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永遠の密やかな恋人

永遠の密やかな恋人

Por:  花辞樹Completo
Idioma: Japanese
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私は兄の親友である嶋谷宏(しまたに ひろし)と三年間恋人関係にあった。けれど、彼は一度も私たちの関係を公にしようとはしなかった。 それでも、彼の愛を疑ったことはなかった。何しろ、宏はこれまでに九十九人の女と関わってきたのに、私と出会ってからは他の女を一瞥すらしなくなったのだから。 私が軽い風邪を引いただけでも、宏は数十億円規模のプロジェクトを放り出し、すぐに家へ駆けつけてくれた。 誕生日の日も、私は嬉しくてたまらなかった。宏に、私が妊娠したことを伝えるつもりでいたのだ。ところがその日、宏は初めて私の誕生日を忘れ、姿を消した。 家政婦の話では、彼は「大切な人を迎えに行く」と言った。 私は胸騒ぎを覚えながら空港へ向かった。そして、花束を抱え、落ち着かない様子で誰かを待つ宏の姿を見つけた。 ――私にとてもよく似た女の子を、待っていた。 後で兄から聞かされた。その女は、宏が一生忘れられない初恋の人なのだと。 宏は彼女のために両親と決裂し、彼女に捨てられた後は心を病み、彼女に似た女を九十九人も傍に置いて生きてきたのだと。 兄がそう語るときの声には、宏への同情と感慨が滲んでいた。 けれど、兄は知らない――大切にしてきた妹の私が、その「百人目」だということを。 私はあの二人の姿を、ただ黙って、長い間見つめていた。そして、迷いなく病院へ戻った。 「先生、中絶手術を受けたいです……」

