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十一月の冷たい雨が、オフィスビルの窓ガラスを叩いていた。
藤崎麗奈は、会議室のテーブルに置かれた一枚の書類を見つめていた。解雇通知書。彼女の名前が印字された、冷たく事務的な文書。八年間働いた東邦広告の、彼女のキャリアの終わりを告げる紙切れ。
「藤崎さん、あなたには本当に残念ですが」
人事部長の声は、申し訳なさそうではあったが、決して覆らない決定の重みを帯びていた。
「ミラノプロジェクトの失敗により、クライアントから三億円規模の損害賠償請求が来ています。プロジェクトリーダーとして、責任を取っていただくしかありません」
麗奈は静かに息を吸った。指先が微かに震えていたが、声は驚くほど落ち着いていた。
「人事部長、確認させてください。ミラノプロジェクトの最終プレゼン資料を作成したのは誰ですか?」
「それは……あなたとチームリーダーの田所さんですね」
「では、なぜ田所さんはこの場にいないのですか?」
沈黙。人事部長は視線を逸らした。
「それは……狩野部長の判断で……」
狩野達也。麗奈の直属の上司。そして、この会議室には姿を見せない男。
麗奈は立ち上がった。窓の外では、雨が激しさを増していた。灰色の空から落ちる無数の雨粒が、まるで彼女の未来そのもののように見えた。
「分かりました。この書類にサインします」
「藤崎さん……」
「ただし、一つだけ言わせてください」
麗奈は会議室のドアに向かいながら、振り返った。
「真実は必ず明らかになります。それがいつになるかは分かりませんが」
彼女は自分のデスクに戻り、私物を段ボール箱に詰め始めた。同僚たちは誰も彼女に近づかなかった。失敗者に関わることは、この業界ではキャリアの汚点になる。それを麗奈は誰よりも理解していた。
エレベーターホールに向かう途中、麗奈は田所健一とすれ違った。
三年間付き合い、半年前に婚約した男。彼女が最も信頼していた人間。
「麗奈……」
田所の声には、罪悪感が滲んでいた。しかし、彼は謝罪の言葉を口にすることはなかった。
「田所さん」
麗奈は、もう「健一」とは呼ばなかった。
「ミラノプロジェクトの本当のデータ、私のPCに残っているはずです。でも、もう誰も見ようとはしないでしょうね」
田所の顔が蒼白になった。
「幸せに」
麗奈はそれだけ言い残して、エレベーターに乗り込んだ。
一階のロビーに降り立つと、雨はさらに激しくなっていた。傘も持たずに外に出た麗奈は、冷たい雨に打たれながら、ビルを振り返った。
八年間、全てを捧げた場所。恋も、キャリアも、自分の未来も託した場所。
「終わった」
麗奈は呟いた。しかし、その声には不思議な冷静さがあった。
雨に濡れながら歩き出した彼女は、まだ知らなかった。この日が終わりではなく、新しい物語の始まりであることを。そして、いつかこの雨が止む日、彼女は全く違う姿でこのビルに戻ってくることになることを。
携帯電話が震えた。非通知の着信。麗奈は立ち止まり、電話に出た。
「藤崎麗奈さんですね。私、グローバル・ストラテジー・コンサルティング社のアジア統括、ロバート・チェンと申します」
流暢な日本語だったが、英語のアクセントが残っていた。
「今、お話しできますか? あなたにお願いしたい仕事があるのですが」
雨音の中、麗奈は微かに笑った。
「はい、今なら時間があります。いくらでも」
東邦広告のエントランスに足を踏み入れたとき、麗奈は不思議な感覚に襲われた。 すべてが記憶の通りだった。受付の位置、壁の色、待合ソファーの配置。しかし、同時にすべてが違って見えた。 二年前、彼女はここを段ボール箱を抱えて出て行った。今、彼女は三人のチームメンバーを従えて、プロジェクトリーダーとして戻ってきた。「GSCの藤崎です。社長との面談をお願いしています」 受付嬢は、麗奈の名刺を見て目を見開いた。「ふじさき……様?」 彼女は麗奈の顔を二度見した。明らかに、記憶の中の人物と重ねていた。「はい、以前こちらに勤めていました」 麗奈は穏やかに微笑んだ。