LOGIN「館長! 地下の資料室で、大変な文書を発見しました!」
結菜の報告に、館長は初め信じられないというように目を見開いたが、日誌に目を通すうちにその顔は興奮に赤らんでいった。
「早乙女さん、確かにこれは大発見だよ。すぐに市の歴史編纂(へんさん)室に連絡を入れよう!」
「はい!」
翌日、市の専門家たちが地下書庫に駆けつけて、日誌が本物であると鑑定されると、事態は一気に動き出した。
その情報は地方紙の記者の耳に入って、数日後の朝刊の一面を「町の『失われた歴史』発見! 市立図書館の地下書庫に眠る開拓者の日誌」という大見出しが飾った。 記事には発見者である司書・早乙女結菜の名前と、彼女が埃まみれの書庫で黙々と作業を続けていたという美談が添えられていた。さらに一週間後、結菜は市役所のホールにいた。市長から直接、今回の発見に対する感謝状が授与されることになったのだ。
普段着のブラウスとカーディガンではなく、数年前に一度だけ着たワンピースに身を包んだ結菜は、無数のフラッシュと拍手の中、「魔法の飲み物……」 樹はもう一度、カップの中のキャラメル色の液体を見つめた。 確かに魔法みたいだ。あんなに乾燥した草みたいな茶葉が、お湯とミルクでこんなに甘くて美味しい飲み物に変わるなんて。 樹は今まであまり紅茶を飲まなかったけれど、すっかり虜になってしまった。 それに、ひいおじいちゃんの顔色も、さっきよりずっと良くなっている気がする。 本当に魔法みたいだった。「ひいおじいちゃん、元気になった?」 樹が尋ねると、エドワードは力強く頷いた。「ああ。樹が一緒に作ってくれたからね。100人の医者よりも、この1杯のミルクティーの方がずっと効き目があるよ」「ほんと? やったあ!」 樹はクッキーをかじり、ミルクティーをごくりと飲んだ。 甘いクッキーとミルクティーの組み合わせは最高だ。口の中が天国みたいに幸せな味で満たされる。「樹」 エドワードが、少し真面目な顔をして名前を呼んだ。「今日は美味しい紅茶をありがとう。私はもう年寄りで、ベッドで休む日が増えてしまうかもしれない。でもね、樹がお兄ちゃんとして立派に成長していく姿を見ることが、今の私にとって一番の元気の源なんだよ」 エドワードのしわだらけの大きな手が、樹の小さな手をそっと包み込んだ。 少しごつごつしているけれど、とても温かくて安心する手。樹の大好きな手だ。「だから、お父さんやお母さんの言うことをよく聞いて、柚葉のことも守ってあげるんだよ。立派な、桐生家の男としてね」「うん! ぼく、お兄ちゃんだもん。柚葉のことも、ひいおじいちゃんのことも、ぜったい守る!」 樹が元気よく宣言すると、エドワードは声を上げて笑った。「ははは! それは頼もしい。次はロイヤルミルクティーではなく、普通の紅茶の淹れ方を教えてあげようか。ティーポットに茶葉とお湯を入れて、茶葉を踊らせるんだ」「ちがう淹れ方もあるんだね。そっちも美味しそう! また明日も、一緒に作ろうね!」「ああ、約束
小鍋に牛乳を加えて、IHヒーターのスイッチを入れる。 火加減は弱火。 軽くかき混ぜながら加熱して、周りがふつふつと泡立ってきたら、すぐに火を止める。 沸騰させてしまうと、牛乳の匂いが強くなりすぎてしまうとエドワードは言った。「今度は蓋をして5分待つ。ここでしっかり蒸らすのが、コクのあるロイヤルミルクティーを作るコツだ」(さすがひいおじいちゃん。色んなことを知ってるなぁ) 樹は感心しきりである。「よし、5分経ったね。鍋の中を見てごらん」 鍋の中の液体は、美しいキャラメル色になっている。 ミルクの優しい匂いと香り高い紅茶の匂いが混じり合って、樹は思わずごくりと喉を鳴らした。「カップに注ごう。私が注ぐから、樹は茶こしを持っていてくれ」「うん」 樹は茶こし(ティーストレーナー)をポットの上で構えた。 