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Capítulo 1

第1話

私は兄の親友である嶋谷宏(しまたに ひろし)と三年間恋人関係にあった。けれど、彼は一度も私たちの関係を公にしようとはしなかった。

それでも、彼の愛を疑ったことはなかった。何しろ、宏はこれまでに九十九人の女と関わってきたのに、私と出会ってからは他の女を一瞥すらしなくなったのだから。

私が軽い風邪を引いただけでも、宏は数十億円規模のプロジェクトを放り出し、すぐに家へ駆けつけてくれた。

誕生日の日も、私は嬉しくてたまらなかった。宏に、私が妊娠したことを伝えるつもりでいたのだ。ところがその日、宏は初めて私の誕生日を忘れ、姿を消した。

家政婦の話では、彼は「大切な人を迎えに行く」と言った。

私は胸騒ぎを覚えながら空港へ向かった。そして、花束を抱え、落ち着かない様子で誰かを待つ宏の姿を見つけた。

――私にとてもよく似た女の子を、待っていた。

後で兄から聞かされた。その女は、宏が一生忘れられない初恋の人なのだと。

宏は彼女のために両親と決裂し、彼女に捨てられた後は心を病み、彼女に似た女を九十九人も傍に置いて生きてきたのだと。

兄がそう語るときの声には、宏への同情と感慨が滲んでいた。

けれど、兄は知らない――大切にしてきた妹の私が、その「百人目」だということを。

私はあの二人の姿を、ただ黙って、長い間見つめていた。そして、迷いなく病院へ戻った。

「先生、中絶手術を受けたいです……」

「なんですって?!林(はやし)さん、中絶したいって言うんですか?今朝、妊娠がわかったときは、あんなに喜んで恋人に知らせたいっておっしゃってたのに!」

医師の驚きの声が、静まり返った診察室に鋭く響いた。

私は俯いたまま、指先でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。喉が詰まって、声が掠れた。

「……もう聞かないでください。とにかく、この子は……いらないんです」

医師はしばらく黙って私を見つめ、それから深くため息をついた。

「林さん、何があったのかはわかりませんが、今のあなたは明らかに冷静ではありません。少し時間を置いて、もう一度考え直してみてください」

医師は中絶手術の同意書と診断報告書を私の前に押し戻し、そこに添えられた小さな影のような胎児の画像に目を落とした。

「これは……命ですよ」

私は画像に映る小さな黒い影を見つめたまま、目の奥がじんと熱くなった。やがて、書類をそっとバッグにしまい、無言のまま病院を後にした。

ぼんやりとした足取りで家へ向かって歩いていると、突然、目の前で赤いフェラーリが急停車した。

水たまりに靴音が響き、濡れた路面に映る光の中から、一人の男が傘を差しながら駆け寄ってくる。

宏……

彼は私を勢いよく抱き寄せ、脱いだ紺のジャケットを私の肩に掛けた。

「もう大人なんだから、傘くらい持って出ろよ。君、体が弱いんだ。風邪でもひいたらどうするんだ」

焦りを帯びた横顔。その瞬間、私は、あの恋を始めたばかりの年に戻ったような気がした。

しかし、心の奥底では、もう戻れないことを、はっきりとわかっていた。

私は彼の着ている紺色のスーツを見つめ、苦く笑った。

それは、宏が一ヶ月前、私の誕生日パーティーのために特注したものだった。だが今日、私の誕生日に、そのスーツを着ている理由は、祝うためではなかった。

今日の午後、誕生日の準備をしている最中に、突然ひどい吐き気に襲われた。最初は胃の調子が悪いだけだと思っていたが、診断の結果、妊娠していると知らされた。

誕生日に授かった命――私は、それを神様からの贈り物だと信じた。

すぐに家へ戻り、宏にこの喜びを伝えようとした。けれど、彼の姿はどこにもなかった。

家政婦が言った。

「嶋谷さまは空港へ、大切な方をお迎えに行かれました。林さま、お腹が空いたら先に召し上がっていいと」

先に食べていい?今日は私の誕生日なのに。宏は盛大に祝うと約束してくれたのに……

胸の奥で小さな怒りが弾けた。

「大切な方って誰?」

家政婦は一瞬ためらい、口ごもるように言った。

「よくわかりませんけど……出かける前、鏡の前でとても嬉しそうにしていました」

その答えを聞いて、なぜか胸の奥がじわりと苦しくなった。嫌な予感がして、私はすぐに運転手に空港へ向かうよう命じた。

人で溢れかえる到着ロビー、それでも宏を見つけるのは簡単だった。高い背と整った顔立ちが、いつだって人目を引く。

彼は花束を抱え、出口を見つめていた。

そして、その隣には……兄の林風馬(はやし ふうま)の姿。

宏の唇は固く結ばれ、目には焦りが宿っていた。私が知る限り、彼がこんな表情を見せたことは一度もない。

一体、誰を待っているの……?

