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第2話

Author: 舞子
私は久しぶりにあの番号に電話をかける。

「倉本先生、私、まだ戻れますか?」

口にはしたものの、やはり不安がよぎる。

昔、倉本菫(くらもと すみれ)先生は私を高く評価し、大学院への推薦を受けて彼女の研究室に残るよう、強く引き留めてくれた。

なのに、私は倉本先生を失望させた。

事情を察すると、彼女はため息をつく。

「言ったでしょう。正しい愛は、あなたの将来を後押ししてくれるものだって。

戻ってくることはできるわ。でも、一ヶ月後の試験に合格することが条件よ」

私は承諾する。

謙介がまたしても家に帰らないこの夜、私はもう眠れずに苦しむことはない。

朝までぐっすり眠り、すぐに勉強を再開する。

男一人のために眠れない夜を過ごすより、希望の中で目覚める感覚は、こんなにも清々しいものなのか。

謙介はそうすぐには帰ってこないと思っていた。

ところがその夜、彼が玄関のドアを開けて入ってくる。ハンサムな目元には疲労が浮かんでいる。

「結婚三年記念のプレゼントだ」

そう言って、何か柔らかいものを私の腕に押し付ける。

ペンギンのぬいぐるみだ。

これまで友枝を優先して私を置き去りにした時と同じように、説明もなければ、謝罪もない。

ただ、形ばかりの機嫌取りのような行動だけ。

ペンギンにはまだ温もりが残っている。その「景品」のタグを指でなぞりながら、心は冷え切っていく。

「もういいわ」

プレゼントはいらない。記念日を祝う必要もない。

彼は一瞬戸惑い、苛立ちを見せる。

「そんなに目くじらを立てる必要あるか?友ちゃんは長年の親友なんだ。失恋して傷心のまま帰国したあいつを、放っておけるわけないだろ。わがまま言うのも大概にしてくれ」

私は無意識に、腕の中のぬいぐるみを指でなぞっている。

心には、ただチクチクとした痛みが広がるだけだ。

謙介は忘れているようだけど、私もペンギンが好きだ。

浜野市に来てから、彼と一緒に水族館へペンギンを見に行きたいと、何度も言ってきた。

仕事人間の彼は、いつも「時間がない」の一点張りだった。

それなのに、友枝の一言で、彼はすべてを放り出して氷原まで付き合う。

時間がなかったんじゃない。ただ、私に時間と関心を割きたくなかっただけだ。

私が黙り込むと、謙介はいつも通り私が折れたのだと思ったらしい。

私の髪をくしゃっと撫でる。

「腹が減った」

その一言は、かつてはスイッチのようだった。

彼がそう言えば、私はすぐに求めに応じ、キッチンに立って彼のために腕を振るった。

でも今となっては、私が幸せだと思っていたありふれた日常も、すべて偽りだったと分かる。

「疲れたから、ご飯作りたくない」

私は淡々と言う。

謙介は一瞬固まり、眉間にしわを寄せている。

次の瞬間、折れるように私を腕に抱き寄せる。

「じゃあ、先にお前を食べる」

温かい吐息が耳にかかり、彼のキスが降ってくる。そのまま唇まで。

私が愛に飢えていることを知っている。謙介のぬくもりに、私が何よりも弱いことを知っている。

そして、いつものように、ベッドで仲直りすれば、すべて水に流せると思っている。

本能的に体が震えるが、私は彼を突き放す。

心はすっかり冷え切っているのに、体が彼のために再び燃え上がるはずがない。

私は振り返り、離婚届を取り出す。

「帰ったらサインするって言ったわよね。ここに」

彼の顔が、ついに完全にこわばる。

「友ちゃんが心が広くて、お前と揉めるなって忠告してくれなかったら、こんなに早く帰ってくると思うか?

もうすぐ三十路にもなる大人が、一日中若い子みたいにやきもち焼いて、しかもどんどんエスカレートさせて。恥ずかしくないのか?

離婚で俺を脅すつもりだろ?いいぜ、それが裏目に出るってことを教えてやる」

彼は乱暴にサインをする。紙を突き破らんばかりの力だ。

そしてスマホで、離婚届にサインする証人に連絡を入れる。

「一ヵ月後、役所の前で取り消してくれって泣きついてくるなよ」

彼はそう言い捨て、ドアを荒々しく閉めて客用寝室に入っていく。

そして、友枝のSNSが更新される。

【氷原から帰還。友枝姫、完全復活でーす!】

【いつも私を少女みたいに甘やかしてくれる幼馴染に感謝】

9枚の自撮り写真が並ぶ中、彼女は輝くような笑顔を見せている。

鏡に映る二十八歳の私は、顔色も悪く、髪は枯れ草のようにパサパサだ。

本当は、私の方が彼女より三歳も若いのに。

謙介の口では、彼女こそが甘やかしてやるべき「若い子」。

その通りだ。

正しい愛は、静かに人を潤す滋養となる。

間違った愛は、音もなく人を蝕んでいくだけ。

幸い、この過ちも、もうすぐ終わる。

謙介は私との冷戦を始める。

帰宅はますます遅くなり、帰ってくればまっすぐ客用寝室へ。会話は一切ない。

以前はいつも私から折れていたが、今回はそうはいかない。

友枝のSNSには、毎日彼に関する投稿が上がる。

その文章も写真も、一線を越えそうなほど曖昧なものばかりだ。

それでも、もう以前のように、私を狂おしいほどの苦痛に陥れたり、理性を失わせたりすることはない。

私はただ静かにスマホの画面を消し、びっしりと書き込まれたノートに視線を落とす。

彼のことを中心に回らなくなると、時間はたっぷりある。

勉強の傍ら、あちこち見て回ったりもする。

夕方、私はイーストタワーの空中回転レストランを予約する。

ここで食事をすると、ゆっくりと一周しながら、きらびやかな都市の魅力的な一角を見下ろすことができる。

こんなロマンチックな場所、本当は謙介と一緒に来たかった。

でも、彼はずっと忙しかった。

だから、この街に来て七年になるのに、私の「やりたいことリスト」には、未達成の項目がまだたくさん残っている。

ここを離れる前に、一人でそれを達成していくことに決める。

まさか、その回転レストランで、一番会いたくない人物に遭遇するとは。

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