Share

17:手切れ金

last update Last Updated: 2025-10-05 12:50:05

 土曜日になった。結菜は、約束の場所へと重い足取りで向かっていた。

 週末の街は賑やかだが、その喧騒は彼女の耳には届かない。逃げ出したい気持ちと、智輝との思い出を汚されたままにはできないという気持ちが、心の中でせめぎ合っていた。

(逃げちゃだめだ。智輝さんのことを、何も知らないこの人たちに決めつけられてたまるものか)

 彼女を突き動かしているのは、智輝への微かな信頼と、自分自身の尊厳を守りたいという最後のプライドである。智輝と出会ったあの思い出の場所に、彼女は一人で戦いに向かった。

『月読』のドアを開けると、店内はいつもと全く違う、冷たい空気に満ちていた。客は一人もおらず、貸し切りにされている。カウンターの奥で、マスターが痛ましげな表情で結菜に小さく頭を下げた。

 鏡子と玲香は、結菜が智輝と初めて出会った、あの窓際のソファ席に女王のように座っている。

 結菜にとって一番大切な思い出の場所を、意図的に奪うという支配者の態度の現れだった。いつもは温かいコーヒーの香りに満ちた空間が、今は息が詰まるような緊張感に支配されている。

 結菜は2人の前に促されるまま座った。鏡子は値踏みするような視線を結菜に向けた後、本題に入った。

「単刀直入に申し上げます。息子、智輝から手を引いていただきたい」

 鏡子はテーブルの上に、分厚い純白の封筒を置いた。

「これは、わたくしからの誠意です。今後の生活にお役立てください。これ以上、息子と関わることは許しません」

 その言葉と行いは、「誠意」という皮を被って、結菜の存在そのものを否定した。

 鏡子の言葉を皮切りに、次は玲香が嘲笑の言葉を浴びせ始めた。

「まあ、聞いてた通り地味な方。そんな安っぽいワンピースで智輝様に近づけるなんて、逆にすごい度胸ですわね。親御さんの顔が見てみたいわ……ああ、ごめんなさい。もういらっしゃらないんでしたっけ? しつけもろくにされずに育つと、こうも恥知らずになれるのね」

 玲香は意地悪くクスクスと笑う。

「智輝様との一夜が、このお値段ですって。あたしだったら、恥ずかしくて生きていけないわ。まさかとは思うけど、これで満足できなくてもっと要求しようなんて考えてないでしょうね? だって、あなたみたいな人には、一生かかっても稼げないような金額ですもの」

「そんなことは!」

 言いかけた結菜を制して、玲香は続ける。

「それに
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   25:小さな天使と穏やかな日々

     じりりり、と目覚ましの電子音が鳴り響く。 結菜は手を伸ばして、枕元のスマートフォンを止めた。窓のカーテンの隙間から差し込む光は、もうすっかり白んでいる。開け放った窓から流れ込むのは、まだ少しだけ肌寒いけど生命の匂いに満ちた春の朝の空気だった。 隣の小さなベッドからは、「すぅ……すぅ……」という穏やかな寝息が聞こえる。宝物である息子、樹が幸せそうな顔で眠っていた。 柔らかな茶色の髪の下で、閉じられた瞼が時折ぴくりと動く。満開の桜の木を駆け上る夢でも見ているのだろうか。(この寝顔を見られるなら、なんだって頑張れる) 結菜はそっとベッドを抜け出して、音を立てないようにキッチンへ向かう。今日の朝食は、樹のリクエストで卵焼きとウィンナー。小さなフライパンに油をひいて溶き卵を流し込むと、じゅ、という軽快な音がした。 結菜が朝食の準備を終える頃、ぱたぱたと小さな足音がリビングにやってくる。「ママ、おはよー」「おはよう、樹。ちゃんと起きられたのね、えらいわ」 眠い目をこすりながらも、樹は食卓の上の朝食を見つけてぱっと顔を輝かせた。「わーい、たまごやき!」 子供用の椅子によじ登り、小さな両手を合わせる。「いただきます」 親子の声が、春の日差しが満ちる部屋に重なった。「あのね、きのうね、ほいくえんのお庭で、さくらのはなびら、つかまえたんだよ」「そうなの。よかったわね」「うん! でも、ぼくがとしょかんからかりてきた、スピノサウルスのほうがカッコよかったもんね!」 得意げに胸を張る息子に、結菜は思わず笑みをこぼした。 何気ない会話に彩られた、当たり前の日常。これこそが結菜が5年間、たった一人で守り抜いてきたものだ。 食べ終えた樹が、自分で食器を運ぼうとする。まだおぼつかない足取り。「ありがとう。でも、ママがやるからいいのよ」「ううん、ぼく、おてつだいする」 その小さな背中を見ていると、結菜の胸の奥がき

