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六月の終わり。
梅雨の湿気が都心を包み込む午後だった。
秘書経由で、日時と場所。
添えられた父親からの伝言は「話がある」という短いものだった。
(……珍しい)
謙一は無駄を嫌う人間だ。
いつだって呼び出しには必ず明確な目的があり、事前にそれを伝えてきた。
答えなり、対策なりを持って呼び出しに応じられるように。
それなのに、今回にはそれがない。
秘書として呼ぶのであれば、こういう曖昧な呼び出し方はしないはずだった。
(それなら“娘として”……?)
その可能性を考えた瞬間、あやめの胸の奥にわずかな違和感と、何か温かいものが生まれた。
だが、温かく感じたその感情をあやめはすぐに打ち消した。
(……それはない)
.
重厚な扉の前に立ったとき、あやめは手のひらにじっとりとした汗が滲んでいることに気づいた。
それは外気の湿気のせいだけではない。
つばを飲み込み、その緊張を胸の奥へ押し込める。
あやめは拳を握った。
コンコン。
ノックをして、返事を待つ。
「入れ」
低く返ってきた声は秘書として聞き慣れているはず。
しかし、秘書として呼ばれた気がしないからか、どこかよそよそしく響いた。
「失礼いたします」
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
冷房の効いた部屋の中は外の蒸し暑さとは別の意味で冷え切っていた。
温度ではなく、空気の密度が違った。
(……緊張してはだめ)
理由が分からないまま呼び出されたことが、こんなにも感覚を鋭くさせているのか。
あやめはそんなことを思った。
「よく来たな、座れ」
謙一は“父親”ではなく、報道の中で見る“大臣”の顔をしていた。
声音も、視線も、あやめ個人に向けられてはいるが親しみは感じない。
あくまでも秘書としてあやめを見ているのと同じ目。
(この人の“父親の顔”を、最後に見たのはいつかしら)
そう考えて、あやめはかすかに苦笑した。
そんなものはなかったからだ。
母親を早くに亡くしたあやめは、高校生の頃から父親のサポートをしてきた。
名門女子大に進学し、在学中から父親の秘書を務めていた。
幼い頃に「お父さん」と呼んだ記憶はある。
だが、それがいつの間にか「大臣」と同義になった。
(ある意味では、お互い様なのかもしれないわね)
自分にとっては“父親”というよりも“大臣”。
それならば、父親にとって自分は“娘”というよりも“秘書”。
ある意味釣り合いがとれる。
.
「あやめ」
父親に名前を呼ばれて、あやめは謙一の顔を見た。
そして、少しだけあやめの心臓が跳ねた。
いつも秘書としてのあやめに向ける目とは少し違って見えたからだ。
戸惑いつつも、察した。
今日のこれは仕事の話のためではない。
これは秘書としての呼び出しではない。
ならば残るのは―――。
(……用事は、柊謙一の娘である私個人に対してのこと)
そこまで思考が至った瞬間、視界の端に「もう一人」の存在を意識した。
父親の隣にいる男はあやめが初めて見る男だった。
その長身痩躯にぴたりと合った黒のスーツに身を包み、微動だにせず、無表情のまま立っている。
まるで壁の一部のように静か。
しかし、確実にこの部屋では異質な存在。
(……この人)
謙一が紹介をしていないため、あやめは気づかないふりをしながら男の外見と所作を観察した。
秘書としての習慣だった。
無駄のない、重心がぶれない立ち姿。
視線は一定の高さを保ち、周囲を警戒している様子はないのに、隙も見せていない。
鍛えられている。
それも見せるためではなく、実用のための身体だ。
(官僚でも、企業の人間でもない。もっと別の―――)
そのとき、不意に男と視線が合った。
男の目があやめを射抜いた。
(……冷たい目)
深い湖の底のような、静けさを湛えている目だった。
感情の揺れが見えない。
だが、何も感じていないわけではないと分かる。
ただ、表に出す必要がないだけだと分かる目。
(観られている……)
観察しているのはこちらのはずなのに、逆に測られている感覚があやめにはあった。
.
「紹介しよう。
(カンザキ、トウヤ……どこかで……)
あやめが記憶を探るより先に、謙一が言葉を続けた。
「龍神会の若き組長、と言ったほうが分かりやすいな」
(龍神会っ!)