私が到着口を見つめていると、一人の女性が現れた。艷やかな雰囲気を纏い、長い髪が揺れる。

「遥!」

宏が花束を掲げ、嬉しそうに叫んだ。

だが、彼女は花を受け取らず、宏を通り過ぎて、兄の腕にそっと手を添えた。その瞬間、宏の瞳に、深い未練の色が浮かんだ。

宏は以前、女遊びにふけっていたが、あの女たちはただの遊び相手で、未練などあるはずもなく、ごまかすことすら面倒に思っていた。

私はその女を見つめた。

思い出した。上原遥(うえはら はるか)か。

私は幼い頃から海外で育ち、国内にいる兄はいつも幼なじみの二人について話してくれた。嶋谷宏と上原遥。彼らと兄は、「京市の三羽烏」と呼ばれていた。

しかし、今見た光景が示しているのは、友情だけではない。

疑問を抱えたまま、兄が荷物を取りに行った隙に、彼に電話をかけた。

「お兄さん、うちの社長が上原遥さんを迎えに行ったって。二人、どんな関係なの?社長はすごく興奮してて、会社の会議までキャンセルしちゃったみたいだよ?」

兄は一瞬黙り、それから笑った。

「宏のやつ、そんなことまで話したのか。そりゃ相当嬉しかったんだな。あいつと遥は昔、すごく激しい恋をしてた。

けど、二人の関係が最高に熱い時に、遥が国外に行っちまってさ。宏は完全に……狂乱状態だったらしいよ。

宏は普段あんなにクールぶってるのに、あの時期は毎日俺に泣きついてきて、死ぬだの何だのって大騒ぎして……結局、遥に似た女を次々と探してた」

「……遥に似た女?」

スマホを握った手が震え始めた。

「そう。清芽(さやか)、まだ遥に会ったことないだろ?見たらわかる。宏が付き合ってた女は、みんな遥にそっくりなんだ。

あや、急に君も遥にちょっと似てる気がしてきたな……まあ、やっぱりうちの妹のほうが可愛いけど……」

その後言った言葉は、もう聞こえなかった。

耳の奥で甲高い音が鳴り響き、兄が言葉を紡ぐたびに、私の体は冷たさを増していった。呆然と顔を上げ、目の前に立つ妖艶な女性を見つめた。

実は、もう会ってしまった。

「清芽?どうしたの?そうだ、なんでそんなこと聞くんだ?」

兄の声が電話の向こうで繰り返されるが、もう応える力もなく、ただ小さく呟いた。

「社長を気遣ってるだけよ……そうだ、お兄さん、今日私が聞いたことは社長に言わないで」

肯定の返事を確認すると、私は急いで電話を切った。

スマホが真っ暗になった瞬間、黒い画面に私の顔が映った。

私はまた、少し離れたところにいる女性を見上げた。

「似てる……?」

私は苦笑いした。

唇の端に浮かぶえくぼが、あの女とまったく同じ場所にあった。

……本当に、似ている。

その日、どうやって空港を出たのか覚えていない。ただ、外は大雨だった。

帰宅すると、宏は私の髪を拭き、温かいスープを作ってくれた。そして、穏やかに笑いながら話し出した。

「なあ、今日さ、危うくバレそうになったよ。お兄さんが、友達に君を紹介したいから、一度会わせてくれないかって言い出してさ。俺、思わず『ダメだ!』って言っちまった」

私はふりをして笑顔を見せた。

「それで?気づかれなかった?」

「もちろんさ。お兄さん、あれだけ鈍感なんだ。まさか親友が自分の妹の彼氏だなんて、思いもよるわけねえよ。知られたら、俺、生きて帰れねえよ」

宏の軽薄な口調に、私は手を上げて、髪を拭く彼の手を押さえ、真剣な口調で言った。

「宏……あなた、本当に私を恋人だと思ってるの?」

宏は一瞬驚いたようにし、その後笑い出した。そして私の前に歩み寄り、ゆっくりとしゃがみ込み、手を伸ばして私の頬をつまみ、優しい声で言った。

「思ってなきゃ、お兄さんが紹介しようとした男に嫉妬なんかしないさ」

他の男の話になると、宏の顔色が少し悪くなった。彼は私を抱き寄せ、薄い唇を私の首筋に這わせた。

「君が他の誰かと一緒にいるなんて想像しただけで、たとえ同じテーブルで食事をするだけでも、俺はたまらなく苦しくなるんだ」

温かい吐息が私の首をくすぐり、私の体はとろけそうになった。しかし、私が溺れかける寸前、勢いよく宏を突き放した。

「宏、私、疲れたわ」

宏は一瞬戸惑ったが、雨に濡れて風邪を引いたと思ったのか、慌てて私を抱き上げてベッドに連れて行った。

私が眠りに落ちるまで、彼は何度も私の額に触れ、熱がないことを確認してから、ようやく静かに部屋を出て行った。

固く閉ざされたドアを見つめ、ベッドに横たわる私はゆっくりと目を開けた。

私は頭を布団に埋め、息が詰まるほど泣いた。

何が「恋人」だ……

私はただ、遥の代わりに使われている女に過ぎない。

以前、宏が私の笑顔が一番好きだと言って、もっと笑えと促したことを思い出すと、嫌悪感を覚えた。

涙で視界がぼやけ、体の熱もどんどん上がっていく。

頭がぼんやりとする中、ふと、ずっと昔のことを思い出した。

あれは私が十八歳だった年。兄が宏を連れて私を帰国させに来た。ほぼ一目見た瞬間、私はこの背が高くハンサムな男に一目惚れした。

その後、私は「恵まれたお嬢様」の身分を捨て、兄に頼んで、宏の会社にインターンとして入れてもらった。

最初は、私たちにはほとんど接点がなかった。宏は商談をしているか、さもなければレース場で車を飛ばしていて、彼の助手席に乗る女性は次から次へと変わっていった。