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   24

     徐々に本を読む以外のこともできるようになって、自炊のための料理器具を買い揃えた。 近所のスーパーへ買い物に出かければ、東京の喧騒とまた違う、地方都市ならではの人々の暮らしが垣間見える。(そろそろ、仕事が決まるといいんだけど) 少し前からハローワークに通って、就職活動をしている。この小さな地方都市ではあまり求人がなく、すぐには働き口を見つけられないでいた。 そんな矢先、結菜は自身の体調不良が続いていると気づいた。 微熱がずっと下がらない。時折、吐き気が込み上げてくる。 最初は風邪だと思った。色々あったから、疲れから風邪を引いてしまったのだろうと。 けれどカレンダーを見た結菜は、もう一つの異変に気づく。(あれ……? 生理が今月も来ていない?) 月のものが2ヶ月も来ていない。 最初の1ヶ月は、疲労と心労のせいで周期が乱れているのだと思っていた。でも2ヶ月目とは。まさかという予感に、凍りついていたはずの心が軋んだ。「確かめなきゃ!」 結菜はコートを羽織ると、アパートを飛び出した。時間は既に夜遅くだったが、気にしなかった。近所の薬局の棚に並んだ何種類もの検査薬を前に、どれを選べばいいのかも分からない。薬剤師に怪訝な顔をされながらも、一番最初に目についた箱を掴んで代金を払った。 自宅アパートの冷たいタイルのトイレで、結菜は説明書を何度も読み返した。指先がうまく動かず、パッケージを開けるのに酷く時間がかかる。説明書の指示通りにそれを使う。結果が出るまでの数分間、彼女は固く目を閉じて祈っていた。(お願い、何かの間違いでありますように) おそるおそる目を開ける。判定窓に現れたのは……陽性。 検査薬を握りしめたまま、結菜はアパートの窓辺に座り込んだ。最初に訪れたのは、途方もない恐怖と絶望だった。(どうすればいいの。たった一人で産んで育てる? そんなことができるの? そうでなければ……中絶) 智輝に伝えるという選択肢は、もはや存在しない。

