同時刻、精霊協会本部大広間──
物音一つ、そればかりか埃一つすら立てずにその場へと悠然と舞い降りると、ベリアルはそのままレヴィの方へと瞬時に間合いを詰める。 「──聖教騎士団創設以来の傑物と称される貴女の実力、如何ほどのものか確かめさせてもらいましょう。くれぐれも、この私を失望させないで下さいよ?」 言い終わらぬ内に、ベリアルの手刀が空間を斬り裂く。レヴィは即座に反応し、最小限の動きでその一撃を躱してみせる。 だが── 「……うっ!?」 胸に鋭い痛みが走ったかと思うと、足腰から急に力が抜けた。紅い華びらを思わせる飛沫が鮮やかに舞い、レヴィはその場に片膝を付く。 手刀を繰り出すと同時、ベリアルはレヴィの片膝を目にも留まらぬ疾さで蹴り抜いていた。それにより、本来想定していた回避行動が出来なかったのだと、レヴィは瞬時に悟った。 立ち上がろうにも、足に力が入らない。蹴られた際に骨の一部が砕けたようだ。そうこうしている間にも、腰に帯びた剣を無音で抜いたベリアルが、ゆっくりと歩み寄ってくる。 「──はい、終わりです」 喉元にすっと剣を突き付けられる。完敗だ。ほんの一瞬で無力化されてしまった。レヴィは諦めたようにほっと一つ溜め息を吐く。 「……斯様な形で幕引き、か。ガブリエル様お一人すら守り切ることが出来ずに死ぬことになろうとは、我ながら情けないものだな」 「いえいえ……私を相手にした割には、良くやった方じゃないですかね? 凡百の輩ならあの時点で反応すら出来ずに、そのまま胴体が綺麗に真っ二つですから。皮膚が若干裂けた程度で済ませたことは、素直に称賛しますとも」<──"穏健派の聖女シオンを新たなる教皇として即位させるのであれば、ハルモニアは和平に応じる用意がある"。 ハルモニア皇帝ゼノンが突如として発表したこの声明は風に乗り、瞬く間に聖教会の影響下にある各地へと広がっていった。 教皇選挙権を有する枢機卿(カルディナル)の多くが、この声明に心を大きく揺さぶられたのは言うまでもない。あわよくばクロウリーを追い落とし、自分が権力の全てを手中に収めるまたとない好機であると。 果たしてベリアルの思惑通り、教会内部の暗闘はその激しさを増しつつあった。 そのような中、異端審問官たちの臨時指揮権を与えられた聖教騎士団長レヴィは、異端審問官たちの最精鋭"不死隊"の指揮を執るクロウリーの腹心・異端審問官メイザースと接触を試みようとしていた。 聖教会勢力・ブルボン王国某所── 「──メイザース様。聖教騎士団長レヴィ様が、ご到着なされました」 黒い目出し帽と三角頭巾で素顔を隠した異端審問官の言葉を聞き、男は書類を整理する手を止める。 銀色の仮面、銀色のフード、銀色のローブ……明らかに他の異端審問官とは異なる服装・風格。顔全体を仮面で覆い隠しているため非常に年齢が分かりづらいが、身に纏うオーラは紛れもなく本物であり、歴戦の戦士と言っても過言ではない。 ──異端審問官メイザース。長らく枢機卿クロウリーの右腕として活躍してきた、存命中かつ現役の異端審問官としては恐らく最高齢の人物。 その素顔を見て、生きて帰った者はいない。そう、異端審問官たちの間でまことしやかに囁かれている。 「報告ご苦労、テレサ。直ぐにでもお会いするとしよう」 嗄れた声で、まだ"不死隊"に配属されたばかりの若い女性異端審問官に労いの言葉を掛けると、メイザースは腰に十字架を象った大剣を帯びつつ、悠然とした動きで椅子から立ち上がった。 メイザースが数名の異端審問官を伴って司令部のテントから出ると、ちょうど聖教騎士団長レヴィが、護衛と思しき数名の聖教騎士を引き連れてこちらへとやってくるのが見えた。
