ノートパソコンの画面は、白く冷たい光を放っていた。夜はすっかり更けて、外の騒音も息を潜めている。時計の針は午前一時を少し回ったあたりを指していたが、真壁湊の頭はまだ冷めきっていなかった。集中できているというより、何かに引きずられている感覚が強かった。
ページの一番上には、今日更新したばかりのタイトルが並んでいる。『離婚男性における生活再建支援の調査』。そのすぐ下に、小さな見出しを付け足したばかりだった。
「お隣さん(仮)」
その文字列を見て、湊は自分で驚いたように肩をすくめた。打ち込んだのは紛れもなく自分の手だったのに、どうしてこの言葉を選んだのか、すぐには理解できなかった。ただ、その瞬間に浮かんだのは、昨夜の、あの壁越しの声だった。
「うちはもう独りや言うたやろが」
低く、けれどどこか湿り気のあるその声。怒鳴っていたわけではなかった。ただ、諦めと少しの疲れとが混ざって、日常の中に溶け込んでいた。その声を聴いた瞬間から、湊の中で何かが変わり始めていた。
データでも制度でもなく、誰か一人の、名も知らぬ“生活”が急に輪郭を持ちはじめた。その人が食べているもの、その人が見る夜の色、その人が、黙って吸う煙草の匂い。湊の脳裏には、なぜかそんなものばかりが浮かんでいた。
「……俺、なにやってんだ」
つぶやいた声が、部屋の中にやけに大きく響いた。カーソルが点滅している画面の見出しに、もう一度目をやる。「お隣さん(仮)」という五文字が、論文の中で異様に浮いて見える。急に気恥ずかしくなって、湊は勢いよくファイルを閉じた。
モニターがスリープモードに切り替わり、室内の光源はデスクライトの橙色だけになった。ふと画面に映った自分の顔を見て、湊は軽く息を吐いた。頬がうっすらと赤く、目の奥が熱を帯びている。まるで熱があるみたいに思えた。
気を紛らわせるためにシャワーを浴びたが、思考は整理されないまま翌朝を迎えた。
朝の光は薄く、どこか眠たげだった。蝉の声もまだ本格的ではなく、夏の初めのような匂いが空気の中に漂っている。湊は寝癖のついた髪をキャップでごまかし、ゴミ袋を持って廊下に出た。
静かな朝。足元にペタペタとスリッパの音が響く。まだ誰にも会わずにすむだろうと気を抜いた矢先、向こうの部屋のドアがちょうど開いた。
出てきたのは、見覚えのない男だった。
ゆるんだTシャツに黒いスウェット。片手にはタバコの箱、もう片方はポケットに突っ込まれている。濡れたままの髪からは、まだ雫が一滴、こめかみに沿って流れていた。
その目がふと、湊を捉えた。
一瞬、時間が止まったように思えた。まっすぐに、けれど重さのない視線。黒目がちな眼差しが、何かを読み取ろうとするよりも先に、湊の心の奥をかすかに揺らした。
「……あ」
湊は反射的に口を開いた。
「す、すみません」
意味のない言葉だった。ただ、何か言わなければいけない気がして、それしか出てこなかった。
男は何も言わなかった。ただ、こちらを一瞥して、そのまま煙草を取り出して、奥の非常階段の方向へと歩き出していった。すれ違いざまに、微かに香る石鹸の匂いと、タバコの乾いた香りが混ざって鼻腔に残った。
湊は、ゴミ袋を持ったまましばらくその場に立ち尽くしていた。
顔を合わせたのは初めてだった。けれど、声と身体がつながった瞬間、全身の細胞がざわめいた。目に映ったのは、確かに“綺麗”という言葉だった。
肌の色も、目元も、整っているのにどこか乱れていて、だからこそ美しいと感じるような、そんな佇まいだった。湊は自分がそう思ったことに、軽い混乱を覚えた。
「……綺麗、な人だった。なんでそんなこと思ってんだ」