エドワードが鍋を傾けると、美しい液体はポットの中へと注ぎ込まれていく。「よし、完成だ。エドワード特製、ロイヤルミルクティーだよ」 彼はロイヤルミルクティーを収めたティーポットを手に取って、にっこりと微笑んだ。◇ キッチンの隅にある小さな丸テーブルに、向かい合って座る。 樹のカップに、ティーポットからキャラメル色の紅茶が注がれていく。 コポコポという音まで美味しそうだ。 カップの隣には、ママが焼いておいてくれたバタークッキーのお皿がある。「仕上げに、お砂糖を少し。樹は甘い方が好きだろう?」 角砂糖をぽちゃん、と落とし、スプーンでくるくるとかき混ぜる。カチャカチャという涼しげな音がキッチンに響いた。「熱いから、気をつけて飲むんだよ」 エドワードに言われ、樹はカップを両手で包み込んだ。じんわりとした温かさが、手のひらから体中に伝わっていく。 ふうふうと息を吹きかけ、そっと口をつける。「……!」 樹は目を大きく見開いた。
「ほんと……?」「ああ、本当だとも。でもせっかくだ。2人で一緒に、本物の紅茶を淹れてみようじゃないか。イギリス仕込みの、とびきり美味しいやつをね」「ぼくも、いっしょにできる?」「もちろん。樹はもう立派なお兄ちゃんだろう? 2人でやれば、きっとうまくいくさ」 エドワードがウィンクをして見せると、樹の顔にようやくパッと明るい笑顔が戻った。◇「さて、まずは茶葉選びだ。紅茶には色々な種類があるが、今日は特別に『ロイヤルミルクティー』を作ろう」 エドワードの指示で、樹は食器棚の奥から別の茶葉の缶を取り出した。 ロイヤルミルクティー。なんだかとても強そうで、かっこいい名前だ。(恐竜にいそうな名前) と、樹はこっそりと思った。「この茶葉は『アッサム』というんだ。ミルクに負けない、しっかりとした濃い味と香りが特徴だよ。缶の蓋を開けて、香りを嗅いでごらん」 樹が言われた通りに鼻を近づけると、先ほどの茶葉とは違う、少し甘くて香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。 焼き立てのクッキーみたいな、ホッとする匂い。「いい匂い!」「だろう? ミルクティーにする時は、茶葉の量は少し多めにするのがコツだ」 茶葉の缶を横に置いて、エドワードはIHヒーターへ向き直る。 先ほどポットの熱湯で火傷しそうになった樹のために、今度はエドワードが片手鍋でお湯を沸かし直してくれた。 沸騰したら、一度火を止める。 水は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターである。「水は水道水ではなく、このミネラルウォーターを使おう」「水道のお水じゃだめなの?」「だめではないが、日本の水は軟水だからね。イギリスの硬水と比べると、風味が変わってしまう」「お水が、やわらかいとか、かたいとかあるの……?」 樹は目を白黒させている。 エドワードは微笑んだ。「マグネシウム
小さなスプーンで茶葉をすくい、ティーカップの中に直接入れる。 どれくらい入れればいいのか分からなかったので、とりあえず山盛りで3杯入れた。(お湯を入れる時は、熱いから気をつけて……) ポットのボタンをぎゅっと押す。じょろじょろと勢いよくお湯が出て、カップの中の茶葉がぐるぐると踊り始めた。 お湯はあっという間にカップの縁まで上がり、少しだけこぼれてカウンターを濡らしてしまった。「あちっ!」 飛び散ったお湯が手の甲に跳ねて、樹は思わず手を引っ込める。 急いで布巾でこぼれたお湯を拭き取った。(ふう、危なかった。あとは、このまま待つんだよね) ママが紅茶を淹れる時、いつも少しだけ待っていたのを思い出す。 樹はカップを覗き込んだ。 