ドラゴンの背からマルコシアスと共に、軽やかな動きで飛び降りてきたセラフィナが尋ねると、アモンはシェヘラザードに近くまで来るよう促してセラフィナたちと対面させつつ、「紹介しよう。彼女は精霊教会所属、巫女長ラマシュトゥの側仕えをしている、巫女のシェヘラザードだ。彼女は若いながらもハルモニアとの親善外交の取次役も担っていてな、今回我らを精霊教会本部のある、都市国家アッカドまで案内してくれることになった」「──初めまして。シェヘラザードと申します」 シェヘラザードはくすっと笑いながら、巫女装束の裾を軽くつまみ、細い足を交差させて優雅にお辞儀をする。どうやら彼女は、ハルモニア式の儀礼に造詣が深いらしい。ハルモニアとの親善外交の取次役を任されるのも納得である。
セラフィナたちが、国境へと移動している丁度その頃、聖教騎士団長レヴィと大天使ガブリエルの二名もまた、精霊教会の本部がある都市国家アッカドを目指し、旅を続けていた。 砂漠地帯某所── 都市国家アッカドに向かうと言う行商人との交渉を終えたレヴィは、広場で現地の子供たちと戯れているガブリエルの元へと足早に向かった。 レヴィたちが立ち寄っているのは、やや小規模なオアシス都市であった。砂漠地帯の中にはオアシスと呼ばれる、絶えず水が得られる場所がある。そうした場所には人が集まりやすく、場合によっては血で血を洗うような争いに発展することもしばしばあると言う。「──ガブリエル様。ただいま、アッカドへと向かうという行商人との交渉を終えて参りました」 レヴィの言葉に、子供たちに御伽噺を語って聞かせていたガブリエルは髪を指先でかきあげつつ顔を上げる。天使であることに気付かれぬよう、彼女は魔術で翼を巧妙に隠していた。「ふふっ……ご苦労様です、レヴィ。それで、如何でしたか?」「はい。交渉の結果、喜んでアッカドまで我らを同行させてくれるとのことに御座います。代わりに、少しばかり報酬を弾むことになってしまいましたが……」 若干不満そうに、レヴィは白い頬をぷくっと膨らませる。商人という生き物には、強欲な者しかいないのか……そう言いたげな様子である。 もっと、もっとと子供たちがガブリエルに御伽噺を聞かせてくれとせがむ。どうやら、この短時間ですっかり懐かれてしまったようだ。 異なる存在を信仰する異教徒が相手であろうとも、聖教徒と同じように接するガブリエル。慈愛と優しさに満ちたその様は正しく、神の代理人と呼ぶに相応しい。あの邪智暴虐なる枢機卿クロウリーでさえ、彼女には頭が上がらないのも納得である。 そんなガブリエルのことを、レヴィはほんの少し羨ましく思った。先代騎士団長たる親の七光りと、クロウリーを始めとする年寄り連中から小馬鹿にされ、まるで相手にして貰えないレヴィにとって、尊崇を集めるガブリエルは憧れ以外の何者でもなかったのだ。「──お待たせ致しました」
晴れ渡った空の下、セラフィナたちを乗せたドラゴンは、ハルモニアと精霊教会の勢力圏との国境に位置するハルモニア国境守備隊の駐屯地を目指し、帝都アルカディアを出立した。 帝都アルカディアから国境守備隊の駐屯地までは丸一日、駐屯地から精霊教会本部がある都市国家アッカドまでは|駱駝《ラクダ》で一週間ほど。これはあくまで予定通りに移動が出来た場合の話なので、実際は予定より遅くなることが大いに予想される。「…………」 大きな欠伸をするマルコシアスの顎の下を優しく撫でてやりながら、セラフィナは遙か遠方に聳え立つ、蜃気楼の如く不規則に輪郭を変化させる巨大な砂時計を、何処か感情の凪いだような目で見つめていた。「──浮かない顔をしているな?」 ドラゴンを慣れた手付きで御しながら、アモンが見向きもせずにそう問い掛けると、セラフィナは風に吹かれて大きく靡く、艶やかな銀色の長髪を片手で押さえつつ、「──まぁ、ね。正直なところ、今回の依頼は気が進まないんだよね」「気持ちは分からんでもないが……ベリアルからの依頼内容が基本的に碌でもないものしかないのは別に、今に始まったことではなかろう?」「それはそう。出来ることなら、彼からの依頼なんて一つも引き受けたくないけれど」 憂いを帯びた目で、小さな溜め息をほっと一つ吐くセラフィナ……草臥れたその様子からは、まだ齢十六の清らかで可愛らしい少女とはとても思えない、何とも言えない哀愁が漂っている。 セラフィナの隣では、やや寝不足気味なのかキリエが彼女の肩に寄り掛かりながら静かな寝息を立てており、対面では目の下に隈を作ったシェイドが黙々と愛用する武器の手入れをしていた。 この場に存在する全員が草臥れているのは、最早呪いか何かの類ではなかろうか。物理的、精神的の違いはあれど、全員が草臥れているとは、悪い意味で奇跡的なメンバー構成である。 果たしてこのメンバーで無事に役目を終え、生きて再び故郷の土を踏めるのだろうか。既に草臥れている面々を見ていると、些か不安になってくる。 恐らく、全く同じことをシェイ