その名を聞いた瞬間、あやめの背筋が凍った。
龍神会。
関東最大と呼ばれる極道組織だ。
政治家の娘として育ち、秘書として父親の仕事を見てきた。
龍神会の名は、あやめにとって決して無縁の存在ではなかった。
清廉潔白だけで政治は回らない。
だが、濁りに呑まれてもいけない。
だからこそ、名前だけは知っている存在。
距離を保ちながらも、確かに“関係している”存在として。
だが―――。
(どうして、その人がここに)
そして、なぜ自分の前に立たされているのか。
答えはひとつしかない。
(……まさか)
あやめはわずかに視線を下げ、すぐに持ち直した。
動揺は見せない。
それは秘書として身についた習慣でもあり、柊家の娘としての矜持でもある。
(この人が、私の?)
口には出さず、心の中で呟く。
父親が理由も告げずに呼び出した。
そして色々と釣り合う男性を『紹介』された。
(この人は、少なくともこの場に呼ばれた理由を知っている)
神崎冬弥の視線に熱や欲はない。
そのくせ、明らかにあやめを『対象』として見ていた。
状況証拠は十分すぎた。
(神崎冬弥は、私の結婚相手だ)
【過去回想】「私なら、あなたを満足させられますよ」さくらが一歩近づく。冬弥は動かなかった。避けるほどの価値もなく、ただ冷めた目で見下ろすだけだった。(なるほど……)ようやく分かった。誘惑は露骨なのに、どこか冷めている。欲しい男を相手にしているわけではない。さくらにとって、自分はただの副産物。さくらが欲しいのは、あやめから自分を奪ったという事実。あやめから奪えれば、それでいい。そのためなら、自分と寝ることさえ厭わないという態度だった。「お前の目的は俺じゃないな」さくらの目が僅かに細くなる。「どういう意味でしょう?」「ただ、あやめから奪いたいだけだろう?」さくらの笑みは崩れなかった。だが、否定もしなかった。その沈黙で十分だった。 ◇◇◇さくらがなぜあやめにあそこまで敵意を持っていたのか。政治家の娘としての素質がない。女としての魅力がない。なぜそんなことを触れ回っていたのか。それを知ったのは、あやめが冬弥に紹介してみせた【愛人】で分かった。あやめの築いていた人脈。人の心を惹きつける才能。柊謙一の後継者として、誰が一番相応しいのか。それがあやめだと、さくらは気づいていたのだろう。ただそれを認めたくなかった。後継者として相応しい振る舞いができているのは自分だ、と。事実から目を逸らして、さくらは分からない振りをし続けていた。「……おっかない女だ」冬弥は腕に抱いているあやめに視線を向ける。あやめはぐっすり寝ていた。ソファに座る冬弥に甘えるように近づいてきたと思ったら、瞬く間に眠ってしまった。一度眠るとあやめの眠りは深い。冬弥の独り言で起きることはない。.
【過去回想】さくらのことは、結婚前にも何度か見かけていた。初めて言葉を交わしたのは、あやめとの結婚後に出席したパーティーだった。そのときは挨拶をした程度で、さほど印象には残らなかった。ただ、その後も顔を合わせるたび、自分への接し方に妙なものを感じていた。冬弥も鈍くはないし、そういう誘いにも慣れていた。顔を合わせるたびに「義姉上」と呼び、あくまであやめの姉として扱った。堅苦しいから名前で呼んでほしいと言われても、応じなかった。自分たちの関係は、あやめを介したものにすぎない。あやめの存在を忘れるなと暗に警告し、気づかない振りを続けていたあやめの姉として最低限の面目を保たせていた配慮が台無しになったのは、神崎芸能主催のチャリティーガラだった。表向きは、文化支援と慈善活動を目的としたもの。実際にはスポンサー企業や政財界との関係を強固にするための場。あやめとの縁で、柊家の関係する企業も多く招待していた。冬弥は主催者として招待客を迎え、必要な相手に挨拶をしていく。面倒ではある。だが、神崎芸能を龍神会の安定した資金源として維持するためには必要な仕事だった。「神崎社長」声をかけてきたのは、今回のチャリティーガラに多額の協賛金を出している企業の専務。無視できない相手だった。冬弥は足を止め、彼の隣にいた柊さくらには、あえて視線を向けなかった。真紅のドレス。下品に見えないよう計算されているが、大胆に開いた胸元。髪も化粧も完璧で、多くの男がさくらに称賛の目を向けていた。――これでは足りない。――もっと注目されたい。さくらの目はそう言っていた。あやめとは似ていないと思った。顔立ちがまったく違うわけではない。目元や輪郭には、姉妹だと分かる程度の共通点がある。だが、醸し出す雰囲気が違う。あやめなら、ひっ