思わず口の中で呟いた。誰に言うでもない声だった。
ゴミを出し終えて部屋に戻る頃には、顔がほんのりと熱を帯びていた。日差しのせいなのか、それとも…自分の感情のせいなのか。
机に置いたノートPCの画面は、まだスリープ状態のままだった。湊はため息をつきながら、それをそっと閉じた。まるで何かが暴れ出す前に蓋をするように。何かが始まりかけていることを、まだ言葉にすることができずにいた。
透宅のキッチンには、夜の色がゆっくりとしみ込んでいた。窓の外はすっかり暗くなり、薄いカーテン越しに街灯の淡い明かりが差し込んでいる。音といえば、どこかの部屋で水道が止まる音と、冷蔵庫がときおり鳴らす控えめな唸り声だけだった。湊は、キッチンの棚から急須を取り出しながら、振り返って言った。「今度は、俺が淹れていいですか」透は一瞬だけ驚いたように眉を動かしたが、すぐに小さく頷いた。「おう、頼むわ」その言葉に背を押されるようにして、湊は湯を沸かす準備を始めた。ケトルの中に水を注ぎ、スイッチを入れる。小さな灯りが点り、低く湧き立つ音が部屋に広がる。お茶の葉は、以前ふたりで話していたときに選んだものだった。袋を開けると、ふわりと焙じた香りが立ちのぼり、湊は思わず目を細めた。茶葉を急須に入れながら、彼はそっと息をついた。その動作ひとつひとつに、特別な意味が宿っているように感じた。単なるお茶の準備ではなく、ここに再び並んで立てていること自体が、奇跡のようにも思えた。湯が沸くまでのあいだ、ふたりはほとんど会話をしなかった。それでも、不思議と気まずさはなかった。言葉がなくても、少しずつ満たされていく時間がそこにあった。やがて湯が音を立てて湧き、湊はそれを一度湯冷ましに注ぎ入れた。急がず、丁寧に。それから茶葉の上に湯を静かに注ぎ、蓋をする。蒸らしの時間もまた、湊にとっては大切な“間”だった。「江口さん」湯呑を準備しながら、湊はぽつりと口を開いた。「これからは、茶の香りで、江口さんを思い出すんじゃなくて…一緒に味わえるといいなって、そう思いました」透は、ほんの少しだけ視線を落とした。心の奥にまで届くような言葉だった。何気ないようでいて、今までのすれ違いや沈黙を、まるごと抱きしめてくれるような。「……そやな。せやな、それがええ」その返事に湊は静かに笑い、湯呑に茶を注いだ。色は淡く、けれど芯のある褐色だった。香りは立ち上るように柔らかく広がり、部屋の空気をゆっくりと変えていく。ふたりは、テーブルを挟まず、隣同士に腰を下ろした。かつてのように向かい合うのではなく、肩を並べて、同じ方向を見られる場所に。湊は、金継ぎされた湯呑をそっと置いた。続けて透が、もうひとつの器をその隣に並べた。湯呑の底が、静かにテーブルに触れる音がした。その小さな音が、ふたりの間の何かをきち
窓の外が薄墨色に染まり始め、部屋の灯りが少しだけ強く感じられるようになったころ、湊と透はまだテーブルを挟んで向かい合っていた。金継ぎの湯呑は、ふたりの間に置かれたまま、ふたつの視線が何度も交差するたびに、静かにその存在を主張していた。透が、ふいに視線を落とした。湯呑の縁ではなく、その奥にある記憶を掘り返すように、ゆっくりと目を閉じた。「……読んだよ」その言葉に、湊の指がぴくりと反応した。「“俺が初めて恋をした日”。あのファイル。読んで、すぐには言えへんかったけど……実は、何回も開いてもうた」透の声は低く、けれど途切れずに続いた。その震えには、ためらいよりも、今度こそ逃げずに話そうという意志が混じっていた。「読むたびに、何でやろな……胸がぎゅってなって。これ、俺に向けて書いてくれたんやろなって、すぐにわかった」湊は何も言わなかった。