「お久しぶりです、山田さん」 受付嬢――山田は、驚きを隠せない様子だった。「藤崎さん……本当に、ご本人ですか?」「ええ。今日から、御社の経営再建プロジェクトを担当させていただきます」 山田は何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。「社長室へご案内いたします」 エレベーターで最上階に上がる間、麗奈は自分の心を冷静に保っていた。緊張はあったが、それ以上に、確かな使命感があった。 社長室のドアが開いた。「GSCの藤崎です」 社長の園田光一は、六十代半ばの穏やかな表情の男性だった。麗奈が在籍していた頃、彼は常務だった。「藤崎さん……いや、藤崎コンサルタント」 園田は立ち上がり、深く頭を下げた。「この度は、誠に申し訳ございませんでした」 麗奈は、その謝罪の意味を理解した。二年前の不当な解雇について、園田は当時反対していたという噂を聞いていた。「園田社長、過去のことは問題ではありません。今、私がここにいるのは、御社を立て直すためです」 麗奈は、準備してきた資料を広げた。「まず、現状分析から始めさせていただきます。御社の財務状況、主要クライアントの動向、そして
銀座の高級イタリアンレストラン。柔らかな照明とジャズの調べが、落ち着いた雰囲気を作り出していた。 麗奈は、高瀬亮介という男性と初めて対面した。 三十八歳。ロバート・チェンの義理の弟――ロバートの妹と結婚していたが、三年前に妻を病気で亡くしていた。現在はGSCの欧州統括を務めている。「藤崎さんの評判は、ロンドンまで届いていますよ」 高瀬は、穏やかな笑みを浮かべた。長身で知的な雰囲気を持つ男性だった。眼鏡の奥の瞳には、温かさと同時に鋭い観察力が宿っていた。「大げさです」「いえ、本当です。あなたの手がけた製薬会社のケーススタディは、既にハーバードのビジネススクールで教材として使われています」 麗奈は驚いた。まだ一年も経っていないプロジェクトが、既にそこまで評価されているとは。「藤崎さん、失礼ですが……あなたはなぜこの業界に?」 高瀬の質問は、単なる社交辞令ではなかった。本当に興味を持っているようだった。「元々、広告代理店にいました。しかし……事情があって」「東邦広告ですね」 麗奈の手が、一瞬止まった。「調べたんですか?」「いえ、ロバートから聞きました。そして、私なりに背景を調べさせていただきました。失礼をお許しください」 高瀬は真剣な表情になった。「あなたは、不当な扱いを受けた。しかし、それに押しつぶされることなく、ここまで登ってきた。それは、並大抵の精神力ではできないことです」 麗奈は黙ってワインを口に含んだ。「藤崎さん、一つお願いがあります」「何でしょうか?」「私と一緒に、日本のコンサルティング市場を変えませんか?」 高瀬は、タブレットを取り出した。「GSCは現在、アジア市場の拡大を計画しています。特に日本市場は、伝統的な企業文化と急速なグローバル化の狭間で、多くの企業が方向性を見失っている。そこに、私たちのチャンスがあります」 画面には、詳細な市場分析データが表示されていた。「あなたには、日本企業の心を理解する能力がある。それは、外国人コンサルタントには絶対に真似できない強みです。私には戦略があり、あなたには実行力がある。一緒にやりませんか?」 麗奈は考えた。この提案を受け入れることは、単なるキャリアアップではない。それは、日本のビジネス界で本当に影響力を持つ存在になることを意味していた。「考えさせてください」