あの日、ビジネスのパーティーで、不意に彼が薬を盛られてしまった。異変に気づいた宏は、ふらふらとトイレに逃げ込んだ。

私は宏に何かあったらと心配で、慌てて後を追ったが、数歩進むと彼の姿が見えなくなった。

焦ってその場に足踏みしていると、突然大きな手が私を物置部屋に引きずり込んだ。

私は叫んで抵抗したが、宏の身に漂う独特の草木の香りを嗅いだ瞬間、静かになった。

背後の男は微かに息を荒げていた。白いシャツは三つボタンが外され、薬のせいでシャツの下の胸筋がわずかに赤みを帯びていて、とてもセクシーに見えた。

私は思わず唾を飲み込んだ。この様子を宏ははっきりと見ていた。

彼は低く笑い、私の顎を持ち上げた。その声は気だるく、そしてかすれていた。

「そんなに気に入ったか?」

内心を見透かされた私は、すぐに彼を突き放して言い訳した。

「ち、違います……」

しかし、彼は再び私を腕の中に引き戻し、私の手を彼の胸に強く押し当てた。

彼は眉をひそめ、少し苦しそうだ。

「気に入ったのなら、助けてくれ……」

私が返事をする間もなく、宏は顔を下げてキスをした。

私の瞳は大きく見開かれたが、やがてこの強引でありながらも抑制の効いたキスに、ゆっくりと溺れていった。

次に目覚めた時、私たちは裸でベッドに横たわっていた。宏は頭を腕で支え、横向きになって私を見ていた。

薬の影響はすでに消えているはずなのに、宏の目にはまだ消えない欲望が宿っていた。

その日、宏は言った。

「君には責任を取る」と……

宏は本当に有言実行した。遊び暮らすのをやめ、真剣に私と付き合い始めた。

私も何度も政略結婚の話を断り、宏の会社に残り、彼のそばにいた。

兄は、他の令嬢たちがバルセロナで休暇を過ごしているのに、大切な妹が毎日薄暗いデスクにいるのを見て、この会社に一体どんな魔力があるのかと、何度も私に尋ねた。

私は何度も宏との関係を話そうと思ったが、いつも私の言うことに従う宏が、この件だけは譲らなかった。

当初、私は宏が兄に叱られるのを恐れているのだと思っていた。

しかし、今日、ようやく分かった。

兄は、宏と遥が愛し合う姿をずっと見てきた。宏がどれほど遥に狂っていたかを知っている。

だから、そんな男に自分の大切な妹を託せるはずがない。

宏は、私と恋人関係にあることを兄に知られるのを恐れていた。

もう宏がそれを心配する必要はない。だって、私と彼は、もう何の関係もないのだから。

遥が戻ってきたのだから、私は宏の愛を残らず彼女に返してやる。

この何年間の愛も、時間も、全部。私は、ちゃんと受け止めて、ちゃんと手放す。

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Comentários

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松坂 美枝
クズがクズすぎて破滅した話 愛も友情も丈夫だった身体もクズ女に捧げてアホだった 主人公の兄さんが頼もしく、新彼氏もステキでしたわ
2025-11-16 11:25:45
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第1話
私は兄の親友である嶋谷宏(しまたに ひろし)と三年間恋人関係にあった。けれど、彼は一度も私たちの関係を公にしようとはしなかった。それでも、彼の愛を疑ったことはなかった。何しろ、宏はこれまでに九十九人の女と関わってきたのに、私と出会ってからは他の女を一瞥すらしなくなったのだから。私が軽い風邪を引いただけでも、宏は数十億円規模のプロジェクトを放り出し、すぐに家へ駆けつけてくれた。誕生日の日も、私は嬉しくてたまらなかった。宏に、私が妊娠したことを伝えるつもりでいたのだ。ところがその日、宏は初めて私の誕生日を忘れ、姿を消した。家政婦の話では、彼は「大切な人を迎えに行く」と言った。私は胸騒ぎを覚えながら空港へ向かった。そして、花束を抱え、落ち着かない様子で誰かを待つ宏の姿を見つけた。――私にとてもよく似た女の子を、待っていた。後で兄から聞かされた。その女は、宏が一生忘れられない初恋の人なのだと。宏は彼女のために両親と決裂し、彼女に捨てられた後は心を病み、彼女に似た女を九十九人も傍に置いて生きてきたのだと。兄がそう語るときの声には、宏への同情と感慨が滲んでいた。けれど、兄は知らない――大切にしてきた妹の私が、その「百人目」だということを。私はあの二人の姿を、ただ黙って、長い間見つめていた。そして、迷いなく病院へ戻った。「先生、中絶手術を受けたいです……」「なんですって?!林(はやし)さん、中絶したいって言うんですか?今朝、妊娠がわかったときは、あんなに喜んで恋人に知らせたいっておっしゃってたのに!」医師の驚きの声が、静まり返った診察室に鋭く響いた。私は俯いたまま、指先でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。喉が詰まって、声が掠れた。「……もう聞かないでください。とにかく、この子は……いらないんです」医師はしばらく黙って私を見つめ、それから深くため息をついた。「林さん、何があったのかはわかりませんが、今のあなたは明らかに冷静ではありません。少し時間を置いて、もう一度考え直してみてください」医師は中絶手術の同意書と診断報告書を私の前に押し戻し、そこに添えられた小さな影のような胎児の画像に目を落とした。「これは……命ですよ」私は画像に映る小さな黒い影を見つめたまま、目の奥がじんと熱くなった。やがて、書類を