ただ、机の上に置いた自分の手を見つめながら、言葉が落ちてくるのを待っていた。「俺、最初に湊くんが“好き”って言うたとき、自分のことばっかり考えてもうてたんよ」少し笑い交じりの声だったが、それは自己嫌悪の滲んだ苦い笑みだった。「嬉しいはずやのに、“受け止められへん”って言うてしもて……でもほんまは、受け止める勇気がなかっただけや」沈黙が、今度は湊の胸の奥をゆっくりと締めつけた。「怖かってん。好かれることも、誰かと向き合うことも……そんなん、自分には無理やって思ってた。でもな」透は、湊の手に視線を移した。その指先に触れないまま、数秒見つめてから、そっと自分の手を重ねた。「この手、ほんまは……ずっと離したくなかった」湊は、驚いたようにまばたきをした。それでも、指を動かさず、手のひらに感じる熱だけを受け止めていた。「昔な、誰かを守れると思って、一緒におった人がいた。でも……うまくいかへんかった。自分が弱いくせに、無理して背伸びして、結局その人を泣かせてもうた」透の口調には、過去の失敗を告白するための重さがあったが、それを聞いている湊の表情は、どこまでも静かだった。非難も拒絶もなかった。ただ、耳を澄ませて、その声だけを受け取っていた。「そっからや、自分は“誰かのために何かをしよう”とか、そういうのから逃げるようになったん。優しくすれば、また期待させてしまう。期待されたら、応えられへん自分が、相手を傷つける。そう思
湊の部屋に入り込んできた夕暮れは、柔らかい橙ではなく、どこか鈍く沈んだ灰に近い色だった。リビングの照明は点けられていたが、それでも空気には静けさが染みついていた。音を出さない風が、ベランダのガラスを揺らし、それがわずかに揺れるカーテンに映っていた。透はテーブルの正面に座った。対面には、湊。以前と変わらぬ配置でありながら、そこにある空気はまるで別物のように感じられた。張り詰めた緊張ではなかった。むしろ、割れ物を抱えていることを、お互いに意識したような慎重な優しさが、ふたりの間にあった。風呂敷の上に置かれた湯呑を、透は静かに開いた。生地の皺がゆっくりとほどかれ、中央に顔をのぞかせたのは、金の線が繋いだ湯呑だった。淡い藍色の釉薬の中を、金色が、まるで地図の川のように走っている。その線が、いくつもの断絶を繋ぎながら、一つの器を再び“形”に戻していた。透は湯呑を手に取り、言った。「まだ歪んでるけどな。これ、俺が直した」湊の目がゆっくりとその湯呑を見つめた。手を伸ばし、指先が触れる。その指は、恐る恐るではなく、むしろ懐かしいものをたしかめるように、器の縁をなぞった。手のひらで包み込むように持ち上げると、その中心に走る金の線が、湊の眼鏡のレンズに映り込んだ。「……すごいですね。ちゃんと、繋がってる」その言葉には、驚きよりも、安心に似た何かがあった。壊れたものが、もう一度“手の中にある”ということが、彼の中に少しの救いを生んでいた。透は、目を伏せて、ふっと笑った。「壊れた器でもな。ちゃんと使いたいって、思ったんや」沈黙が、再び落ちた。しかし今度のそれは、かつてふたりを切り離していたものではなかった。言葉がなくても、伝わるものがあると知っている人間同士の間にだけ流れる、やわらかい余白だった。湊は、湯呑を持ったまま、透の方を見つめた。「それって、俺たちのことですか」微笑みながらそう言った湊の声は、ごくごく静かだったが、深く心に沁みてきた。疑いではなく、確認でもなく。ただ、そこにある真実をなぞるような言い方だった。透は驚いたように目を瞬かせ、すぐに視線を逸らした。けれど、その口元には、どこか照れくさそうな苦笑が浮かんでいた。「……どうやろな」曖昧に返しながらも、否定はしない。その“逃げなさ”が、以前との違いだった。湯呑の中に茶を注いだわけでもないのに、