【過去回想】結婚して神崎姓になっても、それは冬弥の妻になったというだけのこと。神崎の女。龍神会の姐御。そんな存在になるには、それだけでは足りない。一族や組員たちに、その力を認めさせなければならない。冬弥がそれをあやめに説明したことはない。だが、あやめ自身はそれを感じ取って理解しているようだった。(そして、特に気にしてもいないようだ)自分が「奥様」と呼ばれることを気にしない。自分は冬弥の妻なのだから、それで当然という顔をしている。逆に「姐さん」と呼ばれたときのほうが驚く。「映画の中みたい」と呟く姿に、この世界の女じゃないことを理解する。だが、生きてきた場所は違っても、根は同じ世界の女だとすぐに分かった。.神崎芸能に所属している狩野智和が女性トラブルを起こした。神崎芸能が力を入れて売り出している若手俳優で、清潔感と爽やかさが売りだった。ブランド戦略はうまくいき、ゴールデン帯の主演ドラマも決まった。大企業がドラマのスポンサーについた。なぜこの時期にトラブルを起こすのかと苛立った。相手の女性が保存していた証拠もあり、単なる噂では済ませられなかった。どう処理するか考えていたところ、あやめもその証拠を目にした。男性経験も乏しいであろう深窓のお嬢さんに見せるものではない。だが、あやめはあっさりとしていた。それどころか淡々と状況を確認し、本来なら被害者である女性を加害者として見せる形で解決させようとした。「それはそれ、これはこれ」朱雀会のことがある以上、龍神会の資金源である神崎芸能を弱体化できない。だから、なかったことにする。さらにあやめは、狩野智和の有効な使い道について提案してきた。具体的な手段を考えるのは冬弥に委ねられたが、そういう手を示唆したのはあやめだった。お嬢さんだと思っていた女が、その綺麗な手をどす黒い泥濘へ躊躇なく浸す。その姿に、背筋がぞくりとした。欲情した。「俺は相当怖い嫁を迎えたらしい」女として強く意識してしまったことを誤魔化すため、冗談めかした声音で言った。「光栄です」そう言って微笑む姿は上品だが凄味があり、自分が理想とする『女』そのものだった。 ◇◇◇「冬弥さん」あやめの声に、冬弥は現実に戻った。「お帰りなさい」「ただいま」いつの間にか、この挨拶が当たり前になっていた。「……
【過去回想】記者会見を終えると結婚した実感がわき、その夜は早めに仕事を終えた。いつもならシャワーで済ませる入浴も、湯船に湯をはり、ゆっくりと浸かった。体がほぐれたところで風呂を終えた。軽く体を拭いて、タオルを腰に巻く。このまま湯上りのビールを楽しもう。そう思ったところで手が止まった。しばし考え、脱衣所に用意されていた藍色の浴衣に手を伸ばす。羽織り、帯を締める。そして置いてあった煙草一式を手に持ち、部屋の窓から庭に出る。火照った体に夜風が気持ちよかった。でも、風呂上がりのビールほどではない。それならなぜ。そう思いながら煙草に火を点ける。思い切り煙を吐き出す。気持ちはいいが、やはり風呂上がりのビールほどではない。(それでも……)微かに、玉砂利を踏む音が聞こえた。冬弥の口元が緩んだ。でも顔は向けない。こちらが気づいたと分かれば、逃げていく。猫耳を生やしたあやめの姿が想像できた。離れたところで足音が止まる。隣ではない。でも、逃げる気がないのは分かる。こちらが気づいていることに、あやめも気づいている。それに。「なんだ?」視線で頬が焦げてしまいそうだった。「眠れないんですか?」冬弥はあやめに顔を向けた。冬弥は、自分が座っている縁側の隣を指さす。「座れよ。今日は夜風が気持ちいい」あやめが迷うのを感じ取ったが、黙っていると隣に腰を下ろした。体の火照りが冷めれば、梅雨の夜らしく湿気た空気がまとわりついてくる。でも吹いてくる夜風は気持ちいい。風呂で大分アドレナリンは落ち着いたが、この瞬間、ようやく完全に収まった気がした。隣を見ると、あやめが煙草の煙を見ていた。「悪い、煙たいな」「いいえ。意外と、いい匂いなんだなと思っています」「意外とって」周りが喫煙者ばかりの環境だったから、冬弥にとっては当たり前の匂い。それを「意外」と言うあやめ。育ってきた環境が違うのだと感じた。「まあ、政治家のお嬢さんだからな。周りに喫煙者なんていないか」お嬢さん。この言葉が、妙にしっくりときた。「お前、変なところで箱入り娘なんだな」「変なところって……」「朱雀会の奴らに――飴玉やるって言われてもついていくなよ」「ついていきませんよ」小気味いいテンポで返ってくる言葉には計算がなく、心地いい。笑いながら煙草の煙を吸