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第2話
翌日、目を覚ましたときには、すでに午後になっていた。一晩中熱にうなされ、頭はぼんやりして、喉も枯れて声が出ない。スマホを開くと、未読のメッセージが何十件も増えていた。【清芽、誕生日おめでとう!兄さんがヨット買ってやったぞ。今度一緒に乗りに行こう!】【清芽ちゃん、お父さんがどうしても帰国して誕生日を祝いたいって言うのよ。まったく仕方のない人ね】【二十五歳の誕生日おめでとう!いつまでも愛してる!】画面をスクロールしても、どのメッセージも「誕生日おめでとう」で埋まっている。遠い海外にいる両親、兄、友人、同級生……皆が祝福を送ってくれていた。ただ一人、毎晩同じベッドで眠る恋人の宏だけが、何のメッセージも寄こしていなかった。私はため息をつき、昨夜のことをぼんやりと思い出した。夜中に宏へ「お水を取ってきて」と頼んだ気がする。けれど、彼はベランダで電話をしていて、その電話を切ったあと、慌ただしく出かけていった――それきり、戻ってこなかった。重い体を引きずってベッドを降りる。高熱のせいで、足元がふらつく……そのとき、ドアが開いて、宏が帰ってきた。両手いっぱいに高級そうな贈り物を提げている。包装を見るだけで、一つ一つがかなりの値打ち品だとわかる。私の視線に気づいた彼は、すぐに駆け寄ってきた。「やっと起きたか、この寝坊助」私は顔をそらし、差し出された手を避けた。贈り物の山を見つめながら、かすれた声で言った。「宏、私の誕生日……もう終わったの」宏は一瞬固まり、宙に浮いた手をそのまま止めた。長い沈黙のあと、彼はそっとその手を下ろし、壁のカレンダーに目をやった。そして、贈り物を置くと、私の手を握って言った。「ごめん、昨日は仕事が立て込んでて……今日、改めてお祝いしよう。な?」「いいの。過ぎたものは、もう戻らない」私はそのまま彼を拒んだ。落ち込んだような顔の宏を残して、部屋へ戻った。頭のぼんやりはますますひどくなり、三十分ほどして、再びリビングに出ると、宏の姿はもうなかった。不思議に思う私に、家政婦が慌てて説明した。「嶋谷様は林様のために誕生日プレゼントを買いに出られましたよ。怒らないでくださいね、昨日は本当にお忙しかったんです」「プレゼント?」視線をテーブルにやると、先ほどの贈り物
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第3話
その言葉が落ちた瞬間、宏の体はさらに強張った。だが、私の表情はいたって穏やかだった。私は微笑みながら言った。「そう……じゃあ、私たち、きっと縁がありますね」兄がそのやり取りを聞いて、吹き出すように笑った。「遥、相変わらず、人に親しくするのが下手だ」遥は不機嫌そうに彼の腕を軽く小突いた。二人の様子は、見ているだけで分かるほど親しげだった。宏は少し離れた場所に立ち、まるで場違いな傍観者のようだった。細められたその目を見て、私は悟った。それは、宏が怒りを抑えている時の表情だ。「じゃあ、清芽のことは任せる。俺はもう行く」そう言って背を向けようとする宏を、兄が呼び止め、車の鍵を放った。「ちょうどいい。帰りに遥を送ってやれよ」宏はその鍵をしばらく見つめたまま、受け取ろうとしなかった。代わりに、遥が兄の手を押し戻した。「いいの、わざわざ送ってもらわなくて。自分で帰るわ」そう言って私に軽く会釈し、「早く良くなってね」と優しく言葉を添えて、踵を返した。その間、宏の視線は一瞬たりとも遥から離れなかった。兄は宏を見つめ、深くため息をついた。「はあ……せっかくチャンスをやったのに、やっぱり掴めねえのか。ほら、早く追いかけろ。まさか、また彼女を逃すつもりか?」その言葉に、宏は反射的に私を一瞥した。顔がみるみる険しくなり、苛立った声が返った。「カフェインでも酔ったのか?何をわけのわからないこと言ってる!」兄はぽかんとしたまま、訳もわからず肩をすくめた。呆れたように宏を押しのけ、車の鍵を弄びながら病室を出ていく。「いいさ、じゃあ俺が送ってくるよ。遥を一人で帰らせるなんてできないからな」すぐに、病室には宏と私だけが残った。どちらも黙ったまま、互いに口を開こうとしなかった。私の落ち着いた様子が、かえって宏を不安にさせたのだろう。彼は何か言い訳をしようと口を開きかけたが、その前に看護師が入ってきて、検査に連れていくと告げた。宏は頷き、私を支えながらベッドから起こした。「気をつけて。乱暴に扱わないでください」看護師に向かってそう言う彼は、いつも通り優しかった。けれど、その目は明らかに上の空だった。私は看護師に導かれながら廊下を歩いた。その途中、ふと目に入ったのは、向かいの通路に立つ二つの影だった。
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第4話