夕方の光は、もう橙というより灰色に近かった。薄く湿った風が廊下を通り抜けるたびに、透の手に持った風呂敷の端が揺れた。包みの中には、金継ぎを施した湯呑がひとつ。もう冷めきったはずの茶の匂いだけが、布の奥でかすかに漂っている気がして、透は何度目かの深呼吸をした。ドアの前に立ちすくむ時間が、現実のものとは思えないほどに伸びていく。ノックをすればいいだけなのに、その音が生む未来のすべてを想像してしまって、手が上がらなかった。指先は冷たく、掌だけがじっとりと濡れている。一歩、引いてみる。いや、やっぱり、もう一度前に出る。その繰り返しのなかで、透はふと、右手を見た。茶色の染みが残る風呂敷に触れている中指の第一関節が、わずかに震えていた。それに気づいたとたん、心臓が一度、強く鳴った。——こんなふうに、自分が“会いたい”って思って動いたの、いつぶりやろ。ようやく、指先がドアの表面を叩いた。控えめな音だったが、無音の廊下にはそれなりの響きがあった。中から物音はしない。透は再び、掌を胸の前で組むように重ね、唇をきゅっと引き結んだ。少しの間を置いて、内側の錠が外れる音が聞こえた。ドアがゆっくりと開く。隙間から現れたのは、少し伸びた前髪の奥に、眼鏡のレンズを光らせた湊の姿だった。透はその目を見て、何も言えなくなった。湊の瞳の奥が、確かに潤んでいた。光のせいではない、風のせいでもない。そう思えるほど、そこには感情があった。沈黙が一瞬、ふたりの間に下りた。湊は驚いたように見えたが、それ以上の何かを言葉にする前に、透が少しだけ首を傾げて、喉を鳴らした。「……ちょっとだけ、時間もらえる?」その声は、決して大きくはなかったが、凪いだ海のように澄んでいた。湊はうっすらと目を細めて、少しだけ顎を引いた。それが頷きなのか、戸惑いなのか、透には分からなかった。でも、ドアがゆっくりと大きく開いていったことで、それが答えだった。玄関の照明が廊下に漏れ出すと同時に、ふたりの影がゆっくりと交差した。靴を脱ぎながら、透はふと横目で湊の足元を見た。白い靴下の親指が、少しだけ内側に曲がっていて、彼がいまも緊張していることがわかった。そう思った瞬間、透の肩から余分な力が抜けた。自分だけじゃない。傷ついていたのは、離れた時間を生きていたのは、自分だけじゃなかった。リビングに通されても、透はすぐに座ら
炊飯器の保温音が、台所の片隅でかすかに鳴っていた。電子レンジの回転皿が一周ごとに、わずかに軋む音を立てる。冷えかけた味噌汁を鍋に戻し、弱火にかけると、湯気が細く立ち上っていった。部屋の中に、出汁と刻み葱の匂いがじんわりと広がる。透はコンロの前で湯気の立つ鍋を見下ろしながら、左手の中にある銀色の物体に目を落とした。USBメモリ。サイズも、重さも、何ひとつ特別なものではない。それなのに、指先に触れている部分が、やけに熱を持っているように感じた。彼の背後には、数分前に来訪した湊の姿がまだ、薄く残っている気がした。言葉少なに微笑んで、紙袋を差し出して、「これ、差し入れです。読んでもらえたら、うれしいです」と言ったときの声が、耳の奥に残っている。あの声は震えていなかった。けれど、透にはそれが、どんな鼓動のうえに組み立てられた言葉だったのかがわかってしまって、瞬間、なにも返せなかった。味噌汁がふつりと沸き立つ。火を止め、椀によそい、冷蔵庫にあった冷奴を皿に出す。ありふれた夜の食卓。