【過去回想】(なぜ、こんな顔をする?)冬弥には分からなかった。「期待を裏切りましたか?」そう言われて、よけい分からなくなった。(期待を、裏切る?)あの早苗に「大物」と評価されるほどなのに。「お前は、柊謙一の娘なんだなと思っただけだ」そう言うと、あやめの顔に表情が戻ってきた。意表を突かれたような表情だったが。「お父様の娘、ですか……?」(なぜ戸惑う?)「違うのか?」「違いませんが……そう言われたことが、あまり、なくて」(あまり社交場には出てこないと言っていたな)言われる機会もなかっただろう。社交界で聞くのは柊さくらの名前ばかりだった。柊あやめと言えば「柊さくらの妹」と姉の付属品のようになっていた。周囲は柊さくらを熱心に進めてきた。社交界の花と言われるほど華やかな存在。周囲からも“柊家の娘”として認識されている。彼女を妻とすることで、柊家の後ろ盾がよく分かる。余りに熱心に進めるから先日柊さくらが参加する会に出席したが、実際に見た瞬間に無理だと分かった。周囲の称賛が必要な女。この女は檻に耐えられないと思った。冬弥が求めていたのは役割を理解し、愚直なほどそれを全うする人物。あの柊謙一のように。「よく似ているのにな」あやめは父親によく似ている。役割を理解し、それを全うしようという意志が言動から見てとれる。「似ていますか?」(ただ、本人は気づいていないようだな)恐らく周囲も。もし自分が柊謙一の後援会の者なら、後継者にはあやめを推す。(柊謙一しか気づいていない、彼の娘)「父子そろって、化かすのに長けている」柊謙一はいつあやめを冬弥のもとに送るつもりだったのか。政治家の信念を継ぐ者がすでに用意されているところを見ると、かなり以前からだったと思われる。そして彼はあやめを姉の存在の影に隠した。後援会の誰かがあやめの素質に気づかないように。柊謙一と言えど、自分を下支える後援会の意見は無視できない。後援会にそっぽ向かれては柊謙一の力は落ちる。『柊あやめ』で龍神会をサポートすることはできなくなる。(ただ娘まで化かされているのは計算外だろうがな)あやめを隠すため、「柊さくらの妹」と言い続けたのだろう。それこそ結婚相手である冬弥を前にそう紹介するほど。それに娘がどんな反応を、傷ついていたことに彼は気づいて
【過去回想】 『怖くないのか?』言った瞬間、自分でも馬鹿なことを言ったと思った。冬弥にとって『武力』は必要なもので、必要だから使うもの。暴力ではない。必要でなければ使うことはない。でも、自分の欲や感情の赴くままに暴力を振るうと思われていることも理解している。実際にそういう者もいるから否定できない。「怖いとは、命を狙われることですか? それは怖いですよ。当然です」(……何か違う)勘違いされたなら、そのまま勘違いさせておけばよかった。でも、気づいたら「そうではない」と否定していた。目の前のあやめは『何を言いたいのか』という顔をしている。冬弥自身も分からなかった。「俺が」何でこんなことを言いたいのか。「極道は怖がられるものだからな」そう言ったら、なぜかあやめは笑った。「怖がられると思っているなら」あやめの目に、愉快がっているような光がちらついたことに冬弥は気づいた。「怖がらせないでください」そう言った。怖がらせるな。快適な檻を用意するといったのはそっちだろう。あやめはそう言ってのけた。「あなたたちを怖がりながら一生を過ごせと言うのですか?」面白がるような余裕も見せて。(一生……か)先ほど自分はこの生活がずっと続くのかと聞いてきたあやめに「死が分かつまで」と答えた。あのときの揶揄うような気持ちが、ブーメランのように自分に返ってきた気がした。それがどこか悔しくて。「お前、変わってるな」そう言うとあやめは首を傾げた。「あなたにとって私は“そう”なのでしょうね」だからコミュニケーションが必要なんだ。そう叱られた気がした。それに気づいて、これがコミュニケーションかと実感したのは仕事に戻ってからだった。.仕事を切りのいいところで終え、書斎を出ると早苗がいた。邸内の案内をしたあと自室まで送ったと報告を受ける。「ずいぶんと大物を釣っていらっしゃいましたね」「……大物、か」そう言われて、あやめに抱く印象が変わっていることに気づいた。最初は大義の為と言われて嫁がされ、閉じ込められる哀れな女だと思った。母親と重なったところも多かった。でも、いま冬弥の中であやめはあやめだ。冬弥に堂々と不満を漏らし、極道の領域だというのにも構わず歩き回る。そして思い浮かぶのは、自室でのんびりしているあやめの図。「猫の







