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Author: 酔夫人
last update Last Updated: 2026-01-27 11:01:48

人間は、環境に慣れる。  

それがどれほど理不尽であっても、どれほど不自由であっても、時間が経てば、心も身体も順応してしまう。

あやめは、神崎邸の中庭に面した縁側に腰を下ろし、雨上がりの空を見上げていた。

梅雨は明け、空は夏らしく蒼かった。

「暑くなってきたわね」

誰にともなく呟いたあやめの声は、庭の緑に吸い込まれていった。

冬弥に初めて会ったのは梅雨の最中。

いまは夏。

この屋敷に来てから、時は経っている。

そして、この環境にすでに順応しているわが身にあやめは呆れる。

自分は意外と図太い人間だったのだ、と。

この結婚を、あやめは最初は檻に例えた。

自由を奪われ、名前を変えられ、知らない男の妻にされた、いわば被害者のような心境で、この結婚は、あやめにとって“人生の終わり”のようにも思えた。

だが今、こうして静かな庭を眺めながら、あやめはふと、思うのだった。

私は、もともと檻の中にいたのかもしれない、と。

―― 価値観、という名の檻。

これまでのあやめは、柊謙一の娘としての人生を送っていた。  

それは、常に“正しさ”を求められる日々だった。  

言葉遣い、姿勢、交友関係、服装、表情、全てにおいて「正しくあれ」と躾けられた。

(正しいとは、何だったのだろうか)  

あの頃の「正しい」は、柊家が基準だっただけ。

あの世界で求められるものを体現してこそ、「正しい」と認められた。

あやめの姉のさくらは、その基準を完璧に体現していた。

穏やかな言葉遣い。

指の先まで神経が通ったような仕草。

父の望む交友関係を築き、はやりの服にその身を包む。

美しく、社交的で、誰からも愛される存在の姉さくら。

将来は政略結婚であっても、最も良い家に嫁ぐことが当然とされていた存在。

あやめに、その正しさは難しかった。

言葉遣いや姿勢はまだしも、引っ込み思案のあやめに”誰とでも仲良くする”は難しかった。

誰もが、姉さくらと比べたから。

姉さくらに比べて”足りない”を列挙してくる人間との交流は苦痛だった。

流行りの服も、「さくらさんに比べると」と言われると、手を伸ばす気になれなかった。

美しさは一種の価値観だ。

それは、いまなら分かる。

でも、幼少期に生まれた苦手意識はあやめの中にこびりつき、結局はさくらの影に隠れて、目立たず、失敗せず、黙って父親の秘書として働いていた。

(あの窮屈な環境も、檻だったのだわ)

神崎あやめとしての生活は、確かに不自由だった。  

外出には許可が必要で、あやめの行動は常に管理されている。

でも、誰もあやめに“こうしろ”とは言わない。

これが正しいとも言わない。

服装も、言葉も、交友関係も、すべて”あやめの好きなように”というのが周りの態度だった。

あやめの裁量に信頼しているのは、おそらく冬弥の指示で。

それを「嬉しい」と感じている自分にあやめは気づいていた。

「姐さん、明日の予定は?」

鷹見が、手帳を片手にあやめに尋ねる。

どうするのか、と聞いてくれている。

だから、あやめは微笑んで答えられる。

「午後から神崎芸能に行って広報と打ち合わせ。その後は、自宅で冬弥さんのスピーチ原稿の確認をしようと思います」

「分かりました」

冬弥からの指示はない。

全てあやめが、神崎冬弥の妻として、選んで、決めている。

“神崎あやめ”として、ここにある気がした。

これは、あやめにとって初めての感覚だった。

父の秘書時代にはなかったこと。

動くのは自分の判断、言葉は自分の言葉。  

それが、こんなにも自由で、こんなにも息がしやすいものだとは、あやめは思わなかった。

---

次の日の夕方、一緒に屋敷に帰るという冬弥と同じ車に乗った。  

「今日のあやめは、楽しそうだったな」

車の中で冬弥が言った言葉に、あやめは首を傾げた。

「そう見えました?」

「見えた。広報部長なんて完全にお前に懐いて、お前の姿を見るだけで尻尾を振ってみせる」

「冬弥さんの妻だからではありませんか?」

「あいつが俺に対してあんな態度をとったことはない。あれは、お前だからだ」

あやめは、息を呑んだ。  

冬弥の言葉が、胸の奥に静かに響いた。

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    その日、神崎邸にさくらが訪ねてきた。早苗から「お姉様がいらしています」と告げられたとき、あやめは一瞬、耳を疑った。あやめと姉さくらの関係は、悪くないが、良くもない。互いに干渉し合わない距離感にいる、ようにしている。「姉が? 何か、用事で?」「いいえ、“妹の顔を見に来た”と仰っられて、柊家のご令嬢でしたし、応接間にお通しいたしました」「……ありがとう」父である柊謙一の用事で来たのだとあやめは期待したが、早苗の回答にため息を吐いた。姉さくらは、時折こうしてあやめとの距離を詰めようとする。ただ、あやめの過去の経験から、姉さくらのこの行動は好意的な理由ではない。いままでは、自分の引き立て役とすることが多かった。でも、ここは観客などいない。なんのために来たのか。理由が読めないのが、あやめには怖かった。---応接間に入ると、さくらはいつもの様に上質なワンピースに身を包み、優雅に紅茶を口にしていた。 その姿は、まるで舞台の主役のように完璧だった。「あら、あやめ。元気そうで安心したわ」「お久しぶりです、お姉様……その、どうして急に?」「妹が極道の妻になったって聞いたら、普通は心配になるじゃない」姉さくらの言う”極道の妻”になったのは、もう数カ月前の話。入籍直後ならまだしも、どう聞いても口実にしか聞こえなかった。(そして、それはここで言っていい言葉ではない)姉さくらが”極道の妻”と言った瞬間、後ろに控えている鷹見と早苗の雰囲気がピリッとした。さくらとしては、いつも通りあやめを貶めたかったのだろうが、この場合はそう聞こえない。特に”姉妹”だと先入観があれば、極道を馬鹿にされたと感じてしまう。 「お父様は、お元気ですか?」あやめは無難な話題を振り、ぴりついた雰囲気を宥めることにした。「そうそう、お父様も、あなたのことを“よくやってる”って褒めてたわよ」その言葉に、あやめはわずかに眉をひそめた。 父が自分を褒めるなど、あやめは珍しいと思ったし……。(どこでそんな話題になったのかしら)「神崎冬弥さん」姉さくらが冬弥の名を語る声に、あやめは嫌な予感がした。まるで蜜のような甘い声。この声はいつも……。「神崎冬弥さん。とても素敵な方ね」さくらは紅茶の入ったカップを置き、あやめの目をまっすぐに見た。「ねえ、あやめ」

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  • 氷龍の檻姫   8

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