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   23

     深夜のバスターミナルで、結菜は両親が眠る故郷行きの、最終バスのチケットを握りしめていた。 重いエンジン音と共にバスがゆっくりと動き出す。結菜は窓の外を流れていく景色を、ただ無言で見つめていた。 つい先日、智輝と歩いたきらびやかな大通り。彼と出会った街の眩いほどの光。それらが次々と流れては、闇の中へと溶けていく。 窓ガラスに映る自分の顔はひどく頼りなく、見知らぬ誰かのように見える。(……さようなら) 心の中で、この街で夢見た淡く儚い恋に別れを告げる。頬を伝った一筋の涙は、恋の終わりと過去の自分自身との決別の証である。◇ 故郷の駅に降り立った結菜を、懐かしい潮の香りが迎えた。しかし彼女の心は凪ぐどころか、寄る辺を失った不安でいっぱいだった。 結菜はまず銀行へ向かう。取り出した通帳は、父が亡くなった時に渡されたものだ。 彼女はその表紙をそっと撫でる。父が遺してくれた、わずかな生命保険金。いざという時のお守りとして、今まで一度も手をつけずにいた大切なお金だった。(お父さん、ごめんなさい。……使わせてもらうね) 心の中で父に詫び、感謝する。窓口で手続きをする彼女の手は、もう震えていない。東京での自分と決別し、この街でもう一度自分の足で立って生きていくための、最初の覚悟だったからだ。 その通帳を握りしめて、結菜は駅前の不動産屋の扉を叩いた。高価なものは望めない。保証人もいない彼女が借りられたのは、日当たりだけが取り柄の、小さな木造アパートの一室だった。 スーツケースから数枚の着替えと洗面用具を取り出しても、六畳一間の部屋はがらんとしたままだ。心の傷を抱えたまま、すぐに仕事を探しに出る気力は湧いてこない。 結菜はただ、眠っては起きるだけの毎日を過ごした。食欲もなく、近くのスーパーで買ってきたパンとスープだけで済ませる食事が続く。テレビも無い部屋で聞こえるのは、自分の無機質な生活音だけだった。 そんな中で唯一、彼女が意識的に行ったのは、窓際の床に座って父の形見であるエ

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   22:ひとりきりの夜明け

    『書斎喫茶 月読』でのあの日以来、結菜の時間は止まっていた。 智輝からの連絡はもちろんない。彼との思い出が詰まった東京の風景すべてが、彼女を苛むだけのものに変わってしまった。(これ以上、この街にはいられない) その想いが、結菜の心を支配していた。 彼女は、心を無にして電話を手に取った。相手は、いつも事務的に仕事の連絡をしてくる派遣会社の担当者だった。「お世話になっております。早乙女です。急で申し訳ありませんが、本日付けで、退職させていただきたく思いまして」『えっ、早乙女さん? どうしたの、急に。何かあったの? あなた、真面目で評判も良かったのに。次の契約先も決まりそうだったのよ?』 電話の向こうで、担当者が珍しくうろたえているのが分かった。けれど結菜の心はもう何も感じない。「いえ、何も。ただ一身上の都合です」『何か不満があったなら言ってくれないと、急に辞められてしまうと困るわ。言ってくれれば、改善できるかもしれないし……。まさか、派遣先の会社に乗り込んできた人たちのことで?』 桐生夫人、鏡子の話は担当者の耳にも届いていたようだ。だが結菜は声の調子を変えずに続ける。「申し訳ありません。もう、決めましたので」 それきり結菜はどんな引き止めの言葉にも、ただ「申し訳ありません」と繰り返すだけだった。 電話を切った後、結菜は続けてアパートの管理会社に電話をかけた。解約を告げる声は、自分でも驚くほど平坦だった。『お部屋の家具はどうされますか?』 事務的な問いに、結菜は迷わず答える。「そちらで処分をお願いします。費用は、敷金から差し引いてください」 結菜はがらんとした部屋を見渡した。ベッドフレームのないマットレスと、小さなローテーブル、衣類を収めただけのプラスチックケース。東京での生活を支えてくれたのは、だったこれだけのささやかな家財道具だ。だが今の彼女には、それら一つひとつを梱包して引っ越しの手続きをする気力は残っていなかった。 できるだけ早く、できるだけ簡単に、この街から自分という存在の痕跡を消し去りたかった。 結菜は最低限の荷造りを始めた。クローゼットを開けて目に飛び込んできたのは、智輝とのデートのために懸命に選んだ、アイボリーのワンピース。 楽しかった思い出と今の現実が一度に蘇り、結菜は小さく首を振る。そのワンピースを迷いなく掴み