病室に戻った時、宏の姿はもうなかった。ベッドの上には、彼の署名が入った支払い明細だけが残されていた。看護師が説明してくれた。「ついさっきお支払いを済ませて、慌てて出て行かれました。何か急用があったのかもしれませんね」私はその紙をじっと見つめ、しばらくしてから小さく尋ねた。「……彼、出て行く時、どんな様子でしたか?」看護師は少し思い出すようにして答えた。「あまり元気がなさそうでした。目の周りが赤くて……泣いていたように見えました」――泣いていた?私は紙をぎゅっと握りしめた。やっぱり私は、宏の遥への想いを、甘く見ていたらしい。「大丈夫ですか?また体調が悪くなったんじゃ……」私は首を振り、静かに言った。「退院の手続きをお願いします」「えっ?でも、まだお身体が……」「もうここにいたくないのです」この病室には、まだ遥の香水の匂いが残っている。それが、どうしようもなく嫌だ。病院を出た私は、別荘には戻らず、実家へ向かった。玄関に入ると、兄が驚いた顔で立ち上がった。「清芽?入院してるはずじゃ……どうしたんだ急に?」私の目に涙が滲み、気づけば兄の胸に飛び込んでいた。彼の肩を、涙が濡らしていく。「おやおや、清芽さん、どうしたの?」その声に、私ははっとして振り返った。遥だ……「なんで、あなたがここに?」兄が苦笑して説明した。「今日は遥の歓迎会なんだ。彼女が主役でね」私と遥の視線がぶつかった。彼女の瞳の奥には、あからさまな挑発と嘲りがあった。兄が私の頭を撫でた。「清芽、どうした?泣いてたじゃないか。誰かに何かされたのか?」私は首を振り、乱暴に涙を拭って答えた。「……なんでもないの」そしてそのまま玄関へ向かった。「おい、どこ行くんだ?清芽!」兄が追いかけようとしたが、遥が彼の腕を掴んだ。「私が行く。女の子同士、話したほうがいいでしょ?」背後でヒールの音が響いた。遥が私の耳元で囁いた。「清芽さん、ちょっと話さない?」「話すことなんてないです」私は冷たく言い放ち、手を振り払った。彼女は笑みを浮かべた。「どうして?」そう言って、私にだけ聞こえるような小さな声で続けた。「だって……私たち、同じ男を寝かせた仲でしょ?」全身が一瞬で凍
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第5話
目を覚ましたとき、兄が険しい顔でベッドのそばに立っていた。彼は一枚の妊娠検査結果の報告書を私の体に投げつけるようにして言った。「清芽、この子、誰の子だ!」私は唇を引き結び、シーツを握りしめたまま何も答えなかった。兄はしばらく怒鳴り続けたが、私が沈黙を守り続けると、やがて病室のドアが開き、宏が入ってきた。その瞬間、私は急に不安になった。「宏、どうしてここに?」兄が訝しげに彼を見た。宏は表情を崩さずに言った。「会社の同僚から清芽が倒れたと聞いた。上司として部下の容態を見に来るのは当然だろう?」兄は眉をひそめながらも、特に疑う様子もなく言い放った。「先に出ていけ。清芽と話がある」宏は一瞬動きを止め、兄の手にある紙に目を留めた。私は慌てて咳き込み、兄は咄嗟に紙を背中に隠し、怒鳴った。「出ていけと言ってるだろ!」宏は一瞬ためらったが、やがて静かに部屋を出て行った。病室には再び私と兄だけが残った。兄は声を低く、だが一層鋭く問いかけた。「子供は誰のなんだ?」その瞬間、私は言いたくてたまらなかった――その子の父親は、いま追い出されたあの人だと。しかし、私にその資格があるだろうか。彼はつい先ほど「部下」と呼んだ。昨日の夜、彼は別の女を抱きしめ、夢中で口づけをしていた。そんな人間が、どうして私の子供の父親になれるというの。私は自嘲の笑みを浮かべ、兄の手から報告書を奪い取って、細かく引き裂いた。「お兄さん、もう聞かないで。これは私の問題だから」兄は怒りに笑い、何歩か後ずさった。「そうか、もう大人になって俺の言うことなんて聞かないんだな。いいさ……清芽、もし父さんと母さんが、君が父親不明の子を妊娠したと知ったらどうなるか考えたことはあるのか!」兄の顔が真っ赤になっていくのを見て、胸が痛んだ。私は深呼吸し、真剣に兄を見つめて言った。「お兄さん、もう少しだけ時間をちょうだい。必ず全部話すから」兄は長く私を見つめ、やがて背を向けて出ていった。ドアが勢いよく閉まり、その音に宏が外でびくりと肩を震わせた。宏はゆっくりと病室に戻った。「何を話してたんだ?あんなに怒鳴り声がして……」私が答えないのを見て、突然表情をこわばらせた。「まさか、俺たちのことを話したんじ
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第6話
私は小さなアパートを借り、そこで一人暮らしを始めた。そして、もう一度絵を描くことにした。大学ではデザインを専攻し、国際的な賞もいくつか受賞したことがある。けれど、宏と一緒にいるために、彼の会社で平凡な工業デザイナーとして働く道を選んだ。本当は、そんな仕事が好きなわけではなかった。私が本当に好きなのは、ジュエリーや服飾のデザイン。美しいものを創り出す時間が、何よりも私を幸せにしてくれるのだ。最初のうちは、日々は穏やかだった。だが、遥は私の平穏を許さなかった。彼女は休暇の間、毎日のように私へメッセージを送りつけてきた。たとえば、彼女がビーチで横になり、宏がオイルマッサージをしている写真。あるいは、乱れたシーツの上で、絡み合う二人の腕。床に散らばる衣服と、ゴミ箱に溢れかえったコンドームの包み。――もう何も感じないはずの心が、そのたびに鋭く痛んだ。そして、下腹部も鈍く痛み出す。大丈夫、もうすぐ痛みは消える。あと少しだけ時間が経てば、すべて終わる。