教皇グレゴリオの崩御を受け、ハルモニア皇帝ゼノンは墓標都市エリュシオンに潜入中のアスモデウスを除くベリアル、バアル、アモン、アザゼルら四名を帝都アルカディアに召集。 大混乱に陥った聖教会に引導を渡すべきか否か、彼らと意見を交わそうとしていた。 「──お呼びでしょうか、陛下」 帝都アルカディアの大神殿──玉座の間に次々と、アスモデウスを除く死天衆の主要メンバーが、転移魔法で音もなく姿を現す。 「其方らも既に周知の事実ではあろうが──聖教会の当代教皇グレゴリオが死んだ。死因は不審死だそうだ」 「おや──くたばりましたか。では、今頃聖教会は大混乱でしょうねぇ?」 自らの顔を象ったデスマスクを外すと、ベリアルは白い歯を見せてにこやかに笑う。何時見てもその容貌は、世に存在するありとあらゆる芸術作品が全て、陳腐な瓦落多に見えてしまうほどに神々しく美しい。 「ベリアルよ……冗談はよさぬか。既に全て、其方の耳に入っている筈だ。私が知るよりも遥かに早く、な」 ゼノンが苦笑しつつ窘めると、ベリアルもまたくすくすと笑いながら頷いてみせる。 「えぇ──仰る通りですよ、陛下。此度のご要件も、すでに存じておりますとも。教皇グレゴリオ崩御の報を受け、今後のハルモニアの方針を定めるべく私たちをお呼びしたのでしょう?」 「良く分かっているじゃあないか、我が友ベリアル。話が早くて助かる」 聖教会は現在、聖ヨハネ公国を始めとして各地で民衆叛乱が勃発しており、聖教騎士団と異端審問官たちが対応に追われている。そこに加えて、教皇グレゴリオの不審死。水面下では枢機卿(カルディナル)たちに次期教皇としての推挙を得ようと、権力者たちによる暗闘が繰り広げられている。 「順当に考えれば──これは、またとない好機。聖教会のクズ共に引導を渡す、な……エリゴールの第三軍をこの機に乗じて南下させ、我が方も挙兵。二方向から聖教会を挟撃し、殲滅しようと思うのだが。其方らの意見はどうか」 ゼノンの問い掛けに、アザゼルがすっと手を挙げる。率先して自ら意見を言うことはなく、何時も後方で笑っているだけの彼にしては珍しいことだ。 「──良きお考えかと存じます。この機を逃せば、真正面から敵と対峙することになりましょう。正面からの戦いは犠牲が多くなりがち……彼奴らが混乱している今こそ、少な
"鳥の王"シームルグの試練を何とか乗り越えたセラフィナたちであったが、各々の心身の損耗が予想以上に大きかったこと、セラフィナにとって致命的な"聖痕(スティグマータ)"の傷口が開く新月の夜が直ぐそこまで迫っていたこともあり、下山後も神殿都市ミケーネに留まっていた。 新たなる神を僭称する"獣の王"。彼が率いる"獣の教団"。彼らを止めるために墓標都市エリュシオンへと行きたい気持ちはあったが、心身共に疲弊した今の状態で乗り込むは愚策と、療養を優先した形であった。 「──教皇グレゴリオ崩御、ですか?」 ガーデンチェアに腰を下ろし、紅茶を嗜みつつ、セラフィナはすっと目を細めた。彼女の足元では、マルコシアスが骨付きの肉の塊を器用に食している。 セラフィナの対面に座すは、ハルモニアの将官服にも似た、黒い礼服を優雅に着こなした老紳士。齢は八十をとうに過ぎているようだが呆けている様子はなく、皺の刻まれた顔は威厳に満ちている。 ヒエロニムス本家、現当主エウセビオス。ハルモニア皇帝ゼノンの父。巫女長イーリスの祖父にして、神殿都市ミケーネを治める名門貴族。 