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第3話

Author: 花辞樹
その言葉が落ちた瞬間、宏の体はさらに強張った。だが、私の表情はいたって穏やかだった。

私は微笑みながら言った。

「そう……じゃあ、私たち、きっと縁がありますね」

兄がそのやり取りを聞いて、吹き出すように笑った。

「遥、相変わらず、人に親しくするのが下手だ」

遥は不機嫌そうに彼の腕を軽く小突いた。二人の様子は、見ているだけで分かるほど親しげだった。

宏は少し離れた場所に立ち、まるで場違いな傍観者のようだった。

細められたその目を見て、私は悟った。それは、宏が怒りを抑えている時の表情だ。

「じゃあ、清芽のことは任せる。俺はもう行く」

そう言って背を向けようとする宏を、兄が呼び止め、車の鍵を放った。

「ちょうどいい。帰りに遥を送ってやれよ」

宏はその鍵をしばらく見つめたまま、受け取ろうとしなかった。代わりに、遥が兄の手を押し戻した。

「いいの、わざわざ送ってもらわなくて。自分で帰るわ」

そう言って私に軽く会釈し、「早く良くなってね」と優しく言葉を添えて、踵を返した。

その間、宏の視線は一瞬たりとも遥から離れなかった。

兄は宏を見つめ、深くため息をついた。

「はあ……せっかくチャンスをやったのに、やっぱり掴めねえのか。ほら、早く追いかけろ。まさか、また彼女を逃すつもりか?」

その言葉に、宏は反射的に私を一瞥した。顔がみるみる険しくなり、苛立った声が返った。

「カフェインでも酔ったのか?何をわけのわからないこと言ってる!」

兄はぽかんとしたまま、訳もわからず肩をすくめた。呆れたように宏を押しのけ、車の鍵を弄びながら病室を出ていく。

「いいさ、じゃあ俺が送ってくるよ。遥を一人で帰らせるなんてできないからな」

すぐに、病室には宏と私だけが残った。どちらも黙ったまま、互いに口を開こうとしなかった。

私の落ち着いた様子が、かえって宏を不安にさせたのだろう。

彼は何か言い訳をしようと口を開きかけたが、その前に看護師が入ってきて、検査に連れていくと告げた。

宏は頷き、私を支えながらベッドから起こした。

「気をつけて。乱暴に扱わないでください」

看護師に向かってそう言う彼は、いつも通り優しかった。けれど、その目は明らかに上の空だった。

私は看護師に導かれながら廊下を歩いた。その途中、ふと目に入ったのは、向かいの通路に立つ二つの影だった。

兄が欄干にもたれ、低い声で言った。

「遥、さっきの態度……本気で宏とヨリを戻す気はないのか?」

遥はタバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐きながら唇を歪めた。

「死んでも、嫌」

その最後の一言が落ちた瞬間――私は廊下の向こうに立つ宏の姿を見た。

彼は完全に動きを止め、遥を凝視していた。まるで、この世界に彼女と自分しか存在しないかのように。

兄はため息をつき、煙草の火を揉み消しながら肩を叩いた。

「こりゃ面白いことになったな。俺は車庫で待ってる。ゆっくり話せよ」

兄が去った後、彼らは話しているようには見えなかった。むしろ言い争っているようだった。

声は聞こえないが、宏の荒い身振りを見れば、激しく言い争っているのは明らかだった。

私は遠くからそれを見つめ、胸の奥が複雑に揺れる。

――宏がここまで取り乱すのを、私は初めて見た。

彼は利益を奪い合う商戦の場でも涼しい顔をしていた。危険なカーレースでも、恐怖ひとつ見せなかった。

それなのに今、遥の「死んでも嫌」という一言で、理性を失っている。

私はもう見ていられなくなり、静かに背を向けた。

検査を終えて戻る頃、廊下の先から兄の声が聞こえてきた。

「遥、俺の勘が正しけりゃ、君が今回帰ってきたのは宏のためだろ?未練があるくせに、さっきみたいなこと言って……本当に彼に見捨てられたらどうする?」

遥は、その言葉を聞いて、まるで滑稽な冗談でも聞いたように鼻で笑った。

「彼に見捨てられる?冗談でしょう。最初から、見捨てるのは私の方だけよ。

風馬、あなたは宏を分かってない。あの人は強い言葉にしか反応しないの。口論でもしなきゃ、あの別れの痛みを思い出せない。

痛みは、すなわち『愛』よ。私はあの人に、私を愛していた頃の感情を思い出させたいの」

「感情を?」

兄はスマホを取り出し、宏と数々の元恋人たちの写真を次々と見せた。

「見ろよ。宏は君を忘れたことなんてない。これだけ女を替えてきても、全員どこか君に似てる。遊びだよ、全部。

君が帰ってくるって聞いた途端、全員と別れたんだ。ここまで深情なのは、俺も驚いた」

遥はちらりと画面を見て、ふっと笑った。

「全員と別れた?本当に、そうかしら」

「どういう意味だ?」

兄が眉をひそめた。

「宏は確かに私を愛してる。でも、まだ足りない。全然足りない。もし本当に十分に愛していたなら、私はあの時、彼のそばを離れなかった。

みんな私がキャリアのために別れたって思ってるけど、違うのよ。

私の家が破産したあと、宏の両親が私を拒んだの。彼と結婚なんて絶対に許さないって。

だから私は国外へ出るしかなかった。彼が親に立ち向かう勇気を持てるようにするには……彼の心を私だけのものにするしかなかった」

唖然とする兄に、遥は穏やかに肩を叩いた。

「心配しないで。今日の喧嘩だって、どうせすぐに元通りよ。ちょっと甘い言葉をかければ、また子犬みたいに尻尾を振って寄ってくるんだから」

そう言いながら彼女は笑い、兄と並んで階段を降りていく。

去り際に、ふと上を見上げた。私はその視線を正面から受け止めた。

挑発にも似た、あの薄い笑みを。

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