LOGIN私は兄の親友である嶋谷宏(しまたに ひろし)と三年間恋人関係にあった。けれど、彼は一度も私たちの関係を公にしようとはしなかった。 それでも、彼の愛を疑ったことはなかった。何しろ、宏はこれまでに九十九人の女と関わってきたのに、私と出会ってからは他の女を一瞥すらしなくなったのだから。 私が軽い風邪を引いただけでも、宏は数十億円規模のプロジェクトを放り出し、すぐに家へ駆けつけてくれた。 誕生日の日も、私は嬉しくてたまらなかった。宏に、私が妊娠したことを伝えるつもりでいたのだ。ところがその日、宏は初めて私の誕生日を忘れ、姿を消した。 家政婦の話では、彼は「大切な人を迎えに行く」と言った。 私は胸騒ぎを覚えながら空港へ向かった。そして、花束を抱え、落ち着かない様子で誰かを待つ宏の姿を見つけた。 ――私にとてもよく似た女の子を、待っていた。 後で兄から聞かされた。その女は、宏が一生忘れられない初恋の人なのだと。 宏は彼女のために両親と決裂し、彼女に捨てられた後は心を病み、彼女に似た女を九十九人も傍に置いて生きてきたのだと。 兄がそう語るときの声には、宏への同情と感慨が滲んでいた。 けれど、兄は知らない――大切にしてきた妹の私が、その「百人目」だということを。 私はあの二人の姿を、ただ黙って、長い間見つめていた。そして、迷いなく病院へ戻った。 「先生、中絶手術を受けたいです……」
View More私はベッドに横になっていた。龍一はそっと寄り添うと、自然な仕草で私の服の裾をめくった。途端に緊張が走ったが、彼は柔らかく笑って言った、「何を考えているんだ」と。彼の手は古く残る傷跡をなぞり、そのまま図面の上に何かを描き始めた。「君は僕の新しい作品だ。そしてきっと、いちばん愛おしい作品になるだろう」指先が私の腹部に触れると、ぞくぞくとした感覚が走った。胸もまた、静かに揺れた。私はその手を掴み、彼の襟を引いてぐっと引き寄せた。私は問いかけた。「龍一さん、今私たちはどういう関係ですか?」彼は真剣な眼差しで答えた。「望むなら、次の瞬間には恋人になれる。一年後には夫婦だ」私は微笑んで彼の首に両腕を回し、唇を重ねた。私の積極的な仕草に、龍一の表情は明らかに昂ぶりを見せた。彼は私の頭を押しつけ、深く激しく応えた。そのキスは彼そのもののように豪胆で、奪うような勢いがあった。唇が離れた瞬間、タイミング悪く兄が部屋へ入ってきた。「あ……忘れ物を……その、続けて……」ドアの外に消える兄の背中を見送りながら、龍一は喉の奥で小さく笑った。私は彼の襟を引き寄せてささやいた。「お兄さんも『続けて』って言ったじゃない……何をためらってるの?」龍一は私の身体を押し倒し、低く笑った。「いいだろう、続けよう。ただし、途中でやめたいって言っても、許さないからな」――翌朝。私は痛む腰をさすりながら、昨夜の挑発を激しく後悔した。それでも、その夜から私と龍一は恋人になった。その日のうちに、龍一はSNSに私たちが指を絡めた写真を投稿した。それが彼の初めての、そして唯一の投稿だった。彼は全世界に向けて、私が彼の恋人だと宣言したのだ。後で兄から聞いた話では、龍一は私と宏の別れの理由を問いに行き、真実を知った瞬間、手にしていたグラスを粉々に砕いたという。「龍一が怒ったの、初めて見た」と兄は言った。いつも冷たく、何にも興味を示さない男だったのに。でも兄は知らなかった。龍一が私の胸に顔を埋めて甘えてくることも、私がほかの男をちらりと見るだけで不機嫌になることも。私たちは幸せだ。私は彼をどんどん好きになっていく。その一方で、宏は壊れていった。後で知ったのだが、彼はもうほとんど正気ではなかった。怪我した足は何度も