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   21:決別の言葉

     智輝は店の入り口に立ったまま、動かなかった。彼の顔からは一切の感情が抜け落ちている。銀灰色の瞳は、結菜ただ一人を冷たく見据えていた。 結菜は智輝の突然の登場と、彼の瞳に宿る見知らぬ冷たさに、全身が凍りついた。(何か言わなければ。手切れ金は断ったと、伝えなければ) そう思うのに、カラカラに乾いた喉が張り付いたように声が出ない。 智輝がゆっくりとした足取りでテーブルへと近づいてくる。 カツ、カツと彼の革靴が床を打つ音が、張り詰めた静寂の中で不吉に響いた。 智輝はテーブルの数歩手前で足を止めると、温度のない声で低く呟いた。「……そうか。これが、君の答えか」 問いかけではない。全てを諦めた者の、絶望の独り言だった。 結菜はようやく言葉を絞り出す。「違う。智輝さん、これは……」 だがその細い声は、絶望の中にいる智輝には届かない。 彼は、テーブルの上の封筒と結菜の青ざめた顔を交互に見ると、唇の端に笑みを浮かべた。痛々しい自嘲の笑みだった。 そして彼は静かだが、はっきりとした口調で言う。「君も結局、金目当てだったのか」 その言葉は、怒鳴り声よりもずっと深く結菜の心を抉った。それは単なる詰問ではない。「他の連中と同じように」という響きを伴った結菜の人間性の全否定であり、2人が分かち合った特別な時間の完全な拒絶である。(そんな……) 智輝の言葉は、物理的な暴力よりも強く結菜を打ちのめした。美しい思い出が、彼自身の言葉によって打ち砕かれていく。 彼に信じてもらえなかったという事実が、結菜の胸にひどく重くのしかかった。 何か言おうとして唇を開くが、はくはくと息が漏れるだけで声にならない。ただ目の前の男の瞳の中に、昨夜までの優しい面影を探して、必死に見つめることしかできなかった。(違う。信じて……) しかし智輝の銀灰色の瞳は、もはや何の感情も映さない氷の湖のようだった。

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   20

     智輝は息を切らしながら『月読』のドアを乱暴に開けた。 カラン、カラン――といつもよりけたたましい音を立てて、ベルが鳴る。 店内は異様なほど静まり返っていた。カウンターの奥で、マスターが苦渋に満ちた表情で立ち尽くしているのが目に入る。 智輝の心臓は激しく鳴っている。玲香の話が嘘であってくれと心の底から願いながら、彼は店の一番奥にある結菜との思い出の席へと視線を向けた。 目に飛び込んできたのは、信じたくない光景だった。 彼の母・鏡子と、婚約者・玲香。そして、その向かいに座る結菜の姿。 テーブルの中央には、分厚い純白の封筒。そしてその封筒に、結菜の手が伸ばされている――。 結菜が金を返そうと封筒を押し返した動きが、彼の角度からは、まるで金を掴もうとしたように見えたのだ。 結菜の顔は、智輝の突然の登場に驚いて青ざめている。しかしその表情すら、彼の目には「悪事が露見した者の罪悪感」として映ってしまった。 智輝の存在に最初に反応したのは、玲香だった。 彼女は「あっ……」と短く息を呑んでみせた。それから信じられないものを見たように、ゆっくりと智輝の方へ歩み寄る。その瞳は、涙で潤んでいる。 玲香は智輝のそばまで来ると、わざとらしくふらついて彼の腕の中に倒れ込んだ。か弱い被害者を演じるためだ。結菜には聞こえないよう、智輝の耳元だけで囁く。「智輝様、鏡子様のお顔をご覧になって。あんな女のせいで、お母様が追い詰められていますわ! お金なんて渡す必要ないと、あたし、申し上げたのに……!」 彼女は智輝の背中に隠れるようにして、結菜の方を怯えた目で見つめた。 芝居がかったわざとらしい動作だったが、結菜を見ていた智輝は気づかない。 一方で鏡子は一言も発しない。ただ、失望を隠さない冷ややかな視線を息子に向けただけだった。しかし智輝にとって、その沈黙こそが何より重い、結菜の有罪を告げる答えのように感じられた。 智輝の頭の中で、すべてのピースが最悪の形で組み合わさっていく。 結菜との1週間の音信不通。彼

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status