だが、今夜はどこかの線が、ささくれだったまま浮いて見えた。リビングのテーブルに食事を並べ、椅子に腰かける。箸を手にしたまま、透は思わず無言で、テーブルの端に置いたUSBを見つめた。刺すべきタイミングがわからなかった。刺してしまえば、なにかが決定してしまう気がして、数秒おきに手を止めては、また箸を動かした。とうふの冷たさも、味噌汁の温もりも、舌に残らなかった。湯気が顔の横をすべって、すぐに消える。部屋のどこを見ても、もう湊はいないのに、その気配だけが、やけに残っている。箸を置き、静かに立ち上がる。パソコンは、部屋の隅の小さなデスクの上に開きっぱなしになっていた。透はゆっくりとUSBをポートに差し込む。ひとつの機械音とともに、画面右下に小さなウィンドウが現れる。“新しいリムーバブルディスクが接続されました”フォルダを開くと、ひとつだけファイルがあった。その名前が、胸の奥を刺すような痛みを連れてくる。「俺が初めて恋をした日.txt」透は思わず、声のない笑いを漏らした。ひとりでに目元がゆるむのを感じながらも、目線だけはファイル名に吸い寄せられたままだった。ファイルを開くのに、もう数秒の迷いが必要だった。けれどその間に、透の胸の奥で、いくつもの言葉が折り重なっていく。あの日のベランダの夜
玄関の前に立つと、風の音が少しだけ大きく聞こえた。夕方の光が淡く傾き、建物の影を長くしていた。湊は左手に持った紙袋の底をそっと握り直し、右手でインターホンのボタンを押した。指先が冷たいというほどではない。けれど、妙に静かな自分の鼓動だけが、身体の内側に響いている気がした。ドアの向こうから足音がした。ワンテンポ遅れて、錠が外れる音。その一連の動作に、以前と変わらない日常が息づいているようで、ほんの一瞬、心が揺れた。開いたドアの先に立っていた透は、湊の顔を見るなり、わずかに目を見開いた。その驚きは長く続かず、すぐに薄く笑んで、前髪を耳にかける仕草をした。声は出さず、ただ小さく首をかしげるようにして、視線を紙袋へと移す。湊は一歩も踏み込まず、玄関の框の外で言った。「これ……この前、江口さんが“昔好きやった”って言ってたカステラ、思い出して。まだ売ってたから、買ってきました」言いながら、紙袋をそっと差し出す。透はそれを受け取ることもなく、代わりに静かに問い返した。「……USBは?」その問いに、湊は少しだけ目を細めて、右手を軽く掲げた。銀色の小さなUSBメモリが、手のひらに乗っている。その存在が、何より大きな“返事”のように見えた。「差し入れです」声は穏やかだった。急くようでもなく、引くようでもなく、ただまっすぐに透に向けられていた。視線を外すことなく、湊は一拍置いて続けた。「読んでもらえたら、うれしいです」それ以上、言葉は出てこなかった。伝えたかったことは、もう全部、あのUSBの中に閉じ込めてある。声にしてしまえば、どこかが嘘になってしまいそうで、湊はそれ以上の音を出すことを自分に許さなかった。沈黙が数秒、空気の中でゆっくりと広がった。透の目は湊の手元に留まっていたが、ふと気づいたように顔を上げ、もう一度だけ前髪をかきあげた。彼の表情は読めないままだった。迷いの影がそこにあるのか、それともただ驚きが残っているのか。けれど、その目の奥には、拒絶でも困惑でもない、なにかあたたかいものが潜んでいるように湊には思えた。湊は、USBを玄関のフローリングの上にそっと置いた。音はしなかった。床の上に、小さな銀色が静かに座る。その様子を見て、透が一歩踏み出す気配も、拾い上げる素振りもなかったのが、湊には不思議と心地よかった。求めていない。それでも、ここに置い