最初は薄い茶色だったお湯が、どんどん濃くなっていく。1分、2分と経つうちに、まるで泥水のように真っ黒な液体へと変わってしまった。「え……?」 樹は目を丸くした。 ひいおじいちゃんが飲んでいる紅茶は、もっとキラキラした綺麗な琥珀色だったはずだ。こんな真っ黒ではなかった。 恐る恐る、スプーンで一口すくって舐めてみる。「にがっ!!」 舌の根が痺れるような強烈な渋みと苦み。とても飲めたものではない。 樹は急いで水道の水を口に含んで、ぺっぺっと吐き出した。(どうしよう。失敗しちゃった……) せっかくひいおじいちゃんを元気にしてあげようと思ったのに。美味しい紅茶なんて、ぼくには淹れられないんだ。 そう思ったら、喉の奥に熱い塊がこみ上げてくる。視界がじわりとにじんで、カップの縁がぼやけて見えた。 唇をぎゅっと噛み締めて、涙がこぼれるのを必死にこらえる。無意識に両手を強く握りしめた。「おや、こんなところで何をしているんだい、樹」 不意に背後から声がした。 静かなモーター音と共に、車椅子に乗ったエドワードがキッチンに現
桐生邸に新しい家族が増えて、数ヶ月が過ぎた。 妹の柚葉(ゆずは)は、ふっくらとした頬をほんのりピンク色に染めて、いつもベビーベッドですやすやと眠っている。 樹は今年で6歳になった。すっかりお兄ちゃんとしての自覚が芽生え、妹が泣けばすぐにおもちゃを持って駆けつける日々だ。 屋敷の中は赤ん坊の泣き声と大人たちの笑い声で、いつも明るい空気に包まれている。◇ ただ一つ、樹の心を暗く曇らせていることがあった。 曽祖父であるエドワードが、最近ベッドで休む日が多くなっていたのだ。(ひいおじいちゃん、どこか痛いのかな。お顔の色も、あんまり良くないし……) 樹は心配でたまらなかった。 エドワードは、イギリスの「不思議の国」のお話をたくさん聞かせてくれる、大好きなひいおじいちゃんだ。車椅子に乗っているけれど、いつも背筋をピンと伸ばして、銀灰色の瞳を優しく細めて笑ってくれていた。 それなのに、最近はリビングで一緒にお茶を飲むことも少なくなってしまった。(ぼくが、ひいおじいちゃんを元気にしてあげたい。何か、ぼくにできることはないかな……?) 子供部屋で恐竜の図鑑をパラパラとめくりながら、樹は一生懸命に考えた。 エドワードの好きなもの。 真っ先に思い浮かんだのは、琥珀色の液体が入った、綺麗な模様のティーカップだった。(そうだ! 紅茶だ!) ひいおじいちゃんは、いつも美味しそうに紅茶を飲んでいた。 甘いお菓子と一緒に、ふうふうと息を吹きかけながら飲むと、決まって嬉しそうに目を細めていた。『私の故郷は紅茶の本場でね。料理は美味しくないが、紅茶だけは美味しいとよく言われたものさ』 そんなふうに言って笑っていたものだ。(ぼくが美味しい紅茶を淹れてあげたら、きっとひいおじいちゃんも元気になる!) 思いついたら、すぐに行動だ。 樹は図鑑を放り出し、子供部屋を飛び出した。廊下をぱたぱたと走り、一階の広
「……さて。今日はここまで」 話の区切りをつけてエドワードが言うと、樹は急に現実に引き戻された気持ちになった。 車椅子の曽祖父の顔を見上げて、首をかしげる。「ひいおじいちゃん、もう終わりなの? それからイツキはどうなったの? もっと聞きたいよ」「終わりではないよ。続きはまた明日にしよう。さあ、そろそろ夕食の時間だ。しっかり食べて、大きくならないとね。お母さんを迎えにいってあげなさい」「ん、分かった! お話、明日また聞かせてね!」 樹は勢いよく立ち上がると、弾むような足取りでリビングを出ていった。「……お父様があんなにお話が上手とは、知りませんでしたわ」 残された鏡子がぽつりと言う。エドワードは苦笑した。「お前にも話したはずなんだが、もっとたくさん聞かせてやればよかったね。