セラフィナは下山したその日にエウセビオスからの招待状を受け取り、翌日である今日の正午、彼の住まいであるヒエロニムス邸へと足を運び、彼や側近たちと世間話を交えつつささやかな茶会を楽しんでいた。 「私たちがシームルグ様の元で試練を受けている間に、そのようなことが起こっていたとは──」 「君が知らなかったのも無理はあるまい。私も、それを知ったのはつい昨日のことだ。愚息(ゼノン)から報せを受けた時は、私自身も大いに驚いた」 エウセビオス曰く、グレゴリオの死因は不審死であり、発見された時、彼は両目を大きく見開き、不気味な笑みを浮かべていたという。 「確か……教皇グレゴリオが崩御する数日前にも、大事件があった筈──聖ヨハネ公国にて大規模な民衆叛乱が発生して、大公ヨハネと彼の息女アグネスが殺害された、と」 その事件と今回の教皇不審死、何らかの関係があるのではないか。セラフィナが疑問を呈すると、エウセビオスもま
教皇グレゴリオ崩御──その報せを受けた聖教騎士団長レヴィは、聖ヨハネ公国に於ける騎士団の指揮を副官のアグリッパに委任し、早馬で聖地カナンへと舞い戻った。 教皇庁の扉を開くと、グレゴリオの亡骸を納めた棺の前にて屯していた、赤を基調とした法衣に身を包んだ枢機卿(カルディナル)たちが一斉に、塵でも見るかのような目でレヴィの顔を睨み付けてくる。彼女が聖地カナンへと舞い戻ってきたことを、彼らはどうやら快く思っていない様子だった。 「失礼──」 棺へと歩み寄ると、レヴィは中に納められているグレゴリオをまじまじと見つめる。魔術で防腐処理が施された彼の遺体には、外傷が一切見当たらなかった。 しかし──何かが妙だ。彼の遺体は両目が大きく見開かれたままで、顔には狂ったような笑みを浮かべている。その様はまるで、彼だけ時が止まったかのような── そんなレヴィの思考を妨げるように、ぶくぶくに肥えた一人のカルディナルが、苛立ちも露わに彼女を罵倒する。 「──何故、其方がここにいる? 聖教騎士団長レヴィ、無為無能なる親の七光りよ」 「教皇聖下が身罷られたと聞いて、戻らぬ者が果たして何処におりましょう? メディチ猊下」 レヴィの冷静な返しに、メディチと呼ばれた中年のそのカルディナルは不満そうに鼻を鳴らした。聖職者らしからぬ横柄なるその態度は、実に俗っぽい。 メディチ──彼は元々、聖職者ではない。巨万の富を築き上げた豪商であり、莫大な財力にものを言わせて枢機卿の地位を手にした男である。 自らの支持基盤たる西方にて、教会に寄進すれば神罰が免除されるという贖宥状をばら撒き私腹を肥やしている、聖職者の風上にも置けぬ人間のクズだった。 「其方は亡き教皇聖下より、聖ヨハネ公国にて発生した民衆叛乱の鎮圧を命じられていた筈。任を放棄し戻ってくるとは、余りにも無責任なのではないか?」 これだから女は、と余計な言葉を付け加えつつメディチが嘲笑うも、レヴィは何処までも落ち着いていた。 「ご心配なく──既に、副官のアグリッパに現場の指揮
旅人に扮した"三日月の魔女"アスタロトと、元・死の天使サリエルが聖ヨハネ公国を訪れると、そこはさながら激戦の跡地のようであった。 倒壊した家屋、人肉の焼ける不快極まる臭い、軍馬に跨って忙しなく駆け回る聖教騎士たち………そして意味の分からぬことを喚き散らしながら、処刑場へと連行されてゆく大勢の老若男女。 彼らは何れも、大公ヨハネ並びに彼の愛娘である修道女(シスター)アグネスを殺害し、国家転覆を目論んだ罪に問われて火刑を言い渡された叛徒たちである。 「──信じてくれぇ! 俺たちは騙された! ただ、騙されただけなんだぁ!!」 叛徒の一人がそう叫びながら激しく抵抗し、縋るような目でアスタロトに訴えかけてくる。