私は遥をブロックリストに入れ、再び絵筆を取った。一週間後、二人の休暇が終わった。だが、帰ってきたのは宏一人だけだった。――遥が、拉致されたのだ。再び宏に会ったのは、私の実家だった。髪は乱れ、顔中に青あざ、真っ赤に充血した目。彼はほとんど狂ったような様子で、兄が必死に押さえつけていた。「落ち着け!命を交換するだと?正気か!俺がもう調べをつけてる。遥は必ず無事だ、焦るな!」まもなく、宏の両親も駆けつけ、屈強なボディーガードたちが彼を床に押さえつけた。宏の父親は警告した。「お前、今日もし人質の交換なんてしに行ったら、嶋谷家にお前はいないと思え!遥なんてただの一般人だ。お前は嶋谷家の後継者だぞ。命の価値が全く違うんだ!そのために死ぬ気か!」宏の母親も泣きながら叫んだ。「そうよ!彼女をさらったのは赤炎組(せきえんきくみ)っていう組織なのよ!あそこから生きて帰った人なんていないの!腕が折れるか、腎臓を取られるか…!あなた、前にも彼女のためにカーレースに出て、事故で脚を切断しかけたじゃない!あの痛みを忘れたの?!もう二度と馬鹿な真似は許さないわ!」だが、宏の耳には何一つ届かない。彼は狂ったように玄関へ突進し、私の体を強く突き飛ばした。そ
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第7話
宏はうつむいたまま、もう一度その言葉を繰り返した。「……妊娠?」反応する間もなく、風馬の拳が再び宏の頬を打った。「この畜生が!遥のことをあんなに狂おしいほど愛しておきながら、どうして妹に近づいた?!近づくだけならまだしも、どうしてあんなにも妹を傷つけた!」殴打の衝撃で、宏の頭は一瞬真っ白になった。これまで幾度も、嘘が暴かれる場面を想像したことがあった。だが、現実の衝撃はそのどれよりも重く、痛かった。その時、不意に遥が咳き込みながら口を開いた。「宏……清芽さんはどうして急に妊娠なんてしたの?」その言葉が、宏の意識をはっきりと覚醒させた。そういえば、清芽は最初から「妊娠した」なんて一言も言っていなかった。別れを切り出した時にだけ、突然「妊娠した」と言い出したのだ。宏はすぐに悟った。顔がみるみる強張り、冷たい目で風馬を見据えた。「俺は確かに清芽と付き合っていた。だが、彼女は妊娠なんてしていなかった。別れたくない一心で、嘘をついただけだ。まさか、あんなに見苦しい女だったとはな」彼は冷笑をもらし、その目には明確な侮蔑が浮かんでいた。まるで清芽と風馬が組んで、自分を騙したかのように思い込んでいた。風馬は呆然と宏を見つめた。その姿に、彼は初めて「この男を友達と呼んでいた自分」を心の底から恥じた。「……嘘、か」風馬は皮肉な笑みを浮かべながら、赤くなった目を伏せた。脳裏には、妹が血だまりの中で力なく倒れていたあの光景が蘇る。「ようやく分かったな……清芽が、どうしてあの子を産みたくなかったのか」風馬は顔を上げ、宏を冷たく見据えた。「貴様が、父親になる資格なんてないからだ。恋人としても失格だ。そして、俺の友達としても……」宏が言葉を失ったまま立ち尽くす中、風馬は背を向けた。数歩進んだところで立ち止まり、低く呟いた。「宏……今日から俺たちは敵だ。貴様が清芽に与えたすべての痛み、必ず倍にして返してやる」その言葉を残し、風馬はドアを勢いよく閉めた。宏はその背中を見つめながら、胸の奥に重い疑念が広がっていくのを感じた。……清芽、本当に妊娠していたのか?だが、すぐに首を振ってその考えを打ち消した。遥が帰国して、まだ半月も経っていない。もし本当に妊娠していたなら、清芽は必ず自分
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第8話
「今言っていたその人って、誰のことなんですか?!名前を教えてください!」宏の声は、ひどく震えていた。看護師は苛立った様子で彼を睨んだ。「邪魔しないでください。患者さんはまだ手術室にいるんです!」宏はさらに切羽詰まった声で叫んだ。「せめて名前だけでもいい、教えてくれ!彼女は誰なんだ?!誰なんだよ!」「俺の妹だ」いつの間にか背後に立っていた風馬の声は、氷のように冷たかった。彼は宏の腕を乱暴に振り払った。看護師は安堵したように一礼し、その場を離れた。待合室には、二人だけが残された。「そんな……ありえない……嘘だろ……どうして流産なんて……そんなはずない……」宏は言葉にならない言葉を繰り返し、全身を震わせていた。風馬はそんな彼を冷ややかに見下ろし、鼻で笑った。「そんなはずがない?よくもその口でそんなことが言えるな……清芽の子を殺したのは、他でもない貴様じゃないか」その言葉に、宏は怒鳴り声をあげた。「そんなはずがあるか!俺は……俺はその子の存在すら知らなかったんだ!どうして殺せるっていうんだ!」風馬は何も言わず、ただ冷ややかな目で彼を見つめている。宏は項垂れ、何度も「ありえない」と呟きながら、突然顔を上げた。――あの日のことを思い出したのだ。清芽が彼にぶつかって倒れ、動かなくなったあの瞬間。足元に滲み広がる赤い色……それは、血だった。彼の膝から力が抜け、そのまま床に崩れ落ちた。「思い出したようだな?あの日、他の女を救うために、自分の子を殺したんだ」宏は呆然としたまま、手術室の閉ざされた扉を見つめていた。次の瞬間、顔を両手で覆い、声を押し殺して泣き出した。その涙を見た風馬の目には、さらに深い憎悪が宿った。「泣く資格があると思っているのか?宏、友達としては、お前が遥のために狂おうが、替え玉を何人作ろうがどうでもいい。だが、清芽の兄として、今この場でお前を殺してやりたい」宏は力なく首を振り、嗚咽まじりに言った。「すまない……本当にすまない……あの時はただ焦ってて……わざとじゃなかったんだ……」「ほう、じゃあさっきのことも『わざとじゃない』のか?」風馬は彼の胸倉を掴み上げ、目を赤くして怒鳴った。「清芽はやっと笑えるようになってたのに……お前がまた彼女を地