龍一との関係がはっきりしてから、私の生活はもう以前のような静けさを失った。彼は以前にも増して頻繁に現れ、態度もいっそう率直になっていった。龍一の想いの示し方は宏とは違う。金を使ったり、甘い言葉を並べたりはしない。彼は幾晩も徹夜して私の設計案を手直しし、自身の経験をまとめたノートを私だけに渡してくれた。さらに、私の別荘の門前には防犯カメラを設置し、複数のボディーガードを配置して、あの狂った男の侵入を防いでいた。けれど、どれほど用心を重ねても、宏の執念だけは防ぎきれなかった。その日、私は集まりに出かけようとしていた。突然、一台の車が急ブレーキをかけて私の目の前に止まった。黒い服の男たちが車から飛び出し、私の口と鼻を押さえつけ、そのまま車内へと乱暴に押し込んだ。意識を取り戻したとき、私は見覚えのある家の中にいた。「誰が彼女の手を縛れと言った?見ろ、皮膚が擦れて赤くなってるじゃないか!」宏が怒声をあげ、あの人の胸を蹴り飛ばした。その目つきは人を殺しかねないほど鋭い。だが、私の方を振り向いた瞬間、彼の表情は一転して柔らかくなり、まるで氷が解けるように優しい声を出した。「清芽……」ガシャン!私は傍らの花瓶をつかみ、ためらうことなく彼の頭に叩きつけた。瞬く間に血が流れ、宏の額は真っ赤に染まった。「この狂人!」私は怒鳴りつけた。宏は私が布団を抱きしめて後ずさる様子を見て、苦笑を浮かべた。「そうだ、俺は狂ってる。君が恋しくて、もうどうにかなりそうなんだ。あの男が毎晩君の家から出てくるのを見るたび、嫉妬で狂いそうだった!」宏の目は赤く腫れ、声は震えて今にも泣き出しそうだった。彼は私の足元に崩れ落ち、手を強く握りしめた。「清芽、本当に悪かった。お願いだ、もう一度だけチャンスをくれ。今度こそ君だけを愛す。結婚して、可愛い子どもを……」「もう無理よ」私は迷うことなく彼の言葉を遮った。服を少しめくり、腹部の十センチほどの醜い傷跡を見せる。「私はもう、子どもを産めない。あなたのせいで、私は一生、母親になれなくなったの」宏はその傷跡を呆然と見つめ、やがて顔をうずめて泣き崩れた。涙が肌に落ちるたび、癒えたはずの傷が再び痛み出す。「宏、もうやめて。今さら後悔しているのは、私を裏切ったこと
メッセージを送ってから、宏は二度と返事を寄こさなかった。私はSNSに、全員が見られる投稿をひとつ残した。【嶋谷宏に関するすべてのこと、もう私に知らせないで。私たちは別れました】思えば滑稽な話だ。私と彼は、これまで一度も公に恋人関係を認めたことがない。最初で最後の「公表」が、まさか別れの報告になるとは。投稿して間もなく、「いいね」が次々とついた。その中に、見慣れない名前がひとつ。――龍一。三分前に登録したばかりの新しいアカウントだった。瞬く間に、皆の視線が彼に集まる。何しろ、彼は有名なほどの謎めいた人物で、SNSもも一切持っていなかったのだ。【まさかあのDiske先生!?林さんと、もしかして……?】【お似合いじゃない?】そんなコメントを眺めていると、突然、兄から電話がかかってきた。「清芽、宏が昨日、酒を飲みすぎて救急に運ばれた。聞いて、嬉しいか?」私は俯いたまま答えなかった。嬉しい?そうあるべきなのかもしれない。裏切った男がようやく真実を知って心を入れ替え、私のために死にたいほど苦しんでいるのだから。しかし心は、驚くほど静かだった。まるで他人の話を聞いているように。