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隣室の声

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2025-06-29 16:30:26

夜の気配がじわりと窓辺に降りてきていた。雨は降っていないが、湿った空気が風のように部屋の隅を撫でていく。冷房をつけるほどではない。窓は少しだけ開けてあって、外の音が微かに混じって聞こえる。真壁湊は、デスクに置いたノートPCに向かいながら、手元のキーボードをゆっくり叩いていた。

ファイル名は「再構築論\_中間稿」。論文の草稿だった。テーマは『離婚男性の生活再建支援』。研究室の指導教員から「福祉と法の中間地をきちんと整理してみろ」と言われたのは、ひと月ほど前のことだ。湊は当初、家族法とその制度運用を中心に据えるつもりだったが、それだけでは“生きてる生活”に届かないと気づいていた。だから、今は制度の周辺にある生活支援の現場や、当事者の声を探して、試行錯誤を続けている。

テキストの上には、整ったフォントで小見出しが並んでいる。

「Ⅱ-1:調停離婚後の男性における生活再建要因の整理」

「Ⅱ-2:就労支援と居住支援の連動性」

手元のノートには、調査資料で抜き出した数字や文献からの引用メモがいくつも重ねて書き込まれている。それでも、どこか空回りしているような気がしていた。

湊は手を止めて、伸びをしながら小さく息を吐いた。部屋の照明はひとつ、オレンジ色のスタンドライトだけにしている。蛍光灯の白さよりも、その方が集中しやすい。静かな夜だ。いつもなら、これで集中が深まっていくはずだった。

だが、その静けさの途中に、ふと、かすかな声が混じった。

「……いや、そない言うてもな……」

湊は、手を止めた。

それは壁の向こう、隣室から聞こえてきた男の声だった。声量は大きくない。けれど、はっきりとした関西弁の抑揚が、湿った壁を伝ってくる。風が少し強くなってきたのか、窓の隙間がわずかに音を立てたが、その向こうから再び声が響いた。

「うちはもう独りや言うたやろが」

その一言で、湊の指は完全に止まった。

部屋の中にあるのは、PCの冷却ファンの音と、自分の鼓動の音だけになった。視線はモニターのカーソルに向いたままだが、意識はすっかり別のところに引きずられていた。

独りや言うたやろが。

湊は、壁の向こうにいる相手の顔を知らなかった。けれど、その言い方、その語尾のにじむ湿気に、何か胸の奥を掠めるような感覚があった。感情を押し殺そうとしたような、あるいはもう感情すら乾いているような、そんな響きだった。

静かに息を吐きながら、湊は小さく呟いた。

「この“うち”って、男の声だよな…関西の……独り、って」

自分でも気づかぬうちに、口の中で転がすように繰り返していた。

壁は厚くはない。アパートの構造からして、おそらく向こうの部屋もほぼ同じ間取りだ。1K、ロフト付き、家賃は七万円台。いかにも若者か独身世帯向けの物件だ。入居者も学生や会社員風の若者が多い。だが、今聞こえた声には、湊よりも年上の、少なくとも三十を越えているような響きがあった。

電話越しなのか、それとも独り言なのかはわからない。けれど、あの声に含まれていた「独り」は、制度が語る孤独とはまったく違っていた。数字で語られる孤独ではない。生活の手ざわりに張り付いている、乾いた皺のような孤独だった。

湊は思わずメモ帳を引き寄せた。指が勝手に動くように、ページの余白に文字を書きつけていく。

「隣人 男性? 関西弁 “独り”」

たったそれだけの言葉。けれど、そこには明確な手応えがあった。初めて、文献でも統計でもない、“誰かの生活の声”に触れた気がした。

眼鏡越しに見たモニターは、いつのまにかスリープ状態に切り替わっていた。薄暗い画面に、自分の顔がぼんやりと映る。頬がやや赤いのは、夕方の室温のせいなのか、それともさっきの声の温度のせいか、自分でも判然としなかった。

静かな部屋に、再びPCの冷却ファンの音が戻ってくる。湊は眼鏡を外し、指先で眉間を軽く押さえた。ささやかな違和感と、説明のつかない胸の引っかかり。それらが、静かに、けれど確かに、この夜のどこかで湊の感情を揺らしはじめていた。

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