出立前夜── シェイドが水を口に含みつつ、ベリアルから手渡された資料に目を通していると、部屋の扉を軽くノックする音が耳に届いた。 このような夜更けに、一体誰だろうかと訝しんでいると、ほんの少し舌足らずな聞き覚えのある声が、扉の向こう側から聞こえてきた。「──私です。キリエです、シェイドさん」「キリエか……どうぞ、入っても構わないよ」 シェイドが返事をすると扉が開き、寝間着姿のキリエがグラスの乗ったトレイを携えながら、部屋の中へと入ってくる。 少し遅れて、これまた寝間着姿のセラフィナと、マルコシアスも部屋の中へと入ってきた。てっきりもう既に彼女は就寝しているものだと思っていたシェイドは、両目をわずかに見開いた。「意外だな……まだ起きていたのか、セラフィナ」「……偶々だよ、シェイド。何故だか今夜に限って、思うように眠りに就くことが出来なくてね」 シェイドと向かい合うような形で、キリエの直ぐ隣に腰を下ろすと、机の上に散らばっている資料を見つめ、セラフィナはわずかに目を細めた。「──精が出るね、相も変わらず」 シェイドが目を通していたのは、ベリアルたち死天衆の面々が纏めた、砂漠地帯に出没する魔族に関する資料だった。姿形、生態、急所などが簡潔かつ丁寧に纏められている。 姿形や体色などを変化させる能力を持ち、ハイエナを装って人間の死肉を漁ったり、旅人を砂漠の奥地へ誘い込んで襲う|食屍鬼《グール》や、炎を始めとした様々な魔術を操る獰猛なる悪鬼イフリート、涙の王国にも出没していた、人面の巨大な蝗アバドンなど、実に様々な魔族が砂漠地帯には生息している。 中でも危険とされているのが、人間を遥かに上回る巨体を有する|蠍《サソリ》の怪物"パピルサグ"。強固な背甲は生半可な攻撃では傷一つ付かず、大きな鋏の殺傷能力は非常に高い。それに加えて尻尾の貫徹力も高い上に、強力な猛毒まで兼ね備えている。 アバドンとは違い、砂の中に巧妙に姿を隠し、音もなく近くにまで忍び寄ってくるため、事前に察知することが難しい難敵である。
都市国家アッカド郊外── パズズを祀った神殿を訪れたのは、清楚な衣装に身を包んだ、まだ年端もいかぬ少女だった。薄化粧の施された可愛らしい顔は恐怖に引き攣っており、華奢な手足は小刻みに震えている。 少女の来訪を待っていたかのように、神殿の奥より舞姫の如き出で立ちをした妖艶なる乙女が、二名の巫女を伴って姿を現す。 フェイスベールで口元を隠したその乙女はすらりとした長身の持ち主であり、神殿の入り口を警護する衛兵たちと比較しても殆ど背丈が変わらない。露出した手足は艶めかしく、何処か蠱惑的でさえあった。 「──待ち侘びたぞ」 少女を見下ろしながら、乙女は少し掠れた、それでいて少し離れた距離からでもはっきりと聞こえる声で言葉を発した。 「──家族との別れは、済ませてきたのであろうな?」 「……はい、ラマシュトゥ様」 少女は力なく頷くと、乙女──ラマシュトゥの元へと、ゆっくりとした歩調で歩み寄る。ラマシュトゥは少女の頬を慈しむように撫でると、ベールで覆い隠された口元に邪悪な笑みを浮かべながら、 「──宜しい。ほれ、そのような暗い顔をせず、もっと喜ぶが良いぞ小娘……其方はこれから、其方の敬愛する主の一部となれるのじゃ」 神殿の最奥に佇む、巨大なパズズ像……その目の前に設置された祭壇の上へと、少女は静かに横たわる。蝋燭の薄明かりに照らし出されたパズズ像の顔は、まるで牙を剥き出しにして怒り狂っているように見える。 風向きが変わった。否……風そのものが、その在り方を大きく変容させたと言った方が良いかもしれない。 それまで吹いていた乾いた風とは異なる、何処かねっとりとした生暖かい風……少女や巫女たちの顔に、たちまち珠の如き汗が浮かび上がるも、そんな中でもラマシュトゥは一人平然としていた。 獣の如き唸り声が、神殿内に響き渡る。すぐ近くにまで迫って来ている濃厚なる死の気配に怯えているの