「お兄さん、もう彼のことは二度と話さないで。あの人に時間を使うのは、たとえ一秒でも無駄だわ」兄は一瞬黙り、それから小さく笑った。「さすが俺の妹だ。……それで、龍一とはどうなんだ?」不意に名を出され、私は思わず戸惑った。「龍一さん?ただの学び仲間よ。むしろ彼、私のこと苦手なんじゃないかしら。いつも冷たいし」「は?そんなはずあるか!あいつ、君の連絡先を二年もかけて俺に頼み込んでたんだぞ。うるさくてたまらなかった。君があの時どうしても恋愛を拒まなかったら、すぐに君に紹介してこの厄介事を片付けたかったよ!あいつ、君のことをそんなに好きだと思っていたのに、まさか君の前で偉そうに振る舞うなんて。待ってろ、しっかり懲らしめてやるからな!」言うが早いか、兄は電話を切った。その瞬間、私はまるで頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、強い後悔の念に駆られた。もし龍一は私が陰で彼の悪口を言っているのを知ったら、どんなお仕置きをされるか分かったものじゃない。彼の怒り顔を思い浮かべただけで、全身に鳥肌が立ってしまう。
時が過ぎ、宏と遥の結婚式は、いよいよ明日に迫っていた。本来なら、私はそんなこと知る由もなかった。だがその日、遥がわざわざ私の家までやってきて、招待状を私の目の前に叩きつけたのだ。彼女が背を向けた瞬間、ちょうど龍一と鉢合わせた。二人の視線がぶつかった。遥は冷笑を浮かべ、唇を歪めた。「清芽さん、あんたってほんと変わってるわね。兄の友人ばっかり誘惑するのが趣味?」さらに龍一に視線を向けて、わざとらしく言葉を続けた。「水橋さん、忠告しておくわ。この女に騙されない方がいい。彼女の元カレはね、私の婚約者なの。別れる時なんて醜態そのもの。妊娠したなんて嘘までついて、結局振られたのよ」「妊娠」の二文字を強調するように吐き捨てる。だが私は一切動じなかった。あれは事実だし、妊娠すること自体、恥でもなんでもない。そのとき、龍一の表情が一瞬にして冷えた。唇に薄い笑みを浮かべながら、静かに言った。「それで?他人が捨てたゴミを拾ったって、偉そうと思うのか?」「なっ……!」遥の顔が一瞬で紅潮した。だが彼女は龍一を前にして、何も言い返せなかった。「待ってなさい。私が嶋谷家の一員になったら、必ず後悔させてやる!」その言葉に、私は思わず笑い出してしまった。「遥、本当に貧乏だった時期が長すぎたみたいね。嶋谷家の一員になれたところで、私たちの世界の玄関先に立つ程度が関の山よ。後悔?あなた、たった一つの指輪を買うために、わざわざE国まで飛んだんじゃなかった?」一言ごとに、遥の顔色がどんどん白くなっていく。そのとき、家の前に一台のポルシェが止まった。宏が険しい顔で降り立ち、こちらへ歩いてくる。「遥!誰が彼女に会えと言った?何度言えば……」言葉が途中で止まった。彼の視線が龍一に移り、その拳がぎゅっと握り締められた。次の瞬間、宏は私を一瞥し、遥の腕を乱暴に掴んで引きずっていった。「離してよ!痛いっ!」遥が彼の手を叩いても、宏は一言も発さず、怒りに満ちたまま車に乗り込んだ。私はそんな茶番に一瞥もくれず、再び龍一との作業に戻った。その夜は遅くまで没頭し、翌日は昼まで眠り込んでしまった。目を覚ましたのは、けたたましい着信音のせいだった。スマホを開くと、十数件のメッセージが一斉に届いている。【清芽!動画見た!?
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