グローバル・ストラテジー・コンサルティング社――通称GSC――のオフィスは、東邦広告とは全く異なる空気を持っていた。 六本木ヒルズの最上階フロア。床から天井までの窓ガラスから見える東京の夜景。洗練されたモダンデザインのインテリア。そして何より、働く人々の目つきが違っていた。 麗奈は、ロバート・チェンの前に座っていた。五十代半ばの彼は、ハーバード・ビジネス・スクールで教鞭を取っていた経歴を持つ伝説的なコンサルタントだった。「藤崎さん、あなたのことは三年前から注目していました」 ロバートは、分厚いファイルを麗奈の前に置いた。「あなたが手がけた化粧品ブランドのリポジショニング戦略。従来のターゲットを三十代から四十代後半にシフトさせ、『成熟した美しさ』というコンセプトで市場を開拓した。結果、売上は二年で三倍になった」「それは……チーム全体の成果です」「謙遜は不要です。私は、誰がその戦略の核心を考えたか知っています」 ロバートは麗奈の目をまっすぐ見た。「あなたは、マーケティングの本質を理解している。それは『消費者の潜在的欲求を可視化し、それに応える価値を創造すること』だ。多くのマーケターは表面的なトレンドを追いかけるだけですが、あなたは違う」 麗奈は黙って聞いていた。「ミラノプロジェクトの失敗について、私なりに調査しました」 ロバートは別のファイルを開いた。「あなたの当初の提案は、イタリアの伝統的価値観と日本の美意識を融合させるという、非常に緻密な戦略でした。しかし、最終的にクライアントに提出された資料は、表面的なイメージ戦略に変更されていた。なぜですか?」「それは……」「答えなくても結構です。組織の政治については、私も長年見てきましたから」 ロバートは立ち上がり、窓の外を見た。「藤崎さん、あなたには才能がある。しかし、東邦広告のような日本の伝統的な企業では、その才能は政治力や年功序列に押しつぶされる。あなたが必要としているのは、純粋に実力が評価される場所です」「私に、何を求めているんですか?」「GSCの日本市場戦略部門のシニアコンサルタントとして来てほしい。まずは契約社員として三ヶ月。その後、あなたの実績次第で正社員、そして将来的には日本代表も視野に入れています」 麗奈の心臓が高鳴った。「年収は二千万円からスタート。実績に応じて
十一月の冷たい雨が、オフィスビルの窓ガラスを叩いていた。 藤崎麗奈は、会議室のテーブルに置かれた一枚の書類を見つめていた。解雇通知書。彼女の名前が印字された、冷たく事務的な文書。八年間働いた東邦広告の、彼女のキャリアの終わりを告げる紙切れ。「藤崎さん、あなたには本当に残念ですが」 人事部長の声は、申し訳なさそうではあったが、決して覆らない決定の重みを帯びていた。「ミラノプロジェクトの失敗により、クライアントから三億円規模の損害賠償請求が来ています。プロジェクトリーダーとして、責任を取っていただくしかありません」 麗奈は静かに息を吸った。指先が微かに震えていたが、声は驚くほど落ち着いていた。「人事部長、確認させてください。ミラノプロジェクトの最終プレゼン資料を作成したのは誰ですか?」「それは……あなたとチームリーダーの田所さんですね」「では、なぜ田所さんはこの場にいないのですか?」 沈黙。人事部長は視線を逸らした。「それは……狩野部長の判断で……」 狩野達也。麗奈の直属の上司。そして、この会議室には姿を見せない男。 麗奈は立ち上がった。窓の外では、雨が激しさを増していた。灰色の空から落ちる無数の雨粒が、まるで彼女の未来そのもののように見えた。「分かりました。この書類にサインします」「藤崎さん……」「ただし、一つだけ言わせてください」 麗奈は会議室のドアに向かいながら、振り返った。「真実は必ず明らかになります。それがいつになるかは分かりませんが」 彼女は自分のデスクに戻り、私物を段ボール箱に詰め始めた。同僚たちは誰も彼女に近づかなかった。失敗者に関わることは、この業界ではキャリアの汚点になる。それを麗奈は誰よりも理解していた。 エレベーターホールに向かう途中、麗奈は田所健一とすれ違った。 三年間付き合い、半年前に婚約した男。彼女が最も信頼していた人間。「麗奈……」 田所の声には、罪悪感が滲んでいた。しかし、彼は謝罪の言葉を口にすることはなかった。「田所さん」 麗奈は、もう「健一」とは呼ばなかった。「ミラノプロジェクトの本当のデータ、私のPCに残っているはずです。でも、もう誰も見ようとはしないでしょうね」 田所の顔が蒼白になった。「幸せに」 麗奈はそれだけ言い残して、エレベーターに乗り込んだ。 一階のロビーに降