アスタロトとサリエルの服装を見て、巡礼中の修道女と勘違いしたのだろう。 けれども、悠久の時を生きてきたアスタロトにはすぐ分かった。彼は罪人であると。 彼の記憶を介して、アスタロトには見えていた。大公ヨハネの館で働いていた目鼻立ちの整った侍女──瀕死の傷を負い、助けを乞う彼女の衣服を剥ぎ、苦痛から発せられる喘ぎ声を聞きたいがために彼女の胸や太ももの深傷を指で容赦なく抉りながら、肉欲に身を任せて一心不乱に犯す彼の様子が。 記憶を介して垣間見た、何とも胸糞の悪い光景。心の底から軽蔑した、まるで汚物を見るような目で叛徒を睨み付けるアスタロトを庇うように、一人の聖教騎士が彼女と叛徒との間に割って入った。 「──騙されたのならば、許されるのか? 人を犯し殺すことが、容認されるのか?」 四十代後半と思われるその聖教騎士が、醒めた目で問い掛ける。他の騎士たちとは異なり将官服を身に纏っていることから、それなりの地位にあることが窺えた。 「ああ! 神はきっとお許しになられるとも! 俺たちも被害者だ! 奴に騙された哀れな被害者なんだ!!」 「そうか。では、たとえば見知らぬ誰かがお前の妻や娘を殺したとしても、"俺は騙された哀れな被害者だから許してくれ"と相手が言ったなら、お前は快く許すというのだな?」
聖ヨハネ公国で発生した、大規模な民衆叛乱……その凶報は瞬く間に、聖教会の影響下にある各国へともたらされた。 叛乱は聖教騎士団長レヴィ率いる聖教騎士団・第一騎士団により数日ほどで鎮圧されたものの、公国内には未だ叛徒の残党が多く身を潜めており、日夜を問わず残党狩りが続けられている。 大公ヨハネ、並びに彼の愛娘である修道女(シスター)アグネスの死は、権力欲に塗れた枢機卿(カルディナル)たちを始めとする時の権力者たちに有り余るほどの恐怖を植え付けた。次は自分たちが、そうなるかもしれないと。 力を──無知で蒙昧なる民草を屈服させる、更なる力を。彼らから抵抗する能力を奪う、絶対的な力を。 時の権力者たちは聖ヨハネ公国の二の舞になることを恐れ、聖教会にその人ありと謳われた枢機卿クロウリーに助けを乞うた。彼の率いる異端審問官の最精鋭たち──"不死隊"の出撃を要請したのだ。 ──"宜しい。無知蒙昧なる愚者どもの目を、我が圧倒的なる力と恐怖で以て覚ましてやるとしよう"。 クロウリーは要請に応じ、自ら"不死隊"を率いて各国に潜む"異端者"を断罪せんと、聖地カナンを出立した。 その状況こそが、彼の者の思惑通りであることなど──彼らはこの時知る由もなかった。 聖教会自治領、聖地カナン── 教皇グレゴリオは執務室内で独り、頭を抱えていた。 「主よ……我らは一体、どうすれば……」 信徒たちは皆、明日は我が身ではないかと疑心暗鬼に陥っている。カルディナルたちは、各地に贖宥状をばら撒いたり、諸侯に寄進を迫ったりとやりたい放題。 褒賞欲しさに何の罪もない無辜なる隣人を獣の狂信者として密告する者は後を絶たず、王侯貴族は狂ったように断罪を繰り返している。 このままでは、聖教会は腐敗してゆく一方だ。聖女シオンや聖教騎士団長レヴィと言った若者たちに聖教会の未来を託したいが、それには既得権益に縋り付くカルディナルたちや、自らのことしか考えぬ王侯貴族、そして彼らを力と恐怖で支配するクロウリーが目障りとなる。 彼らを排除しないことには、聖教会に明日はない。 だが── 「私には……出来ない……出来ぬのだ……」 グレゴリオは今にも泣きそうな顔で、頭を何度も横に振る。王侯貴族や他のカルディナルたちなどは別に、怖くも何ともな