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第9話
遥はふっと笑みを浮かべた。「自業自得よ」「じゃあ、遥さん、次はどうするの?いっそ嶋谷に結婚してもらったら?あんなにあなたのために尽くしてくれたんだから、今が一番あなたを愛してる時よ」親友の山口奈津美(やまぐち なつみ)が興奮気味に言った。だが遥は首を横に振った。「考え直したわ。まさか、あの連中、加減を知らなくて、あんなにひどく打ちのめすなんてね。結局、あの人、片足をやられちゃったみたい。私、不自由な人の世話をしてる暇なんてないの」奈津美は一瞬ぽかんとしたあと、同意するようにうなずいた。「まあ、確かにね。今の彼じゃ、遥さんを満足させることもできないだろうし……それで、どうするつもり?」遥はネイルを弄びながら、一語一語を区切って言った。「もちろん……まずは結婚を騙して成立させて、そのあとで思いきり叩きつけてやるのよ。財産の半分を奪って、もっといい男に乗り換えるの」そう言い終えると、遥はすでに理想の未来を夢見ているかのように、狂ったように笑い出した。その時、ドアの向こうに立つ宏の目は、氷のように冷たかった。次の瞬間、彼は微笑みながら部屋に入ってきた。笑い声が、ぴたりと止まった。遥はぎこちなく笑いながら言った。「いつからそこにいたの?なんで黙って入ってくるのよ!」宏は穏やかに微笑んだ。「今来たところだよ。どうしたの?そんなに慌てて。もしかして、俺に聞かれたら困るような秘密の話でもしてたのか?」遥は胸をなで下ろし、すぐにいつもの傲慢な態度を取り戻した。「別に。ただ、勝手に入ってこられるのは気に入らないだけ。次からはノックして」宏は笑ってうなずいた。「わかった」そう言って遥の頭を軽く撫でた。その仕草は優しく、どこまでも穏やかに見えた。遥の瞳には、得意げな光が宿っている。自分が男を掌の上で転がしていると思い込んでいた。だが、宏を縛っていた見えない糸は、すでにぷつりと切れていたのだ。宏は静かにバルコニーへ出て、スマホを取り出した。「全員に伝えろ。俺と遥は婚約する」向こうのアシスタントから驚きの声が上がった。「社長!ご両親様がお怒りになりますよ!あの方々は、社長が上原さんのためにすべてを犠牲にしたことを快く思っていないんです。そんなことをしたら、本当に後継の座を失います
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第10話
目を覚ましたとき、最初に耳にしたのは、宏と遥の婚約が発表された、という知らせだった。兄は壁を拳で叩くほど怒っていたけれど、私は不思議と、何の感情も湧かなかった。宏は、私に二度の「出血」をもたらした。一度目は、私のお腹の子を奪った時。二度目は、私の中に残っていた、彼への最後の愛を奪った時。今の私にとって、宏はもう他人にすぎない。いや、もはや「上司」ですらない。私はスマホを取り出し、人事部の同僚宛に辞表を送った。これからの私は、もう工業デザインなんてやめる。もっと、華やかなジュエリーを作りたい。私のデザインしたドレスを、世界中の人に纏わせたい。そう、これからは、私自身の人生を生きるのだ。「お兄さん、退院の手続きをして」兄は一瞬驚いたように私を見つめた。「でも……まだ回復していないだろ」私は微笑み、スマホの画面を見せた。そこにはデザインコンテストの招待状が映っていた。「でも、チャンスは待ってくれない。この大会に出たいの」兄はじっと私を見つめ、それからそっと頭を撫でて言った。「わかった。兄さんは、君の選んだ道を全部応援する。だから、これからはもう……兄さんに隠しごとはなし、だな?」私は彼の胸に飛び込みながら笑った。「はい、もう嘘つかないよ」退院の日、受付で手続きを終えたとき、宏に出くわした。彼の隣には遥。彼女はわざとらしく彼の腕に手を回し、挑発的な笑みを浮かべてこちらを見た。私は一瞥もくれず、すべての支払いを済ませ、そのまま背を向けて歩き出した。気のせいだろうか。宏の顔はひどく疲れて見えた。それに、どこか悲しげでもあった。兄の話では、彼は私が妊娠していたことも、流産したことも知ったらしい。そして泣いていた、とも。たぶん、それは「罪悪感」なのだろう。しかし、その罪悪感はほんのわずかだったに違いない。そうでなければ、あの事実を知ったその日に、遥との婚約を発表するはずがない。まあ、どうでもいい。彼らがなぜ結婚しようが、いつ結婚しようが、もう私には関係のないこと。私はH国行きの航空券を予約した。出発前、修理店に寄って、宏に壊されたあのネックレスを直せないか頼んだ。あれはDiskeの作品。砕けたままでは、あまりにも惜しい。だが職人は首を振った。あまり
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