当時は仕事が忙しくて、お前のための時間をあまり取ってやれなかった。後悔先に立たずとはこのことだ」 若い頃のエドワードは単身で戦後の日本に渡り、KIRYUホールディングスを立ち上げた。 結婚した後も多忙を極めて、家族との時間が少なかったのは事実だ。 鏡子は首を振った。「もう50年以上前のことです。私も大人どころか、高齢になりました。お父様に感謝以外はありません」「そうかい? いくつになっても、親にとっては可愛い娘だ。樹のお話の次は鏡子の話をしようじゃないか」「またそのようなことを……」 鏡子は呆れ顔だが、少しだけ嬉しそうでもある。長年を仕事の責務に費やしてきた彼女にとって、今の家族の団らんは新鮮で、心が温まるものでもあった。「不思議の国のアリスの続編は、鏡の国のアリス。鏡子の鏡の字だよ。ぴったりじゃないか。どんなお話にしようか、今から腕が鳴るね」 楽しげなエドワードに、鏡子も少しだけ笑った。「……そうですね。では樹くんと一緒に聞かせてください」「ああ、そうしてくれ。可愛い娘と孫とひ孫に囲まれて、私は幸せ者だ」 エドワードはひざ掛けの下の手を握り直した。そこには1つの古びた鍵がある。 この屋敷の地下にある、エドワードの書庫の鍵だ。 普段は鍵がかけられているそこは、エドワードにとっての不思議の国。長年かけて収集した貴重な本が山ほど収められている。(鏡子は読書に興味を示さない子だった。智輝は本が好きだったようだが、途中で心を閉ざしてしまった。樹はまっすぐな目で
絵本コーナーの一角。智輝は、子供の存在を意識から追い出すように、ノートPCの画面に集中していた。カタカタと響くキーボードの音が、彼の苛立ちを代弁している。(なぜ俺が、この子の面倒を見なければならない……いや、面倒など見ていない。ただ、そこにいるだけだ。仕事に集中しろ) 一方、樹は智輝の冷たい空気を気にする様子もなく、お絵描きに飽きて立ち上がった。書架からお気に入りの、大きな恐竜の絵本を取り出すと、まっすぐに智輝の方へ歩いてくる。 樹は智輝のデスクの横に立ち、絵本を掲げた。「これ、よんで」
「なんだ、これは……」「綾小路玲香様のSNSアカウントの投稿でございます。本日、こちらの図書館を訪問された際のもののようですが……」 秘書は慎重に言葉を選びながら続けた。「こちらの投稿が、現在、複数のビジネス系インフルエンサーやゴシップサイトに取り上げられておりまして。株主様からも数件、お問い合わせが来ております」 タブレットに表示されていたのは、玲香の自撮り写真と、世間の嘲笑に満ちたコメントの数々だった。 仕事に没頭していた智輝の思考が、一瞬で怒りに塗り替
高級車の後部座席で、玲香は怒りに爪を噛んでいた。(あの女……! 少しも動揺しないなんて。私はおろか、智輝様まで眼中にないというの!?) 智輝の名を出した時も、指輪を見せつけた時も、結菜はちっとも取り乱したりしなかった。(智輝様も智輝様よ。結婚を5年も引き伸ばして、今も婚約者であるあたしをないがしろにしている!) 玲香はプライドがひどく傷つくのを感じた。「こうなったら……」 彼女はスマートフォンを取り出した。図書館で密かに撮っておいた、指
用事を終えた結菜は、焦る気持ちを抑えながら早足で絵本コーナーに戻っていた。(樹、大丈夫かしら。田中さんに迷惑をかけていないといいけれど……。泣いていたりしない? それともまさか、智輝さんに……) 最悪の状況ばかりが頭をよぎり、心臓が不安に脈打つ。絵本コーナーに近づくにつれ、結菜は足音を忍ばせた。まずは物陰から、中の様子を窺おうと考えたのだ。 書架の隙間からそっと中を覗いた結菜は、絶句した。 彼女が想像していた気まずい沈黙や、樹が泣いている光景